練物・山車

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美濃まつりの本楽には神事のあと練物と山車の行列が渡御します。「練物」といっても蒲鉾のことではありません。行列を組んで練っていくもののことで、鎌倉期のものから昭和のものまでいろいろあります。ここでご紹介する形になったのは昭和になってからですが、その中には美濃まつりの起源ともいえる笹渡りもあります。祭礼自体の歴史は別のページでご紹介します。
6両の山車はいずれも江戸時代の尾張のもので、それを江戸~明治期に購入しました。当時の紙の取引による潤沢さがしのばれます。いずれも人形を乗せた「名古屋型」と呼ばれるものですが、購入時期も購入先もばらばらのため、山車の形もバラエティに富んだものとなっています。
神    事練         物山     車
地 方…宝物奉納加治屋町
…笹渡り
魚屋町…牛若丸米屋町…桃太郎相生町…船山車泉 町…浦嶋車
地 方…神  楽俵町…浦島太郎永重町…傘 鉾新 町…聖王車常盤町…靱 車
おひりこ…巫女舞港町…神 輿広岡町…花咲爺本住町…七福神殿 町…三輪車吉川町…布袋車
なお、上の表およびこのページの記載は順不同となっていますのでご了承ください。本楽日は、地方じかたの宝物、神楽の奉納のあと、町方まちかた行列1番固定の「笹渡り」、2番固定の「港町御輿」以外は、練物と山車それぞれに毎年くじを引きその順番で渡御をしています。
また、お囃子に「車切しゃぎり」という曲名が登場していますが、原典では「シャギリ」となっています。尾張地区では山車の前輪を持ち上げて方向転換することを「車切」と呼ぶ地区もあり、おそらくその際に演奏された囃子が「車切囃子」と称され美濃での「シャギリ」になったのではないかと想像してお囃子の曲名を「車切」と記述しました。
文中何か所か登場する貨幣価値の換算については、何を基準にするかによって大きく変わってしまいますのであくまでも大まかな目安としてご理解ください。
このページは美濃市文化会館・美濃市文化財を守る会発刊の冊子“美濃市の伝統芸能”をもとに記述しました。
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地方じかたの宝物奉納
上有知村では古来町方まちかたに対して地方じかたという農村地帯がありました。上条かみじょう古市場ふるいちばだん下渡しもわたりがこれで、枝郷の口野々くちのの樋ケ洞ひがほらもこれに入っていました。
江戸時代初期はあきらかに分かれていた農村地帯もやがて人家が増えていわゆる市街地が拡大され、江戸時代中期にはそれまで町方庄屋、地方庄屋の2人いた庄屋が一本化されました。
その一方で祭礼においては地方と町方の区別が残りました。町方の行列に先立って地方の奉仕として、上条、下渡が宝物と供物を捧げる行列を組み、次に上条と古市場が神楽を奉納するというものです。
唐櫃拝殿への行列
宮司、氏子の代表者に続き宝物を捧げた地方の氏子が拝殿に入ります。唐櫃は宮司のすぐ後に並びますので神社の大切なものなのでしょう。宝物も中身は何なのか不明ですが、両側を警固の役員に守られた行列なので氏子から奉納された貴重品(絹や刀?)だと想像できます。宝物を神前に据えて拝礼しお下がりを頂いて(つまり撤収して)神事は一段落します。
宝物宝物宝物宝物
宝物宝物宝物
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地方じかた神楽かぐら
続けて神楽(獅子舞)を奉納します。
上条はやや新しめの獅子頭を2つ持っているようで夫婦なのでしょうか、拝殿の奥で舞うために素人がひょいとのぞくわけにいかず、詳しくはわかりません。宝物の奉納は上条と下渡が交互で行いますが、神楽は上条のみで行うようです。町内の大きさ、住民の数に開きがあってこうなったものかもしれません。
古市場の獅子頭は延宝年間のものです。そのためお囃子だけで獅子舞は奉納していないようです。
国鉄越美南線が開通して古市場の真ん中を突っ切るように駅前通りが整備され、広岡町ひろおかちょうとして独立しました。東西に二分された古市場が残り、東側の東市場町ひがしいちばちょうと西側の西市場町にしいちばちょうに分かれました。このとき花みこしを東市場町が引き継ぎ、神楽を西市場町が引き継いだために、現在の神楽は西市場町で奉納されています。
それ以前、地方の神楽奉納がどういういきさつで上条(下渡)と古市場の2地区になったのかまでは残念ながら私にはわかりません。
どちらの町内もリヤカー(昔はおそらく大八車)に小さな社殿と神楽囃子の太鼓を載せています。並んだ時に見比べるのも楽しいでしょう。
上条の神楽 西市場町の神楽
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加治屋町かじやちょう笹渡ささわた
笹渡り
笹渡りは古来山車・練物行列の先頭を勤める慣わしになっています。これは美濃まつりの起源である上有知蔵人の新米の神事として行なわれた形を保っているからです。
笹の葉に豊作を祈る短冊をつけたという古来の風習を伝えて、加治屋町内名家の子弟6人が笹を持って渡っていたのですが、名家6軒に盛衰があり、参加できる範囲が町内の組親の子供、さらに町内の小学男児、小学児童男女とひろげられ、今では少子化の影響もあって必ずしも6人ではない年もあります。
昔は笹につける短冊には毎年新しい歌が書かれたのでしょうが、現在は100年も昔の短冊がそのまま引続き使用されています。
笹渡りの童子は八幡様の拝殿に向かって声高らかに謡の一節を唱え、持って来た笹を奉納して役目は終了となります。
四神幡
今日けふはじめの神まつり。今日を始の神まつり。幾世久しく守るらん。そもそも今日こんにつた八幡宮の御神事にて候。八幡宮に仕え奉るよしうじとは我事わがことなり。さても中州ちゆうしうにふれい仕れとの御霊夢をこうむりりて候ほどに。只今八幡宮へと急ぎ候。何事も心に叶ふこの祭。心に叶ふこの祭。ためしもあれや日の本の国豊なる秋津州乃あきつすの。波も音なき四ノ海よつのうみ高麗こま唐土もろこしのこりなき御つぎのみちの末ここに。八幡宮にも着きにけり。八幡宮にも着きにけり。
笹渡りの童子の後に笛、小鼓、太鼓による囃子が続き、「道行みちゆき」「津島つしま」「下葉さがりは」「打切うちきり」「戻囃子もどりばやし」等の曲を演奏します。
加治屋町には笹渡りのほかに明治40年(1907)まで王手飛車角の渡りものがありましたが、その衣裳や面は古物商に売られ、その代金をもって現在の四神幡を購入し、笹渡り行列に続いて行列に並びます。
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港町みなとまち金神輿きんみこし
港町(旧湊町)は現在新町の所有している聖王車を持っていました。当時の湊町は現在の港町と殿町を合わせたもので、運送店や大きな紙問屋(須田、田中、遠藤、池善、雲力等)があり、経済力も大きかったと思われます。
ところが明治19年(1886)に殿町独立問題が起こり、同年10月ついに殿町が独立した町になりました。その際、町費37円(現在の価値で65万円)と山車、諸帳簿ともに湊町が全面的に受け取ったのですが、湊町は町内が半減した上に山車を曳くにも急な坂があって聖王車の扱いに困難を感じ、明治27年(1894)新町に金100円(現在の価値で170万円)で売却し、その代金で現在の神輿と神楽を揃えました。港町が祭り行列の第2番固定となっているのは神輿であるという理由で、明治以来のしきたりとなっています。囃子は特にないようです。
今は人手の関係で台車に乗せて渡御していますが、もちろん神輿ですので昔はちゃんと水干姿で担いでいました。
神輿昔の神輿
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おひりこ
巫女舞
上有知旧事記に「御祭礼ハ八月拾五日往古ゟ有之候所中絶仕其内ハ湯之花斗と承り申候」とあります。“湯之花ゆのはな”とは、俗に「おひりこ」または「ひりここ」と呼ばれる巫女舞のことではないかと考えられています。現在八幡宮の卯の日祭りで奉納されるほか、美濃まつりの本楽の際にも舞殿において奉納されます。
上条の小学女児が2名ずつ舞を奉納しています。
伴奏の雅楽はラジカセから巫女だけに聞こえる程度の音量で再生されます。山車・練物の囃子に遠慮しているように感じます。
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魚屋町うおやちょう鞍馬天狗くらまてんぐ牛若丸うしわかまる
魚屋町は古くは布袋車を持っていました。わずか20戸足らずで山車を維持していたことは、この町内が裕福な経済力を持っていたことを示しています。明治22年(1889)まで山車を引いた記録がありますが、明治31年(1898)に現在の牛若丸の渡りものを購入しました。
牛若丸といっても一緒に登場するのは弁慶ではなく、天狗、小天狗たちで、鞍馬の山で修行中の姿です。囃子は特にないようです。
さらに余分なことを書くと、鞍馬山の天狗だから鞍馬天狗で間違いはないのですが、どうも「杉作、日本の夜明けは近い」というほうの鞍馬天狗(古い!)を連想してしまうのです。
牛若丸牛若丸
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俵町たわらまち乙姫おとひめ浦島うらしま
竜宮城の魚たち乙姫、浦島太郎
汐汲み亀の曳きもの
昔の俵町のだしものは大江山酒天童子でした。大江山の鬼と家来、そのあとに源頼光とその家来の四天王が続くものでした。この町内は江戸時代当初から二ノ下町と呼ばれた中心市街地の町内であるのに、山車を所有した経歴が見当たりません。理由も不明です。
昭和3年(1928)にこのだしものを廃止して、新たに乙姫と浦島の練物となりました。これは費用5,000円(現在の価値で1,800万円)をもって名古屋松坂屋より購入したもので、浦島太郎、乙姫、待女、魚類数匹と大きな亀のきもの、汐汲しおくみと呼ばれる6、7人の囃子がつきます。汐汲みのメンバーはさすがに亀の曳きものの中に入ることはできず、魚の冠をつけて歩きます。いずれも現代的な美しい面と衣裳が立派なものです。
この大きな亀を見るたびに思うのは、松坂屋の何売り場に売っていたのだろうかということです。
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広岡町ひろおかちょう花咲爺はなさかじじ
広岡町は米屋町より遅く、国鉄越美南線(現長良川鉄道越美南線)の敷設にともない新しくできた“駅前通り”の町内です。
花咲爺の屋台は昭和初年にできたものです。屋台の上に乗っているのはからくり人形ではなく、花咲爺に扮した生身の人間です。その屋台の前を殿様と小姓、さらにその前を悪いじいさんが歩いていきます。なぜ悪いじいさんが先頭なのかというと、町内の責任者が悪いじいさんの役らしいです。
囃子は「三番叟さんばそう」「車切しゃぎり」があり、屋台の中で演奏しています。写真でわかるようにごく小さな屋台のため、囃子を演奏する人は座って首をかしげた状態で乗りこんでいます。また、主役の花咲爺は揺れる屋台の上に立っており、幹を片手で掴んで体を支えなければなりません。もう片手は花咲の灰に見立てた紙片を撒き続けます。
どちらもまったく歩かない役どころですが、どう見ても曳き手のほうが楽だと思います。
悪爺傾く屋台
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米屋町こめやちょう桃太郎ももたろう
鬼と家来たち
明治になると新しい道路が開かれ人家が建ち、新しい町ができてきました。米屋町はそうした新しい町で、この桃太郎の練物は明冶末期につくられたものです。
桃太郎に退治された鬼のあとに猿・雉・犬が行列を作り、最後に桃太郎と宝物を積んだ車が続きます。この車は、常盤町の鈴木氏の寄贈になったものです。鈴木氏は米屋町地域に広い土地を所有していたので、特別の協力をしたようです。桑名の石取祭で見られる祭車さいしゃに似た三輪車ですが提灯ではなく宝物の珊瑚を模したものが取り付けられています。囃子は特にないようです。
桃太郎宝物
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永重町ながしげちょう傘鉾かさほこ
傘鉾
永重町は明治時代に瀬古せこといわれていました。瀬古というのは本通りから外れた通りのことです。一番町・二番町から見れば本通りから外れてはいますが、江戸時代には長良川の上有知川湊と市街地を結ぶ重要な大通りでした。
祭礼の出しものは明治38年(1905)に畠山庄吉より山車を購入しました。名古屋裏門前町の玉屋庄兵衛作の金幣人形というものであり、これに後山車がついていました。その後この山車は手放され、大正5年(1916)に現在の傘鉾を新調しています。
屋台(山鉾)の上に大きな傘を取り付けたので傘鉾という名称が生まれたと思われるのに対し、この傘鉾は比較的小型のもののようで、屋台部分がなく人が掲げて移動します。なかなかの重労働です。この練物にも囃子は特にないようです。
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本住町もとずみちょう七福神しちふくじん
本住町には古い面が2個と獅子頭が1つ残され、この面と獅子頭を持って試楽祭に八幡神社へお参りに行くのが例になっています。面箱には「上有知村面箱(表書きフタオモテ)一番町中町寛永拾四年丁丑八月吉日」とあります。寛永11年(1634)甲戌年より上有知祭りが再興されたことが上有知村旧事記に載っており、それを裏付けるように寛永14年(1637)には本住町の面ができていることになります。この面は素朴な狂言面に似たものですが、この面で狂言を奉納したものか、あるいはこれに装束を付けて何かの練物をしたものかは不明です。獅子頭は口中に墨書があって、「延宝三年濃州上有知村八幡大菩薩乙卯八月吉日一番町中ノ町」とあります。延宝3年(1675)は寛永14年(1637)より38年後で、この時に以前の面の出し物を獅子舞にかえたものかもしれません。
江戸時代末期から明治にかけては山車が1輛あり、上は六畳敷くらいある大きな踊り山車でした。この山車は使用されずに倉庫にありましたが、明治時代に売られたといわれています。
現在は寛政3年(1791)から始まった七福神の練物を所有していますが、すでに相当傷んでおり、本楽祭の山車・練物渡御には加わっていません。昭和初年ごろの画像を入手したので、画質が悪くてわかりにくいのですが掲載します。
七福神七福神七福神
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相生町あいおいちょう船山車ふなやま
船山車
相生町の江戸時代の記録によると、正保3年(1646)に蜘舞くもまいという曳物ひきものがあったようですが、詳細はわかっていません。また、宝永4年(1707)に山車の再建をしているのですが、これもどのような山車なのか不明です。
船山車は、名古屋末広町にて延宝2年(1674)に新調され、黒船車と呼ばれて若宮八幡宮の祭礼に曳いていたものを安永3年(1774)に71両(現在の価値で500万円)で購入したものです。末広町はこの年に新黒船車に更新するということで売りに出ていたようです。しかしこちらの記述によれば5両(現在の価値で35万円)で売ったことになっています。さらにいろいろ読むと71両というのは改造費用のようで、合計76両の支出があったのでしょうか。お金持ってたんですねぇ。
船の形をした山車は犬山祭りにも浦嶌という車山やまがあり、浦島太郎のからくり人形を乗せています。でも浦島太郎は船ではなく亀に乗っているのでこちらの神功皇后のほうが船にピッタリなんじゃないかと身びいきな感想を持ちます。町印の纏も町の名前ではなく、碇がついたものです。
碇の町印神宮皇后と武内宿弥
相生町がこの山車を購入したとき、古い山車を隣村の極楽寺村ごくらくじむら(現在の美濃市極楽寺)へ売ったということですが、現存はしていません。
名古屋にあった頃の黒船車には人形がなく、船の舳先で踊りを奉納したものでした。末広町が新調した新黒船車は昭和20年(1945)3月の空襲で燃えてしまい、終戦後に船体を模したものを作り、平成元年(1989)まで昔と変わらず舳先の舞台で子供が舞っていたそうです(この点については、元末広町住民のよしのさんにご教示いただきました)。昭和の末ころに訪れたことがありますが、電球を取り付けるのに釘をガンガン打ち込んでいてびっくりした記憶があります。文化財ではなく、山車を模したハリボテだったということでしょうね。
宝暦8年(1758)には金襴幕を名古屋にて購入、文化元年(1804)と天保12年(1841)には山車の大修理をして明治に至りました。
相生町も購入してから長い間、名古屋と同じく踊り山車として使っていたようですが、明治31年(1898)、名古屋末広町の世話により同町出身の画家「山本梅逸」の下絵による波の刺繍をした豪華な幕を新調し、同時に踊りを廃して現在の神功皇后じんぐうこうごう武内宿弥たけのうちのすくねの繰り人形に改装しました。人形は名古屋の玉屋庄兵衛の作で、人形を操る人は人形の下側ではなく、後方の屋形の中にいて水平に舳先に向かって伸びた箱の中を操り糸が通っており、美濃では唯一の横引き糸操りです。
この山車は、重心部分の床下から油圧でジャッキが出てくるようになっており、最近になってキャスター式の小車輪も追加されたことにより、神前での山車廻しが極めてスムーズで、まるで波の上を進む船さながらにできるようになっています。と書いたものの、八幡神社で奉納する場所は砂利敷きであり、ジャッキも山車廻し車輪も華奢なもののため、町の中の舗装路面のようにスムーズには廻せないみたいです。
油圧ジャッキと山車廻し車輪
囃子は明治初年に岐阜の人に習って改めたものです。道行きは「車切しゃぎり」、鳥居をくぐると「下葉さがりは」、人形が舞う時は「出端では」「弓八幡ゆみやはた(謡)の一節」「神舞かみまい」、山車を廻す時は「三番叟さんばそう」を演奏します。通常は山車を廻す時にリズミカルな「車切しゃぎり」を演奏するのですが、船山車は山車廻しがスムーズなため、それに伴って囃子の曲目も選ばれたものでしょう。
〽然るに神功皇后じんぐうこうごう三韓さんかんを鎮め給ひしより。同じく応神天皇おうじんてんのうの御聖運。御在位も久し国富み民も。ゆたかに治まる天が下。今に絶えせぬ君の恵み久しき御代こそめでたけれ。
回る船山車
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新町しんまち聖王車せいおうしゃ
聖王車
この山車は明治27年(1894)に湊町みなとまち(現港町)より購入したものです。人形を入れる箱書に「享和二年戌(1802)八月吉日」の墨書があって八月吉日は上有知祭の日と考えられるので、この年にこの山車は湊町に所在した(この年に購入した)ようです。
全体の作りは完全に名古屋型ですが、他の山車が分厚く飾りのない車輪であるのに対しこの山車の車輪は御所車式で、全般にややきゃしゃな感があり、手のこんだ獅子や花鳥の彫りもので充たされています。
人形は百済の王様で、わずかに首がうごくだけの動きのない大きい人形です。それをカバーするかのように一段下の唐子人形はきわめて愛嬌があり、各山車の唐子の中でも秀逸なものでしょう。鳴戸人形といい伝えています。
人形車輪
幕は猩々緋に見事な竜の刺繍がほどこしてあり、この幕は特に大切にされて、本楽の際に八幡神社の大鳥居をくぐってから常用の幕とこの幕をつけ替えています。
囃子は「三番叟さんばそう」「車切しゃぎり」「神楽かぐら」があり、神前では「神楽かぐら」が演奏されます。
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殿町とのまち三輪車みわぐるま
三輪車人形
殿町は湊町(現港町)の一部でしたが、明治19年(1886)に独立した町内となりました。この時山車は湊町に譲ったので、明治36年(1903)に岐阜白木町の松井喜太郎より現在の山車「三輪車」を200円(現在の価値で200万円)で購入し、中竹屋町の藤川定吉の手により170円(現在の価値で170万円)の費用を投じて塗装をしなおしました。
市内で最も小型の山車で、可憐なイメージがあります。過去には夏の川祭りに山車の周囲を提灯で埋め尽くして宵山車として曳き出されたこともあります。
上段の人形は謡曲の三輪の後シテの舞を白拍子姿の端整な顔立ちの女性が舞うもので、小型の山車に実によくマッチしています。その上の天井(最上段屋根の裏側)は総金箔張りで、たいへん豪華なものです。下段の人形は素襖すおう姿の童子が座って鼓を打つものです。
囃子は「三番叟さんばそう」「ひしぎ」「三輪舞みわのまい」「車切しゃぎり」があります。
〽面白やと神の御声の。妙なる始の。物語。思へば伊勢と三輪の神。思へば伊勢と三輪の神。一体分身の御事今更何と磐座(言はくら)や。その関(塞)の戸の夜も明け。有難き夢の告。覚むるや名残なるらん。覚むるや名残なるらん。
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泉町いずみちょう浦嶋車うらしましゃ
浦嶋車
泉町は一ノ上町という古い町です。明治初年の祭礼の記録に一ノ上牛若とあり、牛若という渡り物であったと推定されます。
明治13年(1880)に名古屋市巾下新道町より現在の浦嶋車を950円(現在の価値で2,000万円)で購入したといわれ、山車の内部柱に墨書があります。
   天保十三歳 寅五月出来
       車之町
   大工 伊兵衛作之   印  印
巾下新道町は、この山車を売った後、新たに再び浦島車を製作しましたがこちらには乙姫様の人形が加わり、乙姫様の前で釣りをする浦島太郎という設定になっていたそうです。鯛を釣った浦島が乙姫様からもらった玉手箱を開けると白髪の老人に面替りするというからくりで、山車を新調したついでにかなりのグレードアップもしたようです。
泉町の浦嶋車のほうは、明治33年(1900)に山車蔵やまぐら(町内所有の山車の倉庫兼集会場)が建てられるまで、山車をばらばらに分解して各家の蔵に保管していました。まつり前の13日は当本とうもと総出で山車を組みたてたといいます。
囃子は「道行みちゆき」「おどり」「車切しゃぎり」があり、はじめは謡曲浦島の一節が謡われたらしいですが、いつの間にかすたれてしまいました。
唐子人形と浦島鯛を釣った浦島
人形は浦島太郎が魚釣りをしています。最初にかかったのは雑魚のようでしょんぼりし、次にやっと鯛がつれて大喜びをする場面を糸操りによって演じるもので、名古屋の武田源吉の作です。浦島太郎といっても釣りの場面だけでは「釣りバカ日誌」のハマちゃんと変わらないように思いますし、説話の浦島太郎は実際の釣りをする前に亀を助けて竜宮城へ行ったと記憶しているので、なぜ釣りをする人形に浦島太郎と名付けたのか、人形作者に聞いてみたいものです。余談はさておき、人形の表情が豊かで浦島の口が動き鯛を釣ったあとの踊りは喜びの声が聞こえてくるようです。下段の唐子人形も理智的なおもざしをもつ優秀なものです。
左幕後幕右幕
幕は猩々緋に竜を刺繍し、後幕には万葉仮名でまじないのことばが刺繍してあります。これらの幕は平成18年(2006)に新調されました。
   天 神 國 社 遠あまつかみ くにやつしろを
   祝 比 天 曾 吾まつひてぞわが
   葦 原 之 國 者あしはらのくには
   治 末 流おさまる
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常盤町ときわちょう靱車うつぼしゃ
靱車
常盤町の出しものは天保初年より明治に至るまで唐人行列というもので、現在も衣裳が一着分保存されています。
明治7年(1874)、岐阜市大工町小野新兵衛の世話で山車を購入しました。代金220円(現在の価値で800万円)で鐘たたき唐子宙返りの山車でしたが、明治26年(1893)に上有知(現美濃市街地)畠山庄吉に金100円(現在の価値で200万円)で売り、その山車はその後関町(現岐阜県関市)の練屋町へ、更に愛知県の犬山に転売され現存しているということです。とはいうものの、犬山の現存山車を調べても太鼓をたたく人形しかなく、からくりの入れ替え、改造等があったのか、どうなったのか不明です。何しろ転売先のそのまた先のことですから確認するのも困難なのかもしれません。
明治31年(1898)に現在の靱車を名古屋市富津町(富澤町?)四丁目総代堀田喜兵ヱから代金300円(現在の価値で300万円)で買い、塗師野々垣浩三郎、金泊師戸松音次郎をはじめ、加藤清三郎、戸田彦兵ヱ、鍛治屋町兵衛らの手で完全に修理され、各種費用合計で822円余(現在の価値で800万円)となりました。山車は一旦解体して名古屋の熱田港より長良川を舟で港町まで運び、町内総出で組み立てたということです。
人形顔が替わる人形
山車は市内で最も大きいもので、靱猿うつぼざるの物語を糸操りの人形で演じます。殿様が猿まわしの子猿を殺して自分のうつぼ(矢を入れて背中に負う籠)に皮を張ろうとします。猿遣いは助命を頼みますが、殿様はきき入れません。やむなくこの世の名残に子猿に舞わせたところ、それを見た殿様がその可憐さに心をうたれて子猿の命を助けるという物語です。猿ははじめ童子の姿で舞いますが、途中で顔が猿にかわるところが実に功妙につくられています。
下段の人形は老人が扇をもって舞うというものです。太郎冠者といい、下段に置くには不似合いな大型の人形ではありますが、名古屋にあった当時からこの人形で、名古屋の隅田仁兵衛という作者も作年もほかの人形と同じなので、何かの意図があったのかもしれません。この太郎冠者は平成27年(2015)に修復され、平成28年(2016)の祭りから披露されていますが写真はそれ以前に撮影したものです。
常盤町の人に尋ねたところによれば、作者と作年が同じということは、逆にたった1年で4体の人形を作ることができたのかが不明で、何年もかけて作ってあった人形のストックから注文に応じて4体を組み合わせた可能性もある、というお話でした。もしかして、からくり人形の盛んな名古屋エリアでは、人形師があらかじめ作った人形を、注文に応じて適宜組み合わせるなんて、BTOパソコンみたいなシステムがあったのかもしれません。
囃子は「三番叟さんばそう」「本囃子ほんばやし」「出端では」「車切しゃぎり」があります。
山車廻し
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吉川町よしかわちょう布袋車ほていぐるま
布袋車
この山車は明治25年(1892)頃に魚屋町より120円(現在の価値で200万円)くらいで買ったものだといわれています。吉川町という町名は明治になってできたもので、江戸時代には今町いままち錦町にしきまちといわれていました。今も今町、錦町の小字名が残っています。
この山車は完全な二層式で、人形の上の屋形も後からつけ加えたものであり、江戸時代の踊り山車の形が原型のまま残っていると考えられます。つけ加えられた屋形も大きさの割に柱が細く、山車を動かすときには必ず4人の柱担当が支えています。
人形は大きな布袋がどっかと坐り、ゆっくり首を上下に振るだけでしたが最近は写真で分かるように首に頸椎シーネのようなクッションをはさんだまま渡御しているようです。平成19年(2007)に人形が改修され、ちょっと美形の布袋さまになりました。人形箱の墨書から文化年間につくられたと推定されます。
人形に動きのないのと反対に、山車ばやしは大太鼓、小太鼓、小鼓の他に三味線を取り入れていました。囃子は「三番叟さんばそう」「本囃子ほんばやし」「車切しゃぎり」があります。
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