1998年 その2


9月15日 曼珠沙華の咲く頃

 異常気象の夏も終わりが近づき、朝夕はめっきり涼しくなってきた。今年もまた、私が車で通勤する田舎道の川沿いに、曼珠沙華(彼岸花)が、独特の花を咲かせ始めた。
 曼珠沙華――この毒々しい赤さを持つ花を見る度、私の脳裏に忘れられぬあのシーンが鮮やかに甦る…。

 「うん……マンジュシャゲの花はなぜ血の色に似てるんだろう……」(手塚治虫全集版『どろろ』第2巻14ページ)

 私が愛して止まぬこの作品の中でも最も印象的なコマのひとつが、上に示したどろろの呟きのシーンである。どろろが自らの生い立ちを思い起こす「無残帖の巻」冒頭部にあるこの場面は、彼女のそれまで辿ってきた運命を端的に暗示している。近しい人との凄絶な死別。幼い彼女の原体験は余りにも過酷である。「信ずるべきは刀=力のみである」――わずかな人生経験を通して恐るべき事実に直面してしまった彼女。しかし、だからこそ、百鬼丸との運命的な出会いも生じたのだが。
 『どろろ』は未完の物語である。一応結末はつけられているものの、「大団円を迎えた」とは読者の誰も思っていない。では、物語はあの後、どのような展開を見せるはずだったのだろう?
 百鬼丸は自分の体の全てを取り戻すことができるのだろうか?
 醍醐親子の愛憎物語はどのような結末を迎えるのだろうか?
 どろろはどのような女性に成長していくのだろうか?
 そんな空想の中から、どろろと百鬼丸のロマンスという展開を予想したファンもいたはずだ。しかし、どろろの抱えた心の傷は余りにも大きく、不完全であることを運命づけられた――何故ならば、体の全てを取り戻し、「完全」になった瞬間、人間を超えて「神」の領域に踏み込んでしまうはずの――百鬼丸との間に、そのような関係を望むのが不自然極まりないことをも読者は直感的に知っていた。長く連載が続けばそうしたシチュエーションも必然となっていたかもしれないが、私たちは、どろろと百鬼丸がそんな位置に安住することなど望んではいなかった。荒俣宏氏が秋田文庫版の解説で語っていたように、この物語は最初から未完であることを運命づけられていた物語なのだ。ゆえにこそ、私は「人間」百鬼丸――不完全であるがために輝くオーラを放つ彼――に永遠に憧れ続けられるのだ。多くの百鬼丸ファン(実はブラック・ジャックと人気を二分するキャラクターなのだとのこと…。)も、またどろろのファンも、この物語の尻切れとんぼな終わり方――明らかに往年の名作西部劇映画『シェーン』を模したラストシーンが描かれていることも印象的である――に恋しているのである。
 『どろろ』は数多い手塚治虫の未完作品中で、唯一、完結を期待されない物語なのかもしれない。

 また思い出話になってしまうが、アニメーション版『どろろ(どろろと百鬼丸)』で百鬼丸の声を演じた野沢那智が、かつて名古屋市栄地下の日産ギャラリーであべ静江(「コーヒーショップで」の大ヒットを機にその番組を去っていった…)とともにラジオの公開番組を担当していたことも忘れられない。今の私だったら、臆面もなくサインを求めに行くのだろうが…。


9月25日 虫の標本箱

 待たされ続けた『虫の標本箱』(ふゅーじょんぷろだくと社)がついに手許に届いた。こういった手塚治虫関連の「限定出版」を購入するのは3度目。最初は『手塚治虫初期漫画館』(名著刊行会・1980年6月25日発行)――これには当時の実質的な私の1か月分の給料を注ぎ込んだ思い出がある――。続いて『日本名作漫画館SF編 第3部』(名著刊行会・1981年2月28日発行)――今、発行日を確認するために本棚の奥から引っ張り出してみたら、箱の一部を虫に喰われているではないか!!早急に手を打たねば、大変な損失だ――と、お宝自慢はこれぐらいにして。

 待たされただけあって、手触りがとても枯れていて好感が持てた。(おそらくは「高い金を出したのに安っぽくて許せん」と、お怒りの向きもあるだろう…。)添付された解説からは、編集者のこの企画に対する思い入れの深さが読み取れた。いずれにせよ、完璧なコレクターズアイテムである訳だから、とことんこだわってもらわないことには、こちらも困るのだが。

 今後、初代『虫の標本箱』(青林堂・1970〜1975年にかけて4シリーズ――私は所有していない。)も、同様の編集方針でリニューアル刊行する予定とのことである。内容的には『手塚治虫初期漫画館』と殆ど重なってくるはずなのだが、私の中のこだわり虫の血が疼くのは必定。またもや私の懐には寒風が吹きすさぶことになるのか?

 そういえば、今日発売された『手塚治虫名作オープニング大全@〜B』(エニックス)を買ってしまった。「こんな本買わなくても、単行本全部持ってるわい」と思いつつ。しかし、発表年代順に編集されているのが妙に嬉しくて…。


10月3日 この物語は…

 テレビドラマなどの最後に、決まって画面に表示される言葉がある。
 「このドラマはフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません」
 この決まり文句。マンガ雑誌の世界でも使われるようになったのはいつごろのことなのか…。
 私の曖昧な記憶の中では、これも手塚治虫と結びつけられてしまう。

 『ブラック・ジャック』が人気絶頂であった1970年代の中ごろ、「少年チャンピオン」編集部には年少の読者から次のような内容の投書が相次いでいたそうだ。
「お母さんの病気をブラック・ジャック先生に治してもらいたい。」
「お父さんを助けて!」
 マンガの世界と現実世界との区別がつかない年頃の子供たちの他愛のない、しかし、それだけに真剣な依頼。ある意味、胸に迫るエピソードである。
 そして、上のような噂を聞いたのと相前後して、私は『ブラック・ジャック』のラストページ欄外に次のような文章が載せらているのを発見した。
「この物語はフィクションです」
 この文言に最初に気づいたのは「シャチの詩」(1975年9月15日号掲載)というエピソードであるが、私はもともと熱心な「少年チャンピオン」読者であったわけではないので確証はない。全くの勘違いの可能性も高い。ひょっとしたら、連載当初から当然のごとく付されていたものかもしれない。現物に当たることのできる方からの情報をぜひ期待したいと思う。(自分で調べる気がないところが私らしい。)

 その結果次第では、「この文章はフィクションであり、筆者の思い込み・妄想に過ぎませんでした」ってことになってしまうかもしれないが。


11月3日 Happy Birthday

オヤジ殿へ。

 誕生日おめでとう。オヤジももう古稀を迎えたんだな。
 オヤジには本当にいろんなことを教えてもらったよ。直接会えなくなってからも、今日までずーっと教えられっぱなしだ。


 ――そう言えば、オヤジ…。なんで年齢をごまかしてたんだ?それも歳を水増しして。実際より若く言うってのならまだ分かるんだけどな。オヤジが死んで初めてその事実が公になったとき、周りの人間は、
「若造と思われて甘く見られるのを避けるためだったんだろう。」
 なんて言ってたけれどね。オレとしては、オヤジが生前ずっと公言していたように「大正15年11月3日生まれ」のままにしておいてくれたほうが、「完全に昭和という時代を包み込んで生きた、名実ともに昭和の象徴」という、分かりやすい位置づけが定着してよかったんだけど。むろん、オレ自身は元号とかにこだわりがあるわけじゃない。それでも、オレの青春時代が昭和という元号でくくられる時期であることは否定しようのない事実なわけだしね……。

 こんなこと考えてるうちに、急にオヤジの葬式にまつわるできごと――そんな大層なもんじゃないんだけれど――を思い出しちまった。
 1989年(平成元年)の2月。オヤジが逝ってすぐ、3月2日にオヤジの葬儀が行われることになったのを知ったんだけど、オレは仕事の都合で行くのをあきらめざるをえなかった。不義理なヤツだと思われたかもしれないが、なにしろ、当時オレは中学3年生のクラス担任やってて、卒業式も間近という大事な時期だったんだよな。
 で、泣く泣く迎えたその前日のことだったよ。帰りの会かなんかの時間、ある生徒が突然、大声でオレにこう言ったんだ。
「先生、行ってこいよ。俺たちはダイジョーブだから。」
 大丈夫って言われたって、お前ら他の先生にずいぶんと睨まれてたじゃないか?
おかげで楽しい時間を過ごさせてもらったけどね。(冗談抜きでオレの教員人生でいちばん充実した1年だったよ…)
 結局そいつの言葉には従わなかったけど、心ん中では思いっきり感謝してたよなぁ。
 なんか、話がずれちまったな。とにかく、オヤジはホントに尊敬されて「先生」と呼ばれ、オレはたまたま選んだ仕事ゆえに儀礼上「先生」と呼ばれてる。――不惑の歳を超えて3年以上経った今になって、ふと考えることがあるよ。オレのことを、心から「先生」と呼んでくれる生徒が何人いるのかなって…。

 バカな独り言につき合わせてすまなかったね。今夜は祝杯でもあげながら、改めてオヤジの作品を味わわせてもらうことにするよ。
 それじゃ、おやすみ。 

追伸
 明日はオレたちの結婚記念日だ。こんな馬鹿ムスコだけど、オヤジも天国で少しは祝ってやってくれよ。


12月3日 泣かせらア

 『三つ目がとおる』文庫版発売まであと少し。
 この作品は1970年代の手塚治虫を代表する傑作の一つであると思う。
 私自身、雑誌連載当時には『ブラック・ジャック』よりもこちらを熱心に読んだ覚えがある。
 そして……。
 単行本化に際して実に奇妙な事態が発生したため、内容とは関係ないところで私を大いに悩ませたことでも忘れがたい作品である。

 本作品は週刊「少年マガジン」に月1回ぐらいのペースで掲載がスタート。好評を得て連載化というルートを辿った。(手塚治虫と講談社は、『W3』をめぐる有名なトラブルの後、長期間にわたって絶縁状態となっていた。それを解消するきっかけとなったのが『おけさのひょう六』。そして、『三つ目がとおる』は本格的な講談社への復帰作という意味合いも持っていた。)
 さて、問題の単行本は、「講談社コミックス」(新書判)の1シリーズとして出版され始めた。ところが、連載途中(新書判単行本が4冊目あたりまで出たときであったか…)、かの手塚治虫漫画全集の刊行が決定した。講談社としては、人気作品である『三つ目がとおる』を目玉の一つにしたかったはずだ。記念すべき全集第1回配本8冊の中にこの作品が含まれていたのも当然のことである。
 しかし私は、刊行継続中であった新書判との兼ね合いが難しくなるのではないかと心配していた。
 そして、不安は的中。
 全集版の第1巻は、なんと「イースター島編」から始まっていたのである。
 全集版刊行と前後して新書判「ボルボック編」前・後編が発売されたものの、結局新書判がこれ以降刊行されることはなかった。

 当時の事情に詳しくない方のためにもう一度整理してみると、下のようになる。

1976年 4月 新書判 1 「三つ目登場」他の短編収録
1976年 7月 新書判 2 「三つ目族の謎編」
1976年 3月 新書判 3 「グリーブ編」
1976年 6月 新書判 4 「オハグロ沼の怪物」他の短編収録
1976年12月 新書判 5 「ボルボック編」前編
1977年 6月 全集版 1 「イースター島編」前編
1977年 9月 新書版 6 「ボルボック編」後編
1977年10月 全集版 2 「イースター島編」後編
1978年 6月 全集版 3 「モア編」前編
1978年 8月 全集版 4 「モア編」後編
1978年12月 全集版 5 「ゴダル編」
1979年 6月 全集版 6 「地下の都編」
1980年 3月 全集版 7 「三つ目登場」他の短編収録
1980年 5月 全集版 8 「グリーブ編」
1980年 7月 全集版 9 「三つ目族の謎編」
1980年 9月 全集版10 「オハグロ沼の怪物」他の短編収録
1980年11月 全集版11 「ボルボック編」前編
1981年 1月 全集版12 「ボルボック編」後編
1981年 3月 全集版13 「貝塚の怪」他の短編収録

 上の発行年次と収録作品を見ていただければ、当時の私が何に当惑したかをある程度は理解していただけるのではないだろうか?仮にも「全集」を名乗る作品集が、主人公が初登場するエピソードをずっと後の巻に回してしまう不合理。さらに、物語の中途を強引に「第1巻」に収録するにあたってなされた連載時からの大幅な書き替えが、私の混乱を深める結果となってしまった。
 今回の文庫化は、おそらく『三つ目がとおる』の「決定版」となるはずである。最も原型に近い形での刊行を期待したい。(私は全集版後に発売された「デラックス判」を持っていない。今回のものはおそらく、それを元にした内容であろうと推理しているのだが…。)

 さて、恒例のお宝自慢をひとつ。
 私は『三つ目がとおる』の生原稿の切れ端を所有している。上半身裸の写楽保介が、岩場から何かを見ながら「泣かせらア」と呟いているワンカットである。1980年に名古屋でサイン会を兼ねたファンの集いがあったとき、その会場で5000円で売られていたものである。真贋を確かめる術はないが、「ボツ原稿の一部である!」と、私は信じている。できればこの場で公開してしまいたいのだが…。


12月8日 So Long Taizo Kabemura

 壁村耐三氏が亡くなった。
 元「少年チャンピオン」誌編集長。
 そして、我らが『ブラック・ジャック』生みの親のひとり。
 そう、あの「手塚治虫の死に水をとる」という理由で『ブラック・ジャック』連載に踏み切った仕掛人とされる方である。
 氏なくしては、間黒男が奇跡の腕をふるうことはなかったかもしれないのだ。
 氏なくしては、現在の多くの手塚ファンも存在しなかったかもしれないのだ…。

 もちろん、私は壁村氏とは一面識もない。
 それどころか、お名前以外の何も知りはしない。
 それでも、ご冥福を祈らずにはいられない。
 感謝の言葉を述べずにはいられない。
 ほんとうにありがとうございました。安らかにお眠りください。

 またひとり、手塚治虫その人を知る人が去ってしまった。
 そう思うだけで、残念でならない。


12月18日 私にとっては…

 いくつかの手塚関連ページで「今年の10大ニュース」の投票が行われている。
 私も当然投票させていただいた。
 が、それだけでは物足りなくなってきた。
 せっかく、こういうページを持っているのだ。自分なりの「10大ニュース」を挙げたところで罰は当たるまい。
 そう、これは完全な「便乗企画」である。ご了承願いたい。

第10位 テーマパーク構想具体化
 以前にも述べたように、私はこの事業に対して積極的に支持はできない。しかし、重大なニュースであるのを否定することもできないのだ。

第9位 生誕70周年記念出版
 上位にランクした書籍も当然この中に含まれているのだが、敢えて別項目とさせていただいた。本当に懐の寂しくなる1年であった。

第8位 壁村耐三氏死去
 これをはずすわけにはいかない。1970年代が最も大事な時代である私としては…。

第7位 トリビュート・アルバム「ATOM KiDS」発売
 どうもファンの間での評判は悪いようだ。しかし、あれだけのミュージシャンが手塚治虫に特別の想いを抱いているという事実を認識できるというだけでも貴重ではないだろうか。中でも特筆すべきは80年代の筋肉少女帯である。中心メンバーである大槻ケンヂが手塚治虫の熱烈なファンで、訃報を聞いた当日のコンサートに際して「思わずファンと一緒に黙とうを捧げようかと考えた」人物であったことを改めて思い出した。結局それを断念した(らしい)彼の見識に感銘を受けたものだ。(その場に集まっていたのは、飽くまで彼らのファンで、手塚治虫ファンではないのだから、それが当然の判断であると思う。)そして、今回のアルバムへの参加に際して「わざわざ当時のメンバーを集めた」彼に、また脱帽させられたのである。

第6位 「ミッドナイト」文庫に最終話収録
 ようやく日の目を見た最終エピソード。この作品に対する見方を改める人もいるのではないだろうか。

第5位 「三つ目がとおる」文庫化
 やはり素晴らしい作品である。新たな手塚ファンの獲得に寄与するのではないかと期待する。

第4位 「虫の標本箱」刊行開始
 あまりにも贅沢な値段であるため、入手を断念した方も多いであろう。無理に手に入れる必要はない。どうせ手垢がつくのを怖れ、保管に気を遣うことになるだけなのだから。今年末までの予約限定で、パートUが出版されることも決まった。嗚呼、35000円…!

第3位 手塚治虫ワールドショップ開催
 このページを読んでいただいた方にはいちばん喜んでいただいた私のエピソード。ようやく証拠写真を載せられる運びとなった。アトムの後ろにいる怪しげな二人には、あまり注目しないでいただきたい。

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第2位 「手塚治虫キャラクター図鑑」刊行
 期待どおりのマニア本。生半可でない資料に脱帽である。

第1位 「手塚関連HP」続々誕生!!
 私としてはこれ以外には考えられない。それらのページを通じて、多くの方々と知り合えたことを心から喜びたい。そして、メールや掲示板、或いはチャットでコンタクトをとらせていただいた方はもちろん、この拙いページを静かに見守ってくださった方にも、深く感謝したいと思う。


12月31日 空を超えて星の彼方…

 12月31日。
 1年締めくくりの日。
 そして、アトム最期の日…。

 1966年12月31日。
 アニメーション版『鉄腕アトム』は唐突な最終回を迎えた。
 「ぼくらのヒーロー」は、突然、少年たちの前から姿を消した。

 人間を救うために自らを犠牲にして散ったアトム。
 あまりにも理不尽な結末に、テレビ画面の前の多くの少年・少女たちが涙したという。
 当然のごとく、猛烈な抗議が手塚治虫のもとに寄せられたとも…。

 手塚治虫は「自己犠牲」を好んで描いた作家であった。このアトムの例ばかりではなく、実にさまざまな作品の中で、主人公をはじめ重要なサブキャラクターを「誰かを救うために」死なせている。単行本版『ロック冒険記』のロックしかり、『キャプテンKEN』のケンしかり。『ブッダ』『ブラック・ジャック』などは、まさに「自己犠牲」のオンパレードといってもよいほどだ。いや、むしろ、「自己犠牲」が描かれない作品を探すほうが困難なほどかもしれない。そこには確かに「死を美化している」手塚治虫の姿が垣間見える。
 これは、日本人が好む「滅びの美学」「終末の美」につながる思想である。(ここらあたりを安易に追求すると「少年ジャンプ」連載作品のように「カッコイイ死」が乱発され、挙げ句の果ては、「実は彼は生きていた!」などというお約束が繰り返されることになるのだ。)
 こうした手塚治虫の在り方を「散華の思想」と喝破し、その呪縛からの訣別を告げたのが宮崎駿であった。彼は雑誌「SPA!」(1989年2月23日号・扶桑社刊)の追悼特集でこう語っている。

「 ――(略)―― 20歳のころ、タンスの引き出しいっぱいになった自分の原稿を燃やしたことがあります。手塚さんの絵に影響されてどうしても抜け出せない原稿の山――一つの通過儀礼のつもりだった。ボクは手塚さんとは違うんだ――と。でも、何も変わらなかった。あいかわらず手塚さんから逃げられない。
 やっとその呪縛からときはなたれたと思ったのは、手塚さんのアニメ『ある街角の物語』を見た日です。そこにあった散華の思想、終末の美を見たとき、なにか、手塚さんを見きったように思った。もうまどわされない、自分のことは自分自身の問題として考えると。
――(略)――ボクは手塚さんを超えたとは言わないけれど違う方向はみつけたと思っている。
 手塚さんに戦いを挑み、そして訣別して新しいものをつくることをこそ、手塚さんも望んでおられるのではないかと、ボクは思っています。」

 あの宮崎駿をもってしても、手塚治虫の大きな影響を免れえなかったことが明らかに読み取れる。この文章は、一般に手塚追悼文中の名文とされる。が、続く「COMIC BOX」(1989年5月号)の追悼特集インタビュー(――手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した――と題されている。)において、宮崎駿は強烈な手塚治虫批判を行う。その一部を引用させていただく。(全文を掲げないかぎり宮崎駿の本来の意図は伝わらないであろうと思う。ぜひ現物に当たっていただきたい。)
(※ 該当のインタビューは1996年に徳間書店から刊行された「出発点一九七九〜一九九六」と題する本に再録されているようだ。宮崎駿は一時の感情に任せて下のように述べたのでなく、これがまさに彼の本音だということなのである。 1999年2月9日追記)

「――(略)――漂流している男のところに滴が1本たれ落ちる『しずく』(’65.9)や『人魚』(’64.9)という作品では、それらが持っている安っぽいペシミズムにうんざりした。かつて手塚さんがアトムの初期の頃持っていたペシミズムとは、質的に違うと思って――あるいはアトムの頃はボクが幼かったために安っぽいペシミズムにも悲劇性を感じてゾクゾクしただけなのかもしれない。
――(略)――『ある街角の物語』(’62.11)という、虫プロが総力を挙げてつくったというアニメーションで、バレリーナとヴァイオリニストか何かの男女二人のポスターが、空襲の中で軍靴に踏みにじられ散りぢりなりながら蛾のように火の中でくるくる舞っていくという映像があって、それをみた時にぼくは背筋が寒くなって非常に嫌な感じを覚えました。
 意識的に終末の美を描いて、それで感動させようという手塚治虫の”神の手”を感じました。――それは『しずく』や『人魚』へと一連につながるものです。
 昭和20年代の作品では作家のイマジネーションだったものが、いつのまにか手管になってしまった。
 これは先輩から聞いた話ですが、『西遊記』の製作に手塚さんが参加していた時に、挿入するエピソードとして、孫悟空の恋人の猿が悟空が帰ってみると死んでいた、という話を主張したという。けれど何故その猿が死ななければならないかという理由は、ないんです。ひと言「そのほうが感動するからだ」と手塚さんが言ったことを伝聞で知った時に、もうこれで手塚治虫にはお別れができると、はっきり思いました。
 ぼくの手塚治虫論は、そこまでで終りです。
 そのあと、アニメーションに対して彼がやった事は何も評価できない。
――(略)――全体論としての手塚治虫をぼくは”ストーリィまんがを始めて、今日自分たちが仕事をやる上での流れを作った人”としてきちんと評価しているつもりです。――(略)――だけどアニメーションに関しては――これだけはぼくが言う権利と幾ばくかの義務があると思うので言いますが――これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したこととかいうのは、みんな間違いです。――(略)――」

 先に「SPA!」で述べたことを、よりストレートに表現したものと受けとめることができる。「意識的に終末の美を描いて、それで感動させようという手管」が許せなかった、と言っているのは明白だ。
 しかし、かのナウシカが、宮崎駿がこれほどまでに毛嫌いした「終末の美」を体現してしまったヒロインであったこともまた事実なのだ。アニメーション版『風の谷のナウシカ』におけるクライマックスシーンでの彼女の「自己犠牲」をどう説明するのか。(これについては既に大塚英志の指摘がある。)

 思うに、手塚治虫は天性のエンターテイナーだったのだ。読者(視聴者)を喜ばせるためにあらゆる手法を駆使し、「テーマは後からついてきた」というのが手塚治虫作品の真の姿なのではないか、そんなふうに私には思えてならない。そして、それだからこそ、その傑出したエンターテインメントは、それぞれの読者に一つの方向性にとらわれることのない感動を与え得たのだ。一方、宮崎駿は「まずテーマありき」の作家なのではないか。少なくとも最近作の『もののけ姫』は、そうして作られた作品であると思う。そして、それが必ずしも成功していなかったように思うのは私だけではあるまい。――あの映画を観た若い世代の少なからぬ者が、作品のストーリーそのものより「登場人物の首や手が吹っ飛ぶシーン」を非常に面白がっていた事実を宮崎駿はどう受けとめるのだろう?

 見方を変えれば、宮崎駿はここまで攻撃的にならざるをえないほどに手塚治虫を敬愛していたとも言えるかもしれない。そして、強烈な渇仰がその人物を超えたいという欲望に変わったとき…。

 いずれにしても、この発言が手塚治虫死後になされたことには問題があると言わねばならない。宮崎駿は、生前の手塚治虫に対して正面から――それは作品で証明した、などという「大人のやり方」でなく――徹底的に戦いを挑むべきだったのだ。あるいは、その機を逸してしまったことが彼をここまで攻撃的にさせたのかもしれない。そう考えれば、これはこれで立派な追悼文になり得ていることになる…。
 私個人としては、この文章を読んだ時点で「宮崎さんを見きった」ような気がしてならなかった。それはある意味悲しかった。手塚治虫を超えるのはこの人ではないと分かってしまったから。もちろん、手塚治虫が「私のヒーロー」の座から降りる日が来るなどとは考えられはしないのだけれど。