平成の政治状況と社会党の政権離脱
目標なき各政党 小沢主導の原因に

北海道新聞夕刊: 1994年(平成6年)4月28日(木曜日)

白鳥 令
(東海大学社会科学研究所長)

 リクルート事件への連座による竹下内閣の退陣に始まり、金丸自民党副総裁の逮捕、非自民連立内閣の形成、そして社会党の連立政権からの離脱へと続いた「平成時代」の日本政治は、国民生活にはほとんど何の実りももたらさなかったが、政治学の分析の対象としてはかなり興味深いものである。
 ドラマは、竹下登が念願の総理大臣のポストを手に入れ、そのために竹下派の会長を退き、金丸信を竹下派会長代理に依頼した1987年から始まったといってよい。派閥の創立者であった竹下には派閥所属の政治家たちは無条件で従ったが、雇われマダム的に派閥のリーダーとなった金丸はアメとムチを使い、努力をして派閥の構成員たちを自分に従わせることになる。政治資金で政治家たちを黙らせ、小沢一郎を使って政治家たちを締め付けたのである。
 このための無理な政治資金づくりが佐川からの5億円ヤミ献金事件をひきおこし、金丸は経世会の会長と議員とを辞職することになるが、金丸の指導下で小沢は強引な政治手法を身につけることになった。同時に、外部から経世会を統率しようとする竹下と、内部で経世会の会長を自負する金丸とのあつれき(軋轢)が、竹下派内に小淵恵三、橋本龍太郎、梶山静六など竹下系の政治家たちと、小沢一郎、奥田敬和など金丸系の政治家たちの対立をうみだし、この対立は金丸の引退という状況の中で竹下派の分裂、宮沢自民党内閣の崩壊へと発展した。面白い点は、この権力闘争の中で、竹下系と金丸系の間に戦後政治の評価に関して姿勢の違いが表面化したことであった。
 竹下は、著書の中で占領軍の行った農地改革を「戦後農業の基本コンセプト」をつくったと高く評価しているが、橋本龍太郎を中心とする竹下系の政治家たちは、吉田茂以来の「富国弱兵」を基本とする戦後日本の保守政治のイデオロギーと業績をかなり明確に評価している。かれらは、宮沢喜一や河野洋平のように政治的な護憲派ではないが、戦後における日本の経済大国への発展を評価するが故に護憲派なのである。
 これに対し、金丸系政治家の中心である小沢は、よく知られているように「普通の国」論を展開する。軍事力を最小にし、利用しうる労働力と資本とを経済発展に振り向け、貿易立国により経済大国にはなるが政治・軍事大国にはならないとする戦後日本の保守の「富国弱兵」論を、小沢は「普通ではない」と退ける。かれは経済大国ならば当然政治・軍事大国としての責任も負うべきだと述べ、伝統的「富国強兵」のモデルを「普通の国」の発展の道とし、それを志向する。
 小沢は、自民党を分裂させ、自民党の安定政権を崩壊させた限りはもう後戻りは出来ないのであって、将来の日本政治のヘゲモニーを握るためには、自民党に対抗する勢力を作りあげ、自分がその指導権を把握する以外に道はない。小沢にとって、細川内閣のような非自民の連立政権はその第一歩となりえても、十分ではない。小沢が「政治改革」を強く主張する羽田孜をかつぎ、小選挙区制の導入をまず達成しようとしたのは、それを用いて二大政党制を確立し、単独安定政権を樹立して「普通の国」へと日本の進路を変更したいからである。「普通の国」路線に障害となるならば、現行憲法も必要に応じて変えればよいと小沢はいう。
 現在の政治を見る限り、政治に実現すべき目標を持ち、それに向かって必死の努力を行っている政治家は、小沢一郎以外にない。この現実が、政治全体が小沢主導で動く原因となっている。社会党は東欧社会主義陣営の崩壊以来政治目標を失い、自動車など公害企業の労働組合を基礎とする民社党は構造的に先細りの状況にある。公明党は高度成長の終わりと共に伸びが頭打ちとなり、経済発展をその理論的支柱として来た自民党も、高度成長の終焉と共に国民に訴えるべきものを失っている。これら、実現すべき未来を失った政党は、小沢戦略に乗って権力のおこぼれにあずかるか、反小沢の否定的キャンペーンを打ち出すかしか対応の方策がない。民社党が突然突出した行動をとったり、社会党が一貫した行動を示せないのはこのためである。
 竹下派の内部対立から現在の政治状況が生じ、政治全体が小沢主導で動いて行く限り、長期的に見れば、政治は小沢のいう「普通でない国」と「普通の国」、「富国弱兵」と「富国強兵」をめぐって対立して行くことになるであろう。その意味では、社会党は、河野洋平の率いる自民党と提携した方が自然だということになる。社会党の連立政権からの離脱は、8カ月にわたった非自民連立政権の存在が「自民一党支配の終焉」というスローガンの効力を弱め、政治状況が過渡的な状況から少し整理された状況へと転換しつつあることを示す一つの兆候だと考えられよう。