1998年 その1


1月28日 また一つの別れ

 1998年1月28日。(公表は1月30日のことだった…。)
 
石ノ森章太郎死去。
 またひとり漫画界の巨匠が逝った。
 手塚死後、特に「萬画家」を自称して以降の石ノ森の活動に対しては、何か違和感を抱かざるを得ないものがあった。(『ジュン』にまつわる手塚治虫との行き違いを暴露したことを云々する気はない。あれは、手塚治虫という巨人の全体像を正しく把握するために、いずれ誰かが書くべき事柄であった。当然、石ノ森はその権利を有する当事者のひとりである。)
 しかし、『サイボーグ009』シリーズ初期(「少年キング」「少年マガジン」連載あたりまで)の出来映えは、一頭地を抜いていたと断言できる。また、平井和正と組んだ名作『幻魔大戦』を、私は一生忘れることはないだろう。『リュウの道』も、いろいろなSF小説からアイデアを借りているという点で、オリジナリティの部分にクエスチョンマークは付くものの、漫画史に名を残す作品と言ってよいと思う。『仮面ライダー』以後、粗製濫造のそしりを免れえない変身ヒーロー物(間違いなくテレビ局とのタイアップ作品)を量産していた時期があったはずだが、原作の方では『サイボーグ009』以来変わらぬ石ノ森哲学が披瀝されていたと記憶している。
 手塚治虫、藤子・F・不二雄、そして石ノ森章太郎。少年漫画をリードしてきた巨匠たちはことごとく(異論を唱えられる方もあろうが、敢えてこう書かせていただく…)去ってしまった。3人が3人とも、バリバリの現役のまま忽然と我々の前から消えてしまったのは、とても偶然とは思えない。
 天国ではそんなに漫画家が不足しているのだろうか。

 …手塚先生、まさか、また石ノ森さんに仕事を手伝わせようというのではありますまいね。


2月9日 今さらながら…

 また巡り来たこの日…。
 何かを書かねばならないと思いつつ、気の利いたことが思い浮かばない情けなさ。

 仕方がない。
 既に古いネタなのだが、昨年末NHKのBS2で放映された映画に関して触れておきたい。
 その映画の題名は『スパルタカス』。1960年に劇場公開された歴史スペクタクルの名作である。主演はカーク・ダグラス(マイケル・ダグラスの父親といった方が顔を思い浮かべやすい人も多いだろうが、名優である。)。脇を固めるローレンス・オリビエ、ピーター・ユスチノフ、トニー・カーチスら。
 戦闘シーンのエキストラが10000人を超えていたという話も聞いた覚えがあったが、実際に全編を観る機会はなかった。たまたま今回の放送を知り、腰を据えて(3時間半の長尺である)観賞してみた。噂に違わぬ傑作で、劇場の大画面でこそと感じた。
 が、ラスト近くの戦闘シーンを見るうちに、はたと思い当たったのである。スパルタカス率いる反乱軍がローマ軍に対して使った、火をつけた草のローラー。これは紛れもなく『火の鳥 黎明編』で猿田彦がニニギの騎馬軍団に対抗して使おうとした、あの草の巨大ボールの原型ではないか。
 単なる偶然…?そう思いながら最後まで見続けた結果、私の疑念は確信に変わっていた。映画のラストでスパルタカスの遺児を抱いたその妻がローマを脱出するシーン。これはウズメが猿田彦の子を宿していることを告白し、ニニギを嘲いながら立ち去る場面の元になっているのではないか、と。
 私にとっては新発見であった。元来映画好きな手塚治虫である。自作にいろいな映画のアイデアを盛り込んでいることは周知の事実である。この『スパルタカス』の件についても、既にどこかで自身が明らかにしている可能性はある。どなたかご存知の方はないであろうか?

 もうひとつ、これもずいぶん古いネタなのだが、この機会に書き留めておきたい。
 秋山満が著し、1990年2月に平凡社が出版した『COMの青春 知られざる手塚治虫』についてである。
 この本では、虫プロ商事の社員として手塚治虫と間近に接した著者の目を通して、手塚治虫周辺の出来事が描かれている。「1月28日」のところで触れた『ジュン』にまつわる手塚治虫と石ノ森章太郎のトラブルに関連する言及などもあり、一読者には知りえなかった手塚治虫の実像の一面に迫っている点で貴重な資料となりうる書である。
 …にもかかわらず、私はこの本の著者に憤りを覚えざるをえない。
 著者自身、前書きにおいてこの本を
「あくまで小説である」と明言している。そのうえで「手塚治虫先生など一般に知られている名前のほかは、すべて仮名」にし、著者の分身である主人公の口を借りて手塚治虫を徹底的にこき下ろす。そのことを「誹謗中傷するためではない」と弁解しつつ、手塚治虫「ありのままの姿」を描いたと言い放つ。
 著者の態度には矛盾があるように思えてならない。「小説であるからには虚構が含まれていて当然」と言明しながら「事実を語った」、と言っているのであるから。あまつさえ、著者はこうも書き記している。
「真実と事実は違う」と。言い訳としか読み取りようがない。結局のところ何が言いたいのか、私には理解できない。
 私にも分かることがあるとすれば、書名に
手塚治虫の名を冠することで本の売り上げが伸びるであろうこと。すなわち、「手塚治虫先生など一般に知られている名前」を仮名にするわけにはいかなかったであろうことである。副題に手塚治虫の名を入れたのが著者の意志なのか出版社の意向なのかは知る由もない。いずれにせよ、これが、作品中で主人公が「人にうけるためだったら手段を選ばない」と切って捨てた手塚治虫の行動と五十歩百歩の行いであることだけは自信を持って断言できる。
 著者はこの本を小説であるなどと書いてはいけなかった。強く、そう思う。それでも手塚ファンならば一度は読んでおくべき本であることは認めざるをえないのだが…。


4月7日 あと5年…

 5年後の今日。
 2003年4月7日。
 アトム生誕の日である。
 今朝(実は4月8日に書いているのであった…。)の朝日新聞の3面にも「御影石製アトム」の話題が載せられている。(というよりも、この記事を読んで初めて、この特別な日のことを思い出したと書くべきだ。情けない。)
 以前から思っていることがある。『鉄腕アトム』を正当に評価している人が少なすぎる、と。あの作品は恐るべき物語である。私の言わんとすることは、その全巻を通読してもらえばすぐに了解してもらえると思う。未読の方(或いは子供時代にしか読んだ覚えのない方)は是非ともご一読願いたい。2年ほど前に光文社が文庫化しているので、入手は容易なはずである。今では手塚の代表作と認知されている『ブラック・ジャック』とは売れ行きがあまりにも違うようだが。なにしろ後者の文庫は全14巻で2000万部以上も売れているそうであるから。
 ちなみに、その『ブラック・ジャック』の最初のエピソードの開巻シーンが、アニメーション版『鉄腕アトム』の始まりと酷似していることにお気づきであろうか。(光文社文庫版の巻頭にも、後に書き足された類似のエピソードが載せられている。これは朝日ソノラマ版から使われていると思うのだが…。)


4月26日 あれから12年…

 1986年4月26日。チェルノブイリ原発事故発生。
 あれから12年の月日が過ぎたことになる。
 今となっては、この日が手塚治虫とどんな関係があるのかお分かりにならない方も多いに違いない。しかし、私のようなファンにとっては、これもまた忘れがたい日のひとつなのである。
 あの事故以来、「反原発運動」が日本でも急速に広がっていった。そのオピニオンリーダー的役割を務めたのが作家の広瀬隆。そして、その著作の中でも最も多くの読者を得、「反原発運動のバイブル」ともなったのが『危険な話 −チェルノブイリと日本の運命−』(八月書館・1987年4月刊)であった。その巻末近くで、広瀬は「原発推進派の手先として働く尖兵」のひとりとして手塚治虫を名指しし、「人殺し」と糾弾していたのだ。『東京に原発を』、『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』といった広瀬隆の著作を読んで感銘を受け、「原子力」に対する疑問を抱いていた私にとって、この言葉は大変な衝撃であった。
「まさか、手塚治虫が…。」
 内容の壮絶さだけではなく、二重の意味で言い知れぬ重苦しさを抱いたまま、私は『危険な話』を読み終えた。
 同じような思いを抱いた手塚ファンは少なくなかったはずだ。そんなファンの気持ちを代弁するかのように、ふゅーじょんぷろだくと社の才谷遼氏は1988年6月に自ら手塚治虫にインタビューを試み、そのときの模様を雑誌「COMIC BOX」誌1988年8月号誌上において紹介している。(このインタビューは1989年10月に発行された同社の単行本『図説 危険な話』にも再構成の上採録されている。)
 その中で、手塚治虫は「原子力発電には反対です」と語っている。また、広瀬隆が糾弾の根拠とした資料については、才谷氏の調査によって「手塚治虫および手塚プロダクションとはほとんど無関係なもの」であることが明らかにされている。
 それを受けてのことだろうか、後に刊行された文庫版『危険な話』では該当部分から手塚治虫の名は削除されていた。

 代表作『鉄腕アトム』が原子力エンジンを積んだ「科学の子」であったことが、結果として、既に癌に体を蝕まれていたはずの手塚治虫に多大なダメージを与えたであろうことを、私は忘れ去ることができないのだ。


5月7日 テーマパーク

 5月7日。朝日新聞朝刊の社会面に「川崎市に手塚ワールド」と題する記事が掲載された。
 数年前から「手塚治虫テーマパーク」の構想が練られていることは承知していたので、この記事自体にはさしたる驚きは感じなかったというのが、私の正直な感想である。
 当初から疑問に思っていたことがある。それは、何をテーマにした「テーマパーク」が計画されようとしているのだろうか、ということだ。
 いったいどのようなビジョンを持ってこのプロジェクトが推進されているのか、私には知る術がない。そもそも、このプロジェクトに対する、積極的な意味での興味関心もないに等しい。したがって、意見や提言といったことを書く立場にもないと言うべきであろう。私に言えるのは、せいぜい「ディズニーランドと同様の発想で計画を進めたとしても経済的な成功はおぼつかないだろう。」という一点である。
 改めて述べるまでもなく、私は手塚治虫を最も敬愛する人間のひとりであるつもりだ。テーマパーク完成の報に接すれば、何をおいても駆けつけるに違いないと思う。たとえそこで目にするものが「鉄腕アトムジェットコースター」であったとしても。あるいは「レオのジャングル・ツアー」であったとしても。さらには「ブラック・ジャックの手術室」などという醜悪極まりないものだったとしても…とりもなおさず、それは私が「アトムの子(余りにも不肖の息子であるが…)」であるからだ。子供である以上、父親の遺産を見定めずにはいられようはずがない。

 ――今は、ただ危惧するのみである。手塚治虫の心が「テーマパーク」に生かされることがありうるのだろうかと。


 「私の心」

 上の欄で「手塚治虫の心」という言葉を用いた。しかし、アップした直後から、「手塚治虫本人の考えを理解しているかのごとき、不遜極まりない発言だったのでは…」と後悔し始めた。
 当然のことながら、これは私自身の解釈に過ぎない。言葉足らずを補う意味で、ここでもう少し具体的に私見を述べておきたいと思う。

 手塚治虫ワールドのテーマは、今回のプロジェクトの母体となっている手塚治虫ワールド研究会によると「文化(人)と自然のゆたかな調和」なのだそうだ。
 私は、これが手塚治虫の望んだものであるのかどうかについて疑問を抱いている。いや、もっとはっきり言えば否定的な見解を持っている。なぜならばこのテーマそのものが、「手塚治虫の心」を正しく反映しているようには思えないからである。
 文章における手塚治虫の遺稿ともいってよい『ガラスの地球を救え』(光文社・1989年4月刊)の中で手塚はこう書いている。
 「人間がどのように進化しようと、物質文明が進もうと、自然の一部であることには変わりはないし、どんな科学の進歩も、自然を否定することはできません。」(12ページ)
 また、こうも述べている。
 「自然への畏怖をなくし、傲慢になった人類には必ずしっぺ返しがくると思います。」(21ページ)
 私も、手塚治虫と同じく「人間は自然の一部に過ぎない」と思う。したがって、「人」と「自然」を対立軸に置くのは根本的な過ちだと考える。「人と自然の調和」などというテーマを掲げること自体、人間の傲慢以外のなにものでもないのだ。
 それに類したテーマを掲げながら、今までどれほどの自然破壊が強行されてきたことか。――全ては利権に群がる金の亡者どもの戯言に過ぎなかった。

 今回のプロジェクトには「最低でも2000億円はかかる」という。企業が利潤を追求するのは当然のこととしても、「人と自然の調和」を隠れ蓑にして、「手塚治虫の心」とは全く無関係の悪辣な経済行為がなされるのではないか。にもかかわらず、その責任を手塚治虫が背負わされてしまうのではないか…。それが私の危惧の正体なのである。


7月18日 手塚治虫キャラクター図鑑

 7月18日。ついに『手塚治虫キャラクター図鑑』刊行開始。
 朝日新聞1月3日付け朝刊の広告で知って以来、心待ちにしていた本。
 午後3時ごろようやく時間ができ、近隣では唯一「手塚治虫漫画全集」を常備している書店に出向いた。入荷冊数がどれほどのものであったかは知らないが、残っていたのは2セット。危うく初版を買い漏らすピンチであったかもしれない。――3日前に同じ書店で『手塚治虫全史』を購入したのだが、その時点で同書の残部は3冊であった。それが、今日はどこにも見当たらない。1冊6000円もする本がそうも簡単に売れるとは――予約とかいうのは得意でない人間なのであるが、こうして手塚治虫人気の証拠を示されては、嬉しい反面、ある種の虞を感じないわけにはいかない。勇気を奮って『手塚治虫キャラクター図鑑』の残る4冊を予約することにした。
 閑話休題。
 手に入れたこの本に関して何らかのコメントを書きたい、そう考えて通読してみた。悪い癖で、ついつい「あら探し」の視線で見ている自分に気づく。2、3の「落ち」を発見。しかし、少しも勝ち誇った気分になどならない。それよりなにより、ごく当たり前の結論に達する。
 「これだけの本が、しかも6冊(総計1500ページになる計算!)もできてしまう」手塚治虫の偉大さ。
 そして、取材協力者としてさりげなく名を連ねていらっしゃる3人の方々。石川栄基、岡田鉱治、真野慎一。忘れえぬお名前ばかりである。むろん、先方は私のことなどご存知ないのだが。心底手塚治虫を愛したこれらの先達の支えがあって初めて成立した本なのだと思うだけで、感慨もひとしおである。
 手塚治虫ファンでよかった、本当に。改めてそう感じた1日であった。


7月31日 生誕70周年記念出版

 いやはや、凄まじい1か月が漸く終わった。
 今月出版された(或いは予約受け付けが始まった)手塚治虫関連図書の数々。7月1日付けの文庫版『手塚治虫の冒険』(小学館刊)、同日予約受け付けを開始した『虫の標本箱』(ふゅーじょんぷろだくと社刊)から始まり、『未発掘の玉手箱 手塚治虫』(立風書房刊)、文庫版『ミッドナイトC』(秋田書店刊)、『手塚治虫全史』(秋田書店刊)と上旬だけで爆発状態。7月15日発売の『手塚治虫博物館』(講談社刊)7月18日には大本命『手塚治虫キャラクター図鑑』(朝日新聞社刊)刊行開始と続き、最後のとどめは『誕生!手塚治虫』(朝日ソノラマ刊)。私は入手し損なってしまったが、「ダ・ヴィンチ」なる雑誌にはロックの特集があったそうだ。(※1998年8月2日に無事入手)
 よくもここまで、と半ば呆れさせられる出版ラッシュ。生誕70周年というならば11月にこそ集中してもよさそうなものなのだが、などという野暮な発言はしないほうがよさそうだ。なにしろ、どの本も非常に意義深い内容のものばかりであったのだから。(『虫の標本箱』は出版が延期になってしまって残念。ところで、広告に収録作品の一つとして載っていた『地底の悪魔』)は『地球の悪魔(地球1954)』のことだと思うのだが。)
 『ミッドナイトC』の、あの最終話収録。雑誌連載時にこの結末を読んでいた者としては「これでようやくほんとうに完結」と安心。『ミッドナイト』という作品自体の評価も変わる可能性があると感じた。
 『手塚治虫博物館』は同じ著者の前著『手塚治虫昆虫図鑑』とともに「視点」が命。手塚治虫の凄さを改めて痛感させられる。
 『未発掘の玉手箱 手塚治虫』と『手塚治虫全史』は、共にカラー図版を多数収録しているのが嬉しい。
 『誕生!手塚治虫』も「着眼点が肝」の一作。私としては石上三登志の文章に久々に接することができただけでも満足である。

 それにしても…。
 出版社の方々、ご都合はいろいろあろうかと思いますが、ここまで集中攻撃されてはかないません。1か月で40000円もの出費は私のような社会人20年生にもいささか辛いものがあります。ファンの中には若い方も多いということをお忘れなく。


8月25日 放送前夜

 日本テレビ系列局が20年にわたって8月末の土・日に放送している長寿番組がある。一種独特の「あざとさ」が鼻について、私にはどうにも好きになれない番組(※今年も8月22、23日にかけて放送されていたが、「障害を乗り越えて」という冠をつけて障害者が懸命に努力する姿が写し出されていた。その姿は文句なく感動的なものであった。しかし、私は疑問に感じざるをえないのだ。制作者サイドは「障害を乗り越えた先」にいったい何があると思っているのだろう、と。もし、そこにあるものが「健常者(障害を持たない人)に一歩近づいた世界である」などと考えているのだとしたら、思い違いも甚だしい。障害とは、それを乗り越えたとか乗り越えないとかを健常者の立場からうんぬんできるような性質のものではない。「障害を乗り越えて」というタイトルをつける態度には、最初から障害者を見下した健常者の心理が働いているとしか思えないのだ。――本エッセイはこうした問題について述べるべき場ではないのでこれ以上の言及は避けるが、ぜひ皆さんのご意見も伺いたいと思う。)であるが、手塚治虫と浅からぬ関わりがあることは皆さんもご承知のとおりである。1978年8月26日から27日にかけての第1回の目玉として、27日の午前10時から放送されたのが『100万年地球の旅 バンダーブック』であった。そして、この作品が高視聴率を得たことで、「手塚治虫アニメスペシャル」は、同番組の看板のひとつとなった。
 恥ずかしいことに、私はこのスペシャルアニメシリーズをほとんどまともに見ていない。根本的にアニメーションが苦手なため、全編を完璧に見たのは第1作と第2作『海底超特急 マリン・エクスプレス』だけに過ぎない。
 ――『海底超特急 マリン・エクスプレス』。そう、これから語ろうとしているのは、この第2作にまつわる忘れ得ぬ思い出…。

 1979年8月25日。
 この日の午後、私は名古屋市東別院にある青少年会館(だったと思う)にいた。そこで手塚治虫ファンクラブ名古屋が主催するファンの集いがあり、手塚治虫本人も来場予定だったのだ。アニメーションの上映などもあったのだろうが、そのあたりの内容については全く記憶していない。その場にいたファンのほとんどが同じ思いだったはずだ。「一刻も早く手塚治虫に会いたい!」
 予想どおり手塚治虫の来場は遅れた。(手塚治虫の遅刻癖は有名で、いろいろなところで嘘のようなエピソードが語られている。私もそれまでに2度同じような催しに参加していたが、手塚はそのどちらにも数時間遅刻したと記憶している。ただ、これはファンの間では常識なので、誰も驚きも怒りもしない。ほぼこの1年後、定刻にサイン会場に現れたときなど、かえって内心驚いたものだ。)
 主催者側から何度も報告が入る。
「現在、明日の24時間テレビ用アニメーションの最後の詰めの段階だそうです。」
「どうも明日の放送に間に合うかどうかぎりぎりではないかとのことです。」
 翌日の午前10時から放送する予定の『マリン・エクスプレス』がまだ完成しておらず、放送が難しそうだというのである。これはとんでもない話である。新しい報告がある度、会場がざわつく。しかし、誰も「手塚治虫は来られるのか?」と疑っている様子はない。
 かなり時間が経って、ついに最後通牒がもたらされる。
「どうやら落っこちた模様です。」
 これは、放送できなくなったという意味である。明日の楽しみを失われてしまったことに対する失望のどよめき。
 それでも「先生は今日は来られないのではありませんか?」と尋ねる者はいない。。
 今から考えても不思議な光景であった。こんな状況でありながら「先生は必ず来る」と皆信じていたのだ。
 そして…。
 手塚治虫は現れた。
 我々の脳裏にいまだに焼き付いている、あの柔和な笑顔を浮かべながら。
 会場に居合わせた全員の、その時点での最大の関心事について、司会が尋ねたのか或いは自ら語り出したのかは記憶していない。とにかく手塚治虫は次のようなことを語ったのだ。(※極細の記憶の糸を辿ったものですから、正確に再現はできていないと思います。意味不明のことを書いている虞もあります。どなたかフォローしていただけると嬉しいですが…)
「明日の放送はできます。完成しなかった、というのはプリントに失敗してしまったのです。その結果、映像とBGMを合わせることができなかった、つまりサウンド・トラックに録音できなかったんです。したがって明日の放送は音声と映像を『よーい、ドン!』で同時に流し始めなきゃならない。うまく声と映像が合うかどうか、明日はそれに注目してご覧ください。絵的に気に入らないところがたくさんありますが、我慢してください。」(我々の小さいころのテレビ放送では映像と音声がずれてしまうことがよくあった。それを必死に修正しようと悪戦苦闘しているらしい放送局の舞台裏まで見えるようで、結構楽しかったものだ。しかし、1979年当時には当然そのような事態は皆無になっていた。――手塚治虫は同様の離れ業を『ある街角の物語』『展覧会の絵』の初演でもやらかしていたはずだったが、どっちでしたっけ?)
 その後も手塚治虫は終始上機嫌であった。ファンからの要望に応えてベレー帽を取って見せるというサービスまでしてくれた。更に、こんなことまで言い出したのである。
「今日は時間があるのでもう少し皆さんにお付き合いします。主催者が会場を確保してくれたのでそこで二次会をやりましょう。」
 その後がちょっとした騒ぎであった。当然、二次会は「時間の都合のつく人」が対象であったが、誰も帰るはずがない。結局怪しげなジャンケンゲームを行って人数を減らすことになった。幸運にも私はそのゲームに勝ち残り、二次会への参加を許された。
 二次会場でも手塚治虫は多くを語ってくれた。当時絶大な人気を誇っていたアニメーション『宇宙戦艦ヤマト』に対する批評。眉村卓のSF小説『消滅の光輪』への絶賛など。
 夢見心地の時間は瞬く間に過ぎ、最後の最後のひとこと。
 「ここにおいでの方にはサイン色紙を差し上げたいと思います。今日は無理なので、後ほど送らせていただきます。ご希望のキャラクターと住所氏名を係の者にお伝えください。」
 私はむろん「百鬼丸」を希望し、興奮の余韻を引きずりながら会場を後にした。
 
 翌日。私は固唾を飲んで『海底超特急 マリン・エクスプレス』の画面を見守った。画面隅が黒ずんでしまうという問題点は見られたが、期待(?)をした「音と絵のずれ」はついに発生しなかった。(現在ビデオ等で見られる同作品は、当然のことながらその後リテイクされた完全版のはずである。実は、私はあの作品のノリが大好きである。手塚アニメーションの中では最もよい作品のひとつなのではないだろうか?)
 しばらく後、サイン色紙も無事に送られてきた。このサインは今でも我が家のリビングに飾ってある。
 1979年8月25日、それは我が人生最良の記念日のひとつである。(※とはいえ、なにしろふた昔も前のことなので、記憶が混乱している部分があるかもしれません。「それはこうだったはずだ」ということにお気づきの方がおられましたらお知らせください。)


8月26日 万世橋警察署

 1998年、8月26日。
 いや、なんでもないんです。今回は(いつもって気がしてなりませんが…)単なるバカ話。
 ようやく行ってきました。「手塚治虫ワールドショップ」へ。情報キャッチ以来行きたいと思っていましたが、なにしろ、場所が場所だけに、おいそれとは出かけられません。2ヶ月前から綿密な計画を立て、宿泊場所も決定。満を持して出かけたのがこの日だったのでありました。車で5時間半、東京に到着。車をホテルの駐車場に停めておいて、一直線で秋葉原に向かいました。秋葉原へも無事到着。
 駅から出て、さあ、いよいよ「手塚治虫ワールドショップ」が私の目の前に…。あれ?おかしいぞ。何かが欠けている気がする。そう思いながらも電気街を歩きつづけた私は、ふと重大な失策に気づいたのでした。
 なんと!
 「手塚治虫ワールドショップ」が開催されているのが秋葉原のどこであるのかを調べてなかったのだぁぁぁぁぁ!!
 そのことを同行者(妻です、ハイ。)に打ち明けると、散々ののしられまくりました。(当然です。お許しください、お庄屋様。なにが「綿密な計画」だ!このボケ!)
 私のこの手の失敗は数知れませんが、今回もまた思い込んでいたんです。「秋葉原は「手塚治虫ワールドショップ」一色になっているに違いない。」と。(※今まで最大の失敗は、私のもうひとりの神様トールキンの墓参りに行った際、「トールキンの墓はウォルバーコートという土地にある」という情報を仕入れた途端、「ウォルバーコートには墓地しかない」と思い込んでしまったってやつです。それに比べりゃ、今回のなんかは小さい、小さい。――ま、今だからこんなふうに言えるんですけど…。)
 さて、同行者にボコボコにされ、立ち直れそうになくなった私にもようやく福音がもたらされました。道を隔てた向こうに輝く文字は、「万世橋警察署」。こういう場合、同行者の行動はいつでも迅速です。彼女は即刻そこに突入しました。私は恐る恐る従います。だって、警察署ですよ。交番じゃないんですから…。怪しげな乱入者にも受付の男性は慌てませんでした。同行者が目的地を告げると、彼はなにやらうれしそうに、受け付け台の上に貼りつけてあったコピーを指差しました。そこには略地図が描かれており、「手塚治虫ワールドショップ」の場所が赤ボールペンで示してあったのです。嗚呼、全国の手塚治虫ファンが見たに違いない略地図。(そんなわけないですが、同じような質問をしにきた人が相当数に上ったからこそあんなものが用意されていたに違いありません。)やはり手塚治虫は偉大です。
 同じ体験をした方ならお分かりのとおり、私たちは駅を出てから完璧に逆方向に歩いていたのです。(そう、うなずいたあなたも立派な同志です。)という次第で、Uターン。今度は無事に辿り着くことができました。
 会場では9800円也のソフビ製アトム人形等を購入。時間限定「アトムとの記念撮影」も果たしました。これは近いうちに証拠写真を公開するかもしれません。(かなり恥ずかしいものですが…)

 一瞬慌てる場面もありましたが、思い出に残る1日。いや〜、楽しかった。