不随意筆ふあんの外面 その1(1977年5月)


1 怒りの中日新聞
 去る5月16日(※ 当然1977年のことです。)、第1回講談社漫画賞受賞者及び受賞作品が発表され、その中に我が手塚治虫の名前も見ることができたのであります。私個人としてはこの受賞自体には、少なくとも肯定的意見は持たなかったのでありますが(なぜって、受賞対象となった『三つ目がとおる』『ブラック・ジャック』両作品が、今現在それほどの作品価値があるかどうか疑問でありますし、第一、授賞者である講談社が「手塚治虫漫画全集」刊行を間近に控えておるというところに、なにかしらいや〜な気配が感じられるのであります)、ただ、中日新聞5月17日付朝刊のその小さな記事は、その名も高き我らが「瑤光」に手塚治虫論のようなものを書こうとしていたため、ここしばらく私の頭の中でもやもやしていたある感情を、またまた昂ぶらせずにはおかなかったのであります。

 昭和48年(1973年)8月のある日、中日新聞は、やはり手塚治虫に関する記事を載せておりました。今回と同じような小さな記事でした。
「虫プロ商事倒産」
 見出しはこんな風なものだったと思うのでありますが、この事実そのものに関してはどうということもなかったのであります。私の高校時代の友人には、その方面の情報にやたらと詳しいのがおりましたから、虫プロが危ういことぐらいは私だって知っておりました。虫プロ倒産の前兆として、こんなことがあったのも覚えています。プロ野球のヤクルトスワローズは、当時ヤクルトアトムズと称していたのでありますが、この「アトムズ」という名称使用に関して、虫プロ側が急にいちゃもんを付け出したのでありました(早い話が使用料の引き上げを要求したといったところだったと記憶しております)。結局この年限りで「アトムズ」というチーム名は消滅したのでありました。
 とにかく、虫プロ倒産によって私が得た感慨は雑誌「COM」廃刊による『火の鳥』の中断への哀惜と、マンガの天才手塚治虫が、経営者すなわち商売人としては失格だったことに対する、奇妙な安堵感しかなかったのであります。
 私の頭の中でもやもやしていた感情とは、そのときの中日新聞の次のようなコメントに対する怒りでした。
「これで、名実ともに手塚治虫時代は終わったといえるだろう。」
 
お分かりいただけますでありましょうか。これを読んだときの私の心中を。(※ このコメントが正確には1973年の何月何日に載せられたものであるのか、以前に確認を試みたことがあるのですが特定できませんでした。現段階では、ひょっとしてとんでもない勘違いであった可能性を否定できません。)
 「名実ともに」とはどーゆー意味か?どうして「評判も実際も」手塚治虫時代が終わらなければならないのでありましょう。たかが、会社の一つや二つつぶしたところで。
 実際、昭和48年当時の手塚治虫は、現在に至る傑作『ブッダ』を執筆していましたし、その他にも異色作『鳥人大系』『ミクロイドS』などを連載中でありました。さらに、休載中だったとはいえ『火の鳥』の名は、昭和45年を頂点と考えても、まだまだ過去のものとなってはおりませんでした。この辺から推してみれば、おそらくは手塚治虫作品を一つとしてまともに読んでいない下衆の書いた記事だったのでありましょうが、それを平気な顔して活字にしてしまう中日新聞の無知蒙昧ぶり…。
 中日新聞の悪意のこもった記事に対抗するかのように、代表作の一つ
『ブラック・ジャック』(冒頭にも書いたけれど、現在はダレ気味であるが)が連載され始めたのは、同じ年の11月のことでありました。私がその第1回の載った「少年チャンピオン」を手にしたとき、
「見ろ!手塚治虫は生きているぞ!」
 と、心の中で叫んだのは、またそのときの模様を生々しく記憶しているのは、偶々その場所が中日ビル
(※ 名古屋市栄の中心街にあります。)内の書店であったからに違いありません。(※ 実際にはどのような経緯で『ブラック・ジャック』が連載されるに至ったかについては、手塚死後に当時の編集者が裏話を披露していますが、この文章をお読みになっている人であるならばご存知のことと思います。私のこのときの感慨は、ある意味で的外れであったのです。)

2 青臭い体験
 こう書いてくると、いかにも私は手塚治虫の熱狂的ファンてな感じでありますが、私が本格的に手塚治虫へ傾倒し始めたのは、むしろ、この倒産事件を契機としてであります。
 高校時代までにまともに読んだ手塚作品は、『どろろ』及び『火の鳥』の2作品にとどまり、その他の作品については読んでも走り読み程度で、当然その内容なんて覚えているはずがないわけであります。なにしろ、中2から高3までの間は、私にとっての週刊マンガ雑誌空白期と言ってもいいころで、当時連載されたマンガは、作家作品にかかわらずほとんど読んでいないんであります。『巨人の星』『あしたのジョー』『ワル』『男一匹ガキ大将』などの名作マンガは、当時の私にはどうしても馴染めないものばかりでありました。その結果、マンガ雑誌と私とが疎遠になっていったのは当然の成り行きといえるのであります。この間、私がマンガ離れをしなかったのは、私の周りに常に石森章太郎(※ 現石ノ森章太郎)狂いの友人がいたことと、何よりも私自身がマンガ狂(描くことを中心に)であったからなのでありましょう。
 どうも書きたいように筆が進んでくれなくて、まさに「不随意筆」の名のとおりなのでありますが、この章では私の手塚治虫体験を書く予定なのであります。否、断固書くのであります。
 決して熱心な手塚ファンであるとはいえなかった私ではありますが、やはり「アトム世代(Atomic Generation)」(注 この当時から好んで使っていたんですね。)の一員であります。『鉄腕アトム』に関しては、古くは雑誌「少年」昭和35年2月号に載った、「人工太陽球」の最終回を読んだ覚え(確か色刷りでありました)がありますし、「デッドクロス殿下」以下のいくつかの作品は、兄が「少年」誌を購入しておりましたので、しっかり同時進行で読んでおります。同誌と訣別したのは昭和39年(1964年)のことで、なんとまあ、『アトム』中の傑作である「地上最大のロボット」が連載され出したのはその直後のことでありました。
 『アトム』を除くと、一番古い記憶として残っているのは『魔神ガロン』そして、次が『0マン』。この作品は、私が最初に手に入れた手塚治虫の単行本ということで特に印象深いものであります。その本は、今考えるとまったく惜しいことに人にやってしまいました…。
 さて、他にはというと『ふしぎな少年』なんてのがありますが、これはむしろテレビ化されて太田博之クン(※ 今となってはこういう俳優がいたこともご存知の方は少ないでしょう。)が「時間よ、トマレ!」なんて叫んでいる姿のほうを記憶していて、肝腎の原作のほうの記憶は曖昧。
 ここらあたりが、小学時代の手塚治虫体験のほとんど。後は、テレビ化された『ビッグX』『W3』『マグマ大使』ぐらいのところ。小学校も6年目になろうというころ、『火の鳥』は既に大きくはばたいていた(昭和42年正月から)のに、私はやっぱり小学生でしかなかったのであります。(※ この時点では、私はもっと古い『火の鳥』の存在を知らずにいました。)

閑話開始(それではそろそろ)

 小学校時代のマンガの思い出の中でも、特に強烈なのは、かの白土三平著すところの『忍者武芸帳 ―影丸伝―』の新書判全12巻を、約10時間で読了してしまったことであります。まだまだ深い内容までは理解できるはずもなく、ただ絵ばかりを(なにしろあの白土三平という人の作品は字が多くって、絵だけ見ていたんではまず分かりっこないのに)追っていたんでありますが、それでもあれだけ私を夢中にさせたのは、あの荒々しい筆致に抜群の説得力があったものと考えるしかないのであります。白土三平が私にとって大きな存在となったのは自然の成り行きというものでした。
 そうして、白土三平の雄編『カムイ伝』を追い続けるうちに、まったくの偶然で顔を突き合わせたのが、我が最愛の百鬼丸登場するところの
『どろろ』でありました。ところが、私は百鬼丸とはろくな挨拶も交わさないままに、すれ違ってしまったのであります。どろろ、そして百鬼丸との真の出会いは、中学3年へと持ち越されてしまうのであります。が、このあたりの事情を含めた『どろろ』と私の恋物語は後の章に譲ることといたしまして。

閑話漸終(やっとこさ)

 中学生…。教室に入るとたちまち現れたのが既に触れた石森章太郎狂の第1号。私と二人、それぞれに考え出したマンガの主人公が「ブーターマン」に「エイチマン」。二人が半狂乱になって遊んでおるうちに、いつのまにか2年生。いつのまにか、石森章太郎狂は3人になっておりました。ここにまた、人魚(?)女子生徒が加わってメッタメタ。それでもこの人魚(?)女子、私に初めて『火の鳥』を教えてくれたこと、『キャプテンKen』『白いパイロット』のそれぞれ第1巻を貸してくれたこと等で、手塚治虫に関する私のマンガ体験に占める位置は大きいのであります。で、『白いパイロット』。シャム双生児が出てくるこの作品。借りて読んだところ、大感激。これは手に入れなくてはと、必死に本屋めぐりをしたがついに見つけられず、結末を知らぬまま今日に至っております。今度の全集刊行で漸く願いが叶いそう、という次第であります。(※ 現在では全集を始めとして文庫でも入手可能ですが、いずれも当時の単行本からカットされてしまった部分があるため、悲しい思いは続いております。)
 さて、3年生になると、さらに二人の仲間が加わり、我が仲間は史上空前の人数に膨れ上がったのでありますが、大帝国は分裂するという歴史の必然に従い、瞬く間に空中分解を遂げてしまったのでありました。

閑話耳矣(ええかげんにさらせ!)

 ともかく、アニメーション『どろろ』の再放送が中学3年の私の目の前に現れたために、私の運命は狂いを生じ始めたのでありました。
 そして、高校進学。
 高校で知り合ったのが、これまた
石森章太郎狂。石森作品ならばピンからきりまでといった手合いで、私もこれに巻き込まれ、手塚治虫とはまた縁が切れてしまいそうになったのであります。しかし、昭和46年(1971年)に刊行され始めた単行本『どろろ』全4巻(※ 「サンデーコミックス」秋田書店刊)を買うことだけは、さすがの私も忘れはしなかったのであります。
 類は友を呼ぶ。高校時代にもマンガき○がいウルフガイ、ただのき○がいが寄り集い、トリオ・ザ・フラワーなる秘密結社やら写真部(ヘンな奴が集まっていた)などといった怪しげなものが校内を徘徊していたのであります。

閑話切断(死にたくないので)

 高校も3年生になったころ、例の石森狂が突如として手塚治虫狂に転向。それは当然私にも影を落としたのであります。彼のにわかの変節の原因となったのが、アニメーション『海のトリトン』でありました。これは手塚治虫の原作とは全くと言っていいほど違った内容の作品でしたが、それなりにすばらしく面白く、一部中高生の間で熱狂的な支持を受けた作品でありました。残念なことに低視聴率で、予定より早く放送終了してしまいましたが、一時は復活運動も起こったほどです。(※ 思えばこの作品あたりが後の2次元コンプレックス症候群からアニメオタクへと続く流れの源流かも知れません。)
 かくして、手塚治虫に還った私は、漸く大学へと潜り込んだのであります。大学も1年のうちはおとなしくしていたのでありますが、昭和50年(1975年)
『鉄腕アトム』出版(※ 朝日ソノラマ社刊 新書判全21巻+別巻1)を聞くと、とうとう発狂。手塚作品漁りが始まったのであります。高校卒業時『どろろ』4冊以外所有していなかったものが、今では100冊突破寸前という状態になってきたのであります。今度の全集の刊行は、またまた私を狂わせそうであります。

3 おまへはだれだ?
 
アセチレン・ランプ、ハム・エッグ、佐々木小次郎、丸首ブーン、スカンク草井、ヘック・ベン、ロック・ホーム、レッド公、ブクブック、伴俊作(ヒゲオヤジ)、力有武、ケン一、ジェームズ・メースン、ヒョウタンツギ、スパイダーなどなど…。みんな手塚マンガに欠かすことができないスタアたちです。
 私の好きなアセチレン・ランプ。あのローソクを後頭部に立てた悪党面。それが、愛敬抜群なのです。同じ悪役なのに、あのチリチリ頭のハム・エッグや爬虫類的な感じのするスカンク草井なんかに比べるとはるかに愚かで、それだけ人間臭いんであります。それにしても、これらスタアたちの名前。何と珍妙な名前でありましょう。この章では、こんなスタアたちの珍名について一言。
 上に挙げた名前の多くは一目で何をもじった名前なのか察しがつきます。ところが、一見まともに思える漢字の名前でも、ちょいと考えてみると「アリャマ」なんてのも多いのであります。たとえば、
『百物語』の主人公、不破臼人。この人、三つの願い事を叶えたいがために悪魔に魂を売り渡してしまう…とくればもうお分かりでしょう。すなわち、「ファウスト」のもじり。(※ ついでに彼の元の名は一塁半里。つまりファースト・ハンリ…。そもそも『百物語』がゲーテの『ファウスト』の翻案であることはご存知であると思います。)『きりひと讃歌』の主人公は小山内桐人。オサナイキリヒト…つまり「幼いキリスト」。この名の意味は作中での彼の運命を見ているとなんとなく理解できるのであります。(※ 全集版の表紙をご覧ください。十字架を背負って歩く彼の姿が描かれています。)そして、『バンパイヤ』に登場する下田警部。シモダじゃなくてゲタであります。実際、顔が下駄に変わっちまったことがあります。『ブラック・ジャック』では将棋の駒に変身した(※ 「目撃者」というエピソードの中です。)こともありましたが…。ところで彼は、『奇子』にも出演しているんでありますが、その息子も作品中で重要な役割を果たします。その名は波奈夫。これなんかシリアスな役柄なんで、ついつい見逃してたんだが、考えてみたら、ゲタハナオつまり「下駄の鼻緒」のもじり。ひどいというかすごいというか。さらに傑作なのが、写楽保介と和登千代子の『三つ目がとおる』コンビ。シャラクホースケとワトさん(※ 主人公は彼女をいつもこう呼んでいる。)…。なんとシャーロックホームズとワトソンコンビのもじりではありましぇんか。これに気づいたのはつい最近なんだが、実は単行本の第2巻p161(※ 新書判・講談社刊)にちゃんと種明かしがしてあったのであります。写楽クン、まさにホームズのいでたちでポーズを取っていたのであります。オソレイリマシタ。(※ これについては、雑誌「絶体絶命」1977年12月号40ページに羽仁美央サンの同様の発見コメントがあります。)
 その他、チョイ役なんぞになると、もうメチャメチャ。大福安古、井塩春三、矢似鳴太、お自夜、お須志、トマト・ケチャップ、ハース・レンコーン、青鳥ミチル…。挙げてったらきりがないんで、もうやめることにします。
 手塚治虫には
、こんな楽しみ方もあるのであります。
 次号へ続く。