以下は
白鳥 令が
2002年9月7日から11日にかけてマルタ共和国を訪問した時に
家族や友人に宛てて旅先から送ったメールです




マルタ通信


2002年(平成14年)9月7日−9月11日

白鳥 令



マルタ通信第1回(9月7日)

皆様 白鳥です。

ヒースの咲き乱れるスコットランドから、ロンドンを経て、マルタにやってきました。「マルタ通信」の第1号です。マルタには11日まで居て、11日にローマ経由で日本に帰る予定です。

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 マルタに着きました。空港には、こちらの「マルタ日本友好協会」(Friends of Japan in Malta)の会長で、同時に外務省の日本担当官のサムート(Edward Sammut)氏が出迎えに来て呉れていて、すぐに車で旧知の大蔵大臣のダリ(John Dalli)氏と会いにヒルトンに行きました。今日は土曜なので、ダリ氏は結婚式に出ているところでしたが、途中で抜け出して来て呉れて、しばらく話をしました。
 8日は日曜、9日はマルタがカルタゴの包囲を打ち破った記念日で国民の祝祭日ですし、大統領も首相も外遊中ですから、今回のマルタ訪問での政治的な行事はこれだけにして、英国で疲れた体を休めるための「マルタの休日」を楽しもうと思っています。
 ダリ氏と話をした後でホテルにチェックインをしましたので、結局部屋に入ったのは、夜の11時を過ぎていました。いくら英国より1時間分時間が早くなったといっても、やはり眠いことには変わりありません。
 しかし、時間が早くなるのは、何となく日本に近くなったようで、いよいよ日本に帰るのだと言う実感がしました。
 マルタにくる途中の飛行機から、英仏海峡のドーバーの白い崖が延々と続くのがよく見えました。添付写真のひとつは、「ドーバーの白い崖」です。

ドーバーの白い崖

 昨夜(金曜の夜)、ロンドンで泊まっていたローヤルランカスターホテルの1階(日本式では2階)に、雰囲気のよい(値段の高そうな?)タイレストランがあるのに気が付き、ロンドンでの講演も終わったことだし、くつろいで夕方に出かけました。
 心配した通り満員で、席がなかったのですが、親切なチーフウエイトレスが、「ここのメニューで選んで呉れれば、部屋に配達する」というので、そうしました。結果は大成功。驚く程おいしいタイ料理でした。その写真「僕の夕食」を添付します。
 右がトムヤンクンスープ。真中は赤トオガラシのチキンカレー。左がデザートのハスの実をココナッツのシロップに浮かせたもの。それに白いご飯です。彩りもなかなかのものでしょう?
 本当に素晴らしい味で、タイの王様が泊まった時に、そのコックが教えたという鳥羽観光ホテルのトムヤンクンスープを、思い出しました。
 でも、ランカスターホテルは、このタイ料理の値段も含めて、シングル1泊で250ポンド(約4万7千円)を支払うことになりました(最初の1泊は、講演のオーガナイザーの時事通信が払っています)。高級ホテルで、ブロードバンドを通してコンピュータで日本の民放のニュースも全部見ることが出来るし、これだけの値段でも、そのホテルの滞在に満足出来るのは、当然だと言えるでしょう。

タイ料理の僕の夕食

 そこから比較すると、やはりマルタのこのホテル(Preluna Hotel)は多少質が落ちます。しかし、部屋はマルタで2番目に高い高層建築(9階建て)のホテルの8階ですし、部屋のバルコニーは海に面していますし、ガウンもありますし、明日朝海からのぼる太陽を見るのが楽しみです。それに、部屋の値段が、マルタの外務省がとって呉れたにしても、朝食付きで35マルタポンド(約1万1千円)と安いので、万歳です。

 それでは、お休みなさい。

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マルタ通信第2回(9月9日)


皆様、日本は残暑でしょうか。白鳥です。

「マルタ通信」の第2回です。

 今は、朝の5時です。まだ外は暗く、日の出まで少し間があるようです。テラスから、海の向こうに日の出が見える筈ですから、可能なら起きていようと思います。

地中海の日の出

 昨日の8日の日曜日、朝の10時にサムート氏が迎えに来て、早速、観光客として、ブルーグロット(Blue Grotto)という、光の反射で海が青く見える洞窟に行きました。何度もマルタに来ていながら、まだここには行ったことがなかったのです。多分、いつも12月や3月の休みに来ているので、海が荒れて行けなかったのでしょう。
 ここは、いわば、マルタ版「青の洞門」です。小さな船に10人程乗って海の波で浸食された断崖の洞窟に行くのですが、最初は「たいしたことはないだろう」と思っていました。しかし実際は、その海の青さに驚きました。何しろ、水に手を入れると、手までが真っ青に光って見えるのです。(嘘みたいな話ですが、本当です。)
 地中海の色は、藍(コバルト)というよりもっと明るい、アイボリーブルーですが、ブルーグロットの水の色は、それをもっと明るくした感じの色でした。

マルタ版「青の洞門」−ブルーグロット

 その時の写真と、ホテルの部屋からの夕方の景色を添付します。夕方になると、町じゅうの人が、涼風を求めて海岸に散歩に出てきます。マルタは地中海の真ん中にある島国で、しかも地中海性気候は夏の間まったく雨が降らないのですから、太陽の照っている昼の間は泳ぐに丁度よい程暑いのですが、夕方になると海から風が吹いてきて、スーツを着ていて丁度よい位の涼しさになります。リゾート地して発達する訳です。

セントジュリアン湾の夕暮れ

 午後から30分程ホテルの海水プールとその周辺の海で泳ぎました。30分という短時間にもかかわらず、それでも陽に焼けて、体が火照っています。夜は、サムートさんの自宅に招かれ、庭で、マグロをケパー入りチリソースで炒めたお料理をご馳走になりました。

Friends of Japan in Maltaの会長サムート氏夫妻

 それでは、また。お休みなさい。

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マルタ通信第3回(9月10日)


皆様 日本はもう秋ですか。白鳥です。

「世界遺産の島」マルタからの第3便、『マルタ通信』第3回です。

マルタの魅力はほとんど無限大

 マルタにはさまざまな遺跡や観光資源があります。それで、「世界遺産の島」と呼ばれる訳です。
 第一に、十字軍遠征とジェルサレム巡礼の人々を警護し、その病気の治療をして当時のキリスト教国の王様や貴族から得たマルタ騎士団の大量の財宝が、今も首都バレッタ(
Valletta)にあります。この豪華さは、バレッタの聖ヨハネ大聖堂の内装や、騎士団長の館に、見ることが出来ます。
 第二に、その財宝と地中海の真中という地政学的位置をねらって攻撃してくる敵から護るために、海岸から高い崖を巡らして築き上げた城塞都市の首都バレッタや、丘の上の城塞都市旧都イムディーナがあります。首都のバレッタも旧都イムディーナも、その全体が世界遺産です。
 第三に、近年発見された古代の巨石建造物が、島のいたる所に存在します。特に、ゴゾ島のジィガンティーヤ遺跡は、人類の構築した世界最古(紀元前3600年)の独立建造物と認定され、また、マルタ本島の地下の神殿ハイポジウムも同じ頃のもので、共に世界遺産になっています。
 ローマの水道も一番完全な姿でマルタに残っていますし、地中海の明るいコバルトブルーの海も魅力的です。
 そのために、わずか40万足らずの人口、四つの小さな島のマルタ共和国に、夏は250万人もの観光客が訪れることになるのです。



世界遺産の首都Valletta

古代の地下宮殿ハイポジウム

 さて、マルタ2日目の9日は、朝9時にサムート氏が迎えに来て、まずマルタの大学へ行きました。新しい建物の大学で、近くには大きな(800ベッド)国立総合病院も建設中です。マルタは、まださまざまな点で、建設途上の国です。
 次いで、今回の旅の最大の見もの、紀元前3800年程から造られ始めた地下の宮殿ハイポジウムに出かけました。
 なぜハイポジウムが今回の旅のハイライトかというと、世界遺産に指定されているこの地下の宮殿は、保存のために、完全な事前予約制で1回に10人、1日7回しか見学客を入れていないからです。幸い、サムート氏は外務省の役人ですし、事前に予約をして呉れていたので、10時からの見学客に加われたという訳です。
 もちろん写真も撮ることが出来ませんし、何もお見せ出来ないのが残念ですが、3層に分かれていて、中はかなり広い、地下神殿です。
 実は、この神殿は、すでに一度見たことがあります。1970年に、大陸棚資源開発と海の非軍事化のための会議、「海の平和」(
Pacem in Maribus)と題された会議に出席のため、最初にマルタを訪れた時、ひとりで見たことがあるのです。
 この地下宮殿が発見されたのは20世紀初頭のことのようで、家を建てるために地下を掘ったら、洞窟と人骨が出て来たということのようです。現在も、この地下神殿は町なかの普通の住宅の地下にあり、入り口も普通の住宅のように2枚の観音開きのドアがあるだけで、注意しないと見過ごしてしまう程です。
 私が1970年に見た当時は、まだ公開さればかりで、ユネスコの世界遺産の制度自体も存在しなかったので、入り口で入場料を払い、懐中電灯を貸してもらって、中を自由に歩き廻りました。
 中では、中層から最下層に行く階段が急に狭くなり、ステップも不揃いで、落とし穴があったりして、大いに楽しみました。今回は、洞窟の中に設置された歩道の上を歩くだけで、しかも壁画の保護のために滞在時間も制限されていましたから、そのような楽しみはなかったのですが、ガイド付きで、壁面には照明もあり壁画を照らしていましたから、その点では教育的でした。
 下層に行くほど掘削が丁寧になり、天井も半円形に見事にドームを造っていて、これが紀元前3800年頃につくられたものとは、とても思えません。
 関心のある人は多く、私がサムートさんと入場を待っている間も、沢山の観光客が受付に来て、事前予約制と聞いてがっかりして帰り、気の毒でした。

マルタ人は太った女性が好き

 その後、この地下神殿の近くの巨石建造物、タルシーンの神殿を訪れました。島にいくつもある巨石建造物のひとつで、ここの石は余り大きくはありませんが、それでもひとつが10トンはあります。
 マルタの巨石神殿は、英国のストーンヘンジに見られる円形巨石建造物の源流で、マルタからフランス、フランスから英国へと受け継がれて行くのですが、複数の円形の部屋が四葉のクローバーや蜂の巣状に広がっているのが、特色です。
 マルタの神殿は世界最古のものですから半ば崩れており、特に、タルシーンの神殿の場合は市街地の真中にありますから、きちんと東西に向けて配置されていて神殿としての神秘性は有していても、よほど想像力を働かせないと、ここで神官が家畜を生け贄(いけにえ)にしていた古代の風景を実感することが出来ません。
 その点、4年程前に訪問した隣のゴゾ島のジガンティーヤ神殿は、海を見下ろす崖の上に建っていますし、石も20トン程の大きなもので作られていますから、さすがに神秘的なものでした。

タルシーン神殿の豊穣の女神と

 神殿で発見された「豊穣の女神」の像の前で撮った写真を添付します。穀物の豊作を願うためか、あるいはマルタ人の美意識がそうなのか、ここでは太った女性の方がもてるようです。子供たちも丸々と太っています。
 この像もそうですが、太った女性もよく見れば、なかなか魅力的です。

首脳会談の行われた漁村マルサシュロック

 タルシーン神殿を訪れた後、1989年にブッシュとゴルバチョフとでマルタの首脳会談が行われた漁村マルサシュロックに行きました。
 「ここで冷戦が終結した」と書かれたマルタ会談の記念碑は、互いに相手を抱擁する(あるいは、世界を抱擁する)形を象徴したものですが、もう汚れていて、しかも駐車した車で囲まれているので、写真もきれいに撮ることが出来ません。22年の歴史の流れを感じます。
 実は私は、その首脳会談の開催が発表される直前にマルタを訪問していて、発表の前日にマルタの大統領と二人だけで会見をしていました。
 その時、「明日モスクワに飛んでプリマコフと会う予定だ」と話をしていたら、突然に大統領が「ここマルタで、ゴルバチョフとブッシュの首脳会談が行われる予定だ」と話し出し、何枚もの写真を「会談が発表されると必要になるだろう」と言われて渡して呉れたのを覚えています。
 大統領は日時までは明かしませんでしたが、私は国際政治の核心に触れた感じがして、大いに緊張しました。
 もちろん私は誰にもこの話をしませんでしたが、同行していた毎日新聞の斎藤編集委員を真夜中にホテルのロビーに呼び出して、「斎藤さん、観光も良いけど、少し政府の人にも会ったほうが良いかも知れない」とだけ言い、大統領からもらった写真の束を「いずれ役に立つことになるかも知れない」と言って渡して、朝の飛行機でモスクワに飛びました。
 その写真は、『毎日グラフ』のマルタ会談特集号をはなばなしく飾ることになったのですが、斎藤さんに「大統領からのものですから、必ず返して下さい」と言って渡したその写真は、未だに返って来ていません。
 大統領と会った次の日に、「マルタ島で首脳会談が開かれる」との発表が、ワシントンとモスクワで同時に行われました。
 そのマルサシュロックの漁村の写真が2枚目です。

マルサシュロックの漁村

エリザベス・マン=ボルゲーゼ夫人の思い出

 その後、お昼として、マルタ島独特の外側がパイとなっているパン、パスティッツィ(Pastizzi)をサンアントン・ガーデンのベンチで食べ、この公園内に昭和天皇が皇太子時代に植えた「インドの木」を見て、旧都イムディーナに行きました。
 サンアントン・ガーデンは大統領官邸の庭ですが、普段は公開されていて、市民の憩いの場所になっています。
 「海の平和」の会議の時、大統領がここでレセプションを開き、私は、英国のリッチーカルダー卿とエリザベス・マン=ボルゲーゼ 夫人(Elizabeth Mann-Borgese)と3人で、カルダー卿が「どうら、酔っ払いを助けに行くか」と言って散歩をしたのを覚えています。
 このサンアントン・ガーデンを散歩している時、突然にサムートさんが、「マン=ボルゲーゼ夫人が今年2月に死んだのを知っているか」と言い出したので、私は驚きました。われわれマン=ボルゲーゼ婦人を知っている者は、皆彼女を「エリザベス」と呼んでいて、非常に感性のある夫人で、もちろん私より15歳位も年上なのですが(実際は、18歳年上で、83歳で逝去と後で知った)、私とは特に通じ合うものを持っていました。
 最初に会ったのは1970年のマルタの会議の6ヶ月程前で、カリフォルニアのサンタバーバラにあった、非常に高級な人文社会科学系の研究所であるハッチンス(元シカゴ大学総長)のインスティテューション「民主制度研究センター」(Centre for the Study of Democratic Institutions)で開催されたマルタ会議のための予備会議でした。私の「海の非軍事化」の報告を聞いた後で、「お前の英語のアクセントは非常に魅力的だ。どこで学んだのか」と聞いてきました。 サンタバーバラの海辺の崖の下の木造の家に住んでいて、なかなか魅力的な生活をしており、その時から非常に仲良しになりました。
 二人とも、海の問題や平和の問題に関心を持っていましたから、マルタ、ロンドン、ワシントン、グルジアとさまざまな所の会議で一緒になり、レセプションの時はいつも一緒にいました。
 最後に彼女に会ったのは2年前で、私がノルウェーのベルゲン大学の客員教授をしていた時、ルーマニアの首都ブカレストでローマクラブの会議の講演者として呼ばれた際でした。この時も、会議だけでなく、会議を抜け出して、民主化を進める新しい新聞の工場をエリザベスと一緒に見に行きました。
 この時、「レイ、最近私が世間で何と呼ばれているか知っているか」と、エリザベスがいきなり切り出しました。私が答えあぐんでいると、「私はカナダで海洋開発の研究所(
International Ocean Institute)を持っているでしょう。だから、皆に寄付を貰わなければならないのです。そしたら、世間は私を高級娼婦(High-class prostitute)と呼ぶようになった」と言って、少し寂しそうに笑っていました。これが、彼女の私に与えた最後の印象です。
 エリザベスにとって、出自は問題でなかったのでしょうか、名前から分かるように、文豪トーマス・マンの娘(三女)であり、ローマに美術館を持つイタリアの貴族ボルゲーゼ伯爵と結婚していたのですが、一度もエリザベスからトーマス・マンの話を聞いたことがありません。あるいは、トーマス・マンは家族を省みず、エリザベスは何か特別の複雑な感情をマンに抱いていたのかも知れないと、私は推察しています。

イムディーナのベートーベン

 午後に訪れた旧都イムディーナは、マルタ島の真中、小高い丘の上にあり、「サイレント・シティ」との呼称の通り、城壁内に自動車を一切入れない、自動車のない都市になっています。修道院と教会が市内の大半を占めている宗教都市で、狭い路地を観光客が案内書を片手に沢山歩いています。
 1970年、海の平和の会議があった時に、当時の首相が、この旧都イムディーナの大聖堂の前の広場で、夕刻、会議の参加者にコンサートを開いて呉れました。
 私は、国連の側から招かれてこの会議に出席していたのですが、日本政府から派遣された田川誠一代議士や小田滋さん(現在、ハーグの国際司法裁判所判事)も一緒にこの会議に出ていました。

水のきれいな地中海で泳ぐ人々

 イムディーナのコンサートのプログラムの中にベートーベンの第6交響曲「田園」があって、その第4楽章だったと思いますが、嵐が来る場面があります。丁度オーケストラがその場面に差し掛かった時、本当に不思議なことですが、一陣の突風が吹いて、譜面台がバタバタ倒れる騒ぎとなりました。
 オーケストラはそのまま演奏を続けましたが、その時のことをはっきり今でも覚えていて、今では懐かしい思い出です。考えて見れば、1970年だと私はまだ33歳だった訳で、感受性も非常に敏感だったのだと思います。
 それにしても、首脳会談の時も、こののどかな島が大嵐に見舞われましたし、聖ヨハネ騎士団の本拠地マルタ島には、神秘的が何かがあるのかも知れません。
 午後は、例によって、ホテルの前の地中海で泳いでいます。その海岸の写真が3枚目です。
 それではまた。明日はマルタを離れます。