1999年 その1


1月1日 アトムの子のひとりとして

 1月1日。
 1963年のこの日、午後6時15分。
 国産初の連続テレビアニメ『鉄腕アトム』第1回の放送開始。
 前回分とあわせてご覧いただけば明らかなように、『鉄腕アトム』は1月1日に放送が開始され、ちょうど4年後の12月31日に最終回を迎えたのだ。「それがどうした?」と思われる方には申し訳ないが、私はこのふたつの日付けをどうしても忘れることができないでいる人間なのである。そういう人間は、おそらく私ひとりではないであろうと信じてもいる。そこまでのこだわりがないにしても、あの番組を通して「生きる勇気」を与えられ、「アトムの子」となった人間は数多いはずなのだ。

 白状しよう。以下の文章は、完全な予定変更がなされたものである。もとより、まとまりなどは望むべくもないし、説得力もないであろう。それでも書かねばならなかった。いわば、「今書いておかねばならない」という強迫観念に基づいたものだ。
 そうなのだ。
 あの「ドクター・キリコの診察室」を訪れた、あるいは訪れようとしていた人たちに向かって、私のメッセージを届けられずにはいられなかったのだ。

 「ドクター・キリコの診察室」の掲示板に「私は生きている価値がない」と訴えた女性がいたようだ。
 そもそも「生きている価値」とはそんなに簡単に定義できるものなのだろうか?
 考えてみてほしい。
 「誰にもその存在を認められない人間」など皆無なのだ。たとえ、それが徹底的に毛嫌いされるような立場であるとしても、「嫌われる存在としての価値」が厳然として存在するのだ。より多くの人に好かれたいと思う気持ちがあるのは当然だ。しかし、「万人に好かれる存在」などというものも皆無なのだ。この世でたったひとり(ひとつ)のだれか(なにか)にとってでも構わない。その人(もの)にとって不可欠な存在であればよい。それは、家族かもしれない。恋人かもしれない。ペットかもしれない。なぜか気になる庭の雑草かもしれない。愛読してやまぬ1冊の本かもしれない。忘れ得ぬ1曲の音楽かしれない。なんでも構わないのだ。

 人生には明らかに苦しみのほうが多い。また、苦しみを乗り越えた先に必ず『結果としての幸福』があるとは限らない。なぜなら、「希望を持って何かにチャレンジしていく過程にこそ幸福は存在するもの」であるからだ。たとえば、勝負事においては誰しも例外なく勝利を目指す。もしそれがトーナメント方式で行われる競技であれば、どうあがいたところで最終的な勝利者はたったひとりだけなのだ。あとは全て敗者となる。では、それらの敗者は全て不幸なのであろうか。答えは、絶対に「否」である。過程を抜きにして結果だけを求めることに、意味など、これっぽっちもない。

 「ドクター・キリコの診察室」を訪れた、あるいは訪れようとしていた人たちへ。
 ぜひとも『ブラック・ジャック』を読んでほしい。
 読めば気づくはずだ。
 ドクター・キリコは、けっして積極的に人の死を肯定などしていなかったことに。
 そして、自分が「アトムの子」のひとりであった事実にも。


1月16日 人生という名のSLに乗って

 1月8日(私の地方では12日ごろにようやく書店に並んだが…)に『ブラック・ジャック画集』、12日に『三つ目がとおる』第3・4巻が発売、1月15日には「手塚治虫・世紀末へのメッセージ」が放送された。昨年から引き続き、手塚治虫関連の話題に事欠かない毎日である。そして、それに伴って実にいろいろなことを考えさせられてもいる…。

 さて、今日は『ブラック・ジャック』最終回にまつわるエピソードについて書き留めておこう。(すでに、ある掲示板にも書いたことなのだが…)
 今回の『ブラック・ジャック画集』123ページには、ファンクラブ会報の第1号に載せられた手塚治虫の文章が再録されている。創作者のジレンマが読み取れる内容である。しかし、私を含む多くのファンは、これとは違うニュアンスの『ブラック・ジャック』終筆宣言を手塚治虫自身の口から聞かされているのだ。あるファンの集いで手塚治虫は次のようなことを明かしたのだ。
「僕の仕事部屋に掲載誌の編集者がずかずかと上がりこんできて、大変失礼な態度をとった。それが連載終了の直接のきっかけである。」
 当時『ブラック・ジャック』は人気の頂点にあったはずである。だが、会報の記事で明らかなように手塚治虫は行き詰まりを感じていたのだ。そこへタイミング悪く編集者の狼藉が重なってしまった。ひょっとしたら手塚にとっては「渡りに船」だったのかもしれない。そうとでも考えなければ、連載を終わらせるほどのトラブルを起こした雑誌に新しい連載(『ドン・ドラキュラ』)をスタートさせたことへの説明がつかないからだ。『W3』事件のように、何年も絶縁状態になってもおかしくないはずなのに。

 連載の最終話は、「人生という名のSL」であった。その後も時折読みきりの形で掲載は続いたが、やはりこのエピソードをもって『ブラック・ジャック』は完結していると考えたい。
 ブラック・ジャックは去っていったのだ。雑誌掲載時にこれを読んで抱いた感慨を、私は大切にしたいと思っている。


2月9日 同じ風に吹かれながら

 10年は一昔――だが、いつまでたっても古びないものが確かにある。

 1989年2月9日。あの日の午後…。

 突然、教え子――曰く、私が手塚治虫ファンの道に引きずり込んだのだそうだ――が職場にやってきた。訃報を私にもたらすために。
 既にそれ以前に、異様に痩せたその姿を映し出した雑誌などを目にする機会があったため、ある程度の覚悟はしていた。したがって、その報に接しても、少なくとも表面上は冷静であったはずだと思う。
 わずかばかりの時間、私は教え子と語り合った。彼が「勉強が手につかなくなった」と言っていた(大学受験のさ中にあったのだ)ような気だけはするのだが、細部についてはよく覚えていない。やはり動揺していたのだと、今にして思う。

 仕事を終えて帰宅の途についた。普段は聴くこともないAMラジオを聴きながら…。
 ニュースの時間。唐突に流れる『鉄腕アトム』のテーマソング。
 その途端、私は溢れ出るものをおさえることができなくなった。目の前がかすんでまともに見られない。
 「私にとってその人がどのような存在であったか」を定かに自覚した瞬間…。

 なんとか無事に家に帰りついた。
 テレビニュースで繰り返される訃報報道に接するたび、涙が流れた。
 妻の前で臆面もなく泣いた。
 私の最も大切なものが永久に失われてしまったのだ…。
 後に知ったところでは、訃報を読み上げるアナウンサーの中にも涙声になってしまう者がいたそうである。
 (一方で、同じ日に亡くなった――誘拐事件の被害者となったことで一躍全国にその名を知られた――某企業人の訃報と同等の扱いで済ますテレビ局もあった。そのことに対して強い怒りを抱いてしまったりもしたが、今思うと全くピントはずれだったとしか言いようがない。)

 2月10日の朝。 朝日新聞の社説を目にする。
 また、思いが胸に迫ってくる。
 あまりにも有名な文章――先日のテレビ番組「手塚治虫・世紀末へのメッセージ」でも一部が引用されていた――である。いまさらの思いはあるが、資料的な意味合いからここに全文を紹介しておきたい。

 日本人は、なぜこんなにも漫画が好きなのか。電車の中で漫画週刊誌を読みふける姿は、外国人の目には異様に映るらしい。 しかし、さて私たちはなぜ漫画好きなのか、と思い悩む必要はなさそうなニュースが海外から聞こえてきた。「マンガ日本経済入門」が西独で翻訳され、学生らに人気を呼んでいるという。米国では一足先に評判だ。なぜ、外国の人はこれまで漫画を読まずにいたのだろうか。
 答えの一つは、彼らの国に手塚治虫がいなかったからだ。日本の戦後の漫画は、手塚治虫抜きにはありえない。ストーリー漫画とテレビアニメの創始者。少年マンガはむろんのこと、今日隆盛をきわめる少女漫画の主人公でも、あの長いまつ毛を持った美少年「アトム」の両性具有的なイメージに影響を受けていることは容易に推論できよう。
 学生時代のデビューから、つねに漫画界の新しい分野を切り開く現役だった。その死去を聞いて、すでに四十歳半ばに達している最初の読者たちをはじめ多くのファンは、作品の主人公を思い浮かべながらそれぞれの感慨を抱くことだろう。
 いま日本のコミック文化は、爛熟(らんじゅく)期にあるという。漫画本は年間十六億八千万冊発行され、三千八百億円の売り上げを示す(一九八七年)。週間発行部数五百万部という漫画雑誌はおそらく世界最大だ。
 輸出文化の最大手という見方もある。ニューヨークの漫画専門店には日本漫画専用の棚があるし、アジア諸国の都市でも海賊版が珍しくない。テレビアニメは、「アストロボーイ」と名前を変えた「鉄腕アトム」から「ドラえもん」まで親しまれている。
 しかし、このようなわが漫画界の現状に、手塚アトムは必ずしも満足していなかったように思える。最近では、「漫画の国際化」の必要性を強調し、「世界に通用する質の高いものを」と若手の漫画家に厳しく注文していた。一見、隆盛の少年少女漫画にも性と暴力、射幸心、差別など興味本位の場面があふれていることは、漫画と聞いて顔をしかめる人の大きな理由となっている。
 読み手の側にも、問題がないわけではない。友情、努力、勝利の世界を描くことが「売れる」漫画の第一条件だとされる。それを一ページ数秒で走り読みする。書き手は三条件を満たす技術者と化し、読み手は自分の求める世界が描かれていれば満足する。そこには新たなメッセージがあるわけでもなく、タコつぼのような同質の閉鎖回路につながって安心しているだけ――そのような読者と作品の関係を手塚アトムは求めていなかったにちがいない。
 鉄腕アトムは正義の味方、というだけではない。人種差別ならぬ「ロボット差別」に悩み、苦しむ。あのまつ毛をぬらす姿を思い出してみたらいい。「ジャングル大帝」のレオは白いライオンゆえに疎外され、人類文明と野性とのはざまで悩んでいたではないか。
 大人の世界では目をつむって見えないふりをしているもの。たとえば、偏見、強権、国境、人種差別、戦争、悪意などが、国籍を持たないアトムの憎むべき敵だった。それは、悪い大人に善い子どもが立ち向かう姿だったかもしれない。
 活字と映像の間で、漫画は独自の市民権を持つことに成功した。漫画世代が広がるにつれて、その可能性はいっそう大きくなるだろう。若い分野の強みとして、志のある漫画家たちの活動も見えやすい。アトムのメッセージに新たな息吹を加えて海外にも発信してほしい、と思う。
(1989年2月10日付け「朝日新聞」社説――誤字・脱字があった場合の責任は全て私にあります。)

 …引用に当たって久しぶりに読み返してみた。あれから10年を経た今、漫画の置かれた状況はどのようなものなのだろうか?

 さて。
 死の直後から各メディアにさまざまな人々の追悼文やコメントが紹介されたが、これを超えるものはなかったと思う。(雑誌「野生時代」1989年4月号に載った「一枚のコースター」と題した半村良の追悼文は抜きん出た文章である。)

 その後「国民栄誉賞」受賞が取り沙汰され、いつのまにか立ち消えになった。
 ひとつには、マンガというメディアの評価の低さがあったのであろう。私は、しかし、手塚治虫が某政党の機関紙に連載を持っていた事実がその最大の理由であったのだと確信している。
 そもそも、たかが一政党が「神」に対して賞を与えようなどとは笑止千万の愚挙であったことに疑いはない。もちろん、生前であれば手塚治虫は喜んでその賞を受けたであろうことを容易に想像できもするのだが。(※現在はこのようには考えていない。理由についてはこちらを参照されたし。)

 ほんとうに、もう10年も経ったのだ。
 どれほど経っても空洞が埋まることはない。
 だが…。
 わずかではあっても現身の「神」と同じ空気を共有できたことを幸せだと思うべきなのであろう。
 ほんの一瞬でも確かに同じ風に吹かれる栄誉にあずかったのだ…。
 そして、その人の残した多くの遺産に容易に触れられるという、ここ数年の状況の好転をも喜ぶべきなのだ。

 皮肉なことに手塚治虫の死後、貴重な原稿がいくつも日の目を見ている。つい先日発売された『人間ども集まれ!』(実業之日本社刊・奥付けは2月10日が発行日となっている)にも単行本未収録であった部分が一気に復刻された。ファンとしては、うれしい反面いささかの戸惑いもある。連載中の自作を「原作」と位置付け、単行本化にあたって大幅な改変を加えて当然と考えていたとされる手塚治虫が、今の状況を喜ぶとは考えにくいのだ…。
 その答えだけは、もう得られようもない。

 

追記(急にテンションがハイになっております。)

 さて、今回の副題にピンと来られた方もあることでしょう。
 例の「ATOM KiDS」に収められていた西脇唯の歌『あの日君はたったひとりで』から引用させてもらったものです。
 ぶっちゃけた話、私はこの1曲で彼女にはまってしまいました。元来、こういうタイプの声は苦手だったはずなのに。我ながら絶句…。
 それはさておき、あの歌の歌詞、すごいと思いませんでしたか?最初に聴いたとき、手塚治虫その人のことをストレートに歌ったものだと思い込んでしまいました。当然、
「手塚治虫を『君』呼ばわりするとはけっこういい根性しとるじゃない。」
 などと考えたりしたわけです。その後しばらくして、表向きはアニメーション版『鉄腕アトム』に題材を採っていることに気づいた次第。本当は逆の思考ルートを辿るべきだったと考えると、なんとも間抜けな話…。

 とにもかくにも手塚治虫は間違いなく時代と切り結んだ創造者でした。
 ではいったい手塚治虫は誰のために戦いつづけたというのでしょう?

 

更なる追記(またテンションが下がる…)

 ここのところ『鉄腕アトム』を読み返していた。で、ふと思い当たったことがある。
 それは「若返りガス」というエピソードの中に表れる奇妙な暗合である。
 題名が示すとおり、これは人間を若返らせるガスを中心に据えたストーリーだ。そして作中、癌により余命いくばくもない惜しむべき人材として高野博士なる人物について触れられるシーン(光文社文庫版・第2巻125ページ)が登場する。むろん、『地球の悪魔(原題は「地球1954」)』の主演者高野博士と同一人物が描かれている。手塚治虫が一時ライバルと目したと言われるSF漫画家高野よしてるをモデルにしたキャラクターだ。お茶の水博士は2番目の若返りガスの実験台として、彼を選ぼうとするのだ。しかし、実際にはその後の事件で若返りガスは永久に失われてしまう。責任を感じて落ち込むアトムに対して、お茶の水博士はこう言う。
「あんなガスなんかないほうがよかったのだ。もちろん人間は長生きしたいが……それはもっともっと人間がりっぱになってからでおそくない」(同書・150ページ)
 私はつい手塚治虫を襲った現実を連想してしまったのだ。
 病に倒れ――そして自分の病の重大さをある段階で悟ったに違いない手塚治虫は、そのときどのように呟いたのだろうかと。

1999年2月9日――ひどい風邪に唸りながら……洒落にならん^_^;


3月7日 2001年を待たず旅立った天才達

 スタンリー・キューブリック監督が亡くなった。
 私は映画愛好家ではない。同監督の作品で観たことがあるのは「博士の異常な愛情」「スパルタカス」「2001年宇宙の旅」ぐらいである。名作といわれる「時計仕掛けのオレンジ」を観ていないのだから、何も言う資格はないのかもしれない。
 それにしても…この人も手塚治虫との因縁浅からぬ人であった。
 その証左がキューブリックから手塚治虫に届けられた「依頼状」事件である。「今度宇宙を舞台にしたSF映画を作る予定なので『アストロボーイ』の原作者であるあなたに美術デザインをお願いしたい」というような内容であったとされる。虫プロの仕事に忙殺されていた手塚が「たくさんの社員(family)を置いて国外に出ることはできない」と、断りの手紙を書いたところ、「そんな大家族(family)を養わねばならないなら、あきらめるしかない」との返信が来た。そして、その後数年して公開されたのが「2001年宇宙の旅」であったという、あのエピソード。

 もしもあのとき手塚治虫がこの依頼をを引き受けていたら…そう考えるだけでも楽しい。
 この映画に登場するディスカバリー号という宇宙船が「精子」をかたどったデザインを施されていることは有名である。手塚治虫だったらどんなデザインを生み出していたのだろうか?
 ところで、手塚治虫と精子、これもまた「あること」を思い出させて愉快ではある。

 「博士の異常な愛情」「スパルタカス」「時計仕掛けのオレンジ」…手塚漫画においては、いずれも作品名などに利用されたり、ギャグに使われたりしたことがあったはずだ。
 一方通行であったとはいえ、このふたりは互いに影響を受け合ったのであろう。そう思うと、2001年を待ち望んでいたはずのふたりの天才が、ともにそれを待つことなく「同じ宇宙」へ飛び出していってしまったことにも特別な感慨を抱かざるをえない。

 さようなら、キューブリック監督!


3月15日 和登さんの脚線美に見とれつつ

 『三つ目がとおる』講談社文庫版が完結。
 以前全集刊行時の混乱について述べた。今回はその続編である。
 まず、下の表を見ていただきたい。(※「巻」の項目は、文庫版における収録巻数である。)

タイトル 掲載号 和登さんのスカート丈
三つ目登場 1974/7/7 短い 1
第三の目の怪 1974/8/11 短い 1
魔法産院 1974/9/15 短い 1
酒船石奇談 1974/10/13 短い 1
寿命院邸の地下牢 1974/11/10 短い(やや長くなりハイソックス) 1
三角錐(ピラミッド)コネクション 1974/12/8 長い 1
三つ目族の怪 1975/2/23
             〜5/25
長い(靴下黒) 2
グリーブの秘密

1975/6/1
             〜8/24

長い(靴下黒→白) 3
めおと岩がくっついた 1975/8/31 私服のみ 1
キャンプに蛇がやってきた 1975/9/7
             〜9/14
出番なし 1
王者の剣 1975/9/28 長い 1
円盤騒ぎ 1975/10/5 長い 1
オハグロ沼の怪物 1975/10/12 長い 1
怪植物ボルボック 1975/10/19
      〜1976/3/7
長い 4
貝塚の怪 1976/3/14 長い 1
文福脱走 1976/3/21 長い 1
ようこそ墓あらし 1976/3/28 長い 2
カンニング 1976/4/4 長い 2
暗黒街のプリンス 1976/4/18 長い 2
神々の食糧 1976/4/25 長い 2
ガイコツ・ショー 1976/5/2 長い 2
タワーリング・ミラクル 1976/5/9 長い 2
わんわん物語 1976/5/16 長い(ハイソックス) 3
魔術師 1976/5/30
              〜6/6
長い(ハイソックス) 3
復活の谷 1976/6/20 私服のみ 3
イースター島航海(前編) 1976/ 7/25
           〜11/21
長い 5
イースター島航海(後編) 1976/11/21
           〜12/26
出番なし 6
ナゾの浮遊物 1977/1/9 長い(ハイソックス) 3
ビバゴン現わる! 1977/1/16・23 私服のみ 6
古代王子ゴダル 1977/1/30・2/6
             〜4/24
長い 6
地下の都 1977/ 5/ 1
            〜 7/10
長い 7
親子車 1977/7/17 出番なし 7
怪鳥モア 1977/8/7
〜1978/1/15・22
長い 8
石の玉 1978/1/29・2/5 長い(靴下黒) 7
浦島太郎の遺産

1978/2/26
              〜3/5

出番なし 7
イカヅチ山が泣いている 1978/3/12 長い 7
スマッシュでさよなら 1978/3/19 長い 7

 我ながらミョーな表を作ってしまったものだ。
 しかし、こうして発表順に並べ直してみるといくつかのことに気がつく。

 まず、第一に和登さんのスカート丈。
 私、相当な和登千代子ファンである。女性スタアの中で最も好きなひとりである。
 その彼女、意外にも品行方正、校則遵守生徒だったのだ。
 なぜかって?
 私の思い込みの中では、彼女は制服を超ミニスカートにして威勢のいい啖呵を切るぶっ飛んだ女子中学生であったのだ。しかし、改めて確認してみると、実際に彼女がスカートを短くしていた(?)のはごく初期、それも月イチ掲載のころの作品だけ。それどころか、連載が後期になるにつれて彼女の制服のスカート丈は長くなっているのである。
 考えてみれば、1970年代から80年代にかけてちょっとカッコつけた女子生徒のステータスは「超ロング」スカートであったはずだ。実際、『三つ目がとおる』『ブラックジャック』の中にもそんな女子生徒の姿が描かれている。だとすると、掲載開始当時の和登さんの超ミニは何だったのだろう?……こんなことに注目する私のスケベ根性こそが問題かもしれないが。

 第二に…。
 掲載号の欄を見ていくと、週刊連載が始まった1975年の2月23日号以降に何箇所かのブランクが存在することが分かる。当然、ここには単行本未収録のエピソードが入ると考えるのが自然である。当時の掲載誌の全てを参照すれば、その部分に何があったかは一目瞭然であろう。が、そこまでしなくても、推量できることもあったりする。
 たとえば、「王者の剣」のエピソードの前にある一週分の穴。ここにはおそらく文福の初登場が描かれていたはずだ。それは「王者の剣」冒頭部における文福と和登さんの対話部分から分かる。彼らは初対面ではないのだ。(※先日確認したところ、確かに「文福登場」なるエピソードが存在していたようだ。しかし、それは「王者の剣」の直前の週ではなく、「三つ目族の怪」の前に雑誌掲載されたらしい。したがって、私の推理は外れていたことになる。  1999年4月28日追記)
 「イースター島航海」編はどうであろう。その前のエピソードとの間に4週分ほどの間隔がある。ここには確か「取材旅行のための休載」も入っていたと記憶しているのだが、実は重要なエピソードが省かれた痕跡でもある。(私自身、確かに掲載誌を読んだ記憶がある。)
 その残骸は現在の単行本においても確認できる。文庫版第5巻の24ページを見ていただきたい。「物陰から雲名警部たちの様子をうかがう人物」が描かれている。これはいったい誰なのか?単行本ではついに説明されないままだ。しかし雑誌連載時においては、彼こそが「さまよえるオランダ人」パンドラの弟(単行本第6巻で唐突に現れるバン・ドン)その人であった。しかも彼は、未収録部分において、転校生である写楽保介をいじめまくる張本人なのだ。
 そう、写楽保介は転校しているのだ。単行本では、彼はいつのまにか和登さんとは別の中学に通っているのである。『三つ目がとおる』に単行本だけで接している方たちは見逃しておられるのではないだろうか?

 今回、この作品を発表年代順に整理してみて、改めて感じた。
「手塚作品はやはり発表順にこそ読むべきである」
 作者の作風や絵柄の変化を正しくとらえるためにも、ストーリーの改変を把握するためにも。