カトリック入門

(1)神とは:

神とは、限りなく完全なおかたで、天地をはじめ、すべてのものを造り、また、これを治めておられる、私たちの情け深い父です。そして、神はただ、ご一体だけおられます。また、神は限りない知恵をもったおかたですから、いっさいのこと、すなわち過去、現在、未来のこと、また人の心のそこまでもご存知です。さらに、神は限りない力をもったおかたですから、おできにならないことは、1つもありません。さらに、神は、天にも、地にも、どこにもおいでになります。

(2)祈り:

祈りとは、神を拝み、そのご恩を感謝し、罪のゆるしと恵とを願うために、心を神にあげて、神と語ることです。祈りは、神と交わるために、何よりも大切です。また、神は祈る人に救いの恵みをお与えになります。私たちは、神の子であることを思い、信心、謙遜、信頼、委託、忍耐の心をもって祈ります。祈りは、いつでも祈ることができます。特に、朝晩、食事や仕事の前後、病気、災難、困難、誘惑の時に祈ります。

(3)聖書と聖伝:

聖書とは、人の救いについて書かれた、神のみ言葉です。聖書は旧約聖書と新約聖書との2部に分けられます。聖書は、神が人の心に呼びかけて、筆者の固有の見方やいい方を保ちながら、神の教えを説きあかさせられています。

聖伝とは、聖霊のおん助けによって、使徒の時代から、誤りなく伝えられた、神のみ言葉です。

(4)三位一体:

イエズス・キリストは、神はただご一体でありながら、しかも父と子と聖霊というお三方であることを、お教えになりました。父とは、子と聖霊との源で、永遠においでになるおかたです。子とは父から永遠のみ言葉として生まれたおかたです。(キリストのこと)聖霊とは、父と子から永遠の愛として出るおかたです。人の知恵では、三位一体のわけを知ることが出来ません。神の啓示ですから、これを信じるのです。

(5)イエズス・キリスト:

イエズス・キリストは西暦紀元頃ユダヤの国(現在のイスラエル)の町ベツレヘムでお生まれになりました。聖母マリアはイエズスの御誕生ののち、40日目にエルサレムの神殿で、きよめの式をうけ、おん子をおん父におささげになりました。ヘロデ王がイエズスを殺そうとしましたので、聖ヨゼフと聖母マリアに連れられて、エジプトへお逃げになりました。その後、ヘロデ王が死んだので、エジプトから帰って、ガリラヤ地方(イスラエル北部の地方)のナザレに住み、30歳になるまで聖ヨゼフと聖母マリアとに従っておいでになりました。(聖ヨゼフはイエズスが20歳頃にお亡くなりになった。)

イエズスは30歳のとき、洗者聖ヨハネから洗礼をうけ、荒野に行って、40日間断食をなさいました。その後、12使徒をお選びになり、この人々と一緒に、3年間パレスチナ地方を歩き、神の福音をおときになりました。(神の福音とは、神の国についてのよい知らせで、人はそれによって神とともに生き、天国へ行くことができます。)

イエズスが救い主であることは、救い主についての旧約聖書の預言がはたされ、ご自分の預言もはたされ、ご自分がたくさんの奇跡を行われたことによってわかります。    


(6)救世:

イエズスは、人を救うために十字架に釘づけにされて、お亡くなりになりました。これを「救世の奥義」といいます。イエズスは人の性においてお苦しみになりました。しかし、イエズスは神ですから、その苦しみの功徳は限りがありません。

(7)ご復活、ご昇天、聖霊降臨:

イエズスがお亡くなりになったのち、三日目に旧約の預言のとおり、ご復活なさりました。これを「主のご復活」といいます。その後、40日の間、たびたび使徒たちに現れて、ご復活を証明し、また教会についていろいろ教え、神の福音をすべての国、すべての人に伝えるよう、お命じになりました。

ご復活後、40日目に、オリーブ山から、使徒たちの前で天にのぼり、おん父の右におすわりになりました。これを「主のご昇天」といいます。その後、イエズスは、人としても、天国で、おん父と同じ権能をもち、すべてのものを治めておられます。また、イエズスは、世の終わりに、すべての人の善悪を裁くために、もう一度お姿を現して、この世においでになります。

イエズスは、ご昇天後、10日目に、そのお約束どおり、使徒たちに聖霊をお遣わしになりました。これを「聖霊降臨」といいます。使徒たちは、聖霊から、イエズスの教えの意味をよくわかり、勇気に満ちてそれを宣べ伝え、国々の言葉を話し、奇跡を行うなどの恵をうけました。聖霊は、世の終わりまで教会にとどまって、これをまもり、お導きになります。

(8)聖母マリア:

諸聖人のなかでもっとも優れているかたは聖母マリアです。それは、聖母マリアが神のおんひとり子イエズス・キリストの母として選ばれ、すべての天使と聖人を超えて、神の恩恵を受け、特別な権力を授かったからです。聖母マリアは、キリスト信者の心の母として、天国で、教会とすべての信者のために、とりなしをしてくださいます。

(9)天国・地獄・煉獄:

天国とは、救りの恵をいただいた人が、神の愛と光栄にあずかり、諸聖人とともに限りない幸福を受けるところです。天国に行く人は、成聖の恩恵をもち、罪をゆるされて、償いを完全に果した人です。(成聖の恩恵とは、人を聖とし、神の命にあずからせる恵です。)

地獄とは、神を捨てた人が、神から離れて、悪魔とともに永遠に苦しむ所です。地獄に行く人は、大罪のゆるしを受けないで死んだ人です。

煉獄とは、人がこの世で果たしおえなかった罪の償いを、果たしおえるまで、苦しみを受ける所です。煉獄へ行く人は、成聖の恩恵をもっていても、小罪があるか、あるいは罪の償いを果たしおえないで死んだ人です。

(10)罪と罪のゆるし:

罪とは、悪いと知りながら、思い、望み、ことば、行い、怠りで、神の掟にそむくことです。罪には大罪と小罪があります。

大罪とは、大きい事柄について、はっきり知りながら、承知して、神の掟にそむくことです。大罪によって、神の愛を裏切り、そのみ名を辱め、成聖の恩恵を失わせます。それで、大罪をおかす人は、天国と、その手柄を失い、地獄の終わりない罰を招きます。

小罪とは、小さい事柄について、あるいは、大きな事柄であっても、はっきり知らず、または、充分に承知しないで、神の掟にそむくことです。小罪は、成聖の恩恵を失わせませんが、心をけがし、神に対する愛を冷やし、この世、または煉獄の罰を招きます。なお、小罪を重ねれば、大罪に陥りやすくなります。

神は、イエズス・キリストのおん功徳によって、人の罪をおゆるしになります。罪のゆるしは、自分の罪を痛悔して、イエズス・キリストのお定めになった洗礼、あるいはゆるしの秘跡を受けることによって得られます。    


(11)死と私審判:

人は死んでから、体は土にかえり、霊魂は神の審判をうけます。(一生の善悪を神に裁かれること)人は死んでからすぐに、私審判をうけます。これによって人は、天国か、地獄か、あるいは煉獄へ行きます。

(12)体の復活と公審判:

体の復活とは、世の終わりに、神の全能によって、死んだ人がよみがえることです。体の復活の後、イエズス・キリストは、大いなる威光と力とをもって、この世においでになり、すべての人の善悪をお裁きになります。これを「主の来臨」と「公審判」といいます。公審判の後に、神に従った人は天国へ行き、終わりない幸福を受けます。これを「永遠の命」といいます。神に従わなかった人は、地獄へ行き、終わりない苦しみを受けます。これを「永遠の死」といいます。


参考文献:やさしい教理問答:志村辰弥編:中央出版社(現サンパウロ)


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