美濃まつりの歴史
“美濃まつり”とは、美濃市のうち市街地(旧美濃町の一部、江戸時代には上有知村)で行われている祭礼のことをいいます。美濃市内にはこのほかにも大矢田神社の“ひんここまつり”が有名ですし、当然その他の地区にも神社ごとに祭礼行事があります。ということで“美濃まつり”といっても“美濃市のまつり”全体を指すものではなく、旧来“上有知まつり”と呼ばれていたものであることをご了承ください。
“美濃まつり”の古い記録はあまりないのですが、わずかに残っている願念寺古文書によると、
“当村神事祭礼の式の儀、上有知蔵人新米の神事と申して熊野社へ十一月廿八日新米を奉り氏子中祭礼の式相勤め申し候事、豊作の歌を詠じ短冊に書き、竹の笹葉に付け、百姓と長者、その組々とも頭立候分罷り出で素襖烏帽子着用して参詞仕候節、詠歌を吟じ、熊野大権現様へ奉り候、年貢豊作の歌を詠じ毎年思い思いの歌を申し奉り候儀に御座候、豊作にて年貢蔵納仕候様とて御始め成され候由に候”
概訳“当村の神事祭礼とは、上有知蔵人という一族が新米の神事といって11月28日に熊野神社へ新米を奉納する氏子総出の祭礼のことである。豊作を祝う和歌を短冊に書き、それを笹の葉につけて百姓も長者もそれぞれ代表者が正装をして参詣をする。熊野神社へ歌を吟じたり、毎年思い思いに年貢米の豊作を祝う和歌を詠んだりして奉納する。豊作で年貢米が無事に納められるように願って始まったとのことである。”
とあります。これは江戸時代初期の古文書らしく、これによると熊野神社が上有知の産土の神として崇められていたことがわかり、遠く鎌倉時代まで遡って上有知蔵人を名乗る一族がこの土地を支配していた当時からのお祭りであったようです。そして、参詣する対象は現在の八幡神社でなく、今は八幡神社の脇に小さな社のある熊野神社だったようです。
江戸時代中期に書かれた八幡神社の古文書によると、“八幡神社は有知の惣社にして昔より有知の川上に祭り奉る”とあります。また元弘建武の時、土岐弾正が越前へ穴馬越えで攻め入る際に八幡神社に戦勝祈願をして、その御神威によって勝利をおさめたので土岐家代々の信仰を得たことや、その後杉ヶ洞の城主斎藤宗佑の氏神となり続いて藤城山の城主佐藤才次郎方政から神領を賜ったとも記されています。
これらを考えあわせると、熊野神社は上有知村の氏神として、八幡神社は有知郷(今の美濃市街地から旧関市北部までの一帯)の惣社としてそれぞれ祀られていたものを、金森長近の上有知城下設定とともに両社をあわせて上有知の神事も八幡神社に変更し、盛大に執行されるようになったもののようです。
江戸時代末期に書かれた上有知旧事記によると、
“御祭礼ハ八月拾五日往古ゟ有之候所中絶仕其内ハ湯之花斗と承り申候寛永十一甲戌年ゟ再行各組〻ゟねり物等拵御神事賑〻敷罷成申候夫ゟ今に至迠目出度執行致事ニ候”
概訳“祭礼は昔から8月15日に行われていたが、中断していた間は湯の花というものだけだったという。寛永11年(1634)から再び行われるようになり、それぞれの組が練り物を作って神事が現在までめでたく執り行われている。”
とあります。江戸時代末期に書かれた循行記によると八幡神社の祭礼は佐藤才次郎の代にはじまり、金森長近が城主となった時にも祭礼は今までと同様に勤めるよう渡り物の装束や山車の引き幕などを給わったという申し伝えを記しています。
なお、上有知まつりは、発祥の頃は11月28日、室町から江戸時代には8月15日(いずれも旧暦)に行なわれていた豊年秋祭りでした。明治維新で新暦(太陽暦)が用いられるようになって10月14・5日となり、一旦9月14・5日になったあと明治30年から4月14・5日に定められました。理由は寡聞にして知りませんが、この頃小倉山が公園として整備され、桜を植樹して観光名所にしようということから祭礼も桜の時期に行うようになったのではないかと想像しています。さらに昭和の終わり頃に4月の第2土曜日と翌日の日曜日に変更され、現在に至っています。
現在では美濃まつりといえば花みこしが主役ですが、本来の神事においては本楽日に行なわれる山車・練物、特に笹渡りが美濃まつりの起源といえます。しかし、各町内の山車・練物個々の歴史はそれぞれ異なるため別ページにまとめ、以下には花みこしと仁輪加の歴史について紹介しましょう。
江戸時代には8月15日の八幡神社の祭礼の他にいくつかの祭りがありました。その中でも江戸時代の雨乞い祭りは特に盛大で、相生町の雨乞記録諸勘定帳に詳細な記録が残っています。これは明和3年(1766)から明治26年(1893)までの雨乞祭り勘定帳(会計記録)ですが、単なる会計簿ではなく、祭り状態が絵画と文章によって記録されており、その中に花みこしが登場しています。
江戸時代、上有知では日照りが続いてどうしても雨がほしいと、まず八幡神社に雨乞いの願をかけました。その後数日たっても雨が降らない場合は、八幡神社、神宮社、神明社の三社に百燈を献じて祈願(三社百燈奉献)しました。さらに雨が降らなければ、三社に千度まいりをし、どうしても雨がない時は最後の手段として町さわぎという行事をしました。
町さわぎとは、各町内でそれぞれ趣向をこらした出しものをつくり、川端のお姫の井に至り、三社に参詣しその後町中を行進した行事です。出しものは年により各種各様で、ずいぶん大きな行燈のようなものがほとんどでした。嘉永元年(1848)の記録によると二ノ中町の出しものは大筆で長さ4間半(約8m)、かつぐ台座は縦2間(約3.6m)、横7尺(約2m)とあります。天保6年(1835)6月1日、一ノ下町の出しものは大軍配で長さ7間(約12.6m)、幅6間(約10.8m)とあります。あまり大きくて町の通行に困った(大通りでも道幅は約7m)ため、嘉永元年(1848)二ノ中町の反省に、今後は縦、横、高さとも2間(約3.6m)程度にしたいとあります。その後町さわぎ行事のつくりものは次第に小さくなり、提灯を30個あまりつけた「竿灯」や「しない」が多くなってきます。
この記録に花みこしが最初に登場するのは嘉永6年(1853)7月で、川端花御輿とあります。雨乞の町さわぎに出ている花みこしは少ないのですが、天王祭やお鍬祭りなど他の祭礼に御輿を担ぐことは多く、その場合に花みこしが担がれた可能性も充分あります。安政6年(1859)2月のお鍬祭りには一ノ上、二ノ上、二ノ下の三町が花みこしを出しています。
八幡神社の祭礼でも14日の試楽には数多くのみこしが出ましたがほとんどが屋根に鳳凰のついた普通の神輿でした。それが大正末期ごろから花みこしに変更するところが二つ三つと現われ、その華やかさが大喝釆を拍しました。そこで昭和のはじめに全町内がすべて花みこしにすると申し合せてこの姿となりました。
美濃まつりの仁輪加は江戸時代末期からはじまったと考えられています。港町に若衆の永萬扣帳が残されており、文政から明治にかけて祭りの諸記録が記されている中に、
天保四年(1833)八月十五日
一御酒 弐升 小左衛門
右ハ二若之節 御見舞
天保十三年(1842) 九月九日
一御酒 壱升 遠 藤
にわかの節 見舞
御酒 弐升 滝 連
右 同断
弘化四年(1847)八月吉日
一御酒 壱升 滝 連
右ハ此方よりにわか仕候節申受候
嘉永元年(1848)八月吉日
一金 壱分 鵜沼 佐助
右ハ俄おどり師匠ニ付指上ケ申候
嘉永二年(1849) 御祭礼
一金 三分 ギフ 虎吉
右ハ三味線引並俄両用師匠ニ付御礼指上げ申候
安政三年(1856)八月吉日
一御酒 弐升 河村忠右衛門
にわかの節受納仕候
元治元年(1864)八月十八日
一御酒 弐升 初音連
右ハ俄狂言致参ルニ付御礼として遣し候
など、仁輪加に際し酒をやったり貰ったりした記載が多く見られます。当時は岐阜や鵜沼からにわか師匠を招いて習い、歌舞伎の一部を演じ「落」をつけた文字どおりの俄芝居であったものと推察されます。
また、
慶応三年(1867)卯八月
御酒三升
右ハ八月十四日夕一番町扇屋ニて初音連俄相勤候ニ付扇屋内栄助不都合ニ付若キ者一統掛ケ合ニ相成候処河村養造仲人ニ入右の栄助以後つ〻しみ候筈の一札入候間一統相談の上聞済いたし候上如右進物仲人河村養造より申受納候以上
概訳“慶応3年(1867)8月、酒3升。8月14日夕方、一番町(現泉町)扇屋で初音連が俄(仁輪加)を勤めたところ、扇屋の栄助がいいがかりをつけてきたので、(初音連の)若衆とトラブルになった。そこで(実力者の)河村養造が間に入って栄助は以後気をつけるという約束を取り付け、全員で相談してこれを了承したので、間に入った河村養造から右の酒を受け取った。”
ともあります。このように当時は所望されれば商家の前で上演する門付け芸であったことがわかります。
もうひとつ、仲裁人から酒を受け取ったことが現代では理解しづらい点かもしれませんが、争いごとのあった時に仲裁に入るのは双方に顔の利く有力者であるはずで、仲裁人からすれば「私の顔を立ててくれてありがとう」という意味の贈り物をする、それが酒三升というわけです。
このページは美濃市文化会館・美濃市文化財を守る会発刊の冊子“美濃市の伝統芸能”をもとに記述しました。