2007年


1月10日 「人生という名の列車」に乗って

 馬場俊英という名のシンガーソングライターがいる。
 恥ずかしながら、私がその名を知ったのはつい最近のことだった。
 「『今日も君が好き』という歌が素敵だよ〜。」
 というパートナー氏の推薦を受けて、ひとつCDでも買ってみようかと思い立ち、数日前にショップに立ち寄ってみた。
 馬場俊英のコーナーには思いのほか多くのCDが並べられていて、正直驚いた。(長年のファンの方、すみません。この程度の認識で。)
 その中から、パートナー氏の言っていた曲が入ったものを探してみた。
 見つけ出したのが『人生という名の列車』というタイトルがつけられたアルバムだった。
 そのときには大して気にもせずに購入し、早速、カーオーディオで再生しながら帰路に就いた。
 なかなかいいじゃないか、なんて思いつつ聴いているうちに流れ始めたのが、奇妙に心に引っ掛かるフレーズが頻出する曲。
 ――「タカシは勝ち組」って、俺のことかよ。
 ――俺はさすがにWアサノの世代じゃないわな。
 ――おいおい、いきなり押し倒すか?
 などとツッコミを入れている途中で家に到着してしまい、最後まで聞き通すことができなかった。
 とりあえず曲名だけ確認してみると、それこそがアルバムタイトルにもなっている『人生という名の列車』という作品であることが分かった。
 うん。
 何はともあれ、大いに気に入った。
 
 で、翌日。
 通勤途中の車の中で、例の曲を最初から真剣に聞き込んでみた。
 なんや、やたらに長い曲だ。
 しかも、笑えるし。
 ……いっ、いかん。
 なんか泣けてくるじゃないか。
 という次第で、私はわずか2日間で馬場俊英のファンになってしまっていた。

 それにしても…と、ふと思う。
 『人生という名の列車』とはどこかで聞いたようなタイトルではないか。
 もちろんそれは、我が『ブラック・ジャック』の実質的な最終エピソード「人生という名のSL」のことが頭に思い浮かんだからだ。
 まさかな、と感じる。
 これは偶然の類似に過ぎないだろう。
 そもそも、手塚のつけた「人生という名のSL」というタイトルは、テネシー・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』を念頭に置いたものに違いないのだから、手塚オリジナルとは言い難い。(手塚のことだから、戯曲そのものより、後に映画化された同名作品のほうに、より強い影響を受けているのだろうが。)
 そんなふうに感じつつ、何とはなしにウィキペディアで「人生という名の列車」を検索してみる。
 すると、意外なことにも、
タイトル元は手塚治虫の大ヒット作「ブラック・ジャック」の最終話と思われる」
 という記述を発見してしまったのだ。
 これを記載した人物が、私の推量以上の材料を持っていて――例えば、馬場俊英自身が手塚治虫が好きであるというような発言をしていたとか…――書いたのかどうかは知りようもない。
 私と同じく、全くの当て推量である可能性もある。
 にもかかわらず、私の中で馬場俊英という歌手に対する親近感が一気に高まってしまったことは言うまでもない。
 おそらくは、ここ当分の間、彼に関する情報を集めまくることになるのであろう。
 できれば、彼が手塚ファンであったという動かぬ証拠をつかめればうれしいのだが。


1月27日 「 絶望」はぶった斬れたのか

 正直なところ、戸惑っている。
 映画『どろろ』が思いもかけずに至極ふつうの作品だったからだ。
 もっとぶっ飛んだ内容と映像とが展開されるものと、予め諦めの気持ちで心を満たしてスクリーンに向き合ったおかげかもしれない。
 上映中に怒りが込み上げることも鑑賞後に毒を吐き散らしたくなる衝動にも駆られることはなかった。
 昨年見た『ゲド戦記』のときとはエライ違いである。
 柴咲コウは、ちゃんとどろろを演じていた。
 妻夫木聡は、妙に育ちのいい百鬼丸に扮していた。
 百鬼丸の人生は貴種流離譚の血統に連なるわけだから、こういうのだってアリといえばアリだろう。
 どろろがどんなに薄汚れていても、行を共にしている百鬼丸がいつも涼しげな表情や身なりなのは、彼の出自が醸し出すものだったのだ。
 いや、これは決して皮肉のつもりではない。
 繰り返すが、この映画は真っ当な作品だった。

 とはいえ、これが良質な映画かと問われれば、否と答えざるを得ない。
 なにしろ、ストーリーのテンポが悪すぎる。

 例えば、百鬼丸の生い立ちシーンが冗長で退屈。
 心臓がない人間が「生きている」という状態を始めとした、いわばサイボーグのような百鬼丸の存在に説得力を持たせるためか、無茶苦茶な説明を施したために、かえって主人公の存在そのもののいかがわしさが際立ってしまったように思う。
 ただ、エレキテルを流された少年百鬼丸が起き上がるシーンは、ある意味秀逸。
 あれ、『鉄腕アトム』へのオマージュとして見事に成立している。(BGMに『運命』なんか使ってたらサイコーだったのだが)

 途中に連続的に描かれる魔物退治のシーンもいささかダレる。
 3体もは不要だっただろう。
 あっ、あのまるでテレビの戦隊物に出てくる着ぐるみのような魔物群に関しては、個人的に好意的に解釈している。
 あれも、完全にチープさというか間抜けさのようなものを狙った演出の一環に違いない。
 パンフレットによれば、手塚プロからの注文は「過剰にグロテスクにはしないでくれ」ということだけだったらしい。
 人の体や魂を喰らう魔物をまともに描いたら、それこそ正視に堪えないシロモノにならざるをえないはずだから、上のような注文に応えるために敢えてああいう造形にしたのだろうと。

 終盤、醍醐家の面々が勢ぞろいしてからは、唐突な展開とともにスケール感が一気に縮小してしまった感があり、残念でならない。
 あの展開ならば、わざわざ大金をかけてニュージーランドの大自然をバックになど撮影せず、どっかの家の庭でちまちまと撮ったとしても、ストーリー進行上はなんら支障はなかっただろう、と言いたくなるほどだ。
 まあ、ホームドラマなんだから仕方ないとか反論されたら困るんだけど。

 しかし、不安で一杯だった1年前からしたら、ほっと安堵している自分がいるのは否定しようがない。
 ネタばらしになるので今は詳しく書かないが、ラストでのどろろと百鬼丸のやりとりが秀逸。
 おそらく、あの場面があったから私は安心できたのだ。
 どろろの年齢設定を原作と大幅に変えたことで多くの原作ファンが懸念したに違いない部分を、巧みにオブラートに包み込むことに成功した脚本に、今は素直に拍手を送っておきたい気分だ。

追記
 公開前後からあちらこちらの映画レビューサイトでこの作品も俎上に載せられている。
 yahoo!あたりのレビューは、はっきり言ってお話にならない落書きレベル。
 映画評論家の評価も一鑑賞者という立場からの評価たりえない部分があるのでいまひとつ信用できない。(なにせ「金」が動いているわけだから…)
 それらと比較して、きちんとしたレビューが書かれていると私が感じているがCinemaScapeというサイトである。
 映画『どろろ』に関するレビューもそろそろ載り始めているので、興味がおありの方は是非一度訪問されたい。 


月1 1日 物語は、歪みだす?

 なんともオソロシイ展開になってしまっている。
 私の予想を完全に覆して、映画『どろろ』が大ヒットしてしまったのだ。
 話題作映画が公開されない「挟間」を狙った戦略が功を奏したのは間違いないにしろ、よもや4週に亘って興行収入1位を維持し、春休みにまでロングラン上映されることになるなどとは、正直、想像だにしなかった。
 このヒットを受けて、2月末には続編の制作が決定。
 それも、「2&3」を一気に撮影する計画だとか。
 全くもってどっかで聞いたような話だ。
 第1作の撮影地で、とある3部作映画が一度に撮影されたことなんかを懐かしく思い出してしまったりした。

 閑話休題。
 映画が興行である以上、儲かると踏んだらどこまでも利益を追求するのは当然。
 したがって、続編が作られること自体は自然な流れといってよい。

 問題は、続編のシナリオをどのように展開させるかということだ。
 キモとなるような原作部分については、(うまく活かされていたかどうかは別の話として)今回の映画でほぼ使われてしまった。 
 もちろん、「無残帖」や「似蛭」、「無情岬」など、映像化したら面白くなりそうな原作ネタはまだ残ってはいる。
 しかし、それらをつなぎ合わせるだけで、1本の――いや、2本の――完結した映画にしうるのかどうか。
 「原作にあったあの場面が再現されていたからよかったとか、なかった、或いは変更されていたから許せない」というのは、しょせん原作ファンのわがままに過ぎない。
 そんなのは、私らのような根っからの原作マニアの戯言として聞き流してしまえばよいことだ。
 映画を制作する側に求められるのは、むしろその作品を通して観客に何かを伝えようという姿勢だろう。
 テーマとかはさて置いて「エンターテインメントに徹する」というやり方もあるが、日本人はそういうのを見るのも作るのも苦手なような気がするし…。

 さて、一応「親子の愛憎」というテーマらしきものが設定されていた第1作に対して、2作目以降ではどのようなテーマを掲げ、作品として成立させていくつもりなのだろうか。
 このままだと、どちらかというと私が見たくない方向に進まざるを得ない気がしてならない。
 まあ、それこそ原作ファンの戯れ言ではあるのだが。
 でも、やっぱり、「あの展開」だけは見たくないぞ。
 余計なことではあるが、主演二人がプライベートでも付き合っているなんていわれている以上、もしも二人が破局でもした日には、洒落にもなんにもなりゃしないし。

 

 と、毎度毎度の繰り言を書き終えたところで、そろそろ今回の映画の「内容」について、感じたことを書き留めておきたい。

 ネット上では否定的な見解が大勢を占めている本作であるが、私はどちらかというと肯定的な立場だ。
 それでも、作品自体の出来が素晴らしいとはいえないレベルであると思っているのは、前回の更新でも述べたとおりだ。

 本作は――多分に昨今の世相を意識してのことであろう――、「親子の愛憎」をメインテーマとして描き出そうと試みている。
 百鬼丸は、心のどこかで実の父親、母親を求めて自らの体を取り戻す旅を続けている。
 どろろは、醍醐景光に直接・間接に父母を殺され、その復讐のために刃を求めている。
 醍醐景光は、生まれてくる我が子を生け贄に差し出す。
 百鬼丸の母親は、捨てた子が忘れられず、その子につけるつもりだった名を次子に与える。
 多宝丸は、親の愛情の在り処を確かめたいがために兄との対決に臨む。
 寿海は、偶々拾った哀れな赤子の育ての父親になるべく、持てる知識と技術の全てを注ぎ込む。
 村人たちは、自らが生きるために我が子を捨てる。
 マイマイオンバは、我が子を育てるために人の子を攫う。
 琵琶法師は、あたかも百鬼丸やどろろの親であるが如く、全ての因果の見届け人としての役割を果たそうとする。

 このように、一貫して親子の問題を取り上げているという点では、非常にしっかりとしたプロットが作り上げられているといえるだろう。
 しかし、この狙いが必ずしも成功しているといえないのが本作の弱点であり、全てなのだと思う。
 そうなってしまった原因の一つは、
クライマックスにおける景光の行動が、見ている者の目には支離滅裂にしか映りえないことだ。

 なぜに妻を斬り伏せる?
 何故、死んだ息子を助けるために自らの体を差し出す?
 どうして、魔に乗り移られたあと自らの体を刃で貫く?

 次から次へとスクリーンに展開される異常事態に違和感を覚えまくったのは私ばかりではないはずだ。
 これは、そもそもの発端部分において、醍醐景光が我が子の体を魔に差し出した理由が明確に伝わってこないからだ。
 是非はともかくとして、地獄堂での彼の行動は飽くまでも一族の存続を図るためのものであったのだが、少なくとも画面からはその意図が伝わってくることがなかった。
 かく書いている私も、映画のノベライズ版を読んで、初めてこのことに了解できたクチなのだ。
 せめて冒頭部をきちんと描いてくれていれば、この映画は、もっとずっといいものになったはずだ。
 そう考えると、たいへん惜しい気がしてならない。
 だからこそ、とことん貶す気持ちにはどうしてもなれない。
 以上が、この映画に対する私の率直な感想なのである。

 

 いずれにせよ、私の大きな不安と幽かな期待は続編の公開まで引き継がれることになった。
 原作の知名度が一気に上がったという一事だけでも今回の映画は大いなる貢献を果たしたというべきなのに、ファンというのは実に贅沢なものなのであることよ。

 

追伸
 上で少し触れたノベライズについて、少々述べておきたい。
 映画の不備を補う意味では大変面白い作品であったと評価しておきたい。
 ただ、残念なことにノベライズ担当者――映画の脚本家ご本人のようだが――が、いくつかの言葉で用法の誤りを犯しているように感じ、非常に気になった。
 例を挙げると、「雪崩れ込む」や「見初める」、「相俟って」など。
 景光よ、ひとりで部屋に雪崩れ込んでどうする!?
 おかげで、久しぶりに国語辞典を引く機会ができたのは楽しかったのだが。(揚げ足を取ってみたいオヤジなのです、私。)