燦光洞第1層
 − 1997年〜1999年 −

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19 柳暗花明様 −1999年12月5日着信−
 散々悩んだ結果、フロドが西に渡って行く時にサムと交わした次の会話を選ぶことにしました。
「私はホビット庄を安泰に保とうとした。そしてホビット庄の安泰は保たれた。しかしわたしのためにではないよ。愛するものが危険に瀕している場合、しばしばこうならざるを得ないものだよ、サム。つまりだれかがそのものを放棄し、失わなければならないのだ。ほかの者たちが持っておられるように。
(第9巻327〜328頁)
 指輪所持者という重荷を負って、苦しい旅をしたフロド。
 本来なら一番見返りをもらってもいいはずなのに、見返りどころか深い傷を負ってしまって…。サムが「あんなに尽くしなすったというのに」と言っていましたが、私も、「あんなにフロドはがんばったのに、あんなに辛い思いをしたのに」と、そんな気持ちになりました。
 でも、フロドは見返りを求めて旅をしたわけじゃないんですよね。
強いて言うなら、ホビット庄の安泰がフロドにとっての見返りであったわけで…。
 フロドの奉仕愛(とでもいうのでしょうか?)には本当に感動しました。
…と同時に、自分自身にも重ねて考えてしまいました。私の今の安泰な日々も、もしかしたら、どこかの誰かの犠牲の上に成り立っているのかも知れない、と。



※飽くまで控えめに振る舞いつつも、鮮やかな光彩を放っている人物。私は、ファラミアをそんなふうにとらえています。
18 
山梨毅様 −1999年11月22日着信−
 わたしの好きな科白は、ファラミアがフロドに向けて話すうちの次の部分です。
「…しかしわたしは輝く剣をその切れ味のために、矢をその速さのために、戦士をその誉れのために愛しはしない。わたしはただそれらの守るものを愛するのだ。…」
(第7巻174頁)
 ついでに、英語版の中からも同部分を引用します:
but I do not love the bright sword for its sharpness, nor the arrow for its swiftness, nor the warrior for his glory.  I love only that which they defend:
 ファラミアの心意気、そして己が都に尽くす愛情にうたれ、兄ボロミアとの違いを際だたせて、わたしの中に残りました。



※愚直を絵に描いたような人物。それがサムワイズ・ギャムジーです。人気投票をしたら相当上位に食い込むでしょうね。
17 
鈴木隆生様 −1999年9月9日着信−
やはり、私のお気に入りはサムなのです。
「行き着いてみせるとも、この骨のほかは何もかも置いて行くとしても。」
と、サムはいいました。「そしてフロドの旦那は、おらが背負って行く。たとえこの背中が折れ、心臓が破れたとしてもよ。だからいい合いはやめだ!」(第9巻110頁)
 この、主人思いで、ホビットのど根性!が表されているサムのセリフが好きです。どことなく、日本人の大和魂というか、侍魂に近い考え方のような気もしますので、それが好きなのかも。
 その他にも、
「お前は、きっと一番重いものばかりをわたしのところによこしたんだろうね。」
「おら、もっといくらでも持てますだよ、旦那。おらのはまだ軽いもんだ。」サムは事実に反する強がりをいいました。

なんていう場面も好きです。
 私の友達は、指輪物語の主役はサムだ、とまで断言しています。確かに、滅びの山近辺では、フロドの影が薄かった・・・。
 あと、追補篇まで入れて良いのなら、アラゴルンとアルウェン物語のギルラエンの言葉
「私はデュネダインたちに望みを与えた。わたしはわたし自身のためには望みを取っておかなかった。」
  さらに、アルウェンとアラゴルンの別れの場面のアルウェンのセリフ
「私は、今の今まで、あなたの一族とその没落の物語を理解していませんでした。罪深い愚か者と彼らのことを軽蔑しておりました。けれどようやく今になって私は彼らに哀れみを覚えます。なぜと申せば、もしこれがエルダールたちのいうように本当に唯一の神が人間に与えたもうた贈り物であるとすれば、受けるのは辛いことですから。」 
 あたりは、何度読み返しても鳥肌が立ちます。

 

※さりげない一言に込められた重い意味。『指輪物語』の主人公がフロド以外にありえないことを示唆する名言です。
16 
田中義宏様 −1999年8月15日着信−
 私が選んだのはエルロンドの会議でのフロドの言葉です。
「わたしが指輪を持って行きます。」と、かれはいいました。「でも、わたしは道を知りませんが……。」
(第3巻135頁)
 「わたしが指輪を持って行きます。」というフロドの言葉に心をうたれました。何という勇気なのでしょう。これがホビットの持つここ一番の力というものなのでしょうか。続く「でも、わたしは道を知りませんが……。」これがまた泣かせるではありませんか。私はこの場面を一番にあげたいと思います。

 

※ここまでの読み方があったのですね。散漫な読み方をしていた私としては目から鱗が落ちる思いでした。
15 
高原正様 −1999年6月12日着信−
 今回はセリフではなく地の文章から、もうだいぶ以前から私が気になっているところを抜き出して、コメントを添えたいと思います。それは「二つの塔」上巻(旧版)323頁の一節です。
 一行はオルサンクの下まで来ました。オルサンクの岩は黒く、濡れたように光っていました。多面な石はまるで今鑿で刻まれたばかりのような鋭い稜角を見せていました。わずかなひっかき傷と、土台の近くに落ちている薄く剥げたような小さなかけらだけがエントの憤怒を蒙った唯一の痕跡でした。
 これは明らかに、その前章(304頁)での、
「かれらの手の指、足の指、それが岩をただしっかと掴むね。するともう岩はパン屑みたいにぼろぼろにちぎられちゃうんだ。それはまるで大樹の根が百年の間になしとげる仕事を目に見てるようだった。ただそれがほんの短い時間に圧縮されて見せられたんだ」
 という ピピンの証言を受けてのものです。自然の猛威数百年分、あるいは数千年分にもあたる攻撃を受けてなお、たったこれだけの損害しか受けていない、という書き方ですが、トールキンの意図はそこにとどまらない筈で、サルーマンあるいはゴンドールの技術がつくった城門に対するヌメノールの技の卓越を示すためだけならば、オルサンクをただ無傷にしておいてもよかった。
 そうではなく、わずかではあっても損害がある、ということの重要性。これは、茫漠たる時間と自然の流れに対しては、いかなヌメノールの粋をこらした建造物といえども、究極的には抗すべくもないのだ、というトールキンのメッセージではないでしょうか。
 そして、われわれが今日オルサンクやエレヒの遺跡を見ることが出来ないのは、「指輪」の時代がそれほどにも遠い昔であったからなのではないか…。私はこの一節にさしかかる度に、そんな想いが頭をかすめます(海中に没しているからとも考えられますが)。
 私にとっては、この表現が、作品世界のスケールやトールキンの世界観をさりげなく示す、きわめて味わい深いものに思えてならないのです。
 初読の時から何故か気になっていた表現なのですが、その後繰り返し読むうちに、例えばペレノール合戦後のレゴラスとギムリの会話(「王の帰還」上巻256頁)などとも響きあい、すっかり私の「お気に入り」になってしまいました。
 私は「研究書」の類を全然読んでいないので、何を今更といった指摘かもしれませんが。
 蛇足になりますが、トールキンは、「人間の功業」に対するギムリの悲観論だけに組しているわけでは、もちろんありません。「指輪」の時代がそんなにも遠い昔であり、小数点以下少なくとも3桁まで観測されていた太陽年が一度は完全に忘れ去られたにもかかわらず、現代にまで語りつがれているものも、彼は同時に示しているのですから…(もうおわかりですね)。

 

※「指輪所持者」フロド。彼の辿った過酷な運命の道を想うとき、私たち読者は、深い自省のときを共有できるのではないでしょうか。
14 
残月 −1999年4月30日着信−
 フロドは物語の中を通して、主人公の一人であり、登場人物中最大ともいえる使命を背負わされているのにも関わらず、私にとっては非常に存在感が薄く、また目立たないキャラクターでした。ですが、そんな人物であったフロドであるからこそ、「サウロンの指輪を滅ぼす」という重大な使命を果たせたような気がするのです。
 非凡な秀才であるエルロンドやガンダルフが何故、「フロド」という特に目立ったところのない一人のホビットに指輪を任せたのか・・・それは単に、フロドがビルボから「指輪」を譲られたという「事実」と「運命」からだけではなく、「フロド」というホビットの人柄に彼の使命達成の糸口を見いだしていたのではないでしょうか。彼は「指輪」を与えられたのにも関わらず、野心を抱くわけでもなく、自分の意志で自らの使命に従いました。そして、最後の場面でゴクリに助けられたとはいえ、フロドは、自分の使命を果たしたのです。その結果、「中つ国」は救われました。しかし、彼は自分の達成した重大な「使命」にもかかわらず、「中つ国」においては生涯目立たない存在であり、故郷においても然り、だったのです。賞賛は、ゴンドールにおいては主としてエレスサールとガンダルフに与えられ、ホビット庄においては「サルマン一党」の掃討に活躍したメリーやピピン、サムがその対象でした。
 彼は自らの使命達成のために生涯消えることのない深い傷、すなわち「短剣の傷」、「毒針の傷」、「歯の傷」そして指輪を滅ぼすという「重荷の傷」を負いました。ですが、彼は決して、そんな自分の運命を呪うようなことはしませんでした。彼には「世界を救う」という大儀は無く、ただ、「凡人」として自らの愛する故郷を守りたいという願いのために傷つき、そして使命を達成したのであり、そんな自分の運命にフロドは満足すらしていたように思えるのです。
 彼には生涯の伴侶というものは最後まで現れませんでしたが、最初から最後まで素晴らしい「友人たち」に囲まれていました。彼が守りたかったのはそんな友人たちとの平凡で楽しい日常の生活だったのではないでしょうか。また、それはフロドだけではなく、同じような一般の人々の願いでもあったといえるでしょう。トールキンが何故、勇敢な戦士でもなく、天才でもない、平凡な人物を「指輪所持者」としたのか。その答えがここにあるような気がします。
 そして、彼は物語の最後に「指輪所持者」として「中つ国」を去ることになります。その時、フロドはサムに向かって自分の想いを語りました。その最後の台詞、
「さあ、わたしと一緒においで!」(第9巻328頁)
 この最後の言葉に私は、自らの人生に満足しつつも(ビルボやガンダルフが一緒に旅立つとはいえ)「愛する故郷の、愛する者たちと別れなくてはならない」という運命に逆らうことのできない、一人のホビットとしての想いを感じるのです。

 

※ギムリとレゴラス。ひょっとして『指輪物語』中最高のコンビなのではないでしょうか?…エルフとドワーフの奇妙な友情。後に続く多くの亜流ファンタジーに多大な影響を与えたという意味でも忘れてはならない存在だと思います。
13 
こおり様 −1999年4月29日着信−
「…こんなものがあるってことが世に知れてたら、一目これを見ようとドワーフの拝観者がひきも切らずに続くだろうよ。うーん、そうだ、一目みるためには混じりっけなしの金だって支払うさ!」
「わたしなら中にはいるのを勘弁してもらうために金を払うね。」と、レゴラスがいいました。「出してもらうためには倍だって払うよ。もし迷い込んだ場合にはね!」
(第6巻101頁〜102頁)
 戦時さなかに(何だか余裕だなあ)気むずかしいギムリが、うっとりとして褒め称える燦光洞の事、そしてそれをからかうレゴラスです。指輪には面白く素敵なコンビネーションがあちこちに見られますが、この二人のコンビは言うなればでこぼこコンビで面白いです。初めはあんなに仲悪かったのに、ですよね(^.^)
 モリアに入る直前だって、あんな訳の分からないこと言い合っていて、後には大親友ですから。(指輪を知る前、昔のRPGゲームでは大抵ドワーフとエルフは仲が悪いという設定だったような気がしますが、指輪の影響なのでしょうか?)
 まあ余談はともかく、中つ国のなかで一番「種族を越えた友情」を体現しているお二人に一票、ということで、ささやかなエピソードながら選ばせていただきます。
 ところで、ここを選んだなら対で選ばせていただきたいところとして。
 「目があるッ!」と、かれはいいました。「枝の影から目が覗いてる!あんな目、今まで見たこともない。」
 他の者たちもかれの叫び声に驚き、立ち止まって振り向きました。ところがレゴラスはまた元の所に戻ろうとし始めたのです。「いけない、いけない!」と、ギムリが叫びました。「あんたは勝手にばかなまねをするがいいけど、その前にまずわたしを馬から下ろしてくれ!わたしは目なんか見たくないんだ!」(第6巻106頁)
 というところも挙げさせていただきたいなあ…。
「あんたは勝手にばかなまねを・・・」とかいう台詞も、親友ならではの言い方ですね。

 

※『指輪物語』には多くの詩篇が収められています。それらにまつわるこんなお便りをいただきました。たしかに、そうですね。
12 
ぐるんぱ様 −1999年4月16日着信−
 指輪物語は、中学生の頃はまりました。図書館の本をずっと持ってたような気がします。(ちゃんと返しましたが)すごく好きでした。瀬田貞二さんの訳で赤い表紙の本でした。ガンダルフとかホビットとかエルフとか、もともとファンタジー好きだったので、愛読書にしていました。
 私の大好きなビルボの詩があります。いつも何かをはじめるときは心で復唱していたものです。
 まず、旅立ちのときの詩
道はつづくよ、先へ先へと、
戸口より出て、遠くへつづく。
道はつづくよ、さらに先へと、
道を辿って、わたしは行こう、
はやる足をふみしめながら、
いつかゆきあう、より広い道へ、
多くの小道と多くの使命が、
そこに落ちあう、より広い道へ。
そこから先は、わたしは知らぬ。


 これには続きがあります。指輪所持者使命達成後、エルロンドの館で詠まれたものです。(第9巻226頁)
道は続くよ、先へ先へと、
戸口より出て、遠くへ続く。
道は続くよ、さらに先へと、
辿れる者は、辿って行けよ。
新たな旅へ、踏み出して行けよ。
でも私はとうとう足が弱って、
灯ともる宿へ、向かうのさ。
夕べの憩いと眠りを求めて。

 

※『指輪物語』の最重要人物であるガンダルフ。忘れようにも忘れられない「灰色のガンダルフ」最期のシーンです。
11 
K5様 −1999年3月17日着信−
 私は、10年以上前より読んでおりまして、どうしても旧訳の方が好きなので、表現に違和感が在るものはご勘弁下さい。ガンダルフファンとしてはやはりここです。
 「きさまは渡ることはできぬ。」と、かれはいいました。オーク鬼どもはじっと立ちつくし、死の静けさがあたりをみたしました。「わしは神秘の火に仕えるもの、アノールの焔の使い手じゃ。きさまは渡ることはできぬ。暗き火、ウデュンの焔はきさまの助けとはならぬ。常つ闇に戻るがよい!きさまは渡れぬぞ。」
 バルログはそれには答えませんでした。その中の火は消えるかのように思われましたが、それを取り巻く影はいよいよ色濃くなりました。それはゆっくりと足を踏み出して橋にさしかかりました。そして不意に体をまっすぐに伸ばして雲つくほどの高さになり、その翼を壁から壁に届くほど広げました。それでもガンダルフの姿は暗闇の中に微かに光って見えました。その姿は小さく、孤影悄然とうつりました、灰色で腰が曲がり、嵐に襲われようとしている老いさらばえた一本の木のように。
(旧訳『旅の仲間』(下)「5 カザド=デュムの橋」219ページより・新訳の該当部分は第4巻29頁)
 どうでしょうか、この「渋さ」と言うか「いぶし銀」の雰囲気が好きなのです。同じ「マイアール」として他のメンバーではかなわないと知り、既に消耗しつつも、自ら一人で立ち向かうガンダルフ! 私は、「白のガンダルフ」としてミナスティリス正門での対決も好きですが、「灰色のガンダルフ」としての対バルログの方が、何かこう、言い表せない良さがあるんですよねー。(私だけでしょうか?)

 

※黄金館の主に関連する名場面をお寄せいただきました。大感謝です。改めて読み返してみて、やはり私も涙腺に刺激を受けてしまいました。
10 
かおるっち様 −1998年9月10日着信−
 ミナス・ティリス城門前でのガンダルフとアングマールの魔王の対決直後の一節。
『おりしも正にこの時、城市のどこかずっと奥の中庭で雄鶏が時を告げたのです。甲高く、はっきりと、時を告げました。魔法であれ戦いであれ、少しも頓着なしに。ただ死の暗闇の遥か上空にある空に曙光とともにやってきた朝を喜び迎えたにすぎなかったのです。
 
そしてあたかもそれに答えるかのように、遥か遠くから別の音が聞こえてきました。角笛でした。角笛です。角笛なのです。暗いミンドルルインの山腹に音はかすかにこだましました。北の国の大きな角笛が激しく吹き鳴らされていました。ローハン軍がとうとうやってきたのです。』
(第8巻211頁)
 ペレンノール野にローハン軍が到着するところは、角笛城の戦いで、ついに夜明けがやってきたところや、アラゴルンが黒船にのってペレンノール野についたところと同じくらい好きで、電車の中だろうと何だろうと、読み返すたびに涙ぐんでしまいます。(ピピンと一緒)
 それまで、ゴンドールの民と一緒にローハン軍はいつくるんだろうと待ちこがれていただけに、ほんとに、角笛だー!!!!!って感じです。角笛城といい、ペレンノール野といい、朝ってすばらしいですよね。(何かこうして文字にしてみても、うまくいえなくて、自分の気分とはかけはなれた気がしてしまうのですが……。)

 

※ついに「追補編」からの名科白。――ガンダルフとトーリンの邂逅に関しては、あの『Unfinished Tales』に大変面白いエピソードが収められています。
9 北野様 −1998年9月3日着信−
「…お前さんたちが、ペレンノール野の大合戦のことを考える時は、谷間の国の戦いとドゥリン一族の武勇を忘れるんじゃないぞ。ひょっとしたらあり得た事態を考えてもみるがいい。エリアドールを竜の火と野蛮な剣が荒れ狂い、裂け谷には夜が訪れる。ゴンドールには妃はおわさぬことになったかもしれぬ。わしらにしてもこの地における勝利からただ廃墟と灰の中に戻ることを望むしかなかったかもしれぬ。じゃが、これはさけられた――それも元はといえば、ある春の終わりの夕べ、ブリー村でわしがトーリン・オーケンシールドに出会ったからじゃ。中つ国でいうめぐり会いというやつじゃのう」(「普及版」追補編93頁)
 サウロンの主力の軍勢対ゴンドールの連合軍の戦いがモルドール近辺で繰り広げられていた時、中つ国の様々なところで善き人間やエルフ、ドワーフが同じようにサウロンの同盟軍と戦いを繰り広げていました。そして、そのなかでも谷間の国の戦いにおけるドゥリン一族の戦いには賞嘆すべきところがありました。トーリンのいとこの鉄の足ダインは高齢であるにも関わらず、まさかりふるって勇敢に戦い、死んだのです。何故これほどまでにゴンドールとは直接関係のない者達が命をかけてサウロンの軍勢と戦ったのか…その全ての答えはかつてのトーリンとガンダルフのブリー村における邂逅にあったのです。時の流れにおけるちょっとしためぐり会いが善きにしろ悪きにしろ後の世の運命すら決めてしまうことがあります。そして、そんなめぐり会いのなかでもガンダルフとトーリンの出会いは最良のものに近かったに違いないでしょうか。
 ガンダルフとトーリンの出会いによって、後に「ホビットの冒険」に語られる様々な出来事が生まれ、そしてそれらが指輪の大戦におけるドワーフ達の勇敢な戦いにつながった…それだけでなく、熊人ビヨルンの子孫ひきいる人間達の戦いや谷間の国の人間の戦いも全てはその出会いから始まった――そう考えると、このガンダルフの言う「めぐり会い」というものの大切さと素晴らしさを心の奥底から感じられるように思います。またそれは、中つ国においてだけではなく、実際の我々の世界にも通じることではないでしょうか。

 

※実に久しぶりにお便りを戴きました。コンビで語られることの多いメリーとピピンですが、それぞれに「いい場面」があるんですよね。さあ、次はピピンか?(9か月も便りがなかったのに強気過ぎますね…。)
8 
風霧かずえ様 −1998年7月4日着信−
「だがね、ピピン、少なくともぼくたちは今ではそういうものがわかるし、それをあがめることもできるよ。思うに、自分が愛するにふさわしいものをまず愛するのが最善じゃなかろうか。どこかで始めなきゃならないのだし、どこかに根をおろさなきゃならないんだから。」(第8巻310頁)
 セオデン王の死の悲しみと、かの黒の乗手の首領を刺した苦痛からアラゴルンによって解放された後のメリーのこの科白には、彼の思慮深さと成長が読みとれて驚きました。“自分が愛するのにふさわしいものを愛する”ということは単純なようで難しいと思う。現に、今この時代に生きている人々の何人が、これを理解し、実行しているのでしょう?
 だからこそ、メリーのこの科白に心動かされます。

※サムワイズ・ギャムジー。彼への愛情あふれる便りをいただきました。むろん、私もサムは大好きです。
7 
佐藤秀典様 −1997年10月15日着信−
 個性あふれる登場人物の中でも、最も気さくで親しみが湧く人物といえば、やはり、あのサム・ギャムジーでしょう。
 イシルディアの野で眠るフロドを見守り、「おらは旦那が好きだ。旦那はこうなんだ。それに時々、どういうわけでか光が透けるみたいだ。だがどっちだろうと、おらは旦那が好きだよ。」
という台詞には、サムの純粋な主人への愛情がかいま見られて、何ともいえません。
 同時に、主人に敵するものと見れば、たとえ、ファラミアのような武者であろうと、ひるむことなく立ち向かおうとするフロドに対する忠臣ぶりには、我々日本人の血は、どうしても惹かれてしまいます。
 また、こんなサムに、トールキンは子供時代を過ごした土地のなまりで、脱脂綿を表す「ギャムジー」を名字につけています。きっと、トールキンが心のふるさとに抱いていた牧歌的なものの象徴的存在だったのでしょう。

 そんなサムが夢見たものは、わたしたちが純粋であった子ども時代に夢見たものそのものではないでしょうか。
 まだ見ぬ巨大な生き物「じゅう」を見ること。
 自分の功績が詩に詠われ、人々に語り継がれること。誰もが、心に抱いたことのあるそんな願い事がかなった瞬間の彼の喜びには、あたかも自分の夢が叶ったかのように、ともに躍り上がって喜びたくなってしまいます。
「ああ、なんちゅう誉れ、なんちゅう晴れがましさ!そしておらの望みは何もかも実現しただよ!」(第9巻147頁)

 

※久しぶりに届いた声は、あの『Unfinished Tales』からの名場面でした。この書物に関してはいろいろな方から情報をいただいておりましたが、今回、この名場面を示されては……もう、読むしかありませんね。
6 
様 −1997年6月27日着信−
 Unfinished Talesはファンにとって宝箱です。本編では1行で片づけられた事件や、名前だけしか出てこなかった人物について、事細かにドラマティックに物語っているのですから。私の場合、まさに「道は続くよ、先へ先へと」誘われるままに、本をぼろぼろにするまで読み込んでしまいました。というわけで、名台詞はこの中から出させていただきます。

Unfinished Talesでは、第1章から第3章までがそれぞれ指輪の第1紀から第3紀までの事件を、第4章がその他雑学的な話題を扱っています。中で一番臨場感溢れていたのが、第3章の「嬉し野の惨劇」です。第3紀の初め、「最後の同盟」の戦いの後、イシルデュアとその3人の息子たちがモルドールから北方のアルノール王国に帰還する途中でオークの軍勢に討たれたというエピソードを描いた話です。本編ではたった数行で片づけられ、「そして指輪は大河に失われ…」という役割しか持たない場面です。
 けれどトールキンの頭の中という舞台では、ここに限りなく魅力的な人物が登場するのです。彼の名はエレンデュア。イシルデュアの長男で、この戦いで2人の弟と共に討ち死にする人です。
 オークの軍勢に囲まれ、味方が防戦一方なのを見たイシルデュアは、側近のオータル(これは人の名ではなく、「戦士」という呼び名だそうです)にエレンディルの剣、ナルシルを託して命じます。「あらゆる手段を尽くしてこれを守れ。どんな犠牲を払っても、たとえ主を見捨てた卑怯者と罵られようともだ。部下を連れて、行け!命令だ!」。オータルはひざまずいて彼の手に口づけし、2人の年若い部下を連れて谷間の暗闇に逃れます。しかし戦況は苦しくなる一方で、イシルデュアの次男のアラタン、三男のキアヨンも致命傷を負います。唯一無傷の長男、エレンデュアはついに、たたずむ父に告げます。
「我が王よ、キアヨンは死に、アラタンも死にかけています。唯一生き残った助言者として、私は貴方に進言を...いや、命じなければなりません、貴方がオータルに命じられたように。行け!己が荷(一つの指輪)を負い、どんな犠牲を払っても指輪所持者たちのもとへ届けるのです、たとえ部下と息子を見殺しにしようとも」
「王の息子よ、」イシルデュアは答えた。「そうせねばならないことはわかっていた。しかしこの苦しみを恐れたのだ。それにお前の許しなしには行けなかった。私を、そしてこの運命を招いた私の高慢を許してくれ。」
 エレンデュアは父に口づけして、言った。「行け!行くのです!」イシルデュアは指輪で姿を消して落ち延びていきますが、その後二度と生きた人の目に触れることはありませんでした。そして彼の息子も。
「かくて、エレンデュアは死んだ。王となるべき人物であり、その人柄を知る者が予言したように、その力においても知恵においても、おごり高ぶることのない威厳においても王位に相応しく、エレンディルの子孫のうちでももっとも偉大で美しい人だった。そしてまた彼は、誰よりも祖父(エレンディル)に生き写しだった。」
 実はこの場面、原作者の注がついていました。「伝えられるところによれば、(エルロンドのように)後世になってもエレンデュアを記憶に留める人々は、外見も気質も彼に酷似したエレサール王の出現に驚いたという。デュネダインの記録に寄れば、エレサール王はエレンデュアの弟、ヴァランディルから数えて38代目の子孫である。かくも長き年月の後にエレンデュアの復讐は成されたのだった。」

 

※ついにサルマンの登場です。指輪の魔力に抗しきれなかった者の発する言葉のなんと重く、哀切なことか。
 なお、『トールキン指輪物語伝説』(原書房刊)の中に、トールキンとシェークスピアの関係について興味深い考察があります。未読の方は是非ご一読を。
5 
山田隆志様 −1997年5月6日着信−
 水の辺村の戦いに勝利したホビットの前に、一味の頭であるサルマン(シャーキー)が、悪意に充ちた目をして姿を現し、フロドを殺そうとしました。が、その企みも失敗し、己の命すらも危うくなったところを、逆にフロドによって救われました。感嘆と敬意と憎しみのまざりあった表情で、サルマンは言いました。
「あんたはたいそう成長した。あんたは賢明にして残酷だ。あんたはわしの復讐から甘美さを奪った。そしてわしはこれからあんたの慈悲を恩に着て、苦い思いを抱きながら行かねばならん。あんたの慈悲を憎む。あんたを憎む! では、わしは行く。そしてもうこれ以上あんたを悩ませはせぬ。だがわしがあんたに健康と長寿を祈るとは思い設けるな。あんたにはそのどちらも与えられぬだろう。でもそれはわしのせいではない。わしはただ予言するだけだ。」(第9巻304頁)
 どこかシェークスピアを彷彿させる、なんと格調高い科白ではないでしょうか。
 そのサルマンも、長く虐げられていた召使いである蛇の舌の手により殺されます。己の死は予言できなかったサルマンの亡骸からは、灰色の靄が人の姿となって立ちのぼり、西の方に面を向けましたが、西からの冷たい風に運び去られてしまいました。不死の国へ帰ろうとしたサルマンの魂は拒絶され、叶えられなかったのでしょう。

 

 ※私の嘆きを聞きつけて、深井様より再度の福音。嗚呼、デネソール……。(ワンパターン)
4 深井未来生
様 −1997年3月18日着信−
「・・・まもなくすべてが燃えるわ。西方世界は衰微した。すべては劫尽の大火となって燃え上がり、一切が終わるのだ。灰だ!灰と煙となって風に運び去られるわ!」(第8巻266頁)
「・・・予はアナリオン朝の執政だ。予は身を低くして、成り上がり者の老いぼれた家令になどならぬぞ。たとえかれの主張する権利が立証されたとしても、かれはやはりイシルドゥアの家系からのみ出ている。予はそのような者に頭は下げぬ。統治権と王位の尊厳をとっくに失ったおんぼろ家系の最後の末裔にはな。」(第8巻270頁)
 
デネソールの狂気は(私は「狂気」だとは思いたくはないのですが)、哀しさに満ち溢れていると思います。イシルドゥア朝の王権復古の日までという名目でのアナリオン朝の執政によるゴンドール統治。しかし王の「代理」としては、あまりにも長く執政の世襲は続き過ぎたのです。デネソールに見られる気高さ、誇り高さには言うまでもなく、父祖から綿々と受け継がれてきた、統治者としての尊厳が植え付けられているのですが、エレスサールの正当性の前では、それはやはり空しい。アラゴルンが今まさにペラルギアの艦隊を率いて、勝利をもたらさんとする時のデネソールの心境は(デネソールはそれを知らなかったのですが・・・本当に知らなかったのでしょうか)、決して穏やかではない筈です。「西方世界は衰微した」 ・・・・彼の心を悩ませている未来図は、サウロンの邪な意志が支配する暗黒世界ではなく、うらぶれた北方の野伏によって統治されているゴンドールの「落ちぶれた」姿かも知れません。

 

※嗚呼、ボロミア…。
3 深井未来生
様 −1997年2月23日着信−
 私は何と云っても、ボロミアの死のシーンでのアラゴルンとのやり取りが好きです。
「おさらば、アラゴルン!ミナス・ティリスに行き、我が同胞を救ってください!わたしはだめだったが。」
「違う!」アラゴルンはそういうと、かれの手をとり、その額に口づけしました。「あなたは打ち勝ったのだ。このような勝利を収めたものはほとんどおらぬ。心を安んじられよ!ミナス・ティリスを陥落させはせぬ!」
(第5巻13頁)
 このくだりで私は、ボロミアの祖国愛とそれを理解するアラゴルンの「人間らしい」一面を強く感じるのです。

 

※第2弾が到着いたしました。一瞬意表を突かれる思いでしたが、改めて読み返して納得!
2 K.Momi
様 −1997年2月19日着信−
 運命に導かれて重要な使命を背負い、フロドは、安全な裂け谷から、滅びの国モルドール”への旅を始め、オークや黒の乗り手たちから身を隠し、そして、自身の心と戦いながら、仲間たちとともにオロドルインを目指しました。
 彼は、ホビット庄を出るときに、自分がこのような道を選ぶ事を知っていたのでしょうか?道というものは、高村光太郎の『道程』にあるように「僕の前に道はない」のであり、自分自身で選び、自身の力で切り開くものです。エルロンドの御前会議の場では、フロドには選択肢がまだいくつもあったのに、他の人々を守ため、最もつらく厳しい道を選びました。
 『指輪物語』には、印象に残る科白が多いのですが、その中で最も印象に残っているのが、これからの自分が選ぶ道、すなわち、一つの指輪を破壊するため「滅びの罅裂」へと旅立つ道を暗示しているかのような、フロドがピピンに対して語ったビルボの次の科白です。
道に足を踏み入れたが最後、倒れないようにちゃんと立ってなければ、どこに流されて行くかわかったもんじゃない。この小道は外でもない、闇の森を通るその道なのだ。道の導くままにかまわず行けば、はなれ山だろうと、ほかのもっと遠い、もっと怖い所だろうと、お前を連れていってしまうその道なのだ。それが、お前にはわかっているかね?」(第1巻167頁)

 

※開設一週間を待たずして、記念すべき第一声が届きました。「なるほど、納得の名科白」と、大きく頷かされました。
 
山田隆志様 −1997年2月14日着信−
 使命達成を目前にしながら指輪の魔力に屈してしまったフロド。その指から指輪を遂に奪い返したゴクリは、しかし、その「いとしいしと」と共に大火炉の中へ落ちていってしまいます。使命の重荷から解放されたフロドは言います。
「だが、お前はガンダルフの言葉を覚えているかい?『ゴクリだってまだ何かすることがあるかもしれない。』といってたのを。あれがいなければ、サムよ、わたしは指輪を滅ぼし得なかったろう。探索の旅はどたん場に来てだめになったろう。だから、あいつのことは許してやろうじゃないか!探索の旅は成就し、今はすべてが終わったのだから。お前がここに一緒にいてくれてうれしいよ。一切合切が終わる今、ここにいてくれてね、サム。」
 『ゴクリだってまだ何かすることがあるかもしれない。』は、ガンダルフが袋小路屋敷で言った言葉ですが、エルロンドの御前会議でも、そのような言葉が用いられて将来の暗示がなされています。
 ところで、デアゴル殺害の罪がこのようなかたちで裁かれるとは、ゴクリにとって何と悲しい結末でしょうか。
 3月25日はスメアゴルの命日です。指輪のとりこの安らかならんことを。
 先のフロドの言葉も十分に重く、魅力的ですが、私の一番のお気に入りの科白は、やはり、既に遙か前からゴクリの果たすべき役割を見抜いていたガンダルフが、ゴクリを嫌悪するフロドに向かって言った、この一言です。
「死んだっていいとな!たぶんそうかもしれぬ。生きている者の多数は、死んだっていいやつじゃ。そして死ぬる者の中には生きていてほしい者がおる。あんたは死者に命を与えられるか?もしできないのなら、そうせっかちに死の判定を下すものではない。」(第1巻135頁)


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