武義高等学校創立記念講演会

内木茂「すばらしい町、上有知」

昭和62年2月12日 午後7時 美濃市文化会館

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(校長)
今日お話しをいただく講師の先生をご紹介申し上げたいと思います。先生は、そこにも書いてありますが、内木茂先生とおっしゃいます。うちの武義中時代第9回で、昭和8年の3月にご卒業になっておられます。武義中を卒業されましてから、その時ですから今の韓国のほうへ渡られまして、そして師範学校をご卒業になり、韓国に戦前十年ほど教師をなされておられました。そして、敗戦後引き揚げられましてこの美濃地区を中心にしてそれからまたずっと教職生活を続けておいでになります。最後は美濃北中学校の校長先生として後輩のご指導にあたられたわけですけども、退職後はこの美濃文化会館の館長もお勤めになった、そしてその館長を退かれた後は美濃市の文化財保護委員、あるいは美濃市の文化財を守る会の理事長として、今度はその方面でいろいろご尽力をいただいております。なお、毎月この美濃市の広報の中に「美濃の歴史散歩」という一部掲載記事があるそうですけども、そこへ先生が毎月投稿しておっていただけるそうです。
現在、美濃市の港町にお住まいで、大変お近い所でこの美濃市をこよなく愛され、そして武義高校をこよなく愛されていらっしゃる先生からわれわれ後輩としてお話をうけたまわることは大変意義深いことだと思います。
今日の演題は「すばらしき町、上有知」というタイトルであります。どうかひとつ先生のお話を充分お聞きして心の糧としていただきたいということをお願いをして、最初に先生のご紹介と挨拶としておきます。
終わります。

以下の文中に何度も「~ばっか」「~ばか」という表現が出てきますが、これは「~ばかり」「~だけ」「~ぽっち」というような意味の地方語です。その都度注釈しないのでご了承ください。
皆さん、こんにちは。ただいまご紹介いただきました内木です。お話のように私も武義中学校の卒業生です。創立記念日、昔から2月12日。建国記念日ですね今で言うと、昔は紀元節、その次の日、1日学校が休めるのでもうかったなぁと思っていただけです。そう深くそんなこと考えたことはありません。
私どもが中学まいりました当時、今創立記念の講演だとおっしゃるので思い出すことが雲のように湧き上がるのです。小学校の卒業式はねぇ、全部着物、袴です。武義中に入りました。この美濃町から17、8人、下牧から2人、上牧から2人、洞戸から3人くらいかな。あと、藍見はなし、大矢田で1人、中有知はなし、関から12、3人、美濃加茂市からやっぱり7、8人、郡上の八幡から5、6人、その程度の者が中学校へ来たものです。男ばかり。で、中学へ来るのに入学式からみんな着物に袴、入りました時に入学式の後にすぐ靴を注文しまして全員履物は靴。次の日からは着物に袴、靴履いて学校に行った、嘘みたいだね。それが7月になると全員夏服に替えます。それから服装がきちんとします。あとは夏服、冬服。皆さん夏服と言ってもわからないかな、昔は白に点々と黒い斑点の入った霜降りというのが夏服でした。今皆さんはほとんど同じですね。夏と冬と2着、それが武義中の制服でした。
その頃、武義中で勉強するということは普通の子供たちにはまず考えられないこと。私は幸い美濃町でしたから、それほど財産がなくてもそんなに金がかからないので武義中に行けた。あと、美濃町以外から来た人はよほどの財産家の子弟ばかり、そういう状態でした。もちろん女子生徒は一人もおりません。女子は関に武儀高等女学校というのがあって、そちらへ行きました。男ばっかの学校、考えられないね、皆さんでは。
私どもが中学3年の時に満州事変(ママ。以下同じ)が起こりました。今でいうと社会科、昔は地理、地理の後藤守という先生がさっそく満州に行きましていろいろ見てきました。そして武義高の、武義中の講堂で「満州見聞記」という講演をしてくれました。忘れられません、その後藤先生おっしゃるのに「日本が満州事変起こしたのはあったりまえや、日本が大事にしていた満鉄、その満鉄が傷つけられたんだからそんなもの日本が怒るのはあたりまえだ」と言って講演しなさった。ポケットから万年筆出して「満鉄をポキンと折ってまった(折ってしまった)、黙って見とれるか」って言いなさったのが非常に印象に残ります。
その頃からねぇ、武義中は、武義中だけじゃありません、日本中の中学はひたすら国のために、日本の国をもっと立派な国にするために、それ一筋に教育を受けました。
今皆さんは大学に行こう、上級学校に進もう、そう思ってる人がずいぶん多いでしょうね。私どもはそんなこと思っとる(思っている)人はほんの一部。しっかり勉強してなぁ、一高に行こう、今で言うと東大、三高に行こう、京大、八高に行こう、などと思って必死になって勉強している人がありましたが、私んた(たち)はそんなこと考えませんでした。中学出たらどのようにして国のお役に立てるだろう、それと同時に自分の生活も安気(平穏)に暮らせるだろう、そんなことばっか思っておりました。
その頃私を小学校で教えてくださった、6年間小学校で習った先生が朝鮮、今の韓国に行っておりました。その先生から、恩師から手紙が来まして、「内木、おまえ中学出たらどうする、韓国の京城師範学校受けてみよ」、今で言うとソウル大学です。「あそこに行くと入学許可が出れば月10円ずつもらえるぞ。卒業すると月給は80円」。日本の先生は50円ばか。「80円もらえる。国のためになって自分のためにもなって、こんなええとこ、おまえぜひ来てみなさい」って言われてその気になって私は韓国の京城師範学校に入りました。そこで勉強してそれからずっと韓国で暮らしました。
武義中学校時代、私はそんなに勉強しませんでした。私どもが武義中学校時代、ただ私が心を燃やしたのは、スポーツです。私がやったんじゃないよ。その頃のねぇ、武義中学校はスポーツ、特に陸上競技の全盛でした。野球はだめでした。野球部あったけどもう、弱いもんでした。陸上競技。三段跳びの中原なんて選手はねぇ、当時14m20跳んで岐阜県の飛び抜けて1番いい記録でした。渡辺ってのは100m12秒、それで1番速かったんですよ。県下で1、2と下らん走者でした。考えると私の友だちには数々の陸上競技の名選手がいますねぇ。岐阜県中等学校陸上競技会に行きますとたいてい、優勝はできなんだなぁ、2位か3位でした。岐阜の陸上競技大会に行って800m競走で、リレーで、私の友だちが断然トップを走ったあの快感は今でも忘れません。一生懸命勉強したわけじゃないがただスポーツのその陸上競技の強かったこと、誇りにしておりました。
私の友だちの中には私より賢い人、その頃からもう学校の勉強捨ててしまってねぇ、ひたすら受験勉強、八高に行った、名古屋大学、三高に行ったなんていう生徒が大勢ありましたねぇ。中には軍人になろうと決意を固めて陸軍士官学校を受けた。中学四年で見事に失敗しました。あとから聞きますと、卒業してまた受けた、また失敗した。また受けた、ついに陸軍士官学校に入った三木という友だちがいます。これは飛行兵になってねぇ、それから軍人になってから1、2回、上空から武義中の校舎を写真に写してねぇ、学校に寄付してくれたはずです。
満州事変、それから支那事変(ママ。以下同じ)、戦争は拡大する一方。支那事変で私たちの友だちがもうすでに3人ばかり戦死しております。それから太平洋戦争、私の友だちの多くは戦死をしてきました。ただ私は先生をしていたおかげで1ぺんも兵隊には行かずにすんでしまいました。戦場の苦しみを味あわずにすみました。幸か不幸か。しかし戦後再び教壇に立って、戦前は私韓国で朝鮮人(ママ。以下同じ)の子供たちを教えておりました。何の疑いもなしに韓国の子供たちが日本人と同じような国民に育つようにことばを教え、精神を教え、ひたすら国のお役に立つこと、そればっか考えて教えたもんです。考えてみればひどいことしたもんですね。韓国人からことばを奪った。そして日本人に準ずるように、そういうことばっか必死になって勉強教えてきました。私が戦後こっちへ帰ってきましたら、昔教えた、最後に教えた6年生の子が手紙をくれました。「内木先生、この手紙は僕たちクラス会の名で先生にさしあげます。僕たちクラス会はあの先生の教育をもって、みな本当にひどい教育を受けたもんだ、日本語ばっか使わされて日本の国に忠誠を励むようにそのことばっか教えられて、本当にくやしいと思います。しかしクラス会の名において先生からいただいた知識、先生から授けられた愛、そのことだけは忘れることができません。クラス会の名において内木先生の教育はまちがっていた、しかしその中に真実のあったことを僕たちは話し合いました。先生、どうぞいい先生になってください、本当の日本人の教育をしてください」。そういう手紙を受けたことがあります。その後、その時に教えた子供が1、2回僕を訪ねてくれたこともあります。
そして戦後の教育を受けながらずっと中学の教員をやり、中学の校長をやり、今やめております。今の高校の皆さんは、頭の中にあるのはただ大学受験だけのことかなぁ。僕が武義中学におった当時、どうしたら国の役に立つだろうなんてことばっか考えておりました。もちろんそれと就職したら割のいい仕事につきたいということもありましたけど、もう1つ、国のために役に立つような、そんなことばっか思っていたんです。今皆さんとはそこが違うかなぁ、違うといえば。
私は中学で社会科の先生をしていた。社会科の先生していてねぇ、特に感じたことは歴史の大切。なんでこんな大切な時間使って私が武義中時代から今までこんな話したかというと、その私のたどった足跡だけでも1つの歴史だ。それを思い返す毎に、いかに生きたらいいかということをいつもその歴史の中から教訓を私は受けとるの。皆さんの社会科の勉強が、歴史の勉強が大学受験のための暗記物になっているなら、こんな悲しいことはないと思います。歴史の大切さ、それは自分の歩んできた過去の実績の中から私、今それを大切さを痛感しているのです。
私が武義中当時に歴史を習った先生は吉田先生、とってもいい先生でした。しかしその吉田先生からは歴史の大切さは何にも聞くことはできませんでした。それは作られた日本の歴史であり、本当のことは何にも知らされておりませんでした。戦後になって私初めて、あぁ、これが歴史だなぁってことを感じております。
私が中学2年の時、武義中の校歌ができました。「古城のふもと梅山に、学ぶ賢児の」、あの云々ですねぇ。「武義中学の名を挙げん、武義中学の名を挙げん」という最後の結びの校歌です。私は武義中学の名を挙げんってことは思ったことは1ぺんもありません。中学時代から今日まで。いかに昔は国のため、今なら世のために役に立つか、そればっかです。名もない私、私の(友だちの)中には三高を卒業して大学の先生になった人もあります。八高を出てこれも大学教授になった人もあります。私はそんな名を挙げることは今でもそう(それほど)皆さんに期待したくないと思います。武義高校の名を挙げんでもいい。ひとつ言いたいことは、どうぞ社会のために役に立つ人間であってほしい、そのことを忘れずにおってほしいと思います。
校歌の中でね、私今でもふしぎに思うの、「古城のふもと梅山に」そのひとことをね、あ、後ろに古城山がある、あ、ここは梅山というとこだった、「古城のふもと梅山に」それ以上の私は話を聞いたことがない。その当時のやはり武義中の教育は歴史教育にしろ何にしろ、やっぱり昔も受験で役に立つ暗記物やったかもしれない、そんな「古城のふもと梅山に」なんか関係なかったかもしれない。残念だと思うなぁ。その頃から「古城のふもと梅山に」のひとことにこもるこの歴史をもっともっと武義中で習いたかったなぁと思います。
今日の演題に「すばらしき町、上有知こうずち」と書きました。変な演題だなぁ、あれ「こうずち」と読めますか。うえ、ある、しる。「しもうち」はありますねぇ、関市下有知しもうち。その「しもうち」に対して上の有知だから「かみうち」なんです、ここは。この美濃町は「かみうち」、それから下の平野部が「しもうち」なんです。その「かみうち」、これをなまって「こうずち」と読むの。この上有知の町をもっと皆さんによく知ってもらいたいと思うの。「しもうち」「かみうち」。「中有知」っていうのがありました。生櫛、松森のあたり、あれは明治になってつけた名前、新しい。「しもうち」と「かみうち」は一千年の昔からの古い名前なんですねぇ。
しかしそんな昔の話からしておると時間がきますから私とばします。約四百年昔、関ヶ原の戦争、そこから始めましょう。その時の上有知は今の中濃総合庁舎から下渡橋、あの田んぼの中が上有知の町でした。それを支配していたのが佐藤才次郎方政さとうさいじろうかたまさという殿様で、町の中に屋敷を構え、城は古城山にあった。「古城のふもと」というのはその時にあったあの城、四百年昔にあった城、それが「古城のふもと」です。
本当は古城山とは言いません、「鉈尾山なたおやま」と言います。鉈尾山となぜ言ったかといいますと、今でも古城山に登ってみますと上に本丸跡があります、頂上に。そこは四方を壁で囲んだ塀があった、ところがその塀は仕掛けがしてあって、本丸のある1ヵ所の綱を鉈でパチンと切ると四方の壁が崩れておちる。攻め寄せた敵兵は全滅するという仕掛けがあったということです。だから鉈尾山城と言った。
その殿様の佐藤才次郎方政は関ヶ原の戦いにどっちにつこうか迷いました。徳川家康につこうか、どうもあれが勝ちそうだ。しかし西方の石田三成、あれは亡き豊太閤ほうたいこうの遺志を継いで何とか豊臣氏を盛り返そうとしておる。自分は豊臣秀吉、豊太閤に仕えた、その恩義を思うとそんな利益で去就を決めるのは武士らしくない、負けるかもしれんが西軍の石田三成のほうへつこうと決意をします。佐藤才次郎のお父さんの妹、おばさんです、おばさんが高山の殿様のところへ行っております、結婚しております。高山の殿様、金森長近かなもりながちか、義理のおじさんの高山の殿様に相談をしました。そうすると高山の長近は「それはおまえまちがっとるぞ。今そんな昔の豊太閤に対する恩義だ、そんなことを言って石田三成についてみろ、家はもたんぞ。やはりここは天下に人望のある徳川家康につかなあかん。東側につかなあかんぞ」という手紙をもらいました。手紙をもらいながら古城山の殿様はおじさんのところに「たとえ叔父、甥が敵方になろうとも、私はやっぱり西軍につきます」と宣言をしてしまいます。
関ヶ原の前哨戦、徳川家康の大軍が岐阜城に押し寄せた時、古城山の殿様は、佐藤才次郎方政は、手兵五、六百あったでしょうか、約三万石の殿様でした。この武儀郡一帯を支配していたんです。引き連れて岐阜城の戦いに参加しましたが、負けて加納のあたりで負けて戦死したといいます。美濃町の上条に伝わる、あの八幡様のある所、あそこに伝わる人の伝説では、佐藤才次郎方政は加納の戦いで負けて深傷を負い、やっとのことで上有知の上条まで逃げてきた。というのは上条の八幡様の神主が、宮司が佐藤氏の親戚だった。親戚のところへ来てかくまってもらおうと思って来たが、着いたのは真夜中、神主の家の門の前にある松の木に寄りかかって死んでいるのが朝発見されたという、そんな言い伝えが残ってるんですよ。生々しいねぇ。戦いに負けて上有知までたった一人落ちのびてきた佐藤才次郎方政はそこで死んだといいます。
今その松の木があったという所に小さなお宮があります。佐藤神社といいます。村の人が祀ったの。私はもう20年ほど前、美濃中におる頃美濃中の生徒を連れてねぇ、佐藤神社に見学に行ったことがある。そして近くの人に頼んで無理無理お宮の扉ギーッと開けてみたらねぇ、中に鍋みたいなのが入ってた。兜の1番上の所、南蛮鉄の兜、上の丸い所だけ残って、あとしころっていう、こういう細長い湾曲した鉄片が5、6枚残っておりました。これが死んだ佐藤様がかぶってみえた兜です、ということでしたが、はーん、こんなものがそうかいなぁと半信半疑で私帰ってきました。その後兜の専門家がここへ来たことがありますので、私はわざわざその兜を持って、その岐阜県きっての吉田という先生ですが、見てもらった。そしたら吉田先生が「これはねぇ、そんな百石、二百石取りの武士のかぶるもんじゃない。これは大名級、一万石、二万石という大名がかぶる南蛮鉄の兜だよ」って言いなさった(おっしゃった)。あの話、嘘じゃないかもしれない。少なくともその兜は古城山の殿様、佐藤才次郎方政のゆかりのものに違いないと、今でも確信しております。鍋みたいな兜の頭、しかし私は美濃市にとっては大切な大切な遺品だと思っております。
それと古城山の頂上に残るあの城の規模、皆さん古城山に登ったことがありますか。ぜひ登ってほしい、武義高の生徒は。そういう、私がねぇ最近かつての武義中時代の教育に、私はそんなにたいしたものに思わんというのは、私連れていってもらったことがない、その当時。なぜ「古城のふもと梅山に」というなら全員古城山には登らしてもらいたかったなぁと今思っておるところです。そうして佐藤氏の話を聞きたかった。
関ヶ原の戦後金華山で、勝った徳川家康の部下に対する論功行賞があった。その手柄によっておまえにはこれをやる、おまえにはこれをほうびにやろうという、そういう会議が金華山のお城であったといいます。その中で徳川家康は高山の殿様、金森長近を呼びだして「長近よ、おまえのこの度の協力はもうことばに言いつくせない感謝を感じている。あんたと私は織田信長が全盛時代、母衣武者二十人衆の仲間として2人は戦場を駆け巡ったものである。織田信長には一生懸命2人とも手をとって忠勤を尽くしたあと、徳川家康、金森長近は親友として、亡き豊太閤、豊臣秀吉にも2人忠勤を励んだもんだ。いわばあんたと私は昔から友だちだ。それが今度の関ヶ原の戦いには私の部下として私を助けてくれた。あんたのその気持ちは忘れることができない。今日のこの論功行賞の場でほしいものがあったら何でも言え」と言ったそうです。
そうすると金森長近は「誠にありがたいおことば、もしもきいていただけるなら上有知をいただきたい」そう申し出たそうです。なぜ上有知と言ったんでしょう。徳川家康は「あぁそうか。それじゃぁ上有知、上有知二万石、おまえにやろう」と言ってこれをくれたの。なぜ上有知をとったか。それは金森長近にとっては甥が支配していた土地なんです。親戚の者が戦いに敗れて滅びてしまったけれど、あの土地は自分が因縁があるからもらいたい。そういう理由があった。
もう1つあった。これはその時に言わなかった内輪のねらい、それは飛騨の高山と上有知とは交通の要所、連絡、飛騨のこれは出口。そんなこと言って皆さん信じられませんねぇ、飛騨がなんでここを出口にしたのか。それは美濃太田から下呂に行くまで、あの飛騨川の流域、岸、それはもう絶壁の連続です。昔からあそこには道がなかったの、1本も。高山線、あのながめ、絶壁の連続。あそこは道がない。だから高山からこの平野部にでてくるには、高山から金山を通り金山から武儀町を通り津保谷といいます、津保から樋ヶ洞、口野々、上有知と、ここから出てくると船が使えます、長良川。だからこれは高山と平野部をつなぐ交通の要所だったんです。それが2つ目の理由。
3つめ、まだあった、内緒にしておる理由が。金森長近の長男、長則ながのりというのはねぇ、非常に若くて美男子で武術に優れ、有望な後継ぎだったんです、長男が。それが織田信長の本能寺の変の時、京都に行っていたんです。そして明智光秀との戦いでもちろん負けて戦死しました。本当に情けなかったんやねぇ、長則は。それから長近は長則が死んだのを機会に頭を丸めてねぇ、坊さんになってしまいます、形だけ。それで娘にお婿さんをもらって、板取村の長屋将監ながやしょうげんの息子ということです。それに跡を継がせます、金森可重ありしげ。ところが養子をもらって後継ぎにしてから、遅くからまた子供が生まれます、長近は。孫みたいな子供が。だから長近は高山はその養子の可重に譲る、自分が遅くから生まれた孫のようなかわいい子を連れてこの上有知を根拠地にしよう。という、考えたわけですね。だから長近はいいかげんなつもりでこの上有知をもらったんじゃない、いろいろの考え考えてこの上有知をもらってここへ来ます。
ここへ来た時にこのあたりが金森長近のえらいところ、これからの世の中は戦争戦争、そんなことばかり考えていたら絶対にやっていけない。あんな古城山の高い所に城を構えて何の役に立つだろうか。同じことは織田信長も考えたんですね。岐阜の金華山をとって天下を支配しようとするが、あ、こんな高い山の上でこれから経済を考えなくては日本は治まらない、天下を統治することはできない。そう考えて金華山から安土、安土の低い山の上に城を構えた。もっとも信長は失敗してしまいますけど。
長近も同じ考え、あんなとこに城を造って何になる、城はこの低い山の上だ、というのが今の小倉山なんです。当時尾崎丸山といっていたあの小山を、京都の和歌にしょっちゅう歌われる名所、小倉山、百人一首にありますねぇ、『小倉山、峰のもみぢば心あらば…』云々という歌があります。その小倉山、これ(尾崎丸山)を小倉山と名前を変える、そしてあそこに小倉山城という城を造る。しかし城を造っただけでは、さっきの話じゃありませんが経済政策を考えないとこれからはやっていけません。
だから小倉山、その前に流れる1本の小川、長之瀬川ながのせがわ、それを城の濠にする、小さい川ですからその両側はたんぼにする、さらにたんぼの外側は薮にする。城と谷川、濠をへだててさらに東側の丘の上に上有知の町を造ります。その当時、上有知の町はまったく原っぱ、原野です。それを開拓してねぇ、2本の町を造ります。
金森長近はねぇ、お城と町を造る名人なんです。高山に来る前に越前の大野、福井県大野市、あそこへ来たときにねぇ、まず造ったのが高い山の上から城を低い亀山に移して、低い亀山の下に5本の町筋を造った。一番町、二番町から五番町まで。大野の町は今でもその5本の町が中心です。5本の町を3つに区切って、上、中、下。一番町上、中、下、二番町上、中、下。お城に近いほうから番号つけていきます。これ越前大野。
ところがだんだん出世して織田信長から高山をもらって、高山にも松倉山という高い山にあった城を、今の低い城山に移して、その前に町を造りますが、高山は城と川との間が狭かったので三番町まで造ります。高山一番町、二番町、三番町、上、中、下に分けて。近頃大勢の人が高山に行きますねぇ。高山三之町、三之上町、高山はいい、高山はいいといいます。同じ長近が小倉山に城を築き、ここはさらに土地が狭かったので一番町、二番町。それを3つに区切って上、中、下。
板書
これは長良川。前に一番町二番町2筋の町。それを4本の横丁でつないで「目」という字、こういう町をつくるんです。で、小倉山と町との間は谷川、長之瀬。城と町人の町と画然とへだてます。これ今の町です。私が目という字を書いたら今の町と照らし合わせてわかりますか。この町をつくって商売、経済繁栄のためにもう一筋、道(1)をつくります。あの二重丸をしたところが上有知湊こうずちみなと。私はその辺に住んでおるの、港町みなとまち。港町川灯台。この道がどのように続くかといいますと、この一番むこう、ななめ上にいく道(2)、これが郡上に通じます。あれは郡上にいく道。その下、二番町から通ずる道(3)が飛騨の高山にいきます。この道(4)が岐阜街道。この道(5)が関街道。こんな道路計画なんです。
板書
あの、おととしでしたかねぇ、日本の町並み研究の大学の先生たちがここへ来ました。私が町をずーっと案内して最後に大学の先生たちに感想をききました。どうですか美濃の町並みは、といいましたら、ある大学教授は、「すばらしい、感動しました」。どこに感動しましたかっていったら、「私の町並みの感動はここで最極点に達した。金森長近の都市計画が今もそのまま町に残っておる、そこがすばらしいと思った。一番町、二番町の町並みのすばらしさもさることながら、その町並みの繁栄を支えた港、そこまで長近が工夫研究したことが今もそのまま残っている、それに私は感動しました」と、ある大学の教授はいいました。感動したといったよ、そのときに。こういう多くの武将がつくった城下町は、三百年四百年の間にほとんど姿を変えてしまいます。こんなにそのまま残っている町は少ないということなんですね。
で、金森長近がここへ来て、あとずっと城下経営をしたかというとそうじゃないの。長近はここにお城を造って孫のような子供の長光を住まわせて、自分は政治はほとんどやらないで、政治は家老たちに任せて、自分は京都へ行ってお茶を楽しんでおりました。長近は京都伏見の別荘で死にます、80才ばかりで。今、金森長近のお墓は京都にある。大徳寺の中にあります。龍源院りょうげんいんというお寺の中にお墓があります。美濃町にはないの。
あとを継いだ金森長光、10才ばかりの子供でした。その子供もあとを継いでから1年足らずで死んでしまいます。だから金森の家はここで絶えてしまうの。金森長近、長光と。あと残ったのは、金森というのは、高山に残るだけ。養子の可重の子孫が残ります。けど高山におった可重の子孫も、幕府の政策によって飛騨十万石を取り上げられて奥羽地方に追いやられます。それから三たび領地を換えられて郡上の八幡に来ます。郡上の八幡、宝暦騒動という農民の大一揆があります。そのときに責任を問われて金森家は断絶します。今金森のあとは誰もおらん、美濃の縁の。
去年、金森長近公380年祭をやって誰ぞ縁の人はないかと思ったら、1人だけありました。高山の殿様の第3男にあたる人が幕府から特別の許しを受けて、福井県の白崎というところに300石の領地をもらって現在までずっと土地の名家として残っておりました。金森さんという人、その人がたった1人、今でも子孫といえるでしょう。これは長近の養子の系統でずっとあとになって分かれた人です。
ま、その金森の話はそのくらいにしましょう。で、金森長近のつくった町並みは一番町、二番町、この2筋の町が中心、あのあたり(A)にお寺をつくります、清泰寺せいたいじ。小倉山から清泰寺にかけてこのあたりが武家屋敷。あのあたりが昔武士が住んでいたところ。金森長近が滅亡してからはあのあたりはただの一般の人の住むところになりましたが、今でも名前が「殿町とのまち」といって残っております。このあたり、殿町。
板書
で、長近が、金森家が絶えたあとは幕府が直轄領地とします、上有知二万石を。ところがこれも10年足らずのうちに将軍の娘、千代姫という人が江戸から尾張の殿様のところへ3才で嫁入りしてきます。その千代姫さまお白粉代、千代姫さまが使いますお白粉の代金、お化粧料として上有知は尾張の殿様のものになります。だから金森長近が城を造り町をつくってからあとは、ほとんど三百何十年間、名古屋の殿様の領地としてこの町はあるのです。
だから上有知の町は城下町であるといっていいのかどうか、私わかりません。少なくとも最初の都市計画は城下町です。しかしあとは城下ではありません。名古屋から来たお代官が小倉山に役所を構えて、このあたりの領地を支配しました。役人は4、5人のもの、だから侍の町じゃありません。城下町じゃありません。徳川350年間ほとんどこれは商人の町、商売の町として明治まで続いてきます。しかし最初に金森長近が計画したとおり、すばらしい経済的な交通の要所、おおいに商売繁昌して商人の町として栄えてきます。
その当時の町は、長近が町をつくったからさっと町ができたわけじゃない。今年100軒になった、来年150軒になった、5年後に300軒になったというふうに、徐々に町はできていきます。その当時の町はねぇ、家が全部びっしり建っております。しかも屋根は板葺きです。金森長近はすばらしい城下町、町をつくってくれたが、ひとつ火事に対する配慮が足らなんだ。最初からねぇ、長近はそのことを心配して町を「水」という字につくったといいます。この「水」という字。こちら(左)を頭にした水という字、そう見えるでしょ。火事が起きないように水と、水の字の町づくりをしたといわれますが、そんなことでは何の役にもたちません。火事が多かった、多かった。ひとたび火事になると町じゅう全部燃えてしまいます。あの町の真ん中に最初は願念寺がんねんじというお寺があったんです。そのお寺が江戸時代の中頃に町が全部焼けてしまって、お寺は止むなく今あの場所に残っておりますが、町の中にあったお寺がもう結局建てられずによそへ避難をします。それほど町に火事が多かった。長近の町づくりの失敗です。水の便利が悪い。
この願念寺が焼けたその火事のときでしょうか、これはあかんでというので、全焼したのを幸いに町幅を拡げます。この一番町、二番町だけは町幅広いの。数年前も町並み研究の学者がここへ来たときに、おかしいぞこの町並みは、こんな広い道、四間道といいます、約7m50くらいありますか、こんなのは江戸時代ないはずだ、これは明治になってつくりなおした町だといいなさる。いやそんなはずはありません、両側に江戸時代の家がいっぱい並んでおりますといったら、いろいろ説明したら、ふんそうか、それほど火事が多かったんかなぁといって納得してもらいました。
みなさん町の中歩いてねぇ、この(一番町、二番町)町幅とこの(横丁)町幅比べてみてください。ずいぶん違います。
これ(6)は最近あとかたもなく昔の面影がなくなりました。武義高に1番近いとこのあの道だけは今新しくなってしまいましたねぇ、広い道になりました。壊れていくのが残念でたまりません。今は、みなさん、町の中の名前知っとる。泉町いずみちょう、あれ(7)が泉町です。これ(8)は本住町もとずみちょうです。これ(9)は加治屋町かじやちょう
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あの加治屋町というのはねぇ、金森長近が町をつくるときに関から刀鍛治をここへ連れてきたの。この今、加治屋町の角にありますじゅうぼしさんという店は、昔は刀鍛治の家です。今でもあの家には関の刀鍛治、織田信長が刀鍛治を税金なしでやってもよろしいという免許状を持っております。関の免許状、なぜ美濃町の人が持っておるか、それは金森長近のときに関から強制的にここへ連れてきたの。そんな鍛治屋さんがここに2、3軒あったので、あとからあの町を加治屋町というようになりました。昔の名前でいうと、一番町下町。
これ(10)が二番町上町、今常盤町ときわちょう。これ(11)が二番町中町、相生町あいおいちょう。これ(12)が二番町下町、俵町たわらまち。というようにいいます。
火事が多かったために人々はたいへん神様に頼って、八幡さまの卯の日祭という祭りをしてねぇ、この町に火事が起きんように一生懸命頼みました。各町々に秋葉神社を祀って防火を心掛けましたが、なかなかそれでも火事は多かった。それで最後に発達してきたのが防火壁です。屋根の両端を1段と高くして、隣の家との境が一段と高く壁になります。そうすると火事のときに隣、両隣の家が火事になってもその壁のためにその家は火災にならない、なりにくい。だから卯建うだつをあげた町がここには多くなります。今、卯建のあがっている家がこの町に20くらいあるでしょうね。もうみなさんこんなことばを聞いたことないでしょう。『一生卯建があがらない』といいます。それは働いても働いても卯建のあがるようなすばらしい家はできないということです。卯建のあがる家というのは表通りに構えた大きな商人ということです。働いても働いても一流の商人にはならない、そのことを一生卯建があがらないというの。
ところがこの町には卯建があがった家が非常に多いの。これは防火のために初めは作ったんですが、だんだんその家がいかに豊かであるかということを示すように飾りがつきます。卯建のあがった代表は二番町中町、相生町の小坂さんの家です。国の重要文化財になっておりますが、だいたい二百年前の家です。けれど私が町の中を見ると、小坂さんの卯建よりもその形式がもっと古いという家が何軒もあります。さらに小坂さんの家よりもっともっと手の込んだ装飾をつけた家がたくさんここにはあります。で、こんなすばらしい町並み、火事に対する弱点があった。けれどそのかわり、すばらしい町がここにできていったということですねぇ。
それからこの町が卯建のあがる商家が多かったということと同時に、豊かさがあったために学問が発達したということです。この町はやはりこの岐阜県、中央部のもっとも文化の進んだ町として栄えに栄えてきたんです。その文化が栄えたひとつの目立つ代表的なものが、村瀬藤城むらせとうじょうです。村瀬藤城は、二番町上の町にありましたが、この町の庄屋となります。しかし庄屋であると同時に当時日本一の学者、頼山陽らいさんようの弟子になってたいへん学問を好みます。そして最後には今の武義高、美濃小のある丘の上に梅花村舎ばいかそんしゃという塾をひらくのです。庄屋であり、学者であり、文化的であり、詩人であり、画家である。その村瀬藤城が村の人たち、近くの人たちを教えるために梅花村舎という塾をひらきます。それが『古城のふもと梅山に』。梅山というのは梅花村舎の跡だから特に大切なんです。
もうこの岐阜県で、岐阜、大垣方面を除いてそんな私塾のあった町はない。この上有知にそのすばらしい私塾ができた。来て勉強する人、それは美濃の国全部から来ております。岐阜や大垣、郡上、太田方面、全部がこの梅花村舎に来て習っております。
しかも村瀬藤城の学問というものが、単なる孔子や孟子の教え、そんなものを丸暗記したんじゃない。世の中に対して我々はどう生きるべきかという勉強を教えております。私はそんなことはあまり知りませんでしたが、戦後初めて知ったんです。西濃方面からきた校長さんといろいろ話をしているときに、あんた村瀬藤城のところへきて勉強した安八郡の片野萬右衛門かたのまんえもんという人を私は記録の上で見ておるんですが、あんた知っていますかっていったの。そしたらその西濃からきた校長がね、片野萬右衛門がここへきとるかな、ほー、と。何そう感心するのかっていってきいたら、あのねぇ、揖斐、長良川の堤防の改修、あの輪之内町の村長としてねぇ、庄屋として幕末から明治にかけて河川大改修をやったのが、あの西濃方面の恩人、片野萬右衛門ですよといわした。ほー、その片野万右衛門はこの藤城で勉強したんだなということを思って私はびっくりしました。なるほど村瀬藤城は学者であるだけじゃなしに、曽代用水の問題でねぇ、これはあくまで民間の用水であるということで、幕府と対立して、ときの幕府と対立してあくまで民間の用水であるという建前で大論争をやっております。ただの学者じゃない。
あるいは大飢饉のときにはみずから率先してこの役人の支配しておる蔵を開かせて難民救助をしております。なるほどな、藤城というのはただの学者じゃないなということを感じておりましたが、その藤城の教えをならった生徒からそんなすばらしい人たちがでておる。単なる学問じゃない、人生どのようにしていったらいいか、生きたらいいかということを教えたのが村瀬藤城。私はすばらしいと思いました。
村瀬藤城の弟に秋水しゅうすいという人があります。この人は絵がうまかった。絵がうまくて、詩が上手やった。いわゆる文人というのです、すばらしい学者であり、絵がうまかった。秋水の子供に雪峡せっきょうという人がありますが、その雪峡が梅花村舎のあとを継ぎます。そして藤城のあとは村瀬雪峡がここの塾長になります。
このあいだ私小倉公園に行きましてねぇ、ある古い石碑がありますので調べてみたら、こんなことが書いてある。明治11年、上有知村で初めて戸長になった鈴木甚之助すずきじんのすけという人がある。年22才で、今でいうと村長、町長になっておる。22才で。学を村瀬雪峡に受けと書いてある。村瀬雪峡で勉強して22才で村長になった人がある。やっぱり、藤城、雪峡、その流れが鈴木甚之助に伝わっておる。甚之助が何をやったかというと、明治11年にすでに岐阜県下どこの町村にも先がけて民主的な村会規則を作っておるんです。それから1、2年後に県の指導で全町村に村会、村議会ができます。それに先立ってねぇ、戸長鈴木甚之助、そんなすばらしい、民主的な行政を始めておるんです。自由党員であり、おおいに新しい民政の開拓に努めた。村長をやめたあとは新聞社を経営しと書いてある。何というすばらしい生き方でしょう。年22才で村長。
そう思って考えますと、鈴木甚之助と同い年で、島森友吉しまもりゆうきちという人があります。この人は雪峡のとこで勉強したとは書いてありません。書いてないがおそらく勉強しておりましょう、これも金持ちの息子ですから。これはねぇ、板垣退助などと共にあの自由民権運動の岐阜県の中心人物になります。そして30才のときに県会議員に出馬します。県会議員、多くはいなかの資産家が県会議員になるときに、島森友吉は自由党、その党員を名乗ってついに県会議員にでる。県会議員にでた島森友吉もえらいが、それを支持したこの上有知というその土地柄、明治のころにすでによその町村に先がけてすばらしい進歩的な、前向きな思想がこの町にはあったということを、近頃今さらのように感嘆しております。
さっき教頭先生のお話で武義中ができたのは県下で5番目だといいなさった。なぜここにできたのか。それはこの町のその文化性、この町の経済性、そういうものが県下で5番目の中学校をここに拓かせた。
あと上有知をねぇ、美濃町と変えます。上有知町を美濃町と変える。なぜ変えたか。それはその当時のこの町の経済を支配していた紙産業。さっき上有知の町は豊かであったといいましたが、その豊かさを支えた半分以上は牧谷の紙の生産だったんです。ところが明治になって紙を全国に売りだそうとしたときに、あなたの会社どこですか、岐阜県上有知町ですというと、こうずちという読み方が第1むつかしい。うえうちとか、かみうちとか、誰もこうずちと読んでくれない。商売に不便だから美濃町にしようと考える。そして県の、県議会の承認がないと町の改称はできません。上有知を美濃町に変える件という議題が県会にだされます。明治の終わり頃です。各地から猛反対がでます。美濃の国の美濃という名前をこの町に与えたら、美濃町が美濃の国の代表になってしまうじゃないか、そんな名前は与えられないといって、猛反対を受ける。その猛反対を説得し、説得し、その美濃町という名前をつけさせたのは、この町の政治家の力だったんです。すばらしい力があった。そしてその美濃町という名前を武器に、全国に向かって紙商売を続けていった。この町の経済、文化、政治、そういうもののすばらしさをものがたるのは、美濃町という名前。
ただ私はみんなにいうの。惜しいことをしたなぁ。商売のために、紙商売のために上有知というすばらしい名前を美濃町という平凡な名に変えてしまった、惜しいなぁと思います。そのときの政治家にとってはそれがもっともすばらしいことです。事実、それは並大抵の政治家にできることじゃなかった。それを成し遂げた政治家はえらい。しかし我々の歴史を見たときに、紙商売のために美濃町と変えたその行き方がはたして良かったのか。私は疑問に思います。みなさんどうでしょうか。
あるとこでそんな話をしたら、そんなもん先生、美濃町がええに決まっとる、美濃市がええっていいなさったが、私はその上有知という名前、上有知の歴史、それを思うときに惜しくてならない。その上有知の文化、経済、歴史、そういうものを背負ってたっている武義高なんです。
毎日の勉強に追われるだけじゃなしにもういっぺん歴史を思い返して、武義高の歴史だけでもいい、考えなおして、これからみなさんは20世紀、まだ50年、百年先までどんな社会をつくっていってくれるのか、そのときに私は、武義中学の名を挙げんでもいいから、どうぞ社会の役にたつような人であってほしいなあと思います。
上有知、私は上有知に限りない愛着を持っております。この町並みが年々崩されていくこと、卯建が壊れていくこと、我が身が傷つけられていくような傷みを憶えております。みなさんもこの町の良さを充分味わってください。この町を好きになってください。
くだらんことをいろいろお話ししましたが、これをもって私の話、終わります。

おまけ
金森長近の作った上有知の町並みを現在の地図に重ねてみました。一番町・二番町・横丁・上有知湊への道はもちろん、郡上・飛騨・岐阜・関街道ともそのまま現在の道路になっています。
(©MapionBB)
現在の町並み
最近では、一番町、二番町の道幅は金森長近が町造りをした当初から現在の幅だったという説が有力です。これは長近の官許によって、六斎市(月に6回の露店市)が6つの町内で順に行われましたが、露店を並べるには横丁と同じ2間ほどの道幅では無理であるということが論拠になっています。
講演中にも出ていますが、一、二番町の上町をつなぐ(最も右側の)横丁は、現在両歩道付きの2車線道路になっており、江戸時代の面影はまったく残っていません。しかし一応伝統的建造物群保存地区のため、電線の地中化がされました。広い道は電線を地中化しなくてもよいわけではありませんが、この道より、上有知湊へ続く道(板書イラストの(1)の道)の整備のほうが効果的だと思います。

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