分裂する沖縄本島
本土系列化の中で伝統失う

沖縄の一体性守れ
発展の方向に疑問抱く


琉球新報朝刊: 1989年(平成元年)9月7日

白鳥 令
(東海大教授)

 これまで沖縄を何度訪ねただろうか。1972年(昭和47年)5月の沖縄本土復帰以前の、沖縄を訪れるのにまだ身分証明書と米軍の許可が必要だった時代から、復帰直後、基地闘争時、海洋博終了時と一定の期間をおいて沖縄を訪問してきた。そして、訪問のたびに、沖縄は違った側面を示していた。
 だが、この八月末に沖縄を訪れた時の沖縄の印象は、ひどく索漠としたものだった。「何かが間違っているのではないか」、「沖縄の人々は、今の沖縄の発展方向に満足しているのだろうか」、これらが、私が今回強く感じた疑問であった。
 まず第一に、沖縄は、その風土が伝統的に育て、保持して来たもの、いわば「沖縄の心」とでもいうべきものを、最近急速に失いつつあるのではなかろうか。なるほど、首里城の再建も進み、尚家の墓陵である玉陵も復元が進んでいる。だが、玉陵はすでに沖縄の人々の手を離れて東京の区の所有となっており、また商業化した守礼門を訪れる人々が多くなった分だけ、すぐ傍らの円盤池や放生橋を訪れる人は少なくなっているようだ。このような状況を沖縄の人々はただ黙認するだけなのだろうか。
 私が那覇に滞在中も、沖縄において、妊娠中絶の総数のなかで十代の女性の占める率が急増して、1985年当時は3・5%と全国平均より、1・6%も少なかったのだが、87年には5・5%と全国平均と等しくなり、88年には6・2%に増加して全国平均を上回る見通しとの報道があった。万座ビーチの北側の湾に赤土が山から流れ込み、白い珊瑚礁の浜を汚しているのをそのまま放置しているのをみても、沖縄の人々の心は急速に変わりつつあるようだ。
 世界全体からみれば、地域的伝統や習慣、言語などが一層尊重され、保存の努力がなされるようになっているのに、沖縄ではテレビもラジオも、一層本土と同じものを流すようになっており、復帰前のように朝からユンタを流していた状態は現在では想像もつかない。せめて一日のうち一時間でも、沖縄の方言で琉球文化の伝統を伝える番組を組めないものだろうか。
 沖縄の伝統的文化や心情の破壊が、本土資本の支配拡大と本土への系列化の中で進んでいるという事実は、やはり大きな問題だと思う。本土への系列化は何もテレビやラジオだけで進んでいるのではない。政治、経済から日常生活まで、すべての分野で急速に進んだようだ。政治の世界では、人民党はもはや日本共産党の傘下に入ったし、沖縄で最大の勢力を誇っていた地方政党の社大党も存亡の危機に瀕している。
 経済的に見れば、那覇のホテルでも北部のリゾート開発でも、栄えているのは本土資本の規模の大きなもので、地元資本のものが衰退の一途をたどっていることは誰の目にも明らかである。このような傾向は、海洋博の時から始まっていたが、一層顕著になっており、かつての反対運動も消えて、沖縄の人々は、今はこれを自然の流れとあきらめていうようだ。
 この結果、本土の観光客は、その大変が空港からそのままバスで本土資本経営のホテルに直行して帰るということになり、商業化した観光ルート以外には、沖縄の風土とも沖縄の人々とも接触しなくなっている。
 今回の沖縄訪問で私が本当に考え込んでしまったのは、沖縄が島の南と北に分裂する傾向にある事実である。沖縄本土の南部ではなお戦跡めぐりが主要な観光資源となっており、戦争の記憶が新しい。ところが、島の中、北部はハワイの雰囲気をもつ大型リーゾトホテルが林立し、そこには大二次大戦の痕跡は何もない。島の南部をまわっているのは中年を主体とした観光客であり、島の北部では若い男女が強い太陽と白い砂浜を楽しんでいる。中心をなす那覇は活気がなく、わずかに夜の産業で生き延びようとしているかに見える。沖縄はこうして南北に分裂して行ってよいのだろうか。たとえ困難でも、北部にも戦闘はあったのだから北部にも沖縄戦を伝える本格的な資料館を造り、南部にはリゾート開発を誘致する努力をして、沖縄の一体性をまもる必要があるといえよう。
 最後に、私にとっては、良く整備された公園のような緑の米軍基地と、東京でも考えられないほど渋滞するホコリの多い道路との対比も印象が深かった。この二つのものの沖縄での位置の逆転する日が、早く来ればよいと思う。(東海大学教授・政治学)