多党制か二大政党制か
村山首相の退陣と日本の進路
新制度下の総選挙へ「自民政権」どう出る

北海道新聞夕刊: 1996年(平成8年)1月9日 火曜日

白鳥 令

 村山首相の突然の退陣表明に関しては、社会党内の久保書記長とのかっとう、住専問題で国会を乗り切ることへの不安、沖縄の米軍基地使用問題の泥沼化の懸念等さまざまな憶測がなされている。だが、村山首相が辞意の決意をするに至ったのは、このような問題のどれかひとつが決定的に効いたからではなく、これらすへての問題が村山首相の前面に立ちはだかった時に、村山首相は意欲をなくしたということなのであろう。
 その意味では、村山内閣は良くもあしくも自民党のおぜん立て政権だったということになる。みずから首相の座を欲し、権力闘争を敢然と戦って総理の座を射止めた首相ではなく、権力闘争なしのおぜん立てによって首相になった総理は、難局に対向した時に踏ん張ることをしない。
 だが、自民党によるおぜん立て政権だったからといって、村山内閣の存在の意義がなかったというのではない。何よりも、村山内閣は自民・社会党連立政権をつくることで、日本の政治を新しい局面へと進める役割を担った。細川内閣は自民党一党支配を終わらせたことに意味があったとしても、反自民連立政権という性格が示すように、自民党一党支配時代の政治的枠組みの中で誕生した。村山自社連立政権は、成立の直接の契機が反小沢感情であったとしても、自民・社会という一九五五年以来の日本の二大政党制を形成してきた与野党が一つの連立政権を組むことによって、五五年休制といわれる一つの時代の終えんと新しい時代の始まりを演出したのであった。
 連立内閣の構造という点でも村山内閣はいくつかの新しい形を示した。第一に比較少数党の社会党から首相を出してかなり安定した政治運営を行ったことで、連立内閣の構成においては数の大小が決定的な意味を持つことはなく、多数党の寛容さと少数党の自制とが内閣の安定に寄与することを示した.また、細川内閣のように政策の内容によって合意を確立し連立を維持することを目指さず、政策を決定する機関の形態や政策決定の方法で合意することで連立を安定させる新しい道を考案した。
 社会党に関していえば、村山内閣は社会党の政策内容をポスト冷戦時代に適合させる役割を果たしたが、それは社会主義イデオロギーの崩壊という状況で保守陣営に追いつめられて行ったその場しのぎの部分修正であり、将来を見通しての体系的な見直しでなかったために、将来に向けて自民党とは違ったものを見せることができなくなってしまった。
 新総理には橋本自民党総裁が選出され、自民・社会・さきがけの三党連立の枠組みは維持されるとの見方が支配的だが、新内閣は日本政治の将来のあり方を決定する重要な選択を行うことになろう。
 現在の日本は、政治的にいえば、二つの民主主義のモデルをめぐって、いや応なしの選択を迫られている状況にある。一つの方向は、穏健な多党制を維持し、連立政権を安定的に運営していく方向であり、もう一つの方向は二大政党制を実現し、単独過半数政権の再確立を目指す方向である。
 ここで問題となるのは、すでに成立している衆議院における小選挙区比例代表並立型の新選挙制度である。自民党首相の新内閣が新選挙制度を利用して単独過半数議席の獲得を目指すのであれば、早期に解散することになろう。この場合、自民党は過半数議席の獲得に成功するかもしれないが、社会党とさきがけは壊滅的打撃をこうむることになる。
 もし新政権がこの民主主義モデルを選択するとなると、日本の政治は本質的に変化し、これまでのように広範な合意形成を目指すコンセンサスポリティクスの政治スタイルから、多数派の意見を尊重し少数派は切り捨てるマジョリティポリティクスの政治スタイルへと変わることになる。
 だが、もし新政権が多党制・連立政権型の民主主義モデルを椎持しようとするのであれば、小選挙区比例代表並立制の新選挙制度の見直しを先行させる必要が出てくる。このような動きは連立を組む社会党・さきがけの側から出てくるであろうし、その時は衆議院の総選挙をできる限り遅くして、小選挙区比例代表併用制を含めて、新しいかたちが検討されることになろう。(東海大教授)