燦光洞第2層
 − 2000年〜2004年 −

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※実に1年半ぶりに寄せられたコメントに歓喜。思えば「魔法」とは何なのか、深く考えもせずに受け入れていた自分がいることに気がつかされました。奥方らしい、味わい深い言葉です。
35 エグゼクター
様 −200 4年8月16日着信−
「何故かと申せば、これがそなたたちのいう魔法ではないかと思うからです。と申してもわらわにはどういう意味でそういうのかはっきりはわかりませぬが。そなたたちは敵の詐術にも同じ言葉を使うように思えます。だが、もしそう呼びたいのであれば、これがガラドリエルの魔法なのです。そなたはエルフの魔法を見てみたいといわれたのではありませんか?」第4巻105頁)

 エルフの魔法を見たい、というサムに対するガラドリエルの奥方の言葉。魔法とは何なのかと考えさせられました。魔法とはいったい何を基準にしているのか。8000年以上生きているノルドール・エルフのガラドリエルの奥方にふさわしい言葉だと思います。それとともにトールキンの魔法に対する考え方が明確にされているようにも思えます。

 


※日本での映画第二部公開の直前、原書で読まれたという方からこんなシーンをお寄せいただきました。まさに「旅の仲間」の「仲間」たる所以が語られる名場面。最後のコメントも含めて、深く頷かされました。
34 なのはな
様 −200 3年2月21日着信−
 
場面というには長すぎるかも知れませんが、“The Two Towers”の “The Road to Isengard”(「アイゼンガルドへの道」)の章のおしまいあたり、ローハンの一行がオルサンクのがれきの上にのんびりくつろいでいる小さな二人のホビットを見つけるところに始まり、次の“Flotsam and Jetsam”(「漂着物」)で旅の仲間が再会を喜んで語り合うところです。
抜粋としては、ここのところはいかがでしょうか。

'look!' said Pippin.  'Strider the Ranger has come back!'
'He has never been away,' said Aragorn.  'I am Strider and Dunadan too, and
I belong both to Gondor and the North.'
「ほら!」とピピンがいいました。「野伏の馳夫さんが戻って来た!」
「かれは一度もよそになんか行っていない。」
と、アラゴルンがいいました。「わたしは馳夫であり、ドゥナダンでもある。そしてゴンドールと北の国の両方に属しているのだ。」
(第6巻137頁)

 エレスサール王様に人生でどの瞬間が一番幸福でしたか?と質問したら、横にアルウェン王妃様がいなければここの所(友と再会し語り合うところ)と言うかもしれません。
 ともに苦難をとおり抜けてきたものの間にだけ通じる愛情があふれています。ちょっと気を遣わされるガンダルフもいない気安さ。この先まだまだ大変だとはいえ、ひととき勝利の美酒に酔い、冗談を言い合い、ねぎらい合います。なんていいんでしょう。
 そして私は、フロドにもこんな時が来ると期待し続けて彼の苦しい旅路を見ていました。鷲に救助されたときにはさあいよいよだと心が躍ったものです。ところが ...フロドには心の安らぎがないのですね。

 トールキンについて詳しくは知りませんが、 このフロドの心は、作者の戦争従軍体験を反映しているように思うのです。国のため命をかけて戦ったと褒め称えられても、実際の戦場の記憶は賞賛とは程遠く、彼を苦しめ続けたのではないでしょうか。

 

※物語も大詰めの場面でのフロドとサムとの会話。「何度読み直しても、この辺りまで読み進めてくると目の前が霞んで活字が読みにくくなってしまう」という方は少なくないのではないでしょうか?併せてこちらの名台詞もご覧いただけると幸いです。
33 エント女
様 −2002年8月27日着信−
「おらはまた旦那もホビット庄の暮らしを楽しまれるもんと思ってましただ、これから先何年も何年も。あんなに尽くしなすったというのに。」
「私もそう思っていた、前にはね。だがわたしの受けた傷は深すぎたんだよ、サム。私はホビット庄を安泰に保とうとした。そしてホビット庄の安泰は保たれた。しかしわたしのためではないよ。愛するものが危険に瀕している場合、しばしばこうならざるを得ないものだよ。つまりだれかがそのものを放棄し、失わなければならないのだ。ほかの者たちが持っておられるように。…」
(第9巻327頁)
 
愛する土地、愛する暮らし、それを守るためにやむにやまれず出かけていったフドが、幸せになれず、その名誉がメリーやピピン、サムのものになってしまうのは、理不尽だというような感想を、前に読んだときには感じたのでした。この結末には、何か苦い要素があって素直には受け取れない気がしたのです。それは、自分の人生は常に自分が主人公であって、自分のために自分が努力するのには何の疑問も感じないけれど、自分の名誉を横取りされるなんておかしい、という気持ちがあったのではないかと思います。けれども、今度読んだとき、このフロドの言葉は、自分のものとして受け入れることができたのでした。年をとったのですね。
 あまりに多くの苦難を経て、体にも消えることのない傷を持ち、フロドは、すでにもとのホビットではなくなってしまったのでしょう。それはただ指輪所持者にのみ課された、消えてなくなることのない重荷だったのだと思います。そういった人々には、この世の名誉とか、楽しみ、愉悦をこえて、別のものが見え、別の思いにさらされているのではないでしょうか。彼にとっては短すぎると思えるホビット庄の暮らしを惜しんで、サムはどれほど悲しんだことでしょうか。そして私も、ただ悲しく思います。
 すでに太陽の第三期は終わり、主だったものたちが灰色港から去ろうとしているとき、フロドを引き止めることはもはやできないのです。劇的な時代は去り、平安が訪れて、前の主役たちが静かに去っていく。私もまた、若かった日々を終えて、主役の座は娘たちに譲り、彼女らが自分の人生を賢く生きることを願いながら、その役どころにいらぬ口出しはやめようと考えています。

 


※キリス・ウンゴルの階段の途中、束の間の休息時間におけるフロドとサムの会話を選んでいただきました。なお、寄稿者は原書で読まれたとのことですので、翻訳と原文を両方掲げることにしました。

32 bakara
様 −2002年8月18日着信−
「『サムのことをもっと話しておくれよう、とうちゃん。どうしてサムのしゃべったことがもっとお話の中にはいってないの、とうちゃん?おら好きなんだよう。サムの話を聞いてるとおら笑っちゃうんだ。それにフロドだって、サムがいなきゃ、遠くまで行かなかったんじゃないの、とうちゃん?』」
「さあさあ、フロドの旦那、」と、サムはいいました。「からかわないでくださいよ。おらまじめなんですから。」
「わたしだってそうだよ。」と、フロドがいいました。
(第7巻273頁)

 '"I want to hear more about Sam, dad.  Why didn't they put in more of his talk, dad? That's what I like, it makes me laugh.  And Frodo wouldn't have got far without Sam, would he, dad?"'
'Now, Mr. Frodo,' said Sam, 'You shouldn't make fun.  I was serious.'
 'So was I,' said Frodo, 'and so I am.'

 作品中、サムのフロドへの忠誠心とか愛情はいろんなところで出てきますが、このシーンでは逆に、フロドのサムへの気持ちがストレートに表現されていて、読んでいてとても嬉しくなりました。サムはああいう人ですから、なんの見返りも期待せず、ただ自分がしたいから、フロドに仕えているんだと思います。大好きなフロドが自分を頼ってくれている、自分はフロドのために役に立っているんだ、ということを改めて確認出来たこの科白は、サムにとって何よりも大きなご褒美だったのではないでしょうか。
 お互いがお互いをほんとうに理解し、助け合い、必要としている。そんな関係って、なかなか築けるものではありません。フロドはサムがいなければだめだった、サムもフロドがいなければだめだった……。そこまで深く結びついた彼らも、最後には別れ別れの道を歩くことになります。その悲しみや痛みは、わたしの想像を容易に越えてしまいます。だけどサムは、フロドと別れた後でも、絶望に溺れることなく、ロージーや子供達、シャイアを大事にして、きちんと生きていきますよね。わたしが「指輪物語」をほんとうに好きなのは、きっと、そんな彼の強さに憧れるから、かもしれません。

 

※『指輪物語』を愛する者にとって、脇役ながらもファラミアは忘れがたいキャラクターのひとりです。そんな彼の、ある意味「緊迫の場面」からの言葉を選んでいただきました。
31 ぐら
様 −2002年4月27日着信−
 
私が好きなのはファラミアがフロド(とサム)に向かって言った台詞です。
「…わたしにとってそなたたちは新しい種族であり、新しい世界だ。そなたたちの種族は皆こうなのかな?そなたたちの国は満ち足りた平和な国土に違いない。そしてそこでは庭師というのは非常に重んじられているに違いない。」(第7巻198頁)
 
特に好きなのは、最後の庭師云々のくだりです。大国ゴンドールの執政の息子という高い地位にあるファラミアが、ホビットに対して、そして純朴なサムに対して示した、最大限の敬意の言葉だと思います。
 この台詞を読んで、ファラミアに対してホビットたちのことが誇らしくもあり、同時に、ホビットたちに感嘆したファラミアの気持ちに、ホビットならぬ人間の身として共感を覚える気持ちもあったりして、何というか、とても暖かい気持ちになりました。戦乱に明け暮れる祖国を守り続けて来たファラミアにとって、ホビットたちの生き方は一種羨望を覚えるものだったのではないでしょうか…自分たちにはできない生き方だと分かった上で…。
そんなわけで、他にも好きな場面はたくさんありますが、私はこの台詞が一番好きです。フロドのこの後の返事がまた良いのですが。

 

※「白のガンダルフ」の力を見せつけられたシーンを選んでいただきました。3年も前から「燦光洞」への寄稿をお考えいただいていたという方からのメールに、館主恐縮。
30 エゾロヒアリム
様 −2002年4月24日着信−
かれは片手を上げると、はっきりした冷たい声でゆっくりといいました。「サルマン、お前の杖は折れたぞ。」メキメキと音がして、杖はサルマンの手の中で割れ、握りがガンダルフの足許に転げ落ちてきました。(第6巻185頁)
 剣も焔も使っていません。ただいっただけです。だからこそ、これが魔法の力なんだ、ガンダルフは西方から来たんだ、ということが身にしみてわかったような気がしました。それから、もう灰色のガンダルフじゃないということも。
 変わったようで変わっていなくて、変わっていないようで変わった。それが「白のガンダルフ」じゃないかと思います。すぐ怒るけれどすぐ笑って、やさしいままのガンダルフ。だけどサルマンに対しては、はっきりと決別しました。以前は尊敬していた相手だけれど迷うことはできませんでした。それはずいぶん前から決めていたことなんでしょうが、はっきり示されると考えてしまいました。ガンダルフでも辛いんじゃないかなと。
 普段は、いるだけで安心できる存在のガンダルフ。そんなかれのちがう一面を想像してしまうところです。

 

※ちょっと気づかない場面からファラミアの言葉。なるほど、すごい!
29 コウベサセ虫
様 −2002年2月24日着信−
「優しい心の贈り物である憐れみを軽んじてはいけない、エオウィン!」(第9巻171頁)
 傷心のエオウィンを諭すエオメルのセリフです。なんと力強い言葉でしょう。
 「憐れみは」「優しい心の贈り物である」から「軽んじてはいけない」のです。
 初めて読んだ時、頭を殴られたような衝撃でした。と言うのも、これは私が今まで知っていたヒーロー達は決して言わなかったセリフだったからです。「人の情けにすがって生きていくのは恥ずかしい」「施しに頼る位なら、強盗になって奪う事を選ぶ」といった価値観に浸かった私の目からウロコの5、6枚も引き剥がしてくれました。おかげで某人気ドラマの決め台詞「同情するなら金をくれ」に全く共感できなくて困りました(いや、困ったというのは比喩ですが)。「お前は他人の優しい心を金に換算するのか!」てなもんです。
 もっとも結局、ファラミアはエオウィンに憐れみを「かけなかった」のですよね…。そのせいか「施しに頼る位なら…」というヒーロー達も今だに結構好きだったりしますが…。考えてみると『指輪物語』は上品な物語です。冥王に追い詰められたゴンドールの人々も、「優しい心など貰っても何の得にもならない。それより食い物を!」というような荒んだ言動はとりません。善と悪の間には明確な線があり、時に迷い、追い詰められていても善はあくまで気高い。否、気高く在りたいがために戦う。やはり私は、この美しい物語を好きにならずにはいられません。

 

※人ならぬ身でありながら、あまりに人間的。ガンダルフの魅力はそんなところにもありますね。
28 オホタール
様 −2002年1月25日着信−
 『指輪物語』といえば、どこを開いても「名場面名科白に出会わないところはない」のですが、ここはやはりガンダルフでしょう。トールキンファンにとって言葉に対するこだわりはなおざりにできないものと思います。中でも、既にここで挙げられているものが第一でしょう。
 敢えて別のところを選ぶとするならば、「ガラドリエルの鏡」の章でフロドが歌う詩の中に出てくる、こんな表現も「ひしゃげ帽子のこの老人」を言いえて余りなし。これ以上のものは他にないと思うのですが、いかがでしょうか?

智恵の王者の御座に坐して、
たちまち怒り、たちまち笑う、
(第4巻99頁)

 

※血湧き肉踊るような大活劇場面よりも、こんな場面にこそ惹きつけられる。『指輪物語』の真骨頂といえるのではないでしょうか?
27 がらん堂
様 −2001年7月1 7日着信−
 指輪物語は、注意して読めば、本当に全編通して、名場面、名台詞の多い小説だと思うのですが、私的には、特に「王の帰還」の後半からラストにかけてが、意味深な言葉のオンパレードで、いつも長々と読み返してしまいます。中でもいつも、ううむ、とうならされるのはこのくだり。ホビット庄への帰還にあたってのメリーとフロドのセリフです。
「さあ、これでぼくたちだけになった、一緒に出発した4人だけだ。」と、メリーは言いました。「ほかの人はみんな、次々とあとに残してきたんだね。まるでゆっくりと醒めていく夢みないだな。」
「わたしにとってはそうじゃないね。」とフロドがいいました。「わたしはもう一度眠りにおちていくような感じだよ。」
(第9巻249頁)
 あまりに激烈な、それも人生を変えてしまうような体験をしてしまった人は、もう生ぬるい平和の中には、二度と戻りきれないのでしょうか?この部分を読んでいると、なんだかそんな気がして、運命の理不尽な巡り合わせに、いつも悶々としてしまいます。

 あと、もう一つだけ、何度読んでもいいなあと思うのはラストのこの部分。
船は外洋に出て、西方に進んで行きました。そして遂にある雨の夜、フロドは大気にみなぎるかんばしい香りをかぎ、水を渡ってくる歌声を聞きました。するとその時、ボンバディルの家で見た夢の中でのように、灰色の雨の帳がすっかり銀色のガラスに変わり、またそれも巻き上がって、かれは白い岸辺と、その先にはるかに続く緑の地を、たちまち昇る朝日の下に見たのでした。
(第9巻330頁)
 読み返してみると、フロドはボンバディルの家で、予知夢を見ていたという事ですね。とにかく、ここの表現はすごく好きです。好きだし、荘厳雄大な感じがするけれど、なんだかどうしても哀しくて、そのすぐ後に、港でたたずむサムの事を思って、更にしんみりしてしまうのも、このシーンです。けれど、フロドがホビット庄で「死ぬまで幸せに暮らしました」なんて終わり方だったら、私は指輪物語を二度と読み返さなかっただろうと思います。



※何気ない表現の中に生命が宿っている。木々を愛でたトールキンならではの描写を取り上げていただきました。投稿者はイギリスにお住まいです。羨ましい!
26 れごらっせ
様 −2001年7月7日着信−
 「指輪物語」の中には、その舞台となる中つ国の美しい大自然の描写がたくさん出てきますが、その中でも、これは、私が初めて「指輪物語」を読んだ時から心に残っている、大好きな表現です。
ハルディアはもう先に進んでいて、高いフレトに登ろうとしているところでした。フロドはそのあとに続こうとして、片手をはしごのわきの木の幹にかけました。その時かれはかつて味わったこともないほど不意にそして痛いほどの激しさで、木の肌の感触とその中を流れる命の存在を感じ取りました。かれは木の木質と、その手ざわりに喜びを感じました。といってもそれは木こりや大工の感じる喜びではなく、生きている木自身の持つ喜びでありました。
(第4巻80頁)
 「痛いほどの激しさで、木の肌の感触とその中を流れる命の存在を感じ取る」。「生きている木自身の持つ喜び」。なんという表現でしょう。神秘的で美しいロスロリアンに生い茂る木々の、みずみずしく躍動感あふれる生命力、そしてその命の切ないほどの尊さが、如実に表れていると思います。この時のフロドの、驚きと喜びと感動が交じり合った表情が、まざまざと目に浮かんできます。
 もちろん、フロドが自然を愛でる、純粋で美しい心を持つ(と私は信じています)からこそ「痛いほどの激しさで」感じ取ったということも考えられますが、それだけではないと思います。トールキン教授も生前、フロドのように「痛いほどの激しさで」木々のそして大自然の命の存在を感じ取ったことがあるのではないでしょうか。そうでなければ、とてもこんな文章は書けないと思うのです。
 残念ながら、彼のふるさとであるイギリスでも、自然破壊、環境破壊が進んでいます。このような現代社会に生きる私達は、失われつつある美しい自然をいつくしみ、何としてでも守っていかなければならない。そう強く思います。

※21世紀最初の投稿は、主人公フロドの重い言葉でした。最初の投稿で挙げていただいたガンダルフの言葉に鮮やかに照応しています。
25 tomo
様 −2001年3月11日着信−
「それでもかれを殺してはいけない。(中略)かれは堕ちた。そしてその救済はわたしたちの力には及ばぬ。しかしそれでもわたしはかれがそれを見出すことを望んで、命を助けたいと思う。」(第9巻303頁)

 フロドは滅びの山で完全に指輪に支配されてしまいました。ゴクリの存在がなければ、探索行は失敗でした。
 しかし、その経験こそがフロドに叡智と度量とを与えたのではないかと思うのです。
 人はみな心弱きもの。悪しきものに支配され、堕ちていくこともあるでしょう。それでもなお、人は自分自身を救済する力を秘めている。フロドはそう信じるにいたったのではないでしょうか。
 たとえそれがどんなにわずかな可能性であったとしても。
 フロドはきっと二度と誰かのことを「死んだっていい」とは言わないでしょう。
 フロドの苦難の旅はここに帰結したのかと胸が熱くなりました。

 

※なんだか嬉しくなる投稿。ガンダルフ&ギムリならばこんなのもあり?いや、まさに正鵠を射ているかもしれない、と思わされてしまいました。
24 ずしお
様 −2000年11月21日着信−
 ロリエンに入る際、一人だけ目隠しを強いられたり、ケレボルン殿にも種族的差別発言をされて、民族的プライドを傷つけられ、立つ瀬がなくなっているギムリに対して、お優しい言葉をかけてくださるガラドリエルの奥方。(涙)ここで何より奥方の英知を感じさせるのは、奥方がモリアの過去の栄華を称える際に、ドワーフたち自身が使っている言葉をあえて用いていることです。これってどんなお世辞よりも、奥方がドワーフの文化に対して尊敬を払っているという証しだと思うんです。深い民族的遺恨を抱いているはずのエルフの口から自分達の使っている言葉がスラスラと発せられたことは、ギムリにとっては青天の霹靂だったはず。これはたまんないと思います。以後ギムリの奥方に対するメロメロぶりはご存知の通りです(笑)。
 上のシーン(第4巻91頁)も名場面だと思うんですが、わたしがここでとりあげさせてもらいたいのは、実はしばらく後に来る場面です。
 「白の乗手」の章(第5巻187頁〜)で、復活したガンダルフが奥方からのメッセージを携えて登場します。アラゴルンとレゴラスの二人にメッセージを伝えた後、黙り込んでしまうガンダルフ。自分だけ奥方からの伝言がなかったと思い込んだギムリの消沈ぶりはすごくよくわかる(笑)。さて、その後、ギムリにも奥方からの言づてがあったことが判明するのですが、わたしは、これを読んだ時、その取ってつけたような散文的な内容や、このシーンの直前、他の二人のためらいをよそに 一番性急にガンダルフに襲いかかろうとしたことに対する皮肉も盛り込まれていることからして、このギムリへの奥方のメッセージは、一人落ち込んでいるギムリを慰めるためにガンダルフが即興にでっち上げたものではないかと思ったんです。それで今回読み直してみたら、「わが捲毛を持つ者よ」という句が盛り込まれていたので、これはわたしの勝手な思い込みだったのかと思ったのですが、少し前を読むと、ガンダルフは「あんたがたのある者(原文ではsome of you)」には伝言を携えて来たって言ってるんですね。ガンダルフはギムリへの伝言をすっかり忘れていたようなフリをしていますが、だったらわざわざsome of youなんていう必要ないん じゃないか(笑)。ガンダルフがロリエン滞在中にもギムリが奥方に捲毛を所望したことはエルフの間で噂になっていたでしょうから、それを聞いていたガンダルフがうまくメッセージに盛り込んでそれっぽく捏造したという可能性大ではないでしょうか(笑)。もちろん、実際はどうだったかわかりません。でもそう考えると、いかにも ガンダルフらしいウイット、その後のギムリの現金な立ち直りぶりが、なんともほほえましい名場面であると思うのです。

 

※メールをいただいたあと、私はしばらくの間考え込んでしまいました。…そして結局、自分がやはりエルロンドではないことを思い知らされたのでした。深い場面です。
23 川村まゆこ
様 −2000年10月10日着信−
 わたしが指輪物語のなかでいちばん好きな…というか、ドキッとした場面は、 リヴェンデル(裂け谷)出発の場面です。
アラゴルンは両膝に深く頭をたれて坐っていました。 これがかれにとって何を意味するときであるかを完全に知っていたのは エルロンドだけでした。(第3巻157頁)
  心に残る場面はたくさんあって、とてもひとつに絞ることはできないのですが、 あえてひとつあげるとすればここです。 セリフではないので、直接心情をあらわしているわけではないのですが、 言葉にしてしまうよりも、もっと、アラゴルンの心の内が伝わってくるようです。 そして、それをしっかり理解しているエルロンドにも頭が下がる思いでした。
 「典型的ロマンス英雄」のアラゴルンは、決してわたしがいちばん好きな 人物ではないのですが、あのくだりを読んだ時には、いろいろと考えてしまって しばらく続きが読めませんでした。

 あと、フロドの、灰色港に行く途中の最後の詩も好きです。
角を曲がれば、待ってるだろうか、
新しい道が、秘密の門が。
たびたび旅路を通ったものの、
ついにその日がやってくるのだろう――
月の西と日の東を通る
隠れたあの小径を辿る日が。
(第9巻325頁)

 

※サムが時として見せる叡智。実は彼は賢者なのではないでしょうか?
22 
ハレナ様 −2000年8月23日着信−
 私の一番印象に残っている場面は、モルドールでふと サムが冷静になる場面です。
サムは白い星が一つ雲の割れ目からのぞいて、しばらくの間 きらきらと瞬いているのを認めました。その美しさは、この見捨てられた地から空を見上げているかれの心を打ち、望みが立ち戻ってきました。結局はかの大いなる影も束の間の些々たる一事象にすぎないのではないかという考えがまるですき通った冷たい一條の光のようにかれを貫いたからです。かの影の達し得ぬところに光と高貴な美が永遠に存在しているのです。オークの塔でかれが歌った歌は望みというより挑戦でした。なぜならかれは自分自身のことを考えていたからです。ところが今は、僅かの間ながら、かれ自身の運命はもとより主人の運命すらも心を煩わすことをやめました。
(第9巻71頁)
 絶望の大地からふと空を見上げたサムの目に飛びこんできたエアレンディルの星。世界を暗黒から守るという重い任務を背負わされ、何がなんでも達成しなければならないという使命と責任を負わされている彼ら。しかし、たとえ任務に失敗し、 全世界が暗黒に包まれようとも、すべてが終わってしまうわけではない。かしこには影の届かぬ美が永遠に存在するのだか ら・・・。そしてサムはフロドの身の上を案じることもやめます。サムはフロドよりも高い所に立って見ているのではないか・・・ と思った瞬間です。

※今回は番外編です(^o^)丿
番外 
川上弘美 −2000年8月7日付け読売新聞の記事より−
 読売新聞に「名文句を読む」と題するコラムがあるようだ。(私自身は当の新聞を購読しているわけではないので詳しいことは分からないが。)
 で、本日、知人から今日付けのその記事のコピーを送っていただいた。今回の書き手は川上弘美氏。数年前に「蛇を踏む」という作品で話題になった作家である。この記事から川上氏が熱心な『指輪物語』の読者であることが分かった。実に共感しやすい視点から、『指輪』の魅力について語っているのだ。詳しくは同記事をお読みいただくしかないが、冒頭に掲げられている『指輪』の名文句だけを引用させてもらおう。
「わたしは傷ついている」
と、かれは答えました。「傷ついて、二度と癒ることはないのだよ。」
(第9巻319頁)

 

※これまで最年少の『指輪』フリークの方からの投稿。読み返してみると、確かに深い!この場面を見逃さなかった鋭い洞察力に脱帽です。
21 
あおりんご様 −2000年7月18日着信−
 私の好きな台詞は、フロドとサムがシェロブの住処の近くで休んでいる時の会話です。
「・・・・その冒険ちゅうもんは物語の中の華々しい連中がわざわざ探しに出てったもんだろうと。冒険をしたかったから出かけてったんだろうとね。・・(中略)・・けど、本当に深い意義のあるお話や、心に残っているお話の場合はそうじゃねえですだ。主人公たちは冒険をしなきゃなんないはめに落ちこんじゃったように思えますだ。一般に――旦那のおっしゃったようにいえば、その人たちの道がそういうふうに敷かれてたちゅうこってすだ。・・(中略)・・
おらたちはどんな種類の話の中に落ち込んじまったんでしょう?(第7巻270〜271頁)
 この台詞から、サムの心情が伝わってくると思います。

※高校時代に『指輪』にはまり、10年の歳月を経て「新版」を読了された蓮翠様より、心打たれる便りをいただきました。『指輪』最大の魔力、それは読み返すたびに新たな感動をもたらすことですね。
20 
蓮翠様 −2000年6月2日着信−
 ようやく名セリフ名シーンのメールを送ることが出来て、嬉しい限りです。とは言うものの、この選択は難しいです。一つに絞るなんて! 初めてのメールで書いた通り、一番の名シーンはラストのサムのセリフだと思っています。ただ、今回の旅に限っては、あそこは一番の名シーンにはなりませんでした。おそらく読むたびに心打つシーンというのは変わるのだと、考えています。その時の自分の内面や、精神の成熟度、更に単純に体調や集中度によってさえ。そして、あのシーンについては、旧訳の「今、帰っただよ。」こそが、万感のニュアンスを正確に表しているようにも思うのです。「Well, I'm back..」 違訳、誤訳でしょうか?私にはそう思えませんでした。ともかく、ラストがベスト1というのを普遍の回答として、それとは別に今回、心を打たれた名セリフを挙げたいと思います。
「とんで火にいる夏の虫って、このこってすだ、フロドの旦那!」
(第3巻136頁)
「ああ、なんちゅう誉れ、なんちゅう晴れがましさ!そしておらの望みは何もかも実現しただよ!」(第9巻147頁)
 何か、対で選んだみたいですね、こうして並べると。空恐ろしいまでの聡明さと、地に足がつくどころか埋まって大地そのものになっているような磐石の堅実さ、相反する要素が見事に同居しているサムワイズ・ギャムジーを、よく表しているセリフだと思います。彼はミスリルのようだと思いませんか?
「いけない、サム!」
と、フロドはいいました。「それでもかれを殺してはいけない。」(第9巻303頁)
 私は今回の読み返しで、初めてフロドを偉大だと感じました。その集大成が、このセリフだと思うのです。
 その他にもいくつか捨てがたいセリフがあります。しかし、あえて今回最大の名シーンと名セリフを一つずつ選びたいと思います。自分でも、こんな結果になろうとは思いもしなかったのですが…。
 ゴクリは二人にじっと目を向けました。かれの肉の落ちた飢えた顔に不思議な表情がよぎりました。その目から光が失せ、灰色にかすんで、老いと疲労が現われました。その顔は苦痛の発作に歪んだように見えました。〜それは、自分自身の時代からも、友人や親族たちからも、また青春の日の野や水の流れからも遠くへだたったところに自分を連れて来てしまった長い歳月にすっかりしなびてしまった、哀れむべきかつえた老者の姿にすぎませんでした。
(第7巻278〜279頁)
「いとしい、いとしい、いとしい!」
(第9巻127頁)
 「名シーン」では、胸が潰れる思いでした。ゴクリに対するこの感情、憐憫と慈愛、フロドが旅の中で得たものを、ガンダルフが示唆したそれを、自分もまた何年もの時間の旅の中で得ることが出来ていたのだと、そう感じるのは驕りでしょうか?少なくとも高校生だった時には、ゴクリに真実同情し、胸が詰まるような愛情を感じることは出来なかった!
 「名セリフ」の場面では、鳥肌がたちました。この、オロドルインの奈落よりも深く暗く熱く、エルフの西方への思慕よりも狂おしい、戦慄すべき情念。妄執。ゴクリの叫びは、その深淵をまともに覗き込んでしまったような恐怖を背筋に走らせました。これを、ゴクリが指輪を滅ぼす役割を果たすことになったクライマックスの名シーンとしてではなく、「いとしい、いとしい、いとしい!」の部分に限った名セリフとして挙げたのは、そのためです。

 まさか、ゴクリとは!サムも、フロドも、ボロミアも、ゴクリも、嫌いでした。奥手で潔癖で空想癖のある女子高生が嫌悪する要素が満載でした。でも今回、心を打たれ、愛したのはその人物達でした。良かった。私もそれなりに成長出来ているみたいで(笑)。また10年後くらいに読んだら、更に感性が変わっていて面白いでしょうね。 このメールの内容を思い出して「なんて稚拙な!」と懐かしく恥ずかしく感じることでしょう。


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