10月10日(水)
★に画像へのリンクがあります。
昨夜の緊張の影響か、朝なかなか起きられませんでした。そして起きたあとの気分もなんだかスッキリしていなかったので、朝食を食べませんでした。
この日も9時に
吴さんがホテルまで迎えに来てくれて、前日と同じ車ででかけました。まずは
白堤を走り、金石と篆刻の研究で有名な
★西泠印社へ行きました。
★入口の案内板に“
西泠印社是我国研究金石篆刻的着名学术团体、由篆刻家丁仁、王禔、叶銘、呉隐刨办于清光绪丗年(一九〇四年)。艺术大师呉昌硕为首任社长、印社叺研究印学保存金石闻名于世是浙江省重点文物保护単位、印社保存浙江最早的东汉《三老讳字忌日碑》、社内还有下少石刻和摩崖题讴都具有重要历史和艺术的价値、印社、风光秀丽、亭阁参差、建筑都依自然山势独具匠心、有柏堂、竹阁、仰贤亭、四照阁、观乐楼、华厳経塔等、景色幽雅、是西湖园林积华所在。(一部漢字の見間違いがあるかもしれません)”とあるように、1904年の創立ですから、中国の歴史から考えたらまるで最近のことです。創立当時から数多くの日本人がここで篆刻の研究をしていて、現在もそういう
★歴史的なものの展示をしながら篆刻の研究製作を続けているそうです。書道とか篆刻をやっている人には垂涎の場所かもしれませんが私たちはただふ~んといってひとまわりしただけで、石さえ買いませんでした。
次にそこから100mほど先の
★兪楼へ寄りました。これは100年前、美濃市の漢学者と親交のあった
兪樾の生まれた家です。交流100年を記念して9月に
杭州美術学院の
孔仲起先生を美濃市へ招待したばかりの、美濃市ゆかりの人物というわけ。
“
兪樓 清末著名學者兪樾住宅。兪樾(公元一八二一-一九〇七年)、字蔭甫、號曲園、浙江徳清人。曽為清道光進士、翰林院編修、河南學政。後罷官潛心學術研究、主持蘇州紫陽書院、上海求誌書院。同治七年(公元一八六八年)任杭州詁經精舎山長。擅長古文字學、著述頗豊、為一代樸學大師。其弟子有呉大澂、徐花農、章太炎等。此樓為弟子及友人集資興建。”と
★説明看板に書いてありました。意味は各自で調べてください。
兪楼から
西湖沿いに少し走って、
★杭州花圃に入りました。ここはもう
★盆栽や
★植木の宝庫です。もちろん中国の公園ですからただ盆栽と花壇が並んでいるだけでなく、
★塀や岩で
★庭園が作られています。時期はずれで花の咲いていないランの鉢もありました。妻は買いたがっていましたが、植物だと検疫があるはずなのでやめさせました。
花は買わなかったもののここの売店には骨董品らしいものがいろいろあり、妻が掛け軸を買うといいだしました。それも絹布に書かれた1,800元(約54,000円)もする高価なものです。とはいってもここの店にある品物にはもっと高価なものもあって少し金銭感覚がおかしくなっていたのかもしれません。植物をやめさせた手前もあって、そのほかにも数本の掛け軸を買いました。吴さんも別に止めなかったのでヘンな代物ではないようです。私たちはまだあちこち回るので、夕方にホテルの部屋へ届けてもらうよう吴さんが取り計らってくれました。
さらに
西湖沿いに南へ走って国宝の
★六和塔に行きました。六角形のバランスのとれた塔で、普通は60mの最上階まで登れるはずなのに、改修工事中で外から眺めることしかできませんでした。この
六和塔の建っているところはちょっとした丘の上にあり、そこからでも
杭州を流れる川、
钱塘江を眺めることができます。そしてすぐ目の下には
钱塘江大桥が架かっています。全長1,500m、上層を自動車、下層を鉄道が通る瀬戸大橋のような構造で、解放前には中国一の橋だったそうです。
ここで偶然に杭州市人民政府外事办公室友好城市处の谢飞红さんに会いました。吴さんの部下にあたる青年で、大阪から来た観光ツアーのガイドをしていました。そして別れる時に“それじゃ、(書類を)外弁(外事办公室の略称)のほうに置いておきますから”“はい、わかりました。じゃぁ、お気をつけて”と2人で会話しているのです。何気なく聞いていましたが、考えてみれば日本人の案内をしているとはいえ吴さんも谢さんも中国語の方が得意なはずです。どうして日本語であいさつしたか聞いてみたところ、“まぁ、みなさんにもわかりますからね”と、それほど必然性のない答えしかしてくれませんでした。
六和塔をあとにして車は山の中へ向かって走ります。
★30分近く山道を走って着いたのは
龙井の村でした。ここはお茶の名産地です。
龙井茶は
乌龙茶や
普洱茶のような発酵茶ではなく、日本のお茶とほぼ同じ緑茶です。
道沿いにある
★なんでもない建物に入ったら、そこは
★皇帝へお茶を献上していた店だそうで掛軸などがかかっていました。そこでお茶を飲んで休憩し、本場の
龙井茶を見せてもらいました。
吴さんがあまりお茶がわからないかわり、車の運転手の人がお茶に詳しく、そのお店のご主人とも親しいからということで特に高級なお茶の葉というのがでてきました。たしかに茎の部分は全くなく全部若芽みたいです。一緒に持ってきてくれた3番目くらいのランクのお茶も綺麗で私にはなにも違いがわかりませんでした。でも最高級のお茶は250gで110元(約3,300円)、もう片方は99元(約2,970円)なのでどこか違うのでしょう、きっと。ちなみにホテルの売店にあった
龙井茶は60元(約1,800円)でした。
吴さんが“ホテルでお茶を買っちゃだめですよ”と言っていたので、かなりグレードの低いものなのでしょう。
そこからまた田舎道を戻って
黄龙饭店のレストランで昼食を食べました。このホテルはけっこう豪華でしたが中国語(と英語)しか通じないため、主に台湾人や東南アジアの華僑の人が利用しているそうです。レストランのドアのガラスにサンドブラストで
★碧莲苑というレストラン名が彫ってあって、この文字が
孔仲起先生の字でした。
ここのレストランでオーダーをとりにきた女の子がかなり私好みでした。せめて名前だけでも調べておこうと名札を見たら(いくらなんでも新婚旅行だから女の子の名前を堂々と聞くわけにはいかない)、Traineeとだけ書いてあって漢字で書いてありません。あきらかに中国人の顔なのにこの子はトレイニーという名前なのかいな、としばらく考えていました。そうです、私は数秒の間、コントのネタにされるくらいの大バカ者だったのです。
今日の昼食でもお腹をパンパンにして車に乗り、
黄龙洞へ行きました。ここは
南宋時代の雰囲気が再現されており、働いている人は全員
南宋時代のあでやかな衣裳を着ています。日光江戸村か伊勢戦国時代村(現在は
安土桃山城下街伊勢忍者キングダム)のような施設です。乗せて案内してくれるのかただの記念撮影用なのかわかりませんが、入口には輿が置いてありました(輿とは箱に人が乗ってそれをかついで運ぶ駕篭みたいなもの)。中の一角では
★琴を弾いていたり、別のところでは古楽器の合奏をしていたり、また別のところでは
★越剧の実演をしていたり、ここは純粋な観光地です。
琴は日本の琴とほとんど同じでした。奏法も音色も同じ。合奏の古楽器は
★阮咸、
★揚琴、
★笛(尺八みたいなのとか篠笛みたいなのとか各種)などだったと思います。
ちょうど1日何回かの演奏時間が終わって休憩に入ったところに私たちが着いたので、吴さんが日本からの新婚旅行だと口添えしてくれて、もう1曲延長して「北国之春」を演奏してくれました。中国では「北国の春」はそうとうにポピュラーのようですね。
もうひとつ中国でポピュラーなものにカラオケがありました。杭州友好饭店のような日本系のホテル内にはもちろんありますが、市内の普通の中国人が利用するような店にもカラオケの看板をだしているところがありました。ちなみに「卡羅OK」と書きます。冗談のようですが本当です。
黄龙洞を
★一回りしてきたら、入口の輿のところで
★派手な喧嘩をしていました。現場にやってきたときにはもう殴り合いをしてたので、喧嘩の原因はわかりません(最初から見てても言葉がわからないから原因はわからなかっただろう)。とにかく客の一人が輿のところにいた従業員数人とトラブルを起こしたようで、片やティッシュペーパーの箱ぐらいある石を持ってやたら殴る、片やバットぐらいの木の棒を振り回すといった具合で近くにいた女性の従業員がキャァキャァいって逃げ回っていました。その騒ぎのすぐ横で妻は輿の前に立ち、
吴さんに記念写真を撮ってもらっていました。いい根性してるね。
そしてそこから一旦ホテルに戻り、30分くらい休憩した後、15時から徒歩で5分くらいのところにある杭州文化中心を訪問しました。私的な新婚旅行とはいえ私が日本の公共ホールの職員であり、杭州市人民政府の好意で旅行している以上、ここはぜひ訪問しておきたいところです。館長と副館長がわざわざお二人揃って迎えてくれました。
文化中心とはいっても
★財政的な都合でまだ半分しか完成していません。半分完成したところで仮竣工してまだ間がないところを訪問したので、竣工を祝って贈られたたくさんの人の書や絵が廊下の一部分を区切って飾ってありました。屋上へあがったらすぐ目の前には
西湖が広がっています。夕陽を浴びて
西湖が輝き、周りの山が
西湖を包んでいます。きっと一日眺めていても見飽きないだろうというような景色でした。案内してくれた副館長も仕事で疲れた時やストレスがたまった時にはこの屋上に来て
西湖を眺めているそうです。屋上そのものはまだコンクリートが打ったままでしたが、完成すれば野外ステージになるそうです。ステージの背景は
西湖というわけで、とてつもなく贅沢な借景ですね。
17時少し前に再びホテルに戻って、部屋で朝買った掛け軸の到着を待ちました。約束の17時に花圃の人が持ってきてくれて、吴さんのアドバイスで中身を確認してから受け取り、そのあと夕食にしました。今日はホテル内のレストランに吴さんが手配だけしてくれて、二人だけの夕食でした。なんとなく要領もわかってきたし、多少はリラックスして過ごせました。
夕食もすんで、部屋に戻って一休みしてから妻と2人だけで街へでかけました。買った土産物や汪さんにもらった景德镇の器など、割れ物を持って帰るためにクッション材を買おうと思ったのです。すでに文化中心に行く途中でホテルのすぐ近くにある文房具屋さんに目をつけていて、大判の紙も扱っているようだったので、そこへ行けば(灵隐寺のトイレで私が使ったような)柔らかい紙も手に入るだろうと思ったからです。
文房具屋さんに入って見回してみたら、案の定奥の棚に紙がいろいろありました。で、店の入口で紙を包んであったクラフト紙の端っこをちぎって店の人に見せたら、どういうわけか店の正面のほうにいって便箋を出してくれました。そうじゃなくもっと大きい紙だと身振りで示したら、一応はわかってくれたようでしたがこんなことやっていては閉店(8時まで営業と書いてあった)までに買うことができそうにありません。それで自分で奥の棚のほうに入って目当ての紙をひっぱりだしてきました。柔らかいというかほとんどスラッジ(製紙カス)みたいなA3ぐらいのサイズの紙が4cmほどの厚さの束になっていて3元という値札がついていました。まさかこんな紙が1枚3元のはずはないでしょう。念のために束全部を指でさして持っていったメモ用紙に「3元?」と書いたら、やはりそうであったようで丸を書いてくれました。
あと、掛け軸の箱を包んだりする外装用の大きな紙が欲しかったのでキョロキョロしていたら、ちょっと厚めの白模造紙が見つかりました。大きさはB全ぐらいかなぁ。だから岐阜県でいう「ビー紙」のもっと厚いものです。この紙の値段を聞いたら0.28元と書いてくれたので10枚買いました。合計5元8角。ついでにセロハンテープも買いました。2元はしなかったと思います。
中国の商店では買う商品を決めたら伝票を書いてもらって支払い窓口にいき、そこで
★お金を払って代わりにもらえる領収書を持って元のところへ戻ると領収書と引き替えに商品を渡してくれるのが普通だと聞いていたのに、今回は紙の担当者もセロハンテープの売場の人も直接お金と商品とを交換してくれました。私たちが外国人だから親切にしてくれたのかもしれませんが、うがった見方をすれば外人用の兌換券を自分のものにして、かわりに店には人民幣を返すのかもしれません。それはもう私たちの関知しないことですけどね。
文房具屋さんをでて賑やかな通りを歩いてみました。私は自分用の土産に人民服を買いたかったのに、服屋さんは何軒もあっても人民服なんか売っていません。ややダサいかなという程度で日本とほぼ同じ雰囲気の服ばかりです。いくら観光地とはいえ少し驚きました。
さらに少し歩いた食料品屋さんで妻が煙草を買うといったので、ショーウィンドウをのぞいていたら、おばさんが寄ってきてなんだか早口で喋り始めました。まるでその意味は理解できないものの、おばさんは手に持った人民幣の札をめくりながら喋っているのでたぶんヤミの元交換をしたがっているのだろうと思い、「没有。我是日本人。No Money!」と言ったら去っていきました。
で、その店で煙草を1つずつ4種類買って(カートン買いしてもよかったけど日本人の口に合わなくては困るので、味見用に1つずつ買っただけ)、もう少しだけ街をぶらぶらしてから友好饭店に戻りました。
中国のお金について
中国のお金はこの当時2系統ありました。国民が使う「人民幣」と外国人が使う「兌換券」があります。どうしてそうなってるかなんて政策などの詳しいことはわかりません。とにかくそうなっています。そして兌換券は外貨を便宜上中国通貨と等価にしたものです。兌換券の裏面にはちゃんと「この券の元と人民幣の元は等価です。この券は中国国内の指定されたエリアでのみ使用できます。紛失届は受け付けません。」と書かれています。ということで、高級品や輸入品を比較的簡単に買うことができます。逆にいうと、中国人が日頃使っている人民幣では買うことができない品物があるらしいのです。
そこで例えば自分の人民幣を150元出してでも兌換券100元を手に入れて輸入品や外国人向け商品などを買うために、「人民元」⇔「兌換元」の交換を求める人が外国人の多い街には現われるのだそうです。でも人民幣は日本へ帰る時にもう日本円に再両替してくれないし、交換そのものも法律違反の行為なので私はおばさんを追い払ったわけです(以上、ガイドブックの受け売り)。
今ではこの制度はありません。