太陽をさがしてロゴ西湖伝説「太陽をさがして(消えた太陽)」参考資料

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西湖とは、中国浙江チェーチャン杭州ハンチョウ市にある湖のことです。箱根にある「西湖」は「さいこ」といいますが、杭州にある「西湖」は一般に「せいこ」と呼んでいるようです。ローラ・チャンは「さいこ」って言ってましたが…。現地ではもちろん中国語ですので「シーフー」です。

杭州の位置◎杭州市について

上海から西に向かうと、2時間ほど(高速鉄道ならで45分くらい)で杭州ハンチョウ市に着きます。南宋の時代には都として「臨安」と呼ばれていました。現在は中国浙江チェーチャン省の省都で浙江省の政治、文化、経済の中心地です。個人的なイメージですが、古い時代の都で文化遺産に恵まれており、割と近くに商業都市(上海)があるところから、日本でいえば京都市のようだと感じています。
中国の沿海部、浙江省の北部にあり、南宋の時代には都として「臨安」と呼ばれていました。北緯30度15分、東経120度16分、日本の鹿児島県屋久島とほぼ同じ緯度です。気候は亜熱帯に属しており、四季の移り変わりがはっきりしていて、年間平均気温は16.3℃、また年間降雨量は1,500mmです。雪はめったに降りません。
杭州は古くから風光明媚な景勝地として広く知られていました。中国の諺に「上有天堂、下有蘇杭(天上には天国があり、地上には蘇州と杭州がある)」とうたわれたほどです。13世紀にマルコ・ポーロが杭州を「世界で最も美しく、華やかな町」と例えました。
杭州は、唐代から絹の生産、紡績業が盛んです。地元の龍井茶は、中国でも特に有名な緑茶です。他にも、張小泉のはさみ、王星記の扇子なども杭州の名産です。
岐阜市と姉妹都市提携を結んでいます。

西湖の小瀛洲◎西湖について

西湖は南北3.3km、東西は2.8km、周囲約15kmで面積は約5.6km2あります。水深はごく浅く、平均1.8mほどです。阮公敦、湖心亭、小瀛洲と呼ばれる三つの島があり、白堤と蘇堤と呼ばれる長い堤防によって外西湖、西里湖、北里湖、岳湖、南湖と呼ばれる5つの湖面に分けられています。また、曲院風荷、平湖秋月、断橋残雪、柳浪聞鶯、雷峰夕照、南屏晩鐘、花港観魚、蘇堤春暁、双峰插雲、三潭印月の西湖十景が昔から有名です。

霊隠寺の四天王像霊隠寺リンインスーに祀られた松岡氏

霊隠寺は杭州市街と西湖をはさんだ反対側、霊隠山のふもとにある寺院で、中国の十大禅宗の一つで東晋の咸和元年(326年)に杭州を訪れたインドの僧侶慧理が創設したものです。あたりの秀麗な山々を仏教修行者の心霊の隠れ住むところと見て「霊隠寺」と名づけました。全盛期の10世紀ごろには、9楼18閣72殿堂1,300余室、僧侶が3,000人いたといわれています。
この寺の大仏殿である「大雄宝殿」は高さ33.6mあり、中に安置された金箔張りの釈迦如来像は高さ19.6mで中国の坐像としては最大クラスのものです。
その手前にある「天王殿」の中には高さ8m、極彩色の四天王像があります。そのうちの1体が松岡直太郎氏にそっくりだと一部で評判でした。

六和塔銭塘江チェンタンチャンについて

杭州市街地の南を流れる銭塘江は大逆流で有名な川で、全長が約610kmあります。旧暦の8月18日には一年中で一番激しい逆流が見られ、10万tの海水が時速25kmで河口から80kmぐらい奥まで走ります。これほどの大逆流が見られるのはアマゾン川(ボロロッカ)と銭塘江だけです。
この大逆流によって多くの土地や家屋が流されたため、逆流を鎮めるために呉越国の国王銭弘俶が川のほとりに六和塔というたいへん均整の取れた塔をたてました。
銭塘江と長良川、六和塔と川湊灯台を対比させた額が美濃市役所のロビーに掲げられています。
杭州にある碑岐阜にある碑

アニメ白蛇伝◎白蛇伝について

中国の民話。日本でいうかぐや姫や一寸法師のように国民の基礎知識ともいえる有名なお話です。日本でもアニメーション(日本初のカラー長編アニメ作品)で劇場上映され、その制作過程が朝ドラ「なつぞら」にとりあげられたので右の画像に見覚えのある方もいるでしょう。また安倍なつみ主演・広瀬香美音楽のミュージカルが上演されてもいます。
峨嵋山がびせんに住む白蛇の精、白素珍がある日散歩をしている途中、断橋の上で美男子の許仙と出会い、恋に落ちます。二人はめでたく結ばれ、子どもを授かりますが、白素珍は金山寺の住職法海に白蛇の化身であることを見抜かれ、雷峰塔の下に生き埋めになった…というストーリーは、主人公の名前とともにいくつかバリエーションがあります。

おまけ

その昔、境界を接する呉国と越国との間で約30年にわたる戦争が続けられていました。呉国とは現在の蘇州を中心とした地方を指し、越国は現在の紹興を中心とした地方を指します。
ある時、越を攻めていた呉国の王様が負傷して死んでしまいました。皇太子の夫差は越へ報復を誓います。この夫差は薪の上に寝て復讐心を忘れないようにしました。これを薪に臥す、すなわち「臥薪」と言います。
数年後、夫差は越王勾践を会稽山で降伏させ、勾践は人質として呉国へ連行されます。勾践は呉国の都で石室に住まわされ、汚い衣服を着て馬を飼う生活を送りました。このことを「会稽の恥」と言います。
数年後に釈放されて帰国した勾践は復讐を誓い、つらく苦しい日々を忘れないために、食事のたびに苦い動物の胆をなめました。これを「嘗胆」と言います。
しかし、こんなに仲の悪かった両国の人民も、銭塘江を渡る交通機関は船しかなかったので同じ船に乗り合わせることがあり、そんな時に争っては船が沈んで双方とも命を落とすため、この時ばかりは互いに協力しました。これを「呉越同舟」と言います。
臥薪嘗胆、会稽の恥、呉越同舟、いずれも杭州近辺でのできごとが語源となったことばです。

さらに

西湖畔の柳浪聞鶯公園に松尾吾策岐阜市長(当時)の揮毫による「日中不再戦」の碑があります。岐阜市にも岐阜公園の北、御手洗池の畔に王子達杭州市長(当時)揮毫の「中日両国人民世世代代友好下去」の碑があります。1972年の日中国交正常化よりも10年早く、1962年10月にこの碑文の交換をして交流を始めるにあたっては関係者の並々ならぬ努力があったと聞いています。その後、岐阜市と杭州市は公式に友好都市提携を結び、交流を続けてきました。
中国杭州市の柳浪聞鶯公園はちょっと遠くて簡単に行くわけにはいきませんが、岐阜市の「中日両国人民世世代代友好下去」の碑の周辺は「友好庭園」といって中国風の門や四阿、西湖を模して作られた池などがひっそりとあります。小さな公園なので「上有天堂、下有蘇杭」体験とはいかないながらも、ちょっとだけ中国気分を味わうことができます。
杭州にある碑岐阜にある碑
またこの音楽劇のタイトルでも中国とはひと悶着あったようです。この音楽劇が岐阜市の企画で初演されたとき、当初は“消えた太陽”として台本を書いたところ“太陽とは最高指導者を表す比喩である。それが消えたというのは最高指導者の不幸を願って中華人民共和国を貶めようとするのか”とえらく立腹されて中国側の協力が得られなかったそうです。そこでタイトルを“太陽をさがして”に変更し、へそを曲げた中国を説得し説得して何とか協力体制をとってもらえたということらしいです。
そしてこの公演では無事に中国から京劇団員の派遣をしてもらえたのですが、平成24年に浙江京劇団公演を行おうとしたら国際情勢の都合により共産党の指示で来日をキャンセルされてしまいました。う~ん。再び美しい女性団員に会えると思っていたのに、残念。

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