政界再編はなぜ進まないか


「国会月報」持論駁論: 1996年(平成8年)7月号

白鳥 令
(東海大学教授・日本政治総合研究所会長)


1.すれ違う国民の状況と制度改革

 「政界再編」という掛け声だけで現実がいっこうに進まず、未来が見えてこない日本政治の状況に、国民だけでなく政治家たちもいらだち始めているように見える。この政治の閉塞状況をどのようにして打破すればよいのだろうか。
 もちろん、政治がこのように動かないのは、基本的には、無党派層の拡大に見られるように、国民のサイドは価値観が多様化し、より多彩で自由な選択を選挙で求めようとしているのに、この多様化した国民の意思を、選挙の場への小選挙区制の導入により、制度の側で無理に二元的な選択へと追い込もうとしているからだということは、間違いない。
 政治の基本的な大きな流れは国民レベルで決定されるのだから、誤った決定をしてしまったと政治家の側で悟ったならば、早急に制度を是正すればよいのだが、この新制度を作った同じ議員が国会を構成しているために、自縄自縛で行き詰まってしまったということになる。
 だが、選挙制度はどのようなものになったとしても、政党が現在のままであり続けることはほとんど不可能といってよいであろう。農業と農協も含めて、業界の既存の利益と組織とに基礎を置き、圧力団体の狭隘な利益代表に終始して、日本の公的な利益の見通しと設計とは官僚にすべて依存するというこれ迄の自民党が、絶対過半数議席を失った現在、このままで今後も存在し続けるという可能性はほとんどない。同様に、たとえ党名を変更したとしても、一九八九年の社会主義圏の崩壊以来、イデオロギー的なよりどころを失った旧社会党が、その骨格を維持したまま新しい状況に生き残ることはありえない。
 「政治改革」を旗印に、自民一党支配の終焉を目指した新進党も、自民党一党支配が崩壊し、政治改革も日本の将来のためというより、特定の政治家の将来の覇権に貢献しただけであったことが判明した現在では、日本の将来を描くことは出来なくなっている。すべての政党がこうして自己の一体性(アイデンティティ)を維持できず、積極的に日本政治の将来像を描くことが出来なくなっているのだから、政治が閉塞状況にあるのは当然であり、政党と政党システムの全面的な再横築が必要なのは明らかである。

2.多数支配型民主主義と合意形成型民主主義

 政党システムの再横築のためには、何よりもまず、日本の議会制民主主義の将来像に関する議論が必要であろう。議会制民主主義の理想型に関しては、二つの対立する意見が存在する。一つは「多数支配型民主主義モデル」(Majority-rule democracy model)とでもいうべきもので、政治を基本的に賛成か反対かの二元的傾向をもつものと理解し、それ故に政党システムとしては二大政党制がノーマルな形態であり、理想モデルだと評価する。現状のような混迷する政治の世界で必要なのは能率であり、業績の達成こそが政治の目標と考え、そのためには、多数意思の実現が政治の世界で何よりも先行しなければならないと主張する。このモデルにおいては、リーダーに期待されるのは実行力である。小選挙区制の導入は、まさにこの民主主義モデルに沿ってなされたものであった。
 これに対し、「合意形成型民主主義モデル」(Consensus-building democracy model)とでも呼ぶべき、全く別の考え方が存在する。現在の高度に発達した社会は一九世紀の工業化だけを目指す社会とは根本的に異なり、人々の利害は相互に複雑に絡まり、人々の単純な二元論的な選択は不可能となっていて、それ故に多様性が現代社会の特徴となっているのだから、多くの人々が満足する安定的な政治の確立のためには、政治権力の正統性が出来るだけ多くの人々によって承認される必要がある。出来る限り広範な人々の意思を組み入れた合意の形成こそ現代にとって必要なものであり、政治リーダーに期待されるのは独裁的な実行力ではなく、調整力だと主張する。国民の意思が多様化している限り多党制が自然でもあり当然で、多党制下の連立政権こそ望ましいかたちだとする。
 もし多数支配型民主主義モデルが日本の現状で可能であり望ましいものだとすれば、問題はそれ程困難ではないということになる。このまま放置すれば、来年の七月迄にはいやおうなく衆議院の解散ということになり、その結果は圧倒的な一党優位か、疑似的な二大政党制の出現ということになろう。
 しかし、もし人々が一党支配の再現を望まず、また、小選挙区制による無理な二大政党制への収れん(斂) に満足しないとしたならば、あるいは、どの政党も過半数議席を獲得する見込みがなく連立政権が時代の流れだというのであれば、われわれは合意形成型民主主義モデルを活用する方向を考えなければならない。この点の確認が、まず必要なのである。これからの政党システムの再編成で、もし第三極を形成しなければならないとすれば、それは単に現在の社民党を何とかしなければならないからというのではなく、どのような民主主義モデルを日本は採用すべきかとの観点から、もっと大胆かつ積極的に議論を進めて行く必要があるといえよう。 現在の多様化し流動化している国民の意識と利益状況から考えれば、二大政党制によっては国民の意思の表出も満足に行えず、国民の納得する権力確立のための合意の形成も十分に行うことが出来ないのであって、それ故に、多党制の有用性を承認し、連立政権が広範な合意を形成する能力と、連立政権の有する柔軟な権力生成機能とを活用するのだとの、建設的な自覚が政治家にも国民にも必要なのである。

3.政党再編の核は何か

 次に問題となるのは、政党システムの再構築を行うとして、その基礎となるベき核は何かという点である。社会主義圏と東西対立の世界横造の崩壊以後、自由市場経済か社会主義計画経済かといった、一九世紀的イデオロギーが政党システムの対立軸になり得ないことは明らかとなっている。現在考えられている政党再編の核はもっと個別的な問題である。
 憲法問題、特に核兵器と安全保障政策をめぐつての憲法問題が、政党システム再構築の核となると考えられた時もあった。だが、安全保障政策と憲法問題をもって政党の再縮を行おうとすると、政党再編の必要性が余りなくなってしまう。社民党の安全保障政策は社会党時代の末期に大きく変わり、自民党も若い世代へと実権が移るに伴って現憲法是認へと政策が変わっているので、自民・社民間で憲法問題に関してそれ程深刻な対立は意識されなくなっている。さきがけも憲法擁護の立場を明らかにしているので、小沢一郎氏の安全保障政策だけが際立つことになり、自社さきがけの三党連立政権対新進党の対立軸はむしろ合理的なものとなるからである。
 行政改革との関係で、「大きな政府論」と「小さな政府論」との対立が、政党再編成の対立軸となる可能性も論じられてきた。だが、この点も、政党再編の決定的な要素とはならない。自民党はスローガンとして規制緩和を唱えても、実質は景気対策にしても公共投資の拡大政策を採用しており、政府の役割を積極的に認める「大きな政府論」を現実の政策としている。この点では、社会民主主義を基礎として福祉国家政策を重視する社民党と同じである。新進党では小沢党首は素朴な自由市場経済論者で「小さな政府論」を主張するが、厚生族の渡部恒三氏や農林族の羽田孜氏は必ずしもこれに同調していない。さきがけは、全体的には「小さな政・府論」に傾いているが、それでまとまっている訳でもない。
 現在、鳩山由紀夫氏と船田元氏を中心とする新党運動の核となっているのは、「小さな政府論」との関連で、自由市場経済を活用した際に、社会的な平等や公正をどのように確保するかの発想のように見える。船田氏も鳩山由紀夫氏も自由市場経済体制の活用と「小さな政府論」とに賛意を表するが、小沢一郎氏のように素朴なかたちで自由市場経済にすべてを任せるわけには行かないと考えている。両氏とも「小さな政府論」を採用する限り、たとえ社会的な公正確保のためとはいえ、積極的に政府による介入を認めるわけには行かない。そこで、船田氏はフィランソロピーの思想を援用し、ポランティア活動など私的セクターの活用を説いてこれを「新々保守主義」と名付け、鳩山氏はこの社会的な公正確保にクリスチャンであった鳩山一郎氏の「友愛精神」を活用しようとしている。もちろん、これだけでは政党再編の核としては弱いのだが、それ以上のことを主張すれば、意見が一致しないということになってしまう。
 政治手法とリーダーのあり方をめぐっては、特に新進党内部で、亀裂が表面化している。小沢一郎氏の強いリーダーシップと党首独断的な政治手法に対して、羽田孜氏らが、強く反発をしている。この問題は、すでに書いたように、民主主義の理想型と関連しており、多数支配型民主主義モデルを採用するならば、強腕型の政治手法と強いリーダーシップとは当然のこととなるのだが、小選挙区制と二大政党制を推進してきた羽田氏らが小沢氏の強いリーダーシップに反対し、船田氏らの第三党結成への動きに理解を示すから、事態が混乱してしまう。

4.「政党の終焉」論と新時代の政党再編

 こうして、政党システム再編成の核となる政策姿勢や政治手法の対立点を見ても、どれも決定的な政党再縮の基礎となる可能性が少ないとしたら、今後の政党再編をどう考えればよいのだろうか。
 一九七〇年代に、米国やヨーロッパの政治学者の間で、「政党の脱編成」(DealignmentofPoliticalParties)論が流行した。「政党の終焉」(ThePartie'sOver)という書物を書いた学者もいる。現実に、一九七〇年代から最近まで、世界の先進国の政治状況を検討すると、有権者の政党離れ、政党の影響力の喪失といった現象が共通して観察される。まず政党支持を見ると、(1)政党に対する支持率が低下して無党派層が増大し、(2)支持政党を有している有権者もその支持が流動化して固定せず、(3)選挙においても投票率の一貫した低下現象が観察され、(4)医療へのボランティア活動など他の分野への市民の参加は増大したのに政治運動への参加は減少し、(5)政党の意見吸収能力の低下により、有権者の政党への満足度は一貫して低下している。
 このような国民の政党敗れの現象をひきおこした原因としては、(1)政党以外に、マスメディアなど国民の意見を吸収し表出する政党の競争相手が多数登場したこと、(2)貧富の差など政治の中心問題が、福祉国家政策や全体的な所得水準の向上などによって、それ程深刻な問題でなくなって来て、国民の政治への関心が全体として減少したことなど、いくつか挙げることができるが、政党の現在の姿が国民の現状にあわなくなって来たことも、重要な点である。
 これまで政党は、例えば自民党でいえば農民や企業経営者など一定の固定的集団をその存立の基盤としてきた。農民について見ると、農業の利益・地方の利益・米の生産者としての利益といった具合に、一定のセットになった利益を所有していて、それを前提に、そのセットの利益を代表することで政党は固定的な支持者を獲得してきた。
 だが、農民自体が少なくなっただけではなく、農業を中心としたセットの利益そのものが崩壊しているのが、現状である。もはや専業農家はほとんどなく、多くの農民がウイークデーには近隣の工場で働き、仮に統計上は専業農家であっても、東北の農民のように出稼ぎで一年の半分を工場や建設現場で働いているケースが多い。かれらは、農業の利益をもっていると同時に工業や建設業の利益を有しているのである。近郊農村の農民は、都市野菜の値段は高い方がよいが、米価は低い方がよいのである。企業経営者にしても、経営者としては工業製品が高い方がよいが、消費者でもあって、車や住宅の建設費はやすい方がよいのである。
 こうして、先進国では社会的利益が複雑に交差し、一定の固定したセットの利益がもはや存在しなくなっているので、政党が、それらを基礎に安定したかたちで存在し続けることはもはや不可能である。有権者の側が、選挙で、自己の所有するさまざまに矛盾し対立する利益の中で、その時もっとも重要と考える利益を考えて投票するように、政党もその時最も重要と考える利益や政策を基礎に、短期的な組織しか維持出来なくなっていると考えるべきだといえよう。
 前回三年前の総選挙で「政治改革」と「自民一党支配の終焉」を掲げてブームをおこし、三〇議席以上を得て総理大臣の地位まで獲得した日本新党が、現在その痕跡もなくなっているように、「政党は、選挙を目前にしてその時焦点となる政策を中心に編成され、選挙が終われば、次の選挙までその編成が続く保証は何もない」といった時代に、突入しているのだと思う。日本の政治の政界再縮をめぐる閉塞状況は、そういう時代に政治が入っているのに、既存の恒久的な組織をもった政党を作ろうとするために無理が生じ、全く行き詰まり状態になっているのだといえるかも知れない。
 政党は、近代のネーションステート(NationState 民族国家)の発達と共に、その中心的意思決定機関としての議会における主要な活動の担い手として成長してきた。そうだとすれば、近代のネーションステートそのものが大きく変革を余儀なくされている現在、政党だけがこれ迄と同じかたちで存在出来ると考える方がおかしいのだといえよう。(政治学専攻・しらとり れい)