2001年


1月28日 こころにアトムをU

 2001年も、はや1か月が過ぎようとしている。
 21世紀を迎えたのだという実感はほとんどない。1年前にミレニアムの大騒ぎを演出して見せたマスメディアも、新世紀に対しては意外なほどに冷淡であった。ここらにも移ろいやすい人の心が透けて見えて哀しくはあった。だが考えてみれば、たとえ世紀が変わったところで昨日までの生活との劇的な変化があるはずもないのだから、むしろ扇動に乗らなかった我々の成長を喜ぶべきなのだろう。

 さて、そんな一種醒めた雰囲気の中、21世紀の幕開けを「アトム」に関連づけて報じたマスコミもいくつかあったようだ。2003年の「アトム誕生」を目前に控えて、ロボット技術はますます進歩のスピードを速めている。近い将来、人間型ロボットが家庭に導入されるのは間違いないことと思われる。2000年末にSONYが発表した人間型ロボットは、明らかに家庭での使用を意識したものだ。
 巧みにパラパラを踊ってみせるロボットをテレビ画面で見ながら、ふと考えた。我々は彼らに何を求めようとしているのだろうと。

 1年前、私は科学に「こころ」を求める思いを述べた。「こころのない科学には希望がない」と。だからこそ、「こころにアトムを持ち続けたい」と。
 あれから1年を経た現実に目を向けてみよう。
 ロボットという点に絞って見た場合、たとえばAIBOに代表される愛玩ロボットによって心を癒されている人々が存在する。病院ではペット・ロボットが患者の心のケアに一定の効果をあげているとの報道もあった。これらは、擬似コミュニケーションが人の「こころ」に働きかけうる事実を証明したものである。人間の側の勝手な思い込みだとの批判はあるだろうが、そう思わせる力がこれらのロボットにもあったのは間違いない。作り手の「こころ」が生かされた例と言ってよいと思う。
 どんなにささやかなものであってもよい。こんな「こころ」こそが貴いのだ。

 「こころ」を生かす…
 思えば、これはロボットだとか科学技術だとかいう限定された世界だけの話ではない。
 私たちは皆、必ず「何か」を作り出して生きている。
 目に見えるものばかりとは限らない「何か」を。
 そのとき、「こころ」が生かされているかどうか、見究めることを怠ってはならないと思う。
 だから今、再び書こう。
 「こころ」にアトムを!!


2月3日 火の鳥は我王を応援したのか

 知人から面白いことを教えてもらった。いわく
「『火の鳥』を小学校の道徳の教材として扱った実践報告がHPで紹介されている。」

 早速、該当のページを訪問してみた。それに関する私見を述べる前に、まずはそのサイトを皆さんにもご確認いただいたほうがよいと思う。

岡山 作州教育サークル 白石周二 WEB PAGES

 結論から先に書く。私は非常な違和感を抱きながら上のサイトの報告を読み終えた。
 『火の鳥』が手塚作品の中でも際立って優れたものであるというのは今さら書くまでもないことだ。
どんな形であれ、多くの人に読んでほしい、読んでもらうだけの価値ある作品である。学校という場でそのような機会が設けられていること自体は個人的に非常にうれしい。だが、こんな形で教育現場で消化されていくことにはどうしても納得できない。
 それは、ここで紹介された道徳の授業実践が子どもに対してたったひとつの読みを強要し、子どもを誘導しようとしているとしか思えないからである。

 主として取り上げられている『火の鳥 鳳凰編』について考えてみよう。
 この作品をどう読んだら「火の鳥が我王を応援するようになる」という結論にたどり着くというのだろう?
 どこから「火の鳥が茜丸に罰を与える」という読みに到達するというのだろう?
 火の鳥は、我王に対して「おまえはその人間のくるしみを永久にうけて立つ人間」であると語り、彼にその子孫たちの苦悩のビジョンを見せる。一方で、茜丸に対しては、「おまえにはもう永久に…この世がなくなるまで人間に生まれるチャンスはないの!」と言い放つ。これらの場面を指して、「応援」とか「罰」と言いたいのだろうか。最終的に人間性を取り戻した我王には人間として生きる価値が与えられ、最終的に私欲に取りつかれた茜丸にはそれが与えられなかった、と。だから、人間は善行を積まなければならないのだ、と。
 確かに、『火の鳥 鳳凰編』においては輪廻が重要なモチーフとして用いられている。良弁和尚が我王に対して「因果応報」について諭す場面――1997年復刻・朝日ソノラマ版p77〜を参照のこと――が描かれてもいる。しかし、その一方で、「輪廻」というものが現世や前世における「罪や報い」に左右される性質のものでないことも明確に語られている――同書p181参照――のである。茜丸がついに二度と人間として生まれ変わるチャンスがないのは、決して「出世欲に取りつかれたことに対する罰」なのではないのだ。同様に、火の鳥が我王に肩入れしているように見えるのは、決して彼が人間らしさを取り戻したからでもないのだ。物語に忠実に読み取れば、彼らは「最初からそうなる運命」であっただけということになる。手塚は茜丸の生き方を否定しているわけではない。手塚が描きたかったのは、善悪を超えたところで、彼らが「人としての有限の命」をどのように生きようとしたかということだと思うのだ。

 作品に対する解釈は人それぞれの自由に任されるべきである。したがって、この実践報告のような読みを否定する気もない。だが、原作を単純な「勧善懲悪」物語と解釈したうえで小学生(それも3年生)に提示するという行為の罪は計り知れないほど重いのではないだろうか。

追 記
 該当のページを更によく読んでみて気がついた。実はここで賞賛されているのは『火の鳥』という作品なのではなく、それを補うための「副読本」のほうだったのだ。大切な遺産がこのような我田引水に利用されている事実を、手塚プロダクションはどう考えているのだろうか?


2月9日 13度目の悼み

 2001年2月9日
 12年である
 そう、あれからもう12年の月日が過ぎ去ったのだ

 今年は、ふたつの意味で特別な命日である
 ひとつは、13回忌という節目を迎えたこと
 もうひとつは、手塚がさまざまな形で具象化してみせた21世紀の
 最初の命日であるということ

 手塚が思い描いた21世紀
 それと現実との比較をしてみせた書物や番組に触れる機会が
 20世紀の終わりには幾度もあった
 手塚の空想がぴたりと当たったことを賞賛してみたり
 そこまで至らなかった人類の文明を嘆いてみたり
 また、想像以上に速い進歩ぶりに驚いてみたり…。
 多くは読者や視聴者の笑顔に結びつけられるよう演出が施されていた

 それらを無条件に受け容れることを拒絶する自分の存在に気づく

 たとえば…
 いわゆるIT分野における進歩の度合いは
 手塚の予想をはるかに上回るものだった
 それほどに社会の様相は変化を遂げた

 だが やはり
 違和感を感じないわけにはいかない
 道を歩きながら
 通勤電車に揺られながら
 家族や仲間と食事を共にしながら
 或いは自動車を運転しながらさえ
 携帯電話に向かって孤独な作業を続けている我々に

 世界の情報を瞬時に手に入れられる環境を手に入れながら
 我々はまだ求め続けている

 いったい何を?

 我々はほんとうに進歩したといえるのだろうか?

 あれから12年
 遥かなる高みから
 手塚はどんな思いで
 21世紀を迎えた世界を見つめているのだろう?


4月14日 オヤヂたちの宝島

 2001年3月29日。
 発売予定日より1日早く、「手塚治虫漫画大全集DVD−ROM」が手元に届いた。すぐにでもHPをアップしたかったのだが、なかなか心の余裕が見出せず、2週間以上が過ぎてしまった。
 そもそも、肝心のDVDを一度たりとも再生してみることもせず、本来の目当てであった『オヤヂの宝島』をも読まないままなのである。
 純粋に手塚治虫ファンであると自認している私なのだが、今や中途半端なコレクターに堕してしまったようで情けない限りである。

 ところで、発売元からはこのDVDの不具合がいくつか通知されてきている。いわく、「Windows95環境では再生できない場合がある」とか「誤ったページを表示してしまう部分がある」とか…。この調子だと、今後もさまざまな不具合報告がなされることになりそうで、早くも白けきってしまっているところなのである。やはり、マンガは「紙メディアで読んでこそ」のものなのだろう。つい最近の新聞には「マンガを2ページ見開きの状態で表示できる、本のような形をした携帯端末」が開発されたとのニュースが載っていたが、私の場合、そうまでしてマンガを読みたいとは思わない。

 それにしても、私のようなバカなファンが10万円以上の金を出して今回のような買い物をしてしまったり、初期の手塚単行本が何百万円のもの値段で取り引きされていたりする現状は、まともではないのかもしれない。手塚漫画にはそれだけの価値があるという、ひとつの証しではあるのだろうが…。少なくともそれは、手塚漫画の「質」につけられた値段ではないような気がしてならない。まるで、国宝や文化遺産といった類いのような扱いではないか。
 手塚作品は決して過去の遺産などではないはずなのに、知らず知らずのうちにそんなレッテルづけをしてしまったのは、他ならぬ我々のようなオヤヂたちだったのではなかろうか?


5月26日 もうひとりのアトム

 2001年5月26日。
 映画『メトロポリス』待望の一般公開日。
 気合いを入れて初回上演を観にいってきた。
 当然のマナーとして映画の細かい内容に触れるのは避けるが、簡単に感想を述べておこう。
 まずは、私のように妙な思い入れのある人間ではなく、パートナー氏にご登場願うことにしよう。
 「映像がきれい。音楽もすてき。内容的にも登場人物に感情移入できたし、某『も○○け姫』みたいな押し付けがましさがなくて後味がすごくよかった。」
 とのことである。

 さて、映画のキャッチコピーに「もうひとりの「アトム」の物語」というのがあった。原作『メトロポリス』の主人公ミッチイとアトムの相似はよく指摘されるところだ。もちろん、ここで「アトム」が引き合いに出されたのには興行的な面があったとも思う。
 いずれにしても、確かに今回の映画には『鉄腕アトム』を下敷きにした――あるいは、したと思われる――設定や演出がいくつかなされていた。ペロ、アトラス、リヨン、ポンコッツといった登場人物が最も分かりやすいものだ。ペロとヒゲオヤジの関係などは、『鉄腕アトム』の読者ならば微笑しないわけにはいかないものであった。実際の登場人物ではないけれども、物語序盤に電光掲示板に表示された「お尋ね者(WANTED)」の顔が「あの人」だったのもご愛敬。お約束のヒョウタンツギもさりげなく顔を出していた。(私は2箇所で確認したのだが、実際は何回だったのだろう?)
 こういった設定には、多分にお遊びの要素も含まれていたに違いないのだが、それ以上に制作者側の手塚作品に対する愛情や原作者への敬意を感じ取ることができて心地よかった。ラスト・シーンの1枚絵もうれしくなるような演出であった。

 今回はこれ以上のことは述べないでおきたい。この作品については、ある程度の時を経てから再度語る機会を持ちたいと思う。

 ひとつだけ注文をつけさせてもらう。
 興行サイドはもっと真剣にプロモーションをするべきなのではないだろうか?
 「一部のマニアだけが観ておしまい」にするにはあまりに惜しい作品だと思うのだ。


6月8日 悪夢

 2001年6月8日。
 信じがたい事件が起きてしまった。
 言うべき言葉を持たない。
 被害に遭われた方に対する心からのお悔やみとお見舞いの言葉以外には。

 本来、このページに書くべき内容ではないと承知の上で、敢えてひとことだけ書かせていただく。
 既に、犯人の責任能力を云々する議論が沸き起こりつつあるようだが、犯人は小学校低学年の、それも多くの女の子をターゲットに定めて凶刃を振るったのだ。この一事をもってしても、凶行当時の犯人にはある種おぞましい判断力が確かに存在していたのだと断言できる。
犯人に責任能力がなかったはずがないではないか。

 

追 記
 事件のあった小学校は手塚治虫の母校である…。


6月25日 もうひとりのアトムU

 映画『メトロポリス』の公開も残りわずかとなった。インターネットで調べる限り、巷での評価は真っ二つといった感じで、否定的な見方のほうがやや多いように感じられる。5〜6週間で公開が打ち切られるという事実から考えて、興行面でも大きな成果は挙げられなかったのだろう。
 わずかながらも劇場で観る機会が残されている以上、まだこの場でいろいろ述べるのはためらわれるのだが、そろそろ『鉄腕アトム』との相関に関して書き留めておきたい。その多くは映画パンフレットにも書かれていて、新味のある内容は少ないが、私は私なりに発見したものであるということでお許し願いたい。ネタばらしの部分も出てくることをあらかじめお断りしておく。

 さて、まず第一に挙げなければならないのが、当然とはいえ「ティマとレッド公」の関係が「アトムと天馬博士」のそれに照応するということだ。レッド公が自らの手でティマを生み出さなかった点から、前者の関係は後者のそれよりも希薄といえるかもしれないが、だからこそロックがティマとレッド公の間に介入する余地があったとも言える。なお、パンフレットにも書かれているとおり、映画『メトロポリス』はSF三部作のひとつ『来るべき世界』の後日談――もちろん、これは手塚ファンへのサービスという意味合いが強いのだが、『来るべき世界』においてロックが辿った過酷な運命を知っていれば、映画におけるロックの屈折ぶりもある意味理解しやすいというものだ。――の形をとっている。そのため、ロックとレッド公は義理の子と育ての親の関係になっている。余談ながら、このふたりは『ブラック・ジャック』の記念すべき第1エピソードで実の親子を演じたという過去も持つのだが…。
 次に印象的なのが、ヒゲオヤジとペロとの関係。ペロを演じるのは「ホットドッグ兵団の巻」でデビューした44号その人である。原作での44号は犬の脳を用いたサイボーグで、彼の脳に使われていたのが、ヒゲオヤジの愛犬ペロのそれであったという次第。こういう愚かしいサイボーグを作り出したマッド・サイエンティスト、ポンコッツ博士が、懲りもせずに映画においてレッド公の下で怪しげな研究を続けていたわけである。なお、映画でポンコッツがやらかしたオモテニウム発生装置の実験で地上のロボットが狂い始めたのは、「マッドマシーンの巻」のエピソードを思わせるものである。この場面になったとき、私は必死になってフーラー博士を探したが見つからず、ショーウィンドウの中のヒョウタンツギだけを発見した…(~_~;)
 アトラスの登場もうれしかった。しかし、映画においての彼はいかにも人物の描き込みが足りず、「アトラスの巻」での悪役ぶりには遠く及ばなかった。唯一印象的だったのがペロを破壊するシーンであったが、「アトム今昔物語 ベイリーの惨劇」に相通ずる死臭を感じないわけにはいかなかった。
 アトラスといえばスカンク草井である。彼は「電光人間の巻」でデビューしたが、悪い心を持たないアトムを不完全であると決めつけ、アトラスらと組んで再三にわたり悪事を働いた。『鉄腕アトム』以後も一貫して悪党を演じ続けている。アセチレン・ランプやハム・エッグらの先輩悪役との最大の違いは、とことん人間味が薄いということであろうか。映画での役もまさに彼にうってつけといったところだろう。
 映画においてスカンクに裏切られた、丸首ブーン演ずるブーン大統領も、デビューは「ロボット爆弾の巻」というエピソードで、アトムとは縁が深い。悪役に徹しきれないところが彼の弱みであり、魅力でもある。
 映画では、なぜかソフトクリームなんぞを売っていた金三角であるが、彼もアトムとは浅からぬ因縁のある超大物悪役のひとり。デビューは「十字架島(原題は十字架大陸)の巻」というエピソード。彼が悪役に転じてしまったのは、「アトム今昔物語 ロボット人権宣言」というエピソードにおいて、彼の行動に反対する人間によって爆殺されかかったのが原因であるとの説もある。
 「ZZZ総統の巻」というデビュー作でいきなり大統領という大役を演じながら、その後出演機会に恵まれずにいたリヨン。映画ではメトロポリス市長として復活。しかし、相変わらず影は薄いままだった。
 おっと、大事な悪役を忘れるところであった。『鉄腕アトム』最終エピソードである「火星から帰ってきた男の巻」でデビューしたユダ・ペーターである。彼が映画のどこにいたか見落とした方もいらっしゃるかもしれない。さすがに超大物悪役、相変わらず悪事を働いて逃亡中らしく、電光掲示板でお尋ね者として紹介されていたのである。
 映画中でロートンの秘密工場が火事になった際、懸命の消火活動をしたロボットたちがいた。彼らの合体のみごとさといったらなかった。きっと「ロボット宇宙艇の巻」でアトムに訓練をされた経験を十二分に生かしていたに違いない。
 もうひとつ、「アトム大使の巻」
で天馬博士の私設警備隊のような役割を果たしていた赤シャツ隊というのがあった。レッド公もちゃんと先達の教えに倣ってマルドゥク党を結成していた。

 とりあえず気づいたのはこんなところである。まだまだ落ちはあると思うので、今後ビデオ化・DVD化された際には是非とも購入して細部まで再チェックを入れたいと考えている。

 最後に、今回の映画の難点だと思うことについて触れておきたい。それは、個々のエピソードについての掘り下げが足りず、一度観ただけでは全容をつかみきれなかったという点である。上映時間をもっと長くするという手もあったかもしれないが、やはり2時間というのが一般的には妥当な長さだろう。エピソードを思い切り削ってでも、ティマとケンイチの心の交流をもっと丁寧に描くべきだったように思う。そうすれば、ラストの爽やかさがもっと際立ったに違いないのである。
 とはいえ、個人的には非常に好きな映画のひとつに入る。それは手塚治虫原作であるとか、ミッチイに対する深い思い入れがあるとかいったこととは別の次元での話だ。
 それだけに、上に述べたことが惜しまれてならない。映画は、小説などと違って一度にして作品世界を了解できてしかるべきものだと思うからだ。(ただ単に私がアホだったからだけなのかもしれないが…(~_~;))


8月4日 配信?背信?

 2001年8月1日。
 
Tezuka Osamu @ Cinemaから『ブラック・ジャック』アニメーションのネット配信が開始された。私は予告編サイトを2,3度見ただけで 、結局、契約しなかった。というよりも、最初からその気がなかったというのが本音なのであるが。
 お断りしておくが、私はオフィシャル・サイトを始めとした手塚関連の掲示板で盛んに議論されている「声優」問題に関して、演じている人物そのものに対する関心 も意見もほとんどない。
 私にとっては原作が至上である。したがって、ドラマ化やアニメーション化になんらかの意義を見出せるのは、原作及び手塚治虫に対する敬意や愛情を感じ取れたときだ。
 だが、原作を忠実になぞることが敬意や愛情の発露であるとは思わない。むしろ、その逆である。なぜなら、そんなことをしていては原作をどの部分においても超えられるはずがないからだ。敬意を払いつつも「自分たちなりの解釈」を加え、それを昇華させる。それがクリエーターの技量というものであり、原作をドラマ化・アニメ化する意義でもあるのではないだろうか。「原作と違うじゃないか!原作に対する背信行為だ!」と怒りを あらわにするファンも少なくないようだが、そういう気持ちは、私には理解しがたい。先ごろ公開された映画『メトロポリス』や、この秋にも第3作が放映される予定のTVドラマ版『ブラック・ジャック』には、 確かに原作に対する制作者の愛情が感じ取れたように思う。遡れば、今やギャグとか悪夢としてしか扱われない宍戸錠版『ブラック・ジャック』なども十二分に価値ある作品だったと思うのである。

 さて、今回のネット配信最大の話題である「声優」宇多田ヒカルは熱烈な『ブラック・ジャック』ファンとして知られる人物。彼女には同作品に対する彼女なりの愛情があるはずだ。しかし、彼女を「声優」として起用した側は、果たして どうだったのだろうか? 


10月3日 空からきた破滅

 1976年、9月6日のことだった。
 航空自衛隊のレーダー網を巧みにかいくぐり、ソ連製の最新鋭戦闘機ミグ25が函館空港に強行着陸。その戦闘機のパイロット、ビクトル・イワノビッチ・ベレンコ中尉は、3日後 、アメリカに亡命。日本には彼の乗ってきた戦闘機だけが残された。
 この事件によって日本の防衛ラインの脆弱性が露呈し、大きな議論を呼ぶことになった。秘密のベールに包まれていた超軍事機密が、突如として懐に飛び込んできたという意味でも、日本にとっては軽視することのできないできごとだった。ソ連政府のごうごうたる非難の中、日本政府はこの戦闘機を解体調査し、2か月後にようやくソ連に引き渡した。
 
 この事件をヒントにして手塚が描いたのが『ブラック・ジャック』「空からきた子ども」というエピソードである。(「少年チャンピオン 」1976年10月18日号に掲載。文庫版では第3巻に収録)
 事件発生の直後にこういうストーリーを描いてみせるあたり、いかにも手塚らしいと思うが、単なる時事ネタとして事件を用いるだけでなく、自分なりの解釈を示しているところも、やはり手塚らしいというべきだろう。
 作品中でベレンコにあたる人物は、自らの命とともに最高機密である秘密新鋭機「レポール」をも葬り去る。それを目の当たりにしたブラック・ジャックはつぶやく。
「おまえさんもたいした軍人だったぜ」
 この言葉は、その行為に対する敬意の表出である。裏を返せば、結果として、自分の保身のために自国の軍事機密を売り渡すことになった現実の軍人への、さりげない批判とも受け取れる。その判断の正否はともかく、手塚は作品にそんなメッセージを込めたのである。

 さて、同じ事件を全く別の視点からとらえた人物がいた。作家であり歌手でもある辻仁成がその人だ。事件当時、彼は函館の高校 に在学中で、授業の真っ最中に窓外を飛び去る戦闘機を目撃したのである。そして、ソ連の飛行士が自由を求めて命がけの逃避行を実行したという事実に衝撃を受けた。 その衝撃が作家にとっていかに大きなものであったかは、15年近く後に書かれた小説『クラウディ』や、20年を経て上梓された『世界は幻じゃない』という紀行文が証明している。彼はこの事件から、自由への脱出、すなわち「エクソダス」を感じ取ったのである。

 受け止め方こそ違え、手塚も辻も、一つの出来事を自分なりに真剣に消化しようとした点は共通している。
 こうした姿勢こそが、今の我々に要求されていることなのだと思えてならない。
 そう…。
 2001年9月11日の、あの衝撃。
 俄かには信じがたい映像が目の前で展開されていくさまをテレビで見ながら、私は茫然とするばかりだった。
 あれから3週間。
 世界の緊張は高まる一方だ。
 「正義の戦争」を謳い、こぶしを高々と振り上げる大統領。過剰なばかりの追随姿勢をみせるわが国の首相。「聖戦」を標榜する人々…。
 今回の事件直後に開設されたYahoo!の掲示板は1日に1万件に及ぶ書き込みがなされた。しかし、その少なからぬものが、意見とか主義とかとはおよそかけ離れた内容であったことも事実である。 「次はもっと大きなことをやってほしい」などと暴言を吐き散らしながら、「言論の自由」を声高に主張する人。それに対して口汚い罵りでしか応じられない人。
 我々が仮想現実の世界で「議論ごっこ」にうつつをぬかしている間にも、火薬庫に火がつけられる瞬間は確実に近づいている。その時がくれば、「テロリスト」だけを標的にした攻撃など行われようはずがない。多くの無辜の人々の血が流されるに違いないのだ。
 わが国に目を転ずれば、今まさに国会において重大な決定がなされようとしている。それを忌避する術を持たない人々が「戦場」へ送り込まれようとしているのだ。彼らに万が一のことがあった場合に負うべき責任が我々にあることを、どれだけの人が自覚しているのだろう。
 これは決して対岸の火事などではない。
 敢えて繰り返したい。我々は、今回の事件に対して、もっと、もっと真剣に立ち向かうことを要求されているのだ、と。


11月4日 敬愛と剽窃のあいだ
 

  11月3日は文化の日であった。私は、この日を勝手に手塚治虫生誕記念日と定めていて、手塚に関する駄文を書き連ねるのをHP開設後のならいとしてきた。今年は1日遅れてしまったが、やはり一言書いておきたい。

 最近、世界的に話題になっている小説に『ハリー・ポッター』シリーズがある。日本でも2年間にわたって売れ続けている。間もなく映画が封切られることもあって、女性雑誌などで取り上げられる状態になっており、もはや「現象」といってよいほどになっている。私もこの作品のファンのひとりだ。
 さて、話題になった作品につきものなのが「盗作」騒動だ。「ハリポタ」についても、日本で話題になり始めたころにアメリカだったかの女性作家から訴訟を起こされており、おそらく、まだ係争中のはずである。盗作の内容というのは、主人公の名前とマグルという用語が同じであるという点だったと記憶している。また、この夏に日本で翻訳された第3巻に関しては、これまた私の愛してやまぬ『指輪物語』のファンから、「終盤の重要な場面の展開があまりにも『指輪』に似過ぎている」との指摘がなされている。
 こうした事象は、ある意味で「有名税」のようなものであって、避けようがない性質のものなのかもしれない。思い返せば、手塚作品に関わっても、この手の話題は実に多い。この6月に劇場公開された『メトロポリス』には、設定の類似した同名の映画が原作執筆以前に存在していたことはつとに有名だ。手塚がそれに触発されたのは間違いないだろう。逆に手塚作品をいただいてしまったとされるものには『ライオン・キング』や『ミクロの決死圏』などがある。
 手塚がディズニーから多大な影響を受けていたこともあって、熱心なディズニー・ファンの中には「手塚作品は全てディズニーのパクリである!」などと断言して憚らない向きもあるようだ。それが高じて『ライオン・キング』騒動の折には「今まで貸してやっていたものを返してもらっただけだ」と開き直るような論調の意見まで出てきて、さすがにあいた口がふさがらなかったものだ。
 昨今よく耳にするようになった「パクリ」という言葉なのだが、いささか疑問を感じざるをえない場合も多い。優れた先人を尊敬し、その作品に影響を受けて新たな傑作を生み出す、というのは芸術の世界では珍しいことではない。手塚の場合、ディズニーを尊敬し、ディズニーに追いつきたいとの異常なほどの執念でアニメーションにこだわり続けた。アニメーションに関しての手塚の過ちはディズニーを超えようとしなかった点にある、と指摘する声があるほどに。先に例に挙げた「ハリポタ」第3巻に関しても、作者のローリングが『指輪物語』を読んでいないはずがなく、当然、影響をうけていないはずもないのである。日本の和歌には、古来「本歌取り」と呼ばれる表現技巧が存在する。ゲームの世界に目を転ずれば、日本最大のヒット作「ドラゴン・クエスト」シリーズが、アメリカ製のふたつのゲーム「ウィザードリィ」と「ウルティマ」のエッセンスを巧みに取り入れて構築された作品であるのは紛れもない事実だ…。こんな例は、それこそ枚挙に暇がないほどだ。こういったものをなんでもかんでも「パクリ」の一言で片づけようとするのは、それこそ筋違いというものであろう。むしろ、それぞれの作品が何をお手本とし、それをいかに昇華しているかを読み解くことに楽しみを見出すべきなのではないかと思うのである。そう、要は本(もと)となった作品に対する愛情の問題なのだ。(ただし、「ハリポタ」に関しては、第3巻でハリーと特別な関わりを持った「彼」の今後次第によっては愛情うんぬんでは済まされない気がしている…。)
 『ライオン・キング』騒動のとき、ディズニー側は『ジャングル大帝』との関連を一切認めなかった。これは、訴訟を恐れる企業としてはある意味当然の態度であったかもしれない。結局、訴訟を見送った手塚プロ側の「尊敬するディズニーに真似をされたのなら、手塚先生も天国で喜んでいるはずだ」という趣旨の奇体な発言にも呆れ果てた。先方は「真似をした」などとは認めていないのだ。あれほどキャラクター設定が似た作品が偶然に生まれる可能性はいかほどのものなのだろう。
 法律上の難しい話は、正直なところ分からない。しかし、優れた作品への愛情や尊敬を素直に表すことのできない作家(あるいは集団)が、その影響の色濃く見える作品を生み出してしまった場合、「パクリ」や「盗作」のそしりは免れ得ないと思うのだ。

追記
 今回のタイトルも例によってヘタな「パクリ」である。そういう人間がこんな偉そうなことを書いてていいのか(~_~;)

更なる追記
 最近日本でも封切られたディズニー映画『アトランティス』が、日本製アニメーション『ふしぎの海のナディア』の盗作であるということで物議をかもしているようだ。ディズニー・プロは例によって「知らぬ存ぜぬ」という態度。更には「『ナディア』を作った会社の過去におけるディズニー作品の盗用について訴える用意がある」との姿勢を示しているようだ。どこかで聞いたような話ではある。もっとも、私は両作品とも見ていないのでなんのコメントもする資格はないのだが…。


12月28日 重大ニュース 新世紀版

  4度目の「年間手塚関連重大ニュース」を発表…などとぶち上げてみたものの、どうにも意気が上がらない。この1年、手塚治虫関連のできごとに向けられた私の思いの、あまりの冷淡さに気づかされてしまうからだ。大きなニュースはいくつもあった。にもかかわらず、なのである。
 ひとつには、私のもうひとつの関心事(『指輪物語』の映画化)に気持ちを奪われていたことがある。しかし、それだけではない。簡単に言ってしまえば、耳にした情報にネガティブな感想しか抱けなかったのだ。それは、今年のこのページの記事をみてもらえばある程度お分かりいただけることと思う。お断りしておくが、私の手塚治虫に対する愛情が冷めてしまったわけではない。手塚作品の周りで起きていることに対して一種の失望を覚えてしまっているだけなのである…。
 気を取り直して、2001年の重大ニュースを取り上げていこう。上のような事情もあって、今年はランクをつけるのを控えたい。

手塚漫画、ネットで購読が可能に
  12月の20日から、手塚作品のほとんどがインターネットを介して読めるようになった。詳しくはオフィシャルサイトをご覧いただきたい。おそらくは講談社の全集を元としたものだろうと思う。全集の入手がなかなか難しい現在、こういう企画は貴重ではあると思う。だが、何か釈然としないものも残る。 「漫画はやはり紙メディアで読んでこそのものである」とのこだわりから抜け出せないからなのだろう。

手塚アニメのDVD化、進む
  DVDの急速な普及には目を見張るものがある。かつて――とはいえ、そんなに昔のことではない――、LDが一部の熱心なファンにしか受け入れられなかったことを思うと隔世の感がある。LDと比して稀少価値が薄れた分だけ、マニアにとってはうれしくないことなのかもしれないが。
 私は『24時間テレビスペシャルアニメーション1978―1981 コレクターズ仕様』版を購入した。このセットに収録された4作品のうち、『バンダーブック』『海底超特急マリンエクスプレス』『ブレーメン4 地獄の中の天使たち』の3作品には、手塚自身が深く関わっている。特に、前の2作品については手塚直筆の絵コンテまで収録されているので、資料としても貴重だ。(これは1999年に発行された『手塚治虫絵コンテ大全』でも見られるものだが、そのとき入手できなかったという向きにはうれしい付録であることに変わりはない。)
 個人的に『マリンエクスプレス』に対する強い思い入れがあるので、久しぶりに本作品を鑑賞することができ、非常に感動したことを付け加えておきたい。

映画『メトロポリス』公開
 この件については上に何度か書いたので、詳しくは触れない。手塚へのオマージュとしてはよくできた作品だったと思う。興行的には完全に失敗したようだが。責任上、最近発売されたDVDも購入(通常版ですけどね)。

『ブラック・ジャック』ネット配信
 これについても以前に述べた。企画として成功した のかどうか。少なくとも、メディアで大きく取り上げられたのは「ピノコ役の声優」ぐらいだったような気がする。こういうのを本末転倒というのではないだろうか?

『手塚治虫漫画大全集 DVD−ROM』
 昨年の末に告知され、3月末に発売された。これについても上(あるいは昨年)でコメント済みなので重複は避けたい。どうやらWindowsXpにも対応しているようなので、ここしばらくは安心できる。『オヤヂの宝島』の残りも僅少とのこと。マニアは買うべし。(反省がないやつだ…)

実写版TVドラマ『ブラック・ジャック3』
 昨年に続いて本木雅弘主演のドラマが放送された。だんだんシナリオが練れてきて原作とは別の魅力が出てきているように感じた。いつも書いているのだが、原作を忠実になぞることには意味がないと信じているので、こういう方向へ進んでいくのは大歓迎である。果たして4作目はあるのだろうか?

『手塚治虫ワールド』計画、難航
 予想されたことではあるが、テーマパーク構想が難航しているようだ。協賛企業が集まらず、資金調達に支障が出ているとのこと。既に2003年の開園予定を2007年に延ばしていたが、それすら危うい状況らしい。手塚プロ自体の存亡にかかわる大プロジェクトだけに、門外漢としても心配で仕方がない。今まで手塚プロ批判めいたことを何度も書いてきた私だが、潰れてもらっては身も蓋もなくなってしまう。慎重に計画を進めてもらいたいところだ。

『ブラック・ジャック・ザ・カルテ』
 なかなか面白い本が出版された。現役の医師が専門的立場からブラック・ジャックの手術の正当性について分析するという内容だ。意外なほど妥当な手術が多いことが分かって、正直な話、驚かされた。やはり『ブラック・ジャック』という作品、決して「マンガ」ではなかったのだと改めて実感した。現在パート2まで出版されているが、この調子だとまだまだ続編が出そうである。非常に楽しみだ。

その他
 今年も再編集版の手塚作品(アンソロジーが多かったように感じた)がかなり出版された。なんと、私はそれらをほとんど買わなかった。困った手塚ファンである。やはり名ばかりの「手塚破産同志会会長」の座は譲るべきだ。なんといっても痛手だったのは最近発売された『SFジャパン』別冊を買い損なってしまったことである。いくらなんでも、これはひど過ぎる。新刊情報のチェックを怠っていた報いであるとしか言いようがない。どなたか入手できるところをお教え願いだろうか?(懇願)
追記(2002年1月28日)
 ネット上の知己の方からお教えいただき、徳間書店のウェブサイトから直接購入することに成功。こういう手があることに気づかないなんて、いったい5年間も何やってたんだ、私。