2003年


4月7日 こころにアトムをV

 2003年4月5日。
 リニューアル後初めて手塚治虫記念館に出かけた。
 「その日」を前にした最後の土・日、加えて隣接する宝塚ファミリーランドの閉園記念イベントと重なったこともあって、館内は久々に熱気に溢れていた。私のお目当ては、もちろん1時間ごとに催される「アトム誕生」アトラクション。他の来館者の多くもそれを期待してやってきていたに違いない。私たちが記念館に到着したのは10時30分少し前だったが、ちょうどその時間から始まる第1回のアトラクションは、人が多すぎて近寄ることができなかった。そこで、2回目開始の20分前――11時10分から、眠っているアトムの置かれている場所の最前列に陣取り、「決定的瞬間」を待ち受けることにした。15分ぐらい前からそろそろ人だかりができ始め、開始時には4、50人の観客が集まってきた。
 交響曲「運命」が流れ始める。これは1963年放送のアニメーション第1回のときと同じ選曲。私たちの世代のファンにはおなじみの場面だけにうれしい演出だ。そして、おもむろに眠っていたアトムが瞼を開き、ゆっくりと上半身を起こす。こちらに向かってぼんやりと眠そうな目を向けながら静止。その間、ほんの10秒か20秒ぐらいか。1分か2分静止状態が続いてアトラクション終了。あっけなくはあるが、思い入れのある身にとっては、なんともいえない瞬間であった。 

 ところで、我がパートナー氏。静止した状態から次のアトラクションのために眠りに就いていくアトムの写真を撮ろうと狙っていたが、その時間になると前面のガラスが突然曇って中の様子が定かには見えなくなってしまった。再びクリアに戻ったときにはアトムはしっかりと眠ってい るという仕組み。さすがにそのあたりのことは主催者側も心得たものだ。そんな「怠惰なヒーローの姿」を公衆の面前に晒すわけにはいかないからねぇ。

 今年になって、マスコミなどで『鉄腕アトム』の話題が取り上げられているのを見聞きする機会がかなりあった。
 ここ1か月ぐらいのうちに関連図書の出版も相次いだ。その手の本をすっかり買わなくなってしまっていた私も、さすがに幾点かは購入した。それらの中で個人的にいちばん面白かったのが『鉄腕アトムコンプリートブック』という本だ。我々が『アトム今昔物語』という題名で認知している作品が、別冊で初出――サンケイ新聞連載――の内容のまま復刻されているのが貴重。原稿が紛失しているとのことで、初出の新聞からスキャナで取り込んだものに補正作業を施して完成させたという労作である。
 こうした、いわゆる「オリジナル版」の復刻には、作者の意図を無視しているという一面があるのは否めない。『アトム今昔物語』も、手塚の考えに則って改作がなされたわけだ。したがって、我々は手塚の生前の時点で最終的に発行されたものをこそ「決定版」として受け止めるべきなのも承知している。にもかかわらず、今回のような出版を喜ぶ気持ちを抑えられないのは、ひとえに私が手塚を愛しているからに他ならない。私は 手塚自身が描いたものであるならば、たとえそれが没原稿であれ落書きであれ、ひとつでも多くこの目で見てみたいのである。こんな読者側のわがままを、天国の手塚はどんな気持ちで受け止めているのだろうか?(以前にも同じようなことを書いた気がする。このような復刻がある度にどうしても考えてしまうのだ。)

 首都圏では、4月6日から3度目のアニメーション化作品『アストロボーイ・鉄腕アトム』の放送が開始されたようだ。(私の住んでいる地方では14日からの放送ということで、まだしばらく「おあずけ」を食らわされる。なんてことだ…)
 写真などを見る限り、アトムのキャラクター自体は原作初期のイメージを踏襲しており、悪くない。それに今回のテーマが「こころ」であるとの雑誌記事もあって、ちょっとばかり期待している。
 いずれにしても、手塚治虫が直接には関わらない作品である。手塚の「こころ」をどれほど受け継いでいるのかという点に注目しながら見てみたいと思っている。そして、たとえ新たに描き出されるアトムが私自身の「こころ」に根づいているアトムとは全く異なったものであるとしても、今なら受け容れられそうな気がしている。私だけではなく、原作を読んで育った世代にも、第1期のアニメーションに心躍らせた世代にも、第2期のカラー版アニメーションのアトムに特別の思い入れのある世代にも、今度の作品で初めて「アトム」に触れる世代にも、ひとりひとりの「こころ」にそれぞれ異なった「アトム」が存在している、或いは存在することになるに違いないのだから。
 2003年4月7日。
 ついに「その日」がやってきた。


8月20日 B・J生誕30年

 2003年8月20日。
 「ブラック・ジャック生誕30年記念企画」の一貫として、文庫版『ブラック・ジャック』の第17巻が刊行された。
 最大の話題は、今まで新書判にすら収録されることのなかった「幻のエピソード」中の3編が、初めて「正式」に単行本に収録されたことだろう。それらを含めた11編を改めて読んでみると、確かに作品のクオリティーとしては今ひとつのエピソードも少なくないというのが正直な感想だ。 手塚が単行本収録を渋ったのも当然であるという気がする。(中には作品のレベルというよりも政治的配慮から収録が見送られてきたと思われるものもある。)
 しかし一方では、(これまでにも何度か書いていると思うが)作品の良し悪しに関わらず全ての作品を残らず読みたいという、ファンとして当然の気持ちもある。そうしたファン心理が甚だしく歪んだ形で実を結んでしまったのが、しばらく前に話題になった「海賊版ブラック・ジャック第26巻」事件だろう。違法であると知りながらも、それをネットオークションで10万円もの値をつけて落札したというファンの気持ちは十二分に理解できる。ファンとはそういうものなのだ。とはいえ、私はこの事件に関わった人間を誰一人として擁護する気はない。やはり、犯罪は犯罪でしかない。その意味では、売り手も買い手も同罪である。
 文庫未収録のエピソードは残り11編――「刻印」と改作された際に原稿の多くが流用されてオリジナル原稿が残っていないという「指」を除けば10編――である。ちょうど単行本1冊分だ。この際、できるだけ早い時期に第18巻を刊行してほしいと思う。そうすることによって、大多数のファンの欲求が満たされることになるし、同時に上に示したような一部ファン(?)の暴走や『ブラック・ジャック』単行本未収録作品が掲載された雑誌の古書価格の暴騰といったような、どう考えても異常な投機熱にも歯止めがかかることになるはずなのだから。
 多くのファンは、純粋に手塚作品を楽しみたいだけなのだ。「予約限定企画」も結構だが、ここらあたりは出版社側にも熟慮を願いたい。「限定」とかなんとか、そんなあざとい商売をしなくたって、熱心な読者は全てを揃えなければ気が済まないものなのだ。ちょっと前に学習研究社から発売された『夜明け城』のような好企画を秋田書店にも見習ってほしい気持ちでいっぱいである。


10月5日 医者はなんのためにあるんだ!

 2003年9月25日。
 東京慈恵会医科大学附属青戸病院の医師3名が「医療ミス」を理由に逮捕された。マスコミでも大きく取り扱われたので、どなたもご存知のことであろう。
 当初から、この「医療ミス」という言葉が気にかかって仕方がなかった。
  舞台となった病院のウェブサイトを確認してみると、9月29日付でこの事件に関してのお詫びが掲載されていた。そこにもやはり「医療事故」という文言が見られた。
 あれは、ほんとうに「ミス」とか「事故」で片付けられるようなものなのだろうか?
 新聞記事やテレビ報道などからは、逮捕された医師らは、腹腔鏡手術を経験するという目的をもって、大学の倫理委員会の承認を得ることもなく手術を実施したことが分かる。さらに患者が出血多量の状態に陥った際には、立ち会った他の医療スタッフらから手術方法切り替えの忠告があったにもかかわらず危険な手術を続行したという。
 この問題が明らかになった後で行われた記者会見で、青戸病院の院長はこう語ったと伝えられた。
「難易度の高いものに挑戦するのは大学の使命だ」
 上に記したような報道が真実であるとするならば、逮捕された医師はもちろんのこと、院長らにも医者としての資格があるとは思えない。「医師の目的は難易度の高い手術に挑戦することだ」と、彼らは信じている。「患者はモルモットに過ぎない」と、彼らは主張している。「命を救ってほしい」と願う患者は、大学病院へなど来てはいけないと言っているのだ。
 また、これを「事故」であると強弁する病院側の態度も異常に見える。どう見たってこれは立派な殺人事件であり、犯罪行為以外のなにものでもない。
 こんなバカな論法が罷り通るのが医学の世界というものなのだろうか?
 彼らに聞く耳があるとは思えない。
 しかし敢えて、問いたい。
「医者は何のためにあるんだ!」