2月9日 不死鳥のごとく
2004年2月9日。
あれから15年の月日が流れたことになる。しかし、心にできた空洞は埋まらないままだ。この喪失感はおそらく一生消えないに違いないだろう。いや、そのこと自体は決して悲しくはない。悲しいのは、大切なものが永久に失われてしまったことだけだ。
さて、今日はアニメーション版『火の鳥 宇宙編』を鑑賞してみた。恥ずかしながら初見である。原作をほぼ踏襲した作りになっており、むしろびっくりした。かつて『火の鳥 鳳凰編』のアニメーションを見た際には、あまりの無残な改編ぶりに怒りさえ覚えたほどだったが、今回は逆にひねりのなさに失望を感じてしまった。ファンとはなんとも勝手なものである。同時に、やはり私はアニメーションには向かないのだなとつくづく思った。
アニメーションといえば、昨年末に日本テレビ系列で『ブラック・ジャック』が放送されていた。ずるずると時を過ごし、すっかり機会を失ってしまっていたが、今更ながら思うところを書き留めておこう。
全体として破綻のない作りだったなとは思う。うまくアレンジしてあると感心させられる部分もあるにはあった。だが、やはり原作を超えるようなところを見出すことはできなかった。ラストで描かれた、「本間丈太郎から贈られたメスをブラック・ジャックが海に捨てる」というシーンが今回のアニメーションの原作に対する最大の挑戦だったのだろうが、それとて説得力があったとは思えない。そんなことをしたところで、過去を振り切れるわけではないと思うからだ。むしろ、決してよき思い出とはいえない過去をさえ大切にしようとしているようにみえる原作の主人公の姿に共感を覚えるのだ。
漫画原作をアニメーション化するというのは過去から現在に至るまでごく一般的に行われていることであって、多くの人がそれに疑問を抱かないようだ。むしろ歓迎する風まであったりする。私にはその辺が解せない。既に――静止画ではあるが――映像化されているものを、なぜ敢えて動かしてみようと欲するのか?作り手側にとっても受け手側にとっても、アニメーション化によってその作品世界が広がっていく余地はほとんど残されていないというのに。(むろん、声優がどうのこうのなどという議論は、私にとってはほんの瑣末なことに過ぎない。)
私にとって手塚作品が今アニメーション化されることの意義は、たとえば『鉄腕アトム』が半世紀近く、『ブラック・ジャック』にしても30年の年月を経てなお、そうするに値する作品であり続けている事実を再確認できるという一点に尽きるといっても過言ではない。
浮き沈みの激しい漫画の世界において、それは稀有の出来事であろう。
そう、やはり手塚作品は不死鳥のごとき存在であるのだ。
そう考えるほどに、なおさら今日という日の悲しみはいや増す。
我々は二度と手塚の新作をこの手にすることはできない。
その事実をまたもや思い知らされるからだ。
2月9日。
今年もまたその日がやってきた。
あまりにも基本的なことに今更ながら気づいて愕然としている。
それは『三つ目がとおる』において、主人公写楽保介の最大のライバルの一人として登場したゴダル王子の正体(?)である。
連載当事にリアルタイムで読みながらも全く気づかず、数年前にこんな調査をしたことがあったにもかかわらず見逃してしまっていた。
結局のところこちらの不勉強と無知のなせる業だったのだ。
おそらく、多くの手塚ファンの皆さんは既にお気づきだったに違いないし、このことを指摘した記事もあったに違いないと思う。
そんな大前提に立ちながら、以下の「私的発見記」をお読みいただきたい。
つい3日ほど前に洗面所の中で――どういうわけだか、沢田研二のかつてのヒット曲『勝手にしやがれ』を鼻歌で口ずさんだ瞬間、
私の頭の中に、ふとある考えがひらめいたのである。
『勝手にしやがれ』といえば沢田研二の歌ばかりではない。
同じ邦題を持つフランス映画の傑作が存在したではないか。
その映画の監督の名前が、他でもないジャン=リュック・ゴダールなのである。
調べてみたところ、同映画の日本での公開は1960年。
映画好きの手塚がこの作品を見ていないはずはなく、ましてやゴダールの名前を知らないはずもない。
ゴダル王子の名前はこの映画監督の名前を頂戴してしまったものに間違いないのである。
それにしても、「ゴダル編」の連載開始は1977年の初め。
なんでこの年に敢えてゴダールなのか。
という次第でいろいろと調べてみたが、きっかけを手塚に与えたと思われるような出来事は見出せなかった。
そのかわりに、いささか奇妙なことを発見した。
沢田研二の『勝手にしやがれ』は1977年の5月にリリースされている。
また、ジャン=リュック・ゴダール監督は1979年、14年ぶりに映画作品を発表しているのだ。
『三つ目がとおる』が呼び水となってこれらの出来事が起こった、などということはないはずだが、なかなかに面白い暗合ではあるように思えてならなかったのである。
「漫画は本妻、アニメは愛人」
生前の手塚はこのように語っていたという。
死後に発売された伝記や資料の類では後の部分を「アニメは恋人」という表現で紹介しているものが多いが、これでは「アニメーションには膨大なお金がかかる」という現実に対する手塚ならではの諧謔を伝えるには明らかに不十分。
おそらく「不適切な表現」に対する過剰な配慮のなせる改変なのであろう。
それはさておき、ここ最近の手塚関連ニュースといえば作品のテレビアニメ化に関するものばかりのような気がする。
『鉄腕アトム』の放送が終了したかと思う間もなく、NHKでの『火の鳥』のシリーズ放送。
引き続いて、ついに『ブラック・ジャック』がこの秋にテレビシリーズ化されるというアナウンスがなされた。
思えば、生前の手塚は『ブラック・ジャック』のアニメーション化にだけはOKを出さなかったと聞く。
その真意を窺い知る術は、もはやない。
しかしながら、「テレビアニメというメディアの制約」を意識してのことではなかったかと想像するのはあながち的外れではないように思えてならない。
今や『ブラック・ジャック』が手塚作品中の目玉にして四番打者、エース中のエースであることを否定する人はいないだろう。
まさに、満を持しての真打ち登場なのである。
だからこそ、不安も大きい。
もしもこのアニメ化が失敗に終わりでもすれば、それはソフトウェアとしての手塚作品の価値の消滅を意味することにすらなりかねないのだ。
アニメ『ブラック・ジャック』が、先のNHK版『火の鳥』のごとき救いようのない作品に堕さないことを願うばかりである。
私は「讀賣ジャイアンツ」というプロ野球球団が大嫌いである。
私がかの球団を決定的に許せなくなったのは四半世紀ほど前に起きたとある事件を契機としてであるが、ここでそんなことを書いても仕方がない。
ましてや、この場で1リーグ制がどうのこうの、ナ○ツネがどうのこうのと1か月前あたりから巷で話題の問題について意見を述べようなどという気は毛頭ないのでご安心を。
さて、巨人といえば阪神である。(強引だなあ)
手塚治虫が生前、阪神タイガースを贔屓球団として挙げていたことはよく知られている。
とはいえ、手塚自身がスポーツに関してはほとんど無知・無関心であり、それゆえ「阪神ファン」であるとの言葉も単に自身が関西出身であることから出た一種の社交辞令的なものに過ぎないとの解釈も一般に流布していたはずだ。
「漫画は風刺である」と公言していた手塚が、時の権力者とか権威と呼ばれるものに対しては一定の距離を保とうと身構えていたに違いないことは容易に想像できる。
そういう手塚であるならば、たとえば、長く球界ナンバー1の人気球団の座を独り占めしてきた「讀賣ジャイアンツ」のファンであるなどと言おうはずがない。逆に、人気があるとはいえ所詮ナンバー2以上にはなりえないであろう「阪神」あたりの名を挙げておくのが無難であるとの計算が働いた可能性もあるだろう。
その割には「NHK」と「朝日新聞」が大好きで、この両者からの依頼はどれほど仕事が立て込んでいても二つ返事で引き受けていたというエピソードも知られており、実は手塚はバリバリの権威主義者であったと断言する向きもあったりする。
しかしながら、己は漫画家であるとの矜持、そして「漫画は風刺である」との信念だけはとことん貫こうとした人間であったと思うのだ。
であるからこそ、かつて漫画家の後輩である本宮ひろ志が国会議員への立候補を目指した際に手塚はそれを諌めるようなコメントを寄せたのであろう。
そして、もう一つ。(実はこのことを書きたくてここまで引っ張ってきてしまったのだが…。)
亡くなる前年、手塚は文化庁から紫綬褒章授与の打診を受けながら、それを辞退しているのだ。(『夫・手塚治虫とともに 木洩れ日に生きる』手塚悦子著・講談社刊 p241参照のこと)
「風刺するべき対象に媚びるようなことをしてしまっては己の信念を貫き通すことができない」
おそらく手塚はそう考えたのであろう。
もちろん、もっと深いところに理由があったのかもしれないが、そのあたりを推し量るだけの材料を私は持たない。
してみると、私が以前書いた文章に矛盾が生じることになる。
手塚が「国民栄誉賞」をほいほいと受け取るとは考えにくいのだ。
この場で訂正をしておかねばならないだろう。
手っ取り早く該当部分を消してしまうのが一番だとは思ったが、こんなものでも残しておく責任があると考えて、該当部分に「注」を施すことにした。
実のところ、この誤りにはかなり以前に気づいていた。
早く直さねばと思いつつ、つい今日まで放置してしまったというのが本当のところだ。
なにしろ上記の本の出版は1995年。
しばらく積読状態にしていたにしろ、上の文章を書いたころには一読ぐらいしていたはずなのだ。
その段階で心に留めることができなかった自分の愚かさに呆れる。
それはさておき、手塚のこの言葉、もう一度心に刻み付けておきたい。
「漫画は風刺である」
私はもちろん漫画家ではない。
しかし、常に物事をしっかりと見つめる必要だけはあるのではないだろうか。
そうでなければ、承認も風刺や批判もできるはずがない。
自戒の念をこめて、そう思う。
2004年9月9日。
プレイステーション2版ゲーム『どろろ』が発売された。
昨年だったかにゲーム化のニュースに接したときには、バリバリのアクション・ゲームであるらしいことだけでなく、キャラクターのデザインが不気味なぐらいリアルであることから、食指が動かされることはなかった。
ところが、予約特典が『冒険王版 どろろ』の復刻であることを知った途端、180度方針を転換。
トランプやら金小僧のストラップまで付いた限定版をネット予約して購入してしまった。
とはいえ、反射神経ゼロなことには絶対の自信がある私は、届いたゲームを開封することもせずに1か月近く放置。
お約束どおり、復刻版だけを楽しんで満足していた。
つい先日、ようやく「ちょっとやってみないとHPのネタにもできんよな」なんて思って始めて見たところ…。
面白いんだわ、これが。
やはり、リアルなキャラクターには十二分に違和感があったのだが、原作をよく吟味したに違いないと思われるシナリオや原作そのままの台詞に触れるうちにすっかり夢中にさせられてしまった。
いや、アクション・ゲームはほんとうに苦手なんで、第3章あたりまでは死にまくり。
何度ゲームオーバー画面を見させられたことか。(なんだ、あの「だいだら入道」とかいう魔神は。)
リロードにかなり時間がかかるという弱点にイライラさせられながらも、もうやめられまへんってな感じ。
第3章クリア後に入手した、とある武器をひたすら強化した結果、その後の展開は意外なほどに楽になった。(たぶん、この方法は邪道なのだが、これぐらいのズルは許してもらわんと先へ進めないよ、私ゃ。)
ちなみに、まだ最後まで辿りついたわけではないが、ここ数日は順調に百鬼丸の体を取り戻せている。
先にも書いたように、原作を溺愛する私にとっていちばん嬉しかったのは時折出てくる原作準拠の台詞の数々。
ストーリー展開上重要な場面だけでなく、本編とは直接関わらないようなところでも思わずニヤリとさせられるような演出が登場して楽しませてくれる。
例えば、雑魚敵をスライス(このゲームの売りであるらしい特殊な倒し方)すると、最後に百鬼丸の決め台詞が聞けるようになっている。
通常の敵の場合には、「闇へ帰れ」とか「消え去れ!」といった具合に。
ところが、「妖狐」という敵を倒したときだけはその台詞が「どギツネめ!」と変化するのだ。
これは原作の「ばんもんの巻」で百鬼丸が敵に浴びせかけた言葉そのものである。
また、第2章で妖刀似蛭に取り憑かれたどろろが発する「ほげたらぁ」という叫び声には思わず大笑いした。(おかげで負けましたが、ハイ。)
この台詞、もちろんアニメーション版『どろろ』の、あの伝説の主題歌の1節である。
で、気になったのがこんなこと。
「このゲーム、原作ファン以外に買う人いるんだろうか?」
いろいろ調べてみると、そこそこ売れているらしい。
実際、先々週あたりにはゲーム売り上げのベスト10の上位に顔を出していた。
また、購入したユーザーからの評判も悪くはないようである。
これをきっかけにして、新たに原作に接する人が一人でもいてくれることを願わずにはいられない。
追 記(2004年10月31日)
10月末、なんとか真のエンディングに辿り着く。
ラスボスの凶悪さには辟易させられたが、武器のレベルを上げまくって試行錯誤を繰り返した結果、無事に大団円を迎えることができた。
テレビアニメ版の悲惨ななラストに比べればなんとなくホッとさせられる結末。(こっちのほうが優れているという意味ではないのだが。)
全体を眺め渡してみるといろいろと引っかかる点はあったけれど、こういう解釈もありかなと納得。
結局のところ売れ行きは急激に落ち込んだようで、セールス的には失敗の模様。
ゲームとしては、エンディングを迎えた後の「やりこみ」要素がほとんどないところが最大の問題だろう。
ミニゲームはつまらないし、剣の全種類収集もあっさり達成してしまったし。
せめて、「48魔神連続討伐モード」なんてのが用意されてればよかったのにと思う。
こんな形で「彼ら」に再会する日がやってこようとは思わなかった。
2004年9月末、『PLUTO(プルートウ)』(浦沢直樹著・小学館刊)第1巻が刊行された。
昨年、「『鉄腕アトム』がリメイクされている」という情報を得たときには、正直なところなんの感興も催さなかった。
「どうせ、一時のブームに乗っかった劣悪なアトム生誕記念企画の一つに過ぎないに違いない」と思い込んでいたからである。
今は、そんな自分の不明を恥じ入るばかりだ。
第1巻を読む限り、この作品はとんでもなく面白い。
『鉄腕アトム 地上最大のロボット』を下敷にしながらも、奥行きと広がりを持った別世界を構築することに成功しているように思える。
そもそも浦沢直樹という漫画家はロボットのような無機質なものを描くのに向く画風ではないように思う。(それを言えば手塚治虫だってそうなのだが…。)
本作では、それを逆手に取るような手法が採られている。
主人公である「ロボット刑事」ゲジヒトも、「格闘ロボット」ブランドも、そして我らがアトム――なんと雨の中、レインコートをかぶって登場――も、外見的には「人間」と全く区別がつかない姿で造形されているのだ。
そればかりでなく、ロボットたちのある者は配偶者を持ち、子育てをし、疲れ、「夢」を見さえしている。
そして、物語は、こうした設定が今後の展開に生かされていくことを期待させるに十分な滑り出しである。
ノース2号とダンカンの哀切なエピソードに、私は涙した。(ブラック・ジャックも出てきたし…)
「ピアノを弾けるようになりたいのです もう戦場に行きたくないから…」
何万体ものロボットを破壊したという過去に苛まれ、悪夢にうなされ続けたノース2号は、「その瞬間」にようやく安息の時を得ることができたのだろうか?
物語はまだ始まったばかりだ。
「第39次中央アジア紛争」、「人を殺すことのできるロボット」、そして何より「プルートウそのものの存在」。
多くの謎が解き明かされていくさまを、今後も見定めていきたい。
追 記
本作の単行本には普及版と豪華版が存在する。
後者には原作である『鉄腕アトム 地上最大のロボット』が別冊で付属。
手塚ファンである私は深く考えもせずに後者を選んだが、何やら今現在とんでもないことが起きている模様。
豪華版はどこの書店でも売り切れ状態らしく、なんとAmazonでは3000円以上(定価は1800円)という高値で取引されているのである。
こういうのを見ると、なんとも複雑な気分にさせられてしまう。
需要と供給のバランスが崩れるのを見越して投機目的で大量に買い占めた人がいるかもしれないってわけだ。
ホント、困ったもんです。
2004年10月11日。
連続TVアニメ版『ブラック・ジャック』放送開始。
以前に書いたように、手塚プロにとってはある意味「最後の砦」的作品である。
放送開始1か月、視聴率的にはそこそこ――10パーセント台前半、関西では10パーセント台後半との情報もあり――を記録しているとのこと。
この作品に対する評価は差し控えたいと思う。
何しろ、第1回分放送の後半部分を見ただけなのだ。
おそらく今後も真剣に視聴することはないだろう。
「手塚本人が関わっていないものは手塚作品ではない」とのこだわりが第1の理由。
アニメーションという媒体そのものに興味を持てないというのが第2の理由。
原作以上のものが出来上がるはずがないだろうという思い込みが第3の理由(なのか、これ?)。
それでも、この作品が成功してくれることを願う気持ちだけは人一倍なのだ。
例によって、アニメーションをきっかけにして原作に接し、手塚作品のすばらしさに気づいてくれる人が生まれる絶好の機会であることは間違いないから。
さて、当然のこととはいえ、TV放送に合わせて『ブラック・ジャック』関連の出版物も大量に出回り始めた。
まずは豪華版『ブラック・ジャック』第17巻。
ちょっと前の巻から「文庫版の後に豪華版が出る」というパターンが定着してしまったが、これはまあ、マニア向けということで納得。
私も迷うことなく購入した。
それと相前後して、講談社からは『ブラック・ジャック DX版』が、秋田書店からは『新装版 ブラック・ジャック』が刊行開始となった。
両シリーズを手にとってみて、私は愕然とした。
前者はデラックス版と銘打っているだけあってシルバーを基調とした美しいカバーをまとっている。
しかし、デラックスなのはカバーだけだ。
紙質が悪い(講談社の漫画単行本の伝統なのか?)し、中身は『講談社手塚治虫漫画全集』版と変わらず。
挙句の果てには背表紙に衝撃の文字が刻み込まれているではないか。
なんだよ、「手塚治虫漫画全集」って?
更によく見てみると、しっかりと「401」から始まる通番が振られている。
つまり、これは完結したはずの全集の続刊であると言いたいらしいのだ。
マニアな私は涙ながらにこのシリーズを購入した。
後者のほうにはまだ救いがありそうに見えた。
『ブラック・ジャック』単行本史上初めて発表順に収録されているというのが最大の売り。
発表順に読んでみると、取り扱っている内容が少しずつ変化していく様子はもちろん、絵柄の変遷やピノコ語完成へ経過がはっきりと分かって楽しい。
これは迷わず買いだと飛びつこうとしたときに以下のような事実を知って脱力。
「文庫版を基に発表順に収録」
つまり、これは少年チャンピオンコミックス版の皮を被った文庫版だったのだ。
ご存知のように現在流通している『ブラック・ジャック』の単行本は3種類ある。(文庫版と豪華版は実質的に同内容なので一つに数えている。また、コンビニ本は除
いて考えているので悪しからず。)
そのうち、最も収録話数が多いのが少年チャンピオンコミックス版なのだ。
せっかく「発表順」にまとめるというのだったら、全ストーリーを網羅するのが本筋というものである。
どの単行本にも収められていない未収録作品だけでなく、なぜか少年チャンピオンコミックス版には収められていて文庫版には収められていないエピソードもカットということでは、「発表順」の魅力も半減といわざるを得ない。
なにより大好きな「しずむ女」が入っていないなんて許せん!!
とか書きながら、結局これも購入してしまった自分が哀しい……。
こういうふうに散財しつつ、夢の「完全版ブラック・ジャック」が日の目を見るまでにはまだまだ紆余曲折がありそうだってことを改めて実感している今日このごろなのである
。
というか、「飢餓感を煽りながら小出しにするというのは商売の基本だ」、なんて考えているんじゃありますまいね、手塚プロさん及び秋田書店さんよ。
2004年12月26日。
スマトラ島沖を震源とする巨大地震に伴って発生した津波によってアジア地域一帯に甚大な被害が出た。
それから2日。いまだ被害の全容が見えてこない状況であるにもかかわらず、既に史上最大規模の津波被害であるとの報道がなされている。
2004年は、国内においても大規模な自然災害が多数発生した年であった。
集中豪雨、台風、そして地震……。
こうした災害と全く無関係とは思えないこの冬の異様な暖かさまで考え合わせたとき、日本の、いや地球の先行きに不安を感じないわけにはいかない。
ほんとうに地球は大丈夫なのだろうか?
襲いかかる津波の映像をテレビで見ながら、ふと頭に浮かんだのは『火の鳥 望郷編』のラスト間近の部分であった。
惑星エデン17に大地震が発生し、そこにある生命も文明も、何もかもが破壊し尽くされてしまう。
自然の猛威の前に無力な人間(厳密には人間ではないが…)の姿が、ほんの数ページで端的に描かれていて印象深い場面である。
このときの火の鳥の異様なまでの冷酷さが、かなり長い間気にかかっていた。
初めて読んだときには「いくらなんでもそれはひどすぎないか?」なんて憤ったりしたものだ。
火の鳥は、いわば気紛れに地震多発惑星の揺れを抑えて生命が住めるような環境を確保する。
そうしておきながら、そこで生まれ文明を築き上げた人々が堕落する姿を見た途端、いとも簡単に見放してしまう。
まるで、生殺与奪の権利を全て有しているかのようなやり方ではないか。なんと傲慢な態度なのだろう、と。
しかし、火の鳥はそもそも宇宙生命であって、人間と同レベルにはない。
いわば神様みたいなもんだからなんでもありなのよと、かなり無理やりな解釈をしたりもした。
その後、『ガラスの地球を救え』と題された文章の中の「自然への畏怖をなくし、傲慢になった人類には必ずしっぺ返しがくると思います。」という一文に接したとき、ああ、エデナ崩壊の場面は手塚治虫自身のこうした思いを描いたものだったのだなと分かったような気がしたものだ。
とはいえ現実世界で起きている惨事を前に、火の鳥ならぬ人間である私は「自然からのしっぺ返し」のひとことで済ませられるはずがない。
第一、被災者は堕落していたわけでも、悪徳に染まったわけでもない。
いつもと変わらぬ生活――あるいはちょっと贅沢な楽しみを味わおうとしていただけなのだ。
津波予知のネットワークが確立されていたなら、今回のような多くの犠牲を出さずに済んだことは間違いない。
緊急の救援活動と併せて、そうしたネットワーク作りの支援をこそ関係者には望みたいと思う。
と、きれいごとを書きながら……。
新聞には、被災地において略奪行為が発生しているとも書かれていた。
その浅ましさを憤る前に、それも人間の営みであることよと超然としていられる自分を呪わしく思う今日。