10月13日(土)
★に画像へのリンクがあります。
6時半に起きました。
★窓から見る西湖の朝も最後になりました。しかし実際には眠くてそんな余裕はなくかなりつらかったです。6時40分に水野
总经理と待ち合わせをしているのでとにかく着替えて2階の指定場所へ行って待っていました。吹き抜けからロビーをのぞくともうこんな時間に出発していくツアーもあります。たぶん日本人でしょうね(だって中国人も華僑も日本人も見分けつかないもん)。
じきに水野さんが現われて3人でレストランに入り、朝食を食べました。洋風の朝食でした。中国で初めての西洋料理ですが、これもかなり量がありました。握り拳くらいのバターロール2個にハムエッグ(正確にいえば違う。切ったハムを入れた炒り玉子)、オレンジジュース、最後にコーヒーが出てきました。
水野さんにしたら久しぶりに気楽に話せる日本人だったのかもしれません。まだまだ従業員のサービスに対する考え方ができていないとか、監視していないと誠実に働かないとか、のんびりしすぎだとか、いっぱい話してくれました。
時間がどんどん過ぎて吴さんとの待ち合わせ時間が近づきました。そろそろ朝食を切り上げて部屋に戻り荷物を持ってロビーへ行こうと水野さんの話を区切るタイミングを考えていたら、7時を過ぎたころに吴さんがレストランまで迎えに来てくれました。
いよいよ杭州とお別れです。吴さんは上海までついてきてはくれないので4時間の列車の中で2人だけになります。これがちょっと不安でした。それに中国に来てからずっと快晴だったのにこの朝だけどんよりとして時折雨粒が落ちてくる天気で、余計暗くなってしまいます。そんな気分の中で吴さんが“遣らずの雨ですねぇ”。日本人でももう知らないような日本語がポツリと出てくる語学力にびっくりしました。
杭州站に着き、狭いゲートを通って改札に向かいます。どういうわけか駅舎の入口は広いのに柵で囲ってあり、駅に入るためには1mくらいの幅のゲートを通らなければなりません。
7時50分発
游12次特快火车に乗り、
上海に戻ります。ホームにいったらもう列車が着いていました。
吴さんに
★列車の席まで案内してもらってそこで本当に
吴さんと別れたのですが、なんだか列車の中って落ち着きがなくてちゃんとしたお礼も言えないまま
吴さんは帰っていってしまいました。
座席は往路と同じ软座です。荷物を網棚に上げて座り不安なまましばらく観察していたら、まわりはほとんど日本人のツアー客のようでした。日本語が飛び交っており、やや安心しました。もしかしたら私たちが水野さんを待っている時にホテルを出発していったツアー客かもしれません。大勢のツアーとなると駅で1ヵ所に集合して整列して順に入場するだけで私たちが朝食を食べるくらいの時間は余分にかかりますからね。向かいの席には大阪の「友誼旅行社」というところのツアーで「気功」を学びにきた人。通路をはさんだ隣のボックスにはどうやら岐阜県の教員が何かの視察に来ているようです。よく喋る先生で、上海までの4時間ほとんど喋りっぱなしでした。
杭州へ来た時は夕方から夜だったので、帰りの列車では、私は窓から外の景色ばっかり見ていました。線路はまだ単線部分もあって、
特快火车でも数回、信号所で行き違い待ちをしました。そんなふうにかなりゆっくり走るので、窓からカメラを構えて駅に止まっている列車の写真も撮ることができました。できれば窓を大きく開けて撮りたかったのですが、列車のトイレはそのまま捨てているだけだと聞いていたので、窓を開けることはできませんでした。
★DLは名鉄の3400系のような、JRの
ワイドビューひだキハ85系のような、くるん、つるんとした感じです。
★SLも現役のようでした。
それと、
上海行きの列車ではお茶のサービスだけでなく
★シルクの車内販売がありました。お茶のサービス(といっても有料だけど)はガラスコップに緑茶の葉を入れてお湯を注ぐだけの中国式です。でもできれば
特快の
软座なんだから、陶器の蓋付カップで出してほしかった。だってガラスコップじゃ熱くて最初は手に持てないんだよ。
そしてあっという間(でもないけど)に上海新站に到着しました。ホームに列車が入っていくと、ちょうど孙さんがホームを歩いているのが見えて一安心。列車が止まり、私たちが降りて立っているとすぐに孙さんが見つけてくれました。時間は11時50分。
早速タクシーに乗ってまずは吉祥酒家で昼食。上海では有名なレストランらしいですが、杭州で食べた料理に比べたら格段においしくなかったです。仮にこれが上海でいいほうだとしたら、ちょっと寂しいですね。
なんだか帰りの飛行機の座席のリコンファームがうまくいかなかったのでもう1回航空会社の事務所に寄るということで、昼食を食べたあと中国へ来た初日に寄った上海展览中心に行き、私たちがそこで買い物をしている間に孙さんが中国国际航空公司(エアチャイナ)の事務所(代理店?)で交渉してくれました。日本で航空券を手配するとき航空会社はJALに限定するか聞かれたので、どこでもいいよと答えたら往路はJAL、復路はエアチャイナの便になっていたのでした。だから中国に来てから自分たちでリコンファームしておかなければならなかったのです(往路のJALは結婚式の前にリコンファームしておいた)。
ここで孙さんが歩いていくのを見て、初めてお腹がややふくらんでいるのに気付きました。初日に吴さんから「孙さんも新婚6ヵ月目です」と聞いていたのに、この時までお腹には気付きませんでした。私がお腹のあたりを見ていたのにタクシーの運転手の人も気付いたのか、孙さんが見えなくなってから手でお腹がふくらんだしぐさをしてくれました。
ここのチケット売場ではオンラインしてないのでよくわからないということで、人民広场のスタンドの上に仮設された事務所にでかけました。私たちは事務所に入っていってもしかたないので、不安をいっぱいにしてタクシーの中で待っていました。隣でボーリング場のような音がしていて、ちょうどアジア大会が終わったところだったので(私たちの結婚式の日が閉会式)、インドネシアのバレーボールだったかハンドボールだかの女子選手が遊びにきていたらしいです。20分ほど待ったでしょうか。孙さんが戻ってきて、やっぱりダメだったので一応次の日の便を予約してくれていました。エアチャイナはアジア大会のオフィシャルキャリアなので、とても混んでいるそうです。
翌日に空港にいってキャンセル待ちをして、そいでキャンセルがなければ1日滞在を延長して月曜日のJALの便で帰ることになるわけです。私の仕事は2日間の余裕をみて休みがとってあるので支障はないものの、日本へ帰るのが1日遅れるかと思うとちょっと不安になって初めてホームシックっぽくなりました。妻はすでに3日目あたりで「まだ半分済んでないんやね。早く帰りたくなった」とか言ってたのに、上海まで来たら逆に開き直って平然としていました。
豫园の入口は狭い道路の両側にいっぱい店が並んでいて、孙さんは浅草の仲見世をひきあいにだして説明してくれました。しかし私は浅草に行ったことがないので今一つイメージが湧いてきません。でも確かに大須などの門前町に似たところがあります。それより豫园の中を観光している中国人のかなり大勢の人が靴の箱を持っていることが気になりました。靴の名産地で靴屋さんがたくさんあるなんてガイドブックにも書いてありません。上海の靴って中国では人気あるのでしょうかねぇ。それとも靴の箱が大きいから気になっただけかな。
ここからは
★ショッピングの時間。まず
上海工艺美术品服务部。
杭州の時と同じような商品が並んでいました。次に
上海友谊商店。もう買い物も最後なので思い切り買いたいのですが、万一もう1泊することになると大変なのでちょっと躊躇してしまいます。妻はそんなことは考えてないようで・・・・
そのままちょうど夕食の時間なので、友谊商店の5階にある如意酒家で夕食をとりました。やっぱりここも杭州ほどおいしくない。これは妻も同じ意見でした。ただ杭州の味に慣れていただけかもしれません。上海の料理を食べてから杭州の料理を食べたらどんな感想を持っただろうか……
そしてすっかり暗くなった道を今夜のホテル、
新锦江大酒店に向かいました。このホテルの本館、
锦江饭店は由緒あるホテルで、やはりVIPクラス(アメリカ大統領とか、田中角栄とか)が泊まったそうです。私たちは10月から正式営業を始めたばかりの(中国ではホテルに仮営業期間があり、その期間中に設備の運用とか従業員のレベルとかがチェックされて正式認可になるらしい)新館に泊まりました。やっぱりとてもきれいで、ロビーは
★3階くらいまで吹き抜けになっていて電飾が輝いています。そりゃ、正式オープンから2週間たっていないんですからね。きれいですよね。英語名がジンジャンタワーホテルというように、四十数階あるホテルです。私たちが泊まったのはそこの82402号室。最初の8は新館を意味するそうで、24階の2号室ですね。
部屋に入って今夜もまた荷物の整理をしてから、あしたうまく飛行機に乗れるように願いながら寝ました。中国最後の夜です。
カラオケについて
杭州の友好ホテルにもこの日泊まった新錦江グランドホテルにもレストラン兼カラオケの設備がありました。日本語の「カラオケ」がことばそのまま海外でも流行しているというのは、自分に関係ないことでもちょっとうれしいものですね。
そして目にする「卡羅OK」の文字。日本人からしたら意味もなく漢字とアルファベットが混在する単語には違和感があります。「カラオケ」の「オケ」は「オーケー」の意味じゃなく、「オーケストラ」の意味なんだよ、と言いたくなります。中国は漢字しか使わない国、欧米の地名でも人名でも漢字の音に合わせて表現するしかないのは知っています。それをまねして明治期の日本人が「亜米利加」だの「独逸」だのと考えたのですから(全部中国のコピーでもない。アメリカは中国で「美国」、日本で「米国」だし、ドイツは中国で「徳国」、日本で「独国」)。
「カラ」が漢字の音を使って「卡羅」になるのは当然でしょう。でもそれなら「オケ」も漢字にしようよ、と思ってしまうんです。「欧克」でも「哦可」でもいいのになぜそこにアルファベットを持ってきた? というのは日本人的な発想でしょうか。漢字は意味のある単語に使う、ひらがなは助詞や送り仮名、カタカナは外来語の音訳と思い込んでいるのは日本人だからで、漢字しかなかった中国では、文字種による使い分けなんて思いつかなかったのかもしれません。なんか外国から伝わったものだし、最先端っぽいとアルファベットを採用したのかもしれません。
これ以上長くなると素人の日本語論になっちゃうので、おしまい。