趣味人の放言 映画編


 ここには、映画『ロード・オブ・ザ・リング』にまつわる極めて個人的な話題を収めてあります。当然、映画のネタばれの内容を含んでいますし、原作に言及している部分もありますので、映画未見の方及び原作を予備知識なしに読まれたい方はご注意ください 。(何よりも有益な情報が得られる可能性は皆無に近い内容です。悪しからず)


祭りの後……「王の帰還」SEE劇場鑑賞(2005年3月6日)
 2月27日。自宅から1時間ほどかけてMOVIX三好まで遠征。
 もちろん、全国5館のみ上映というSEE版「王の帰還」を鑑賞することが目的である。
 併せて「辺境国オフ」も、ということでおおくまねこさん、ラザニアさん、Mさん、それに我が夫婦という5人で打ち揃っての鑑賞とは相成った。
 内容そのものは家でさんざん見ていたので新鮮な発見などはなかったが、さすがに劇場の大画面と大音響の迫力は凄まじく、圧倒されるとはまさにこのことかというところ。
 三好のスクリーンの中でもいちばん大きいもの――横幅が17メートル以上ある――だっただけになおさらであっただろう。

 
反面、ストーリーに対する物足りなさも今まで以上に感じてしまったのはなんとも皮肉な話ではある。
 見終わった後に原作ファンであるねこさんやMさんと雑談する中で、この3部作に下された総合評価は以下のようなものである。
「映像が凄すぎるだけにシナリオのへぼさが際立ってしまった」
 映像のイメージはほぼ満点に近い。
 それはコンセプチュアル・デザイナーを担った2人のイラストレーターの力によるところが大である。
 極論するならば、ピーター・ジャクソンの手柄はアラン・リーとジョン・ハウをスタッフに招いたという1点に尽きてしまうのではないか。
 見方を変えれば、『指輪物語』を完全に映像化する可能性を示して見せたという点をこそ評価するべきなのかもしれない。

 いずれにしても、「祭り」は終わった。
 祭りの熱気の後に不意に感じる寂しさを、今、確かに味わっている。
 …なんてことを今さら書いても「後の祭り」だという噂もしきりではあるが。

「王の帰還」SEE鑑賞(2005年2月11日)
 2月2日。大雪の中、無事にSEEのDVDが到着。
 本編はさておいて、特典DVDから先に見始める。
 例によってなかなか面白い内容。
 個人的には原作を大きく改変した部分についての脚本陣の言い訳(?)をまとめた映像が面白かった。
 もちろん、彼らの言い分に納得したわけではないけれど、意図だけは汲んでおいてあげようかと思った。

 特典映像をひととおり見た後、4時間10分に及ぶ本編を鑑賞。
 昨日もラザニアさんとMさんを招待して鑑賞会を行った。
 2度の鑑賞を通して、特に追加映像部分に関して感じたことを以下に挙げておこうと思う。
 蛇の舌さん、あれだけの理由で主人を刺しますか?
 サルマン、水葬ですか?
 ファラミアとピピンが絡む部分はなかなかの優れもの。
 サム、人(?)を脅すのはやめましょうね。
 エオウィン、そこで兜を外してたら速攻で叔父さまに通報されると思うんですが。
 デネソールを演じてる役者さん、上手いじゃん。
 ガンダルフ、アングマールの魔王には負けるは、サウロンの口には騙されるは、いいとこなし。
 アラゴルン、一度ならず二度までも情けない本性を暴露。さすがはヘタレ王。
 劇場公開版では忽然と姿を消してしまった「メロンパンマン」の末路が描かれていてホッとした。
 メリーが参戦してたことって、誰にも知られてなかったのかい?
 ファラミアとエオウィンが心を通わせるまで、もっとしっかり描いて欲しかった。
 サウロンの口、無茶苦茶気持ち悪い動き方。映画では人間じゃないって設定なのかね。
 旅の仲間の後日譚、本編にも収めてくれればよかったのに。
 
 とまあ、ほとんどは文句ばっかり。
 劇場公開版で説明不足に陥っていたところが補完されてよかった部分もあるにはあったと思うのだが。
 やはり、第1部SEEのような完成度を望んではいけなかったということか。
 いや、それでも十分に面白くはあった。
 コメンタリーも鑑賞していないし、SEE3本連続鑑賞もしなくちゃいけないし、まだまだ楽しめることだけは間違いない。
 
 なお、おまけで付いていた「シンフォニー」のメイキングDVDはたいへん面白かった。
 それと、今回は「二つの塔」ギフトセットのときのように予備の箱がついているということはなかった。というより、外箱を壊さないでもミナス・ティリスのミニチュアを取り出せるようになってたってだけのことなのだが。そういえば、海外版ギフトセット発売と同時にあっという間に売り切れてしまったというミナス・モルグルの限定ミニチュアも注文できるようになっていた。おそらく日本版購入者に対する救済措置なのだろう。私も当然のごとく頼んだが、郵送での注文を選んだので、受け付けてもらえるかどうかは分からない。果報は寝て待て、の心境。

目が回る(2005年1月30日)
 えー、本日は近況報告でございます。
 『指輪』ネタはございませんので悪しからず。
 「王の帰還」SEE発売まであと3日。
 一部地域では3部作SEE連続上映イベントが催されている今日なのだが、当方はいささか
流れに乗り切れないまま。
 というのも、2週間ほど前の早朝に目を覚ました瞬間、猛烈な回転性めまいに襲われて救急車を呼んでもらう羽目に陥り、3日間の入院を余儀なくされてしまったからである。
 何しろ、目の前のものが高速でぐるぐる回ってくれるのだから堪らない。
 検査の結果、幸いにも脳に異状はなく、メニエール病や前庭神経炎の可能性も低いとの結論。
 結局一過性のめまいであったようだが、退院後も数日間は頭を急激に動かすとくらっとくるという状況が続いて参った。
 いちばん困ったのは薬を飲もうと上を向くとガクガクッときたこと。
 めまいというのがこんなに厄介なものだという事実を、嫌というほど思い知らされた数日間であった。
 ここ一週間は至って快調であるが、それだけに、健康であることのありがたさを痛感している次第である。
 原因が判然としないのがいささか不安ではあるが、私の中では、年末年始をDQ8三昧で過ごし、メタルキングを殺戮しまくった呪いのためであるに違いないというのが結論。
 年甲斐もなくバカなことしてんじゃないよ、という天からの思し召しなのかもしれない。
 ちょっとは自重しようと思う今日この頃。

 とか書きながら、SEEが無事に届いたらさっそく仲間を招いて3部作SEE連続上映でもやらかすつもり。
 MOVIX三好でのSEE上映にも出かけるつもりではあるのだが。

ギフトセット購入(2004年12月5日)
 既に古いネタになってしまったが、記念の意味で書き留めておこう。
 去る11月25日の正午から「王の帰還」DVDギフトセットの予約が開始された。
 第1作のときはかなり長い間売れ残り。その挙句に追加販売なんかを実施して一部のコレクターを怒らせた。(私は何とも思ってまへん。悪しからず。)
 第2作のときは1週間ほどで予約終了。追加販売はなし。付属していたスメアゴルフィギュアがそれだけで完結したアイテムではなく、ゴラムフィギュアを手に入れて初めて意味を持つという仕様に蒼ざめさせられた。

 そして、今回。
 映画のヒットもあり、ギフトセットの需要も今まで以上になるだろうと予想。正午過ぎに職場の昼休みを利用してインターネット予約を図る。…ビジー状態になって全くつながらず。もちろん、電話回線もパンク。
 自宅に帰ってから再挑戦しようと考え、やむなく仕事復帰。
 定時になったところで何気なく接続してみたところ、あっさりと繋がって予約終了。
 申し込み番号は「04112502678」。どうやら2004年11月25日の2678番目という意味らしかった。
 帰宅後、食事を済ませてから公式サイトにアクセスしてみると……。
 「完売につき予約終了。後はキャンセル待ちのみ」とかなんとか表示されている。
 1日で完売とは、こちらの予想以上の人気だったわけだ。

 改めて某巨大掲示板サイトの関連スレッドを眺めてみると、なんか、とんでもないことになっていた模様。
 今まで以上の大混乱が展開されていたのが容易に想像できた。
 生真面目に仕事を全うした結果、買い損ねてしまった人たちには申し訳ないが、何はともあれホッとする。
 これまで全てギフトセットで揃えてきたのに、最後だけがダメだったら洒落にならないところだった。

 それにしても、限定数5000ってのは少なすぎたんじゃなかろうか?
 これだと、またぞろ法外な値段でオークションに出品されるのは間違いなさそうである。
 需要と供給のバランスとはいえ、いささかの疑問を感じないわけにはいかない。
 ま、無事に入手できることになった人間が何を言ってもきれいごとにしか聞こえないのは承知の上で書いているのであるが。

大は小を兼ねるのか(2004年9月18日)
 
8月30日、東京国際フォーラムで開かれた「ロード・オブ・ザ・リング・ザ・コンサート」を聴きにいった。「会場の音響には期待しないほうがよい」という事前情報を得ていたが、どうせ音の良し悪しが分かる人間じゃない私たち。雰囲気だけでも味わえればいいか、などと軽く考えて出かけた。
 開演前にはミニ・オフ会も開催。否が応でもテンションは上がり、それに比例してコンサートへの期待は高まる。
 午後7時、ほぼ定刻どおりにコンサートはスタート。私たちの席はかなり前のほうだった。
 第一楽章の2曲目、「ホビット庄の社会秩序」が演奏され始めた途端、前列の女性がハンカチを目にあてるのが見えた。そうなのよ、この曲聴くと涙腺に刺激を受ける人の気持ち、よく分かるよなあ、なんて、こちらもじんわりしつつ、しかし、何か違和感を感じ始めていたのも事実。
 おい、今、音はずさなかったか?
 モリアのところって、ちょっと迫力不足のような気がするなあ。
 コーラス、なんか変じゃない?
 などと、音楽の素人らしからぬ生意気な感想を抱きつつ前半の部終了。休憩時間にやってきた「Yama」さんや「放浪者の弟子」さんも怪訝そうな様子。かなり後方の席で鑑賞していた「おおくまねこ」さんたちが『マイクを使うなんて許せない』とお怒りとのこと。
 後半は、シセルが登場。美声を響かせてくれたのはよかったのだが、直前の席に座った男性がいきなりデジカメでシセルを写し始めて興ざめさせられる。さすがにフラッシュを焚いてるわけじゃない。だが、小さな赤いランプが目の前でチラチラするだけでも十二分に気が散るってことを実感。結局、その男性はご丁寧にもシセルが立ち上がる度にカメラを構えてくれた。注意してやろうか、なんて考えるものだから余計に集中力がなくなってしまう。そうこうするうちに後半も終了。
 うーん、不完全燃焼。
 カーテンコールの後、閉演。退場する際、ふと横を見ると件の男性が係員に注意を受けていた。悪いことはできないもんだとちょっと安心しつつ会場を出る。
 って、ほとんどコンサートの感想になってないじゃないか。

 数日後、たまたま見ていた朝のテレビ番組で軽○アナが面白い発言をしているのを耳にした。
「東京にはサントリーホールと東京国際フォーラムという2大クラシックコンサートホールがある。オーケストラとポップスや演歌の歌手とのコラボレーションという形式で行われるコンサートで考えると、この二つのホールの違いが明確に分かる。すなわち、前者はオーケストラがポピュラー歌手をゲストに招く形で行われることが多く、後者はその逆である。」
 なるほどと思った。東京国際フォーラムは、より多くの観客を一気に収容することを前提にして作られたホールなのだ。「音響には期待できない」という情報を教えてくださった方もホールの広さを問題にしていた。マイクで増幅しないと全体に音が響き渡らないほどの巨大ホールで行われたということが、既に今回のコンサートの位置づけを如実に物語っていたわけだ。
 さらにその一週間ほど後、『スウィングガールズ』という映画を鑑賞。
 出演者たち自身が演奏しているというラストのコンサートシーン。正直な話、こちらのほうがはるかに感動できた。演奏がうまかったといっているのではない。実に楽しげに演奏している姿に共感でき、音楽って面白いと思わせてくれたということである。なんとも皮肉な話ではある。 

人任せの総括(2004年6月6日)
 「王の帰還」も公開終了。
 鑑賞回数は結局11回(原語2回、字幕7回、吹き替え2回)となった。
 今は「祭」の余韻を味わっている段階である。
 毎回のようにセオデンの雄姿に涙したことも、ゴクリの改変に怒りを覚えたことも、今は昔。
 どさくさに紛れてアカデミー賞を11個も獲ってしまったことすらも遠い過去のことのように思えてしまう。

 今回の映画化がもたらしたものは何だったのか。
 考えあぐねているうちにずいぶんと時間が経ってしまった。
 少なくとも私の周りでは4人が『指輪物語』を読破してくれた。
 その事実だけでも十分なのだろうと思う。

 映画の評価に関しては、「CinemaScape ―映画批評空間―」というサイトで見ることのできる「ペンクロフ」氏のレビューに納得させられた。
 その他の方のレビューもなかなか面白いので、このサイトをご存知でなかった向きは参照されることをお勧めしたい。
 (該当ページへの直リンクは遠慮させていただいたが、トップページ右上の検索欄に「ロード・オブ・ザ・リング」或いは「王の帰還」と入力することで辿り着けます。)

『セオデン王の帰還』(2004年2月28日)
 
結局冷静になることなく日々が過ぎ、2月21日には吹き替え版を鑑賞。ようやく何かを書こうかなという気になってきた。ところが、ふと気づけば既に『指輪』関連の各サイトでは非常に面白い感想やら的を射た考察やらがめじろ押しの状態。今更私なんかが語っても仕方がないと思わされること頻り。とはいえ、やはり一言ぐらいは自分自身の思いを書き留めておくべきだろう、そんな消極的な理由から書き始めたのが以下の文章である。

 さて、映画「王の帰還」における最大の見せ場は間違いなくペレンノール野におけるローハン騎士団の突撃シーンであると思う。セオデン王の檄のなんという見事さ。絶望的な戦いを前に怯んだ兵たちも、あの雄々しい言葉を耳にすれば奮い立たずにはいられまい。(「エオメルの台詞を奪い取るなんてケシカラン」、なんて野暮なことは言いっこなし!である。)
 あの場面がこれほどまでに私を感動させたのは、何よりもそこに至るまでのセオデン王の描き方が素晴らしかったからだと思う。ヘルム峡谷での戦いを勝利に導いたのは自分ではなく、アラゴルンやガンダルフであったというほろ苦い思い。それ以前に自国を滅亡の危機に瀕させてしまったのも、サルマンの呪いがあったにせよ、結局のところ己が暗愚であったためであるという自責の念。それらが、ローハンの国王として父祖の眠る同じ墓所に入る証が自分にはないという引け目を彼に背負わせることになる。一旦はゴンドールへの救援を拒否しながらも、彼が何故ほとんど勝利の望みがあるとは思えない戦への参戦を最終的に決意したのかが、主としてエオウィンとの会話を通して実に巧みに描かれているのだ。出陣するセオデン王の心にエドラスへの帰還の望みは最初から存在しない。黄金館をちらりと振り返る彼の姿がそれを雄弁に物語っている。
 そして、彼はついに己が始祖エオルに次いでペレンノール野に馬を進める栄誉を手に入れる。眼前には20万の敵。馬首を転じ逃げ帰ってしまいたい欲望に打ち克ったセオデン王が自軍を鼓舞し、最後に発した「Death!」の叫びを耳にした瞬間、私の視界は一気に霞んでしまった。
 この場面が見られただけでも今回の映画化の価値はあった。私は今、心底からそのように感じている。

『王の帰還』鑑賞(ある意味ネタばれ)(2004年2月15日)
 2月7日の先行、2月14日の公開初日。
 続けて2回の字幕版鑑賞。
 語りたいことは山ほどあるが、もう少し冷静になったところでまとめてみたいと思っている。
 今日はとりあえず、この写真を掲げておけば十分だろう。

「あなたの重荷は背負えなくても、あなたなら背負えます!」

『王の帰還』鑑賞(ネタばれなし)(2004年1月2日)
 1年前からの計画に従い、海外鑑賞を決行してきた。訪問地に選んだのはロンドン。やはり最終作はトールキン生誕の地――あ、ほんとうの生誕の地が南アフリカであることは知ってますよ、もちろん――で、という気持ちもあったが、最大の理由は「LOTR展」が開催中であったということだった。この展覧会の印象については別の機会に述べることになると思う。
 さて、肝腎の映画である。
 既に日本でもさまざまな噂や情報が乱れ飛んでいて、大きな不安を抱かされていた方も少なくなかったはずだ。私もそうであった。そして、実際に鑑賞(2回)してみての私なりの結論は「ほぼ満足のいく内容であった」というものである。なによりもいちばん心配だった「物語の整合性」の部分で破綻を感じさせられるようなことはなかった。あれだけの内容を「たった」3時間20分という長さにちゃんと収めてみせたのは、むしろ見事だったと称えるべきだと思う。特に開巻のシーンは抜群の出来栄えだ。主要な登場人物にそれぞれ活躍の場面を与えてくれたのもうれしい。原作ファンであっても十分楽しめる映画になっていると思う。ただひとつ、原作を知らないパートナー氏ですら
「なんじゃ、あのおっさんはあぁぁ―っ?!」
と呆れていた「とある登場人物」の描き方だけは納得がいかなかったが。
 これ以上書こうとするとどうしてもネタばれになってしまいそうなので、とりあえずここらあたりでやめておこう。
 何はともあれ、ますます日本公開が待ち遠しくなったことは間違いない。7回分の前売り券は心配せずとも使い切れそうである。

『二つの塔SEE版』に関して(2003年12月15日 /12月20日追記)
 12月6日に「コレクターズDVDギフトセット」が届き、コメンタリーを除いて、ようやく一通りの内容を見終えることができた。
 今回は――って、ここ、9か月も放置してたのよね……――このDVDの感想やらなんやらを述べておきたい。
 43分間もの追加映像を加えることによって、ストーリーがより原作に近い雰囲気になり、人物描写も深まったことは間違いないところだ。ただし、「劇場版より良くなったか?」と問われたときに「Yes」と即答できるだけの気持ちにはさせられなかったことも白状しておかねばならない。
 劇場版でカットされてしまった部分(すなわち追加映像部分)というのは、純粋に原作ファンへの「おまけ」的な内容が多く、ストーリー展開上必須であるとは思えなかった。たとえばフオルンの出撃場面など、唐突過ぎて原作を未読の方にとってはかえって意味が分からなくなる虞があるように感じた。そもそもエントが決起する理由を原作と変更した時点で「エントの行進」の場面には唐突さが付きまとっていたのだから、それに加えてフオルンが登場した日には…。エントといえば、今回のSEE版でもついに「オルサンクの塔」の間近にダムが建設されている理由は説明されなかった。サルマンが、木を伐採するなど自然破壊の一環として建設したと想像してくれというわけだろうか?(その後日本語吹き替えで鑑賞していたところ、シーン6「襲撃される西の谷」において、サルマンが「堰を築け」と命令しているのに気づいた。慌てて英語版で見直してみると、しっかり「Build a dam」という言葉が入っていた。改めて自分の英語力のなさにガックリしつつ、ここに訂正する次第である。2003年12月20日)
 ローハンがらみの追加映像ではエオウィン特製スープのシーンが謎。あんな場面を真面目に演じているヴィゴにも笑えたが、とある掲示板で「アラゴルン墜落の原因は急性食中毒だった」との書き込みがあった理由が納得できて苦笑させられた。しかし、ストーリー的には全く意味なし。「強い女は料理が下手だ」なんていうメッセージだと受け取られでもしたら、ただでは済まないんじゃないの、PJ監督。その他は総じていい場面(「アイゼン川の虐殺」や「セオドレドの葬送」など)の追加が多かっただけに、余計に強い違和感を感じさせられた。
 ファラミアの回想シーンはなかなかいい感じだったのだが、デネソール侯によるボロミアへの命令には首を傾げさせられた。あれはいくらなんでもやりすぎなのでは?(どうもこの映画において「一つの指輪」の存在は口にするのも憚られるような秘密事項ではないようで、劇場公開版でも、サムはファラミアだけでなく他の人がいようがお構いなしで自分たちの使命について声高に叫んでいた。)デネソール侯ほどの知見と能力の持ち主であればいち早くその存在に気づくということはありうるだろうが、ああまで露骨に描かれてしまうと、「一つの指輪」そのものが安っぽいものに感じられて仕方なかった。
 そういえば、このSEE版の日本語字幕についてもいろいろなツッコミがなされているが、デネソール侯の口調は確かにひどかった。ガンダルフですら一目置く人物なのになぁ。

 いろいろと文句を書き連ねてしまったけれど、「今後どっちのバージョンで鑑賞したいか?」といえば、もちろんSEE版である。おそらく我が家のコレクターズ・エディション版は、その名のとおりコレクション・アイテムとしてのみ存在することになるだろう。
 来年早々には第1部と第2部のSEE版が劇場公開される。かなり遠いところまで足を運ばねばならないが、もちろん出かけますよ、私たちは。

ネタばれ感想その4 アラゴルンの物語
(2003年3月16日)
  「この映画の主役って、アラゴルンだったの?」
 こんな声があちこちで聞かれるほど、第2部における彼の存在感は大きい。とにかく大活躍だ。
 崖から落ちようが、無数の敵の真っ只中にダイブしようが、ほとんど無敵状態。その不死身ぶりは「白のガンダルフ」以上かもしれない。
 単純に楽しむ分にはなんら問題ないのだが、ふと冷静になって考えてみると、この強さは異常である。いや、強さよりも問題なのは、彼が目立ちすぎていることなのだ。本来の主人公であるはずのフロドは、既にしてヨレヨレ。このままでは、とうてい滅びの罅裂まで辿り着けそうにもない様子。前作で散々言われた「主人公が弱過ぎ」という批判を逆手に取ったのか、彼の見せ場はほとんど作られずじまいという体たらくである。それに反比例するように、アラゴルンは輝きまくっている。かっこよすぎなのである。なんでここまで彼が持ち上げられることになったのだろうか?フロドの立場を思うと、ついつい心配したくもなるのが、原作ファンというものだ。
 実のところ、映画でのアラゴルンは、原作のアラゴルンほどしっかりとした人物として描かれているわけではない。なにしろ、「先祖の犯した過ちが心の重荷となり、正当な王位継承者としての立場を放擲」してさすらっているような人間なのだ。まさに人間的。
 アーシュラ・K・ル=グウィンが『夜の言葉』と題するエッセイの中で、アラゴルンのことを「まるでおもしろみのない人物」と切って捨てていたのを読んだ覚えがある。「自分の置かれた立場を一切疑うことなく、その任務を黙々と遂行していく」という、原作におけるアラゴルンは、その思考に全くといってよいほどブレがないだけに、なんとなく非人間的で、面白みに欠けるという見方もできる気がする。
 それに比べれば、映画における彼の人物設定は非常に庶民的であり、由緒正しいヌメノール人の末裔らしくない。だからこそ、感情移入しやすいキャラクターとなっているのは間違いない。恋に悩みもすれば、怒りに我を忘れて無謀な突撃もしてしまう、我々の好きな「等身大のヒーロー」像が、スクリーン上に存在しているのだ。彼の一挙手一投足にハラハラさせられながら、そんな彼が最後には文句のつけようのない成功を収めることを、我々は期待する。おそらく、その期待が裏切られることはないであろうと予想しながら。
 思えば、「棄てるだけで何も得ることのない」フロドを主人公に据えるというのは、エンターテインメントとしての映画においては難しかったのかもしれない。この映画の制作者は、アラゴルンの成長物語に焦点を当てるため――すなわち、彼を主人公とした作品を創り上げるために、さまざまな設定を原作と変えたのかもしれない。そうであるならば、完結編では、どのようなラストが我々を待ち受けているのだろうか? ひとつだけ確実な気がするのは、アラゴルンとアルウェンが共に灰色港に姿を現すことなのだが…。

ネタばれ感想その3 アルウェンの物語(2003年3月10日 /3月16日改訂)
 いろいろ批判されている中でも、圧倒的なブーイングを浴びているのがアルウェンの登場するシーンだ。
 初めて見たときには、私も「やってくれちゃったよ。」と蒼ざめたものだった。(何度か見ているうちに、自分なりに消化できてはきたが。)
 原作においては、アラゴルンが片時も忘れることなくアルウェンを想っている様子は婉曲表現されているだけである。遠まわしに描かれているからこそ、読者にはアラゴルンにとって の彼女の存在の大きさが伝わってくる。
 今回の映画では、ひとつは「アラゴルンによる回想」という形で、もうひとつは「瀕死のアラゴルンに蘇りを与えるのがアルウェンであった」という形で、ふたりのつながりの深さが観客に示された。(映像という表現ではそうならざるを得ないのだろうが)この直接的な表現方法が違和感を与える結果になったのは疑いようのないところだ。それより何より、この演出における最大級の問題 点は、ストーリーの展開を停滞させてしまったことだと思う。第3部への伏線として、ここでふたりの――そして、両者とエルロンドとの――関係を描いておかねばならないという事情はあったのだろう。また、これらのシーンがなければ、アラゴルンがエオウィンの想いを受け容れない(はずだよね^_^;)理由の説明がつかなくなってしまう。そのあたりを考慮に入れたとしても、あのギクシャク感はどうにもならないレベルであった というのが偽らざる気持ちだ。

 噂によると、初期のシナリオにおいては
「アルウェンは角笛城にアンドゥリルを持って駆けつけてくる。
  その勢いで死者の道まで同行してしまう。
  更にはアングマールの魔王によって瀕死の重傷を負わされる。
  彼女を救うためには魔王を倒すしか道がないと悟ったアラゴルンが奮起する…」
などというオソロシイ展開が想定されていたとか。
 上の噂がまんざらデタラメではなかった証拠に、アルウェンが角笛城でアラゴルンらとともに戦うというシーンは実際に撮影されたらしい。それが現在の形に落ち着くまでにどのような経緯があったのかは知る由もないが、少なくとも、エオウィンというキャラクターの立つ瀬が確保されたのは間違いない。 アルウェンが颯爽とヘルム峡谷に現れていれば、エオウィン登場の必然性がほとんどなくなってしまっていたはずなのだから。
 見方を変えれば、現在公開されている形になったことで、アルウェンの存在感は当初の予定よりも大幅に薄められてしまったともいえる。あの、いかにもとってつけたようなアルウェンの登場シーンは、シナリオ変更によりすっかり立場をなくしたアルウェンを救済するためにやむなく付け足された部分であるとも判断できそうだ。
 だが、既に第1部の「勇者アルウェン」――恋人に刃を突きつけ、ナズグル9人を向こうに回して互角に渡り合ってしまう――を見せつけられた観客としては、しおしおと西方に旅立っていく彼女の姿には違和感を覚えないわけにはいかない。このあたり、このキャラクターの人物造形における脚本上の破綻とも取れる。
 第3部で、監督がどのような役割を彼女に与えようとしているのか、非常に興味深い。と、同時に恐ろしくもある。分裂気味のアルウェン像に対して、もうひとりのヒロイン、エオウィンが際立って魅力的に描かれているからだ。アラゴルンが後者になびかない(はずですよね?)理由づけはきちんと描かれるのだろうか?
 そんなことを考えているうちに、エオウィンにからんで、いささか嫌な想像が膨らんできた。以前にも書いたとおり、原作に準拠しようとすれば、第3部はとてつもなく長くなることが予想される。それを避ける方法のひとつに、彼女を手早く表舞台から退場させてしまうという手段が考えられる。 それによってアラゴルンとアルウェンの物語を邪魔する存在がいなくなるだけでなく、ファラミアと彼女との関係を描く必要もなくなるわけで、 上映時間の短縮効果まで入れれば、まさに一石三鳥ともいえる。
 もしも、彼女まで「スローモーションで…」(お分かりですよね?)なんてことにでもなっていたら、私はためらうことなくPJ監督の家に爆弾を送りつけることになるだろう。

ネタばれ感想その2 エオル家の人々(2003年3月1日)
 「指輪」関連のサイトや掲示板を読ませてもらっていると、「原作と違い過ぎる」という声を多く目にする。曰く、「ファラミアが高潔に描かれていない」「エントが間抜けすぎる」「アラゴルンは落ちたりしない」「アルウェンでしゃばりすぎ」「何でハルディアなのか」等々……。ところが、それらの批判をしながらも映画自体の評価を著しく下げている人が少ないのも大きな特徴であるように思える。これは、やはり制作者側の原作に対する愛情が損なわれていないからなのだろう。
 さて、今回は、そんな批判に晒されている中のひとり、セオデン王とその周辺の人々について感じたことを書いてみたいと思う。
 セオデン王は私にとって人一倍の思い入れがある登場人物である。なにしろ、(不遜にも)ネット生活を始めて以来ずっとこの人の名をハンドルネームとして使用させてもらっているのだから。
 セオデン王を演じるバーナード・ヒルについては何の文句もない。私の中ではセオデンはもう少し痩身のイメージがあったのだが、これは勝手な思い込みなので大した問題ではない。
 このキャラクターに関して、いちばん引っかかるのは「セオデンが弱っていたのはサルマンに取り憑かれていたことが原因だ」とする設定だ。サルマンほどの魔力と軍事力の持ち主ならば、なにもこんなに回りくどいことをしなくても、最初から大軍団を送り込むことでローハンを蹂躙できたはずだ。そう考えると、この演出には別の意図があったことになる。それは、ガンダルフとサルマンの力関係の逆転を明らかにすることであったに違いない。原作ではオルサンクの塔で二人の魔法使いが対峙したときに、初めて「白のガンダルフ」の優位性が具体的に描かれるわけだが、映画ではセオデンに取り憑いていたサルマンを追い払うというシチュエーションを描くことで、「灰色」から「白」に変わったガンダルフの力のすさまじさが提示されるわけだ。ストーリー的にはこの段階で「白のガンダルフ」の絶対性を描いておいたほうが効果的であったことも事実。これがクライマックスでのド派手登場&突撃シーンの感動につながったのは疑いようがない。
 セオデン王には息子の死を悼む名場面が用意されていたものの、なにか優柔不断というか、頑迷というか、「かっこよさ」には欠けていた。おそらくは第3部で華々しい活躍が描かれることになるであろうから、それに期待したい。

 影の薄さではエオメルも相当なものだった。彼に限らず、ファラミアも同様である。どうやら「旅の仲間」以外は極力目立たないようにしようというのが本作での基本コンセプトであったような気がする。ただでさえ軸となる人物が多い物語だ。これ以上脇役にスポットライトを当てるわけにはいかないという事情があったのだろう。それにしても、ヘルム峡谷でアラゴルンとともに奮戦する彼の勇姿が見られなかったのは残念でならない。(ま、アラゴルンがアンドゥリルを持っていない以上、例の名台詞も実現しようがなかったわけだから、これもいたし方のないところだろうが。)
 しかし、蛇の舌グリマの存在感を出すためには、あの「追放劇」はかなり有効だったようにも感じた。もうひとつ、原作におけるエルケンブランドの役割をエオメルに割り振ることで登場人物を整理してしまおうという意図もあったのだろう。そもそも、クライマックス場面で、原作どおり、それまで一度も出てきていない人物が救援に駆けつけたとしたら、映画的には失敗だと批難されるのがオチである。演出としては正解だったと思う。(話がずれるが、あのガンダルフとエオメルによる救援場面は、前作に続いてラルフ・バクシ版『指輪物語』と酷似していた。 PJ監督、やっぱり好きなんだなぁ。ただし、こちらの映画のエオメルはちゃんと角笛城にいたけれど。)

 ローハンの姫君、エオウィンはどうだったか。個人的には違和感なく受け入れられた。アラゴルンに想い人の存在するのを知りながら、彼女が彼に思いを募らせていく様が、短いショットの積み重ねで的確に描かれていたように感じた。問題は第3部で彼女がどのように描かれるかだ。極初期には「エオウィンの見せ場をアルウェンが奪い取る」などという噂もあったりしたが、第2部を見る限りその虞はなさそうな気がする。ただ、彼女の「決断」がどういうふうになされるかが気になって仕方ないのだ。(アルウェンがあのまますんなりと船に乗るはずはないんで、どこかで現れるに決まってるんだが。アングマールの魔王の前にだけは立たないでくれ!!そのときは、メリー、後ろからひと思いに…(^_^;))

ネタばれ感想その1 ゴラムの裏切り(2003年2月27日)
 今後しばらくはネタばれ感想を書き連ねることになりそうだ。
 記念すべき「ネタばれ感想第1回」は、当然「彼」を取り上げることになる。

 賛否両論渦巻く本作であるが、その中で大方の意見が一致しているのは「ゴラムのすばらしさ」である。実際に俳優の演技をCG化した映像の出来具合はもちろんのことだが、やはりいちばんの功績は脚本にあると思う。
 今回の映画では、単に「指輪に取り憑かれた存在」としてゴラムを描くだけでなく、フロドに「自分の未来の姿を予見させる存在」として彼を登場させている。それが、実にみごとに成功している。それだけではない。最終的にゴラムがフロドを裏切る過程を、無理なく映像化しているのである。
 ファラミアの策(?)にはまったフロドは、ゴラムを助けようとして結果的にゴラムを騙すことになる。ゴラムはそれを「裏切り」ととらえる。このあたりは原作にも描かれていた。だが、映画においては、それに加えてさらに強烈な「駄目押し」の場面が用意されている。それは、オスギリアスにおけるフロドとサムの深い絆の描写である。ファラミアはその光景を目の当たりにして、彼らの解放を決断する。だが、同じ光景を見ながら、ゴラムは全く別の思いを抱くのである。
 ゴラムはそれまで、フロドのことを「自分を救い出してくれる唯一の主人」すなわち「無二の友人」として意識していた。ところが彼は、フロドとサムの間に自分が割り込む余地がないという事実を、あの場面で否応なく悟らされる。ほんの一瞬映し出される、えもいわれぬゴラムの表情にその思いが凝縮されている。ひと時とはいえども、フロドに救いを見出しかけていた彼にとって、この現実は受け入れがたいものであったはずだ。彼は絶望する。そして、解き放たれた後にサムが口にする心ない一言が、その思いを決定的なものに変えてしまう。このあたり、まさに絶妙のシナリオ。とはいえ、最初に見たときには気がつけなかったのも事実である。やはり、1回見ただけじゃ分からない映画なのだと実感させられた次第。いや、深い。

新たな期待(まだネタばれなし)(2003年2月26日)
 ついに日本公開。
 15日の先行上映で字幕版を鑑賞。(辺境国オフ会開催)
 22日は朝一番で2回目の字幕版鑑賞。
 23日には吹き替え版を鑑賞。
 こんなふうに「指輪祭り」状態になっていながら、なかなかここを更新できなかった。それにはいろいろと理由があったのだが、そろそろ少しずつでも書いていかないと、肝腎の映画の印象が変質してしまいそうな気がしてきた。
 ということで、今回はまずこんなことから…。
 予想通り、鑑賞回数を重ねる度に面白さが増してくる映画である。これは前作から――もちろん原作からも――受け継いだ魅力であると思う。
 で、見終わる度に抱くのは、
「これ、あと1作じゃ終わらないよ。」
 という感想である。原作で重要な意味を持つ「ホビット庄で起きる例の事件」の顛末を描かないというのは既に決定事項らしいが、それにしても、まだ「あの女(しと)」のエピソードにまで辿り着いていないのだ。どう考えたって、あと4時間か5時間はかかりそうだ。ということは…。
 ひょっとして、もしかして、近いうちに制作者側から爆弾発言が行われるのではないか?
「より完璧な作品を目指した結果、『王の帰還』は上巻と下巻に分けて公開することにしました」
 こんな展開を期待しているのって、私だけではない気がするのだが。

あと1か月…(2003年1月24日)
 「二つの塔」日本公開まであと1か月を切った。
 この1週間だけでもいろいろと動きがあったが、やはり最大のものは「日本語字幕問題」の急展開だろう。
 実際の字幕を見るまではなんともいえない、という気持ちもいささかは残る。しかし、ファンの声が届いたということだけは確かだ。地道に運動を続けてこられた諸氏に心からの敬意を表したい。

 つい先日はヴィゴ・モーテンセンとカール・アーバンが緊急来日。とても面白いパフォーマンスをしてくれたようだ。それにしても、協賛TV局のいい加減さには頭が痛くなる。朝の番組でその模様を紹介していた 軽部とかいうアナウンサーは、ヴィゴの演じている役名すらまともに言えないのだ。それを見て怒りに燃えた我がパートナー氏は、わざわざテレビ局にまで抗議の電話をかけていた。彼女、最近すっかり「アラゴルン」にお熱のようなのだ…(^_^;)
 それはさておき、軽部アナは、たしか1年ほど前にも「原作は全世界の子供たちを虜にしてきた」とかなんとかいうコメントをしていた。間違ってはいないが真実を伝えてもいない。こんな輩に『指輪』を語ってほしくないものである。

 全米での興行収入が3億ドルを突破したという。前作よりかなり速いペースではある。ただ、明らかに失速気味。前作はここからしぶとく観客動員を伸ばした実績があるのだが、今回は果たしてどうか。(実は、そんなことよりも第3作の出来が早くも気になっているんだけど。) 

見た!!(2003年1月7日)
 日本での公開を待ちきれず、ニュージーランドまで出かけて見てきてしまった。
 とりあえず第1印象だけを述べておきたい。

 公開以前から、この3部作の成否を握るのはゴクリ(Gollum)であると言っても過言ではないと思っていた。
 そして、今回の「二つの塔」で、その彼が私の目の前に現れた。期待以上の存在感を持って。
 映像的にCGっぽい不自然さを完全に払拭するレベルまでは達しているとは言いがたいが、十二分に感情移入できるキャラクターになり得ていた。
 「これならば、完結編で描かれるはずの、あのクライマックス・シーンが活きてくる」
 そう確信させられた2時間59分であった。

 不満な点があるのは確かだ。それでもなお、今はこれだけの映画を創り上げた関係者に拍手したい気持ちで一杯である。

問題は何なのか?(2002年12月31日)
 映画「二つの塔」の日本語字幕翻訳者問題が混乱を極めている。私が掴んだ情報を整理してみるとこうなる。
 まず、ピーター・ジャクソンがパリのプレミア前に行われたテレビのインタビューで「今回の作品では日本語字幕担当者を交代させた」旨の発言を行う。その模様がネットで流出し、大きな話題に。
 その後、12月24日発売の「サンデー毎日」誌(2003年1月5日/12日合併号)がこの問題を大きく取り上げる。映画公式サイトの掲示板に多数の書き込みがなされる。(この段階で、書き込みができなかったり、過去ログが読めなくなったりといった障害が発生した模様。)
 翌日、この記事に呼応するかのように映画公式サイトに「お知らせ」が載る。それを受けて再び掲示板にアクセスが殺到。ついにサーバーがダウンし、掲示板の使用が不能になってしまった(と、公式サイト側は述べている。12月31日現在も、掲示板への書き込みはできない状況。3日前から過去ログだけは閲覧できるようになっている。)
 サーバーがダウンするに至った書き込みのほとんどが、配給会社側への抗議であったらしい。もちろん、一番大きな反発を受けたのは、25日掲載の「お知らせ」であったのは間違いない ところだろう。
 配給会社の言い分はこうだ。
・ピーター・ジャクソンの発言については「寝耳に水」であり、真意が図りがたい。
・今回は評論社及び田中明子氏の全面的な協力を得ている。既に公開されている予告編では田中明子氏が予め全訳したものを戸田奈津子氏が字幕原稿に起こし、更に、できあがった原稿を田中氏がチェックし て完璧を期すという手順を踏んでいる。
・10月半ばには本編の英語台本を入手し、翻訳作業の最中である。これも評論社及び、田中明子氏の協力を得ることになっている。
 以上のような理由から、今回の作品も、当然、戸田奈津子字幕である。
 ところが、である。「完璧を期した」予告編の字幕が間違いだらけであることは、多くのサイトで指摘済みなのだ。配給会社の言い分どおりだとすると、あの字幕は評論社も田中氏も公認した完全版であり、間違いの多さは戸田氏だけの責任ではないということになる。いや、「お知らせ」の文面からすれば、責任の多くはむしろ田中氏のほうにあるというふうに読み取れる。最終チェックは田中氏が行ったというのだから。これでは、責任のすり替え である。

 人間がやることである以上、間違いは当然だ。だからこそ、ケアや善後策の講じ方が問われるのだ。前作からの一連の字幕騒動を見ていると、配給会社は一貫して「誤訳」の存在を認めていない。にもかかわらず、DVD発売時には「大幅な字幕の見直し」をコマーシャルしているのだ。これはいったいどういうことなのか?
 また、「サンデー毎日」記事中の戸田氏のコメントからは、配給会社宛に送られた抗議文や改善署名などが氏に示されていないことが窺い知れる。直接の担当者に、その仕事に対する反響が届けられないなどということがあるのだろうか?
 いずれにしても、「私はインターネットはやらないので、どういうことを言われているのかはわからないですね」(「サンデー毎日」p35)という戸田氏の態度は、無責任のそしりを免れえないと思う。自分の「作品」がどのような評価を受けているか、気にもかけないというのはなんなのだろう?
  前作の字幕には確かに問題があった。その事実を公式には認める様子もなく、飽くまでも前作と同じ人物に字幕を任せると強弁する配給会社の姿勢を見れば、また、当の本人に問題の自覚のかけらも見られない以上、同じような問題が再発するに違いないと思われても仕方がない。
 今、問われているのは企業としての、あるいは字幕担当者としての姿勢の問題なのだ。この態度が改まらない限り、評論社が関わろうが田中氏が加わろうが結果は同じだとしか思えないのである。逆にいえば、そ こさえ正してくれれば、誰が字幕を担当しようがかまわないのである。

ほんとかね?(2002年12月12日)
 今朝早くからあちこちの指輪関連サイトで話題になってるが、映画「二つの塔」の日本語字幕翻訳者の座から戸田奈津子氏が降板させられそうだとのことだ。まだ確定情報でない段階で大騒ぎするのもなんだけれど、もしこれが事実なら、ものすごいことである。日本の「指輪」ファンにとっては同日パリで開催された絢爛豪華なワールド・プレミアよりも価値のあるニュースだと言ってよいと思う。ぬか喜びに終わらないことを願うばかりだ。

やってますよ、相変わらず(2002年11月23日)
 5か月間もこのページを更新しなかったが、その間もいろいろやっていた。
 8月にはヨーロッパ仕様のDVD(日本と同じリージョン2ながら放送方式の相違のためそのまま日本のテレビでは再生できないシロモノ)を入手。パソコンの小さな画面で10回目の鑑賞。
 10月には、当然日本版DVDを購入。大幅な手直しが施された字幕版と日本語吹き替えの両方で何度か鑑賞。
 11月11日には、例の「アルゴナスの門」付き限定DVDセットを予約。午前11時ジャストに予約を入れたところ、予約順3番を獲得し、その場で正式契約まで進めて一安心。ただし、これにはちょっとしたドタバタのおまけがついた。折り返し届くはずだった先方からの連絡メールが夜になっても来ない。果たしてうまく契約が成立しているかが不安になる。夕食時間にその件を話題にすると、パートナー氏が決然と宣言。
「私がもう1セット買うわ!」
 それを受けて、再びネットに繋いで予約を試みることに。で、結局パートナー氏も1セット注文しちゃったんですな、これが。いいのか、こんなんで。
 さて、今日は『二つの塔』の前売り券の発売日。朝も早くから気合を込めてちょっとばかり離れたシネコンまで足を伸ばす。このシネコン、座席が余裕をもって設置してあるし、音響もいいし、けっこうお気に入りなのである。今日は「ハリポタ」第2作の封切日であったため、かなり混雑していたが、無事にチケットをゲット。購入枚数は6枚。おまけのピンバッジを全部揃えるためには当然の枚数である。既にプレミア前売り券を2枚持っているのだが、あれはもったいなくて使えないから、たぶん、まだ何枚かは買いに行くことになるだろう。ほんとにどこまで金を使うつもりなんだろう、私たち。
 ついでに「ハリポタ」の映画も鑑賞。本編の前には例の『二つの塔』の予告が流れる。(実は、これが見たかったわけだ。)ネットで散々見たものでも、やはり大画面の迫力は凄い。嗚呼、このまま上映してくれんかと余韻に浸る暇もなく「ハリポタ」が始まってしまう。この映画のことをここで書いても仕方ないが、どうにも好きになれない。まあ、どうでもいいんだけどね。

9度目は死すべき運命の人の子に(2002年6月16日)
 先日「吹き替え版」を見に行った直後に、名古屋駅前の映画館が朝一番の1回切りという形ながらも今週いっぱい「字幕版」を上映してくれているとの情報を仕入れ、結局9度目の鑑賞をすることになった。今度こそ、ほんとうに最後の劇場鑑賞だ。(ほんとにほんとか?)
 一昨日までは700席近い大劇場での上映だったのだが、昨日からは150席ほどの小劇場に移されていた。で、上映開始のころには七分ぐらいの入りで、終了時には立ち見の人もちらほらという状況。(前のほうの座席は空いていたんだけどね。)この結果だけを見ればもう少し続映してくれてもよさそうな気もした。
 明らかにリピーターと思しき女性客が終盤の見せ場にさしかかる前にしっかりとハンカチを用意していたのに微笑。その肝腎の泣かせの場面における大ポカ――ボロミアの右手がカットによってアラゴルンの左肩にかかっていたりいなかったりする――も確認できた。いや、私はそのような矛盾点が多々存在することをもって映画の評価を貶める気はない。そんなのは所詮、些細なことなのである。何回見てもやはりおもしろいものはおもしろいのだ。それだけは断言しておきたい。

 数日前、公式サイトにおいて「DVD及びビデオでの字幕見直し」が正式に告知された。網膜に焼き付けた今回の超訳とDVD版の訳との比較を今後の楽しみとして、秋を待ちたい。

真の見納め(2002年6月3日)
 6月2日。近隣のシネコンでまだ「吹き替え版」を上映していることを知って、ついつい見に行ってしまった。これで8度目の鑑賞である。いざ行ってみると、席数43という超ミニシアター。いつもは700人近くが入る大劇場で鑑賞していたので、入った瞬間は思わず「もののあわれ」を感じてしまったりしたが、上映が始まるころにはほぼ満席の状態。これはこれでよかったような気がしてきた。「吹き替え版」は2度目の鑑賞だったが、やはりこちらのほうが断然ストーリーを把握しやすい。「字幕版」の罪の重さを再確認することになった。
 この期に及んで初見と思しきカップルがいて、エンドロールが流れ始めた途端に「え?これで終わりなの。」という小さな悲鳴が上がっていたのが印象的だった。(客の大半が最後まで席を立たなかったという事実も付け加えておかねば。)
 ともあれ、これが劇場での最終鑑賞。同じ映画を8回も見たというのも新記録だし、関連グッズを買いまくったのも初体験。来年まで、しばしの休憩である。

最後の劇場鑑賞?(2002年5月20日)
 私の住んでいる地方ではこの24日でほとんどの映画館での上映が終了するようなので、最後の鑑賞というつもりで、7回目を見に出かけた。
 某掲示板で話題になっていた「ウルク=ハイとの一騎打ちのとき、アラゴルンが二度にわたって剣を取り落とす」という迷シーンもしっかり確認することができた。いや、見ている人は見ているのだと、改めて感心。聞いた話では25回も鑑賞したという方もいらっしゃるとのことなので、これぐらいで感心しているようではまだまだ修行が足りないのかもしれない。

 さて、あちこちでのお祭り騒ぎも沈静化してきた今、もう一言書いておきたい。
 「一編の映画として内容を云々することができにくい」という意味で、この作品は画期的であったと言える。1本の映画を3分割して興行にかけるというのは、ある意味暴挙であった。したがって、予想通り多くの批判を食らった。(こちらをご覧いただくのがもっとも手っ取り早い。★1〜2の評価をしている人の多くがそれを理由としていたと思う。また、高評価をしている人の中にも「中途半端な終わり方は バツ」と書いている方が少なからずいらっしゃったはずだ。記憶に頼っているため曖昧な表現になってしまうけれど、なにしろ2000件以上の書き込みがなされているサイトだ。もう一度全部に目を通すのは私にとって 不可能である。)

 「1本で起承転結がつけられていないようならば映画ではない」との立場から見れば、本作品は評価以前の問題として「映画」ではなかったということになってしまう。だが、「敢えてその価値観に挑戦した作品」としての評価は可能なはずである。今までにも「○部作」という映画は存在していたので目新しいものではないとの反論もあるだろうが、それらは1作目の興行的な成功を受けての続編制作というパターンがほとんどであった。
 その意味では『指輪物語』の新たな挑戦は評価されてしかるべきだ。いや、誤解のないように書いておくけれど、『指輪』がこうした映画の最初である、などという気はない。初期の日本映画ではむしろそれが当たり前で、テレビの連続ドラマのような形で劇場にかけられていた作品が少なくなかったのである。(実際にこの目で見たわけではない。知識の受け売りなので間違っていたらご指摘願いたい。)確か、1970年代にも『戦争と人間』3部作なんてのがあったりした。そういう先例を踏まえたうえで、今回の試み――10時間にも及ぼうかという映画を興行として成立させようとしたこと――を高く評価したい、というのが私の気持ちである。
 多くの伏線が仕込まれていた今回の映画。冗長に思えた部分にも意味があったことを、第2作、第3作を見終えたあとに発見できるのを楽しみにしたいと思う。(あ、モリアでのトロールとの戦闘とか通路渡りのスペクタクル部分なんかはもっと短くできたと思う。その分をロスロリアンに回してほしかった、という気持ちは「奥方」ファンとして 、当然、ある。)

TTT予告編(2002年5月11日)
 eiga.comにおける署名活動などが功を奏して、4月20日から「ロードロ・オブ・ザ・リング 二つの塔」の予告編が日本でも見られるようになった。字幕版にしかつかないという不合理(不条理?)はあるものの、上映が実現しただけでも快挙であると言ってよいだろう。
 もちろん私も劇場に足を運び、この予告編(正確には予告編ではないそうなのだが…)を見た。巷で噂の「おバカ字幕」はさておくとして、次作への期待を膨らませるに十分な映像であった。主要登場人物は――エントも含めて――ほぼ網羅されており、あの「白の乗手」の雄姿までバッチリ拝めるというサービスぶり。彼の登場シーンを目の当たりにした観客のどよめき――原作を知らない人にとっては確かに刺激が強すぎるかも――が心地よかった。なによりも彼が飛蔭に乗って疾駆する姿の幻想的な映像が美しかった。
 これはもう一日も早く見るしかない。「来年3月までは待っていられない!」という気持ちにさせられた3分半であった。嗚呼、かくして「指輪貧乏」の泥沼にますますはまり込んでいく…。

違和感の正体(2002年3月31日)
 字幕の評判がすこぶる悪い。公開以前は固有名詞の取り扱いに関することが主であったと記憶しているのだが、公開後はそんなレベルではない批判にさらされている。しかし、それも当然と言わねばならない。映画を字幕で鑑賞した人――中でも映画によって初めて『指輪物語』の世界に触れた人たち――の多くに「この映画で賞賛されるべきは特殊撮影の部分だけで登場人物の人間ドラマが描かれていない」という思いを抱かせてしまったのは、間違いなく字幕の不出来に起因している部分が大きいからだ。(とはいえ、それだけが原因であるなどと断言する気はさらさらない。この映画には明らかな説明不足があると思うし、描き切れていない部分もあると思う。)
 試写会で初めて見たとき以来抱いていた違和感について自分なりの意見をまとめようともたもたしているうちに、あちらこちらで声が上がり、今や大きなうねりにまでなろうとしている。もはや私の出る幕などないといってもよいほどに。(もともと原語を聞き取る力のない人間なのだからどうしようもないが…)
 ということで、ぜひとも下にリンクしてあるサイトをご参照いただきたい。特に字幕版だけをご覧になって「ボロミアは悪人だ」「アラゴルンは冷血漢だ」と思ってしまった方は必見である。
魅惑のFotR日本字幕版

アカデミー賞(2002年3月25日)
 本年度の米国アカデミー賞が発表になった。『ロード・オブ・ザ・リング』は、期待通り、「撮影賞」「視覚効果賞」「メイクアップ賞」「作曲賞」というマイナーな部門4つを受賞。今回も「SFやファンタジーには主要部門は獲得できない」というジンクスは打ち破られることはなかった。 だが、作品賞や監督賞を取るなんてことは端っからありえないと思っていた。「ジンクス」以前の問題として、完結していない作品を評価すること自体間違っている。なにはともあれ、第2作、第3作が有無を言わせぬ傑作であることを祈りたい気持ちで一杯だ。
 もっとも、それほどアカデミー賞にこだわってるわけでもない。賞なんてものは選考する人の主観が入りまくっているわけだから。ちょっと前に発売されていた某映画雑誌で主演男優賞に選ばれていたのがダニエル・ラドクリフ少年だったのを見たとき腰を抜かしかけたものだが、もし、今回のアカデミー賞でイアン・マッケランが助演男優賞を獲得していたら、同様に腰を抜かしてしまった人がいないとも限らない。賞というのはそういう類のものだ。いや、正直な話、マッケラン卿にはぜひとも受賞してもらいたかったのだけれど。

フロドはなぜ指輪をはめたのか(2002年3月9日)
 映画公開から一週間。
 賛否両論、いろいろな声が聞こえてくる。批判めいた意見の中で、「ロードス島戦記」や「ハリポタ」のパクリ、などという論外のものは無視することにしても、いささか気になる指摘を目にした。曰く、
「主人公がピンチになる度に指輪をはめてそれを脱するのは安易過ぎる」
 確かに映画の中で、フロドは何度か指輪をはめたり、はめようとしたりする。しかし、それによって危機を脱したのはたった一度だ。あとは、「指輪の意思」に抗しきれなくなったフロドが思わず指輪をはめてしまったり、指輪が自ら彼の指にはまってしまったりする姿が描かれているだけなのだ。その結果、危機を脱するどころか、むしろ危機を深刻化させているのは、映画をきちんと見ていれば間違いなく分かることだと思う。主人公が指輪によって大きな影響を及ぼされいくという、この映画のテーマにかかわるほど大事なファクターが見逃されてしまっているのはなんとも哀しい。
 下にもいくつか挙げたように、さまざま気になる点を抱えた作品ではあることは間違いない。しかし、的外れな批判ばかりが目立つのはどういうことなのだろうか?
 どこかの掲示板だか映画レビューで見かけた、
「魔法使が剣を使って戦うなんておかしい」
 なんてのは、あまりにも突き抜けていて、むしろうれしくなるけれど。

ようやく書ける!(2002年3月2日/3月4日訂正)
 最初に、一言。
 私は原作ファンである。だから、原作というフィルターを通してしか映画を見られない。いくら原作と映画は別物であると割り切ろうとしても、正直、それは無理だ。で、今回の映画はどうだったか。ものすごく面白かった。原作に忠実だったからではない。作り手の「原作に対する深い愛情」を感じ取ることができたからだ。原作つきの映画である以上、そういう姿勢が感じられるかどうかは非常に大きな意味を持つ。だからこそ、日本 での興行側の不誠実さに腹が立っている。タイトルのつけ方。意図的だとしか思えない副題の省略。予告編に用いられたコピーのでたらめさ。リーフレットの支離滅裂ぶり…。
 日本における原作の知名度の低さがあったことは認めよう。しかし、これだけ話題になった以上、次回作ではそういう言い訳は通用しない。配給会社などの関係者に言いたい。ちゃんと原作を読みなさい。そして、『指輪物語』への愛情を持って仕事をしなさい。それが観客の足を劇場に向けさせる最良の 方策なのだ。
 と、まあ、力んで見たわけだが、どうせこんな場末のサイトの文章なんぞ読んでくれる可能性は限りなくゼロに近いだろうから無駄というもの。そろそろ本題に入ろう。今回は、ひとまず、映画の場面ごとに気づいたことや気になったことなどをストーリー展開に沿って書いてみたい。 肯定的な部分も否定的な部分もごちゃ混ぜになっていることをお断りしておく。もうひとつ、否定的なことを書きつつも、私はこの映画を非常に気に入っていることも付け加えておきたい。

 まず驚かされたのが冒頭部分。開巻から5分で冥王サウロンと「指輪」の来歴をまとめるという方法が採られていた。これだけで一篇の映画が作れてしまうほどの密度を持った話なわけで、これはこれで成功していると言えるように感じた。

 続いて、ビルボから「指輪」を譲られたフロドが旅立つまでの展開の猛烈な速さに驚く。注意して見ていないと、ビルボの旅立ちの直後にフロドもホビット庄を出ていると錯覚してしまいかねないほどだ。(裂け谷で ビルボと再会したとき、その老け方に違和感を覚えた人もいるのではないだろうか。 「指輪」の影響から逃れたがために年相応の容貌に変わっているわけだが、時間の経過がいまひとつはっきりしないために唐突な感じは否めなかった。)

 フロドとともに旅立つホビット3人の旅への参加の仕方に疑問を感じる。原作とは違って、いつの間にか渦中に巻き込まれていくというパターンになっていた。特にメリーとピピンの加わり方は、ある意味ムチャクチャである。理不尽に追われる恐怖感や切迫感の演出という点ではひとつの形ではあるかもしれないが、あれでは彼らの存在意義が極めて薄いと言わざるを得ない。(これは、今回の映画にずっとつきまとう問題点なのだが…)

 躍る小馬亭で「指輪の幽鬼(映画では違う呼び方をされていたが、敢えてこう記す)」が宿屋を襲うシーンは、今回の映画の中では(数少ない)不要といってもよいエピソードのひとつだろう。あそこまで強引な襲撃を敢行できるのなら、ブリー村の全ての家に突入してでもフロドたちを探し出そうとしても不思議はない気がするからだ。
 どこかの掲示板で指摘されていたように思うが、このシーンは1978年制作のラルフ・バクシ版アニメーションに酷似している。 他にも類似を指摘されるシーンがあったことから推して、この映画によって『指輪物語』を初めて知ったというピーター・ジャクソン監督なりの、先駆者へのオマージュとも解釈可能だ。

 風見が丘での襲撃シーン。馳夫(これも、強烈な字幕が表示されていたが無視(~_~;))ひとりの活躍で「指輪の幽鬼」5人があっさり撃退されてしまっているのはどうだったか?あの中には「白のガンダルフ」とも互角に渡り合える力を持ったアングマールの魔王も含まれていたはずで、いささか説得力に欠ける 気がする。というよりも、「指輪の幽鬼」がちっとも強く見えないのが問題なのだ。最後に出てきたウルク=ハイのほうがよっぽど強力に見えてしまったのは私だけではないだろう。

 いよいよアルウェン登場。事前にさんざんブーイングを聞かされていただけに、思いっきり覚悟をしていたところ、意外なほどに違和感が少なかった。「絶世の美女」という設定にはどうしたって疑問符がつくものの、アラゴルンとの深い絆を描き出すためにはあれぐらいの演出があったっていいはずだ、とすら思ってしまった。いや、登場の仕方だけは許せなかったが。(いくらなんでも、自分の愛する人の喉元にいきなり刃を突きつける人間――いや、彼女はエルフだけれど――なんているとは思えない。)

 裂け谷。ここでは、原作との大きな相違が明らかになる。アラゴルン自身が「指輪の魔力に負けた人間の直系」であることに対して負い目を抱いており、「王位の継承」を放棄しているのだ。この設定があるから、アルウェンを挟んだエルロンドとの関わりの微妙さも理解可能だ。 エルロンドはアラゴルンのご先祖様であるイシルドゥアの変節振りを目の当たりにしているわけだし、大切な一人娘がそんな人間に心惹かれているのを快く思っていないのも明らかだから。
 ゴンドールの実質的な統治者の子であるボロミアが傲然と「ゴンドールに王などいらない」と言い放てるのも、この設定の故である。
 さて、今回の映画で私が最も気になったのが「旅の仲間」結成のシーンだ。あれでは、サムやメリー、ピピンが「仲間」に加わることの必然性が全く感じられず、「世界の運命を背負う任務」の人選としては、あまりにも 行き当たりばったりだと非難されても仕方がない。観客としても納得がいかないだろう。なにしろ、ホビットは冒険の戦力としてはお荷物以外のなにものでもないのだから。サムたちがでしゃばってきたときに、エルロンドがそれを認めるだけの理由を口にするべきだったと思う。そのあたり、原作にはちゃんとした説明があるのだが、なぜ変更してしまったのか分からないところだ。

 本作最大の見せ場となったモリアの坑道。すばらしい出来映えだったと思う。バルログの登場シーンがいささか短過ぎた気はするが。かの魔物の強大さを示すために、雲霞のごとく出てきたオークの大群を次々と焼き払いながら登場してくれてもよかったのではないだろうか?その前のトロールとの戦闘にずいぶんな時間を割いたのだから…。

 ロスロリアン。思っていた以上に短かった。どうやら、撮影はしたものの「時間の都合上」カットしてしまったシーンがかなりあるらしい。例のギムリとガラドリエルのやりとりのシーンとか。原作ファンだから言うわけではなく、やはりそれは入れてほしかった ところだ。ガラドリエルというキャラクターの魅力がほとんど描かれて おらず、ただ単に「怖そうなおばさん」に見えてしまったのは私だけだろうか?いや、でも、ケイト・ブランシェットはほんとうに綺麗だった。
 カットシーンはDVD化の際に収録される予定とのことなので、それに期待しよう。

 一行の離散の場面。ここでも原作とのかなり大きな変更がなされていた。中でも、フロドが旅立つ直前にアラゴルンと会話するシーンが設けられたのが重要。本作におけるアラゴルンの人物設定からすれば必要不可欠な場面と言える。あのやり取りによって、アラゴルンは 「自らの血筋」に対するひとつの大きな試練を乗り越えたことになるのだから。そして、その機会はここを逃せばもう二度とないはずだから。

 エンディングに関しては、あちこちから不満の声が聞こえてくる。特に原作を読んだことのない方からの「中途半端だ」という意見がその大半。しかし、(最初にも記したように)こういう声が噴出した責任 の多くは興行側にある。この作品がどういう構成になっているかを正確に伝えようとせず、それどころか、隠そうとした節があるからだ。
 「『指輪物語』を3本立ての映画にするなら、ここで切るしかない」のは、明白。原作の主題に沿って映画化しようとすれば、誰が作ったってこうなるはずだ。ロスロリアンからの旅立ちのシーンで終わらせる手はあったかもしれないが、それではドラマとしての盛り上がりに欠けることになる…。
 が、興行側の問題とは関わりなく、この映画を見て面白さを感じられなかった人が少なからずいたことも事実だ。そのあたりはきちんと受けとめておかねばと思う。自分の価値観が正しいとはかぎらないのだから。