三代教会長 福嶋真喜一 金光大神大祭挨拶
福嶋真喜一
皆さんもご存じのように金光大神様のお取次、すなわち、御教えやら、お取次のご祈念やらをいただかしてもろうて、信心の道を、今、一歩一歩、歩ませていただいておる我々であります。
 金光さまのおっしゃるとおりに、信心をさせて頂いておれば、天にも地にも満ち渡っておるところの、神さまの大御蔭を、身にいっぱいに頂かせてもらうことが出来る、出来てきておるのであります。
 私の祖父が初めて、大阪から金光さまのところに参拝をさせて頂きましてお取次をお願い申しあげたんであります。その時に、金光さまが「遠方よくお参りでありました。信心して御蔭をうけて、身に徳をうけて、人
の助かるような、御蔭をうけなさい。」というみおしえを頂かせてもろうたのであります。
 それから、以来たびたびご本部に、金光さまのお膝元に、お参りをさせて頂きまして、お引立てを頂いてまいりました。そのお陰で、まあ私ら孫になりますが、孫の時代のみんなが、皆打ち揃うて、金光さまの御信心
の尊さを、身にしみじみとあじあわせていただいて、おかげを蒙っておるのであります。
 現代の、世の中の有様を、人間のあり方を見ますというと、天地のご恩ということをあまりに知らない。
 お日さまのお照らしをいただいて日々生きておること、お月様のお照らしをいただいて夜も明るうに過ごさせていただくことが出来ていること。
 また、おろそかにしておりますが、毎日私どもは、大地の上に立ちはだかって、その大地から出来てきておる処の、大地に培われている処のいろいろの、大根やら、お米やら、また、水には川には海には、お魚やらい
ろいろな種々の食物をお恵みいただいて、それを口にし、身につけて生きさせていただいておるわけであります。
 そういう御蔭をうけておることをみな当たり前に思いましてあまり有難とうに思わない、うかうかと暮らしているような状態でありまして、これは神さまからご覧になると恩知らずといいますか、そいうことに私共はなり、落ち込んでおると申してもいいのであります。
「天地のご恩を知る」ということがなかなか疎かになっております。
それを私の祖父等は金光さまのところにお参りをして教えていただいた。
「食物はみな人の命のために天地の神の作り与え賜うものぞ、何を喰うにも呑むにも有難く戴く心を忘れな」 どうも我々は喰うものについては口が肥えておりまして、喜ぶよりも味をあじおうて、そうして、まずいとか、なんとかかんとか、文句を文句を言いやすう、お粗末にしがちでありますが、祖父はそういう金光さまのお言葉をいただきまして、ひたすら一粒のお米も疎かにせず、一杯の水ももったいのう頂いて、御信心の道を歩まして頂いてまいりまして、子孫の我々に御蔭を残していってくれましたわけであります。
 まことに、私自身、そういうことを振り返ってみて、勿体ない有り難いことじゃったとおもわしてもろうてよろこばして、金光さまのご信心を頂いておることの幸せを、身にしみておるわけであります。
 今日は、その金光さまの、年に一度の御大祭。今年も御蔭を受けさして頂き、皆様もお参りを頂いて、つつがなく、御奉仕のおかげを頂きましたこと本当に有り難いことじゃと、御礼を申さずに居れません。
 共々にご縁を頂いて、金光さまのお道にご縁を頂いて、信心を共にさせて頂いておることを、お礼申して、お互いに励まし合い、力になり合うて一層この道を、進まして頂いて大勢の難儀な人達のことの身の上にも御蔭を蒙って参らしていただきたいと思います。
 金光さまは、私の祖父に「信心して人を助けて神になれい」ということを最後におっしゃって下さっております。亡くなるまでそのことを祖父は金光さまが「信心して神になれ」ということをおっしゃったということをもうして自らを慎み、信心の道に励んでおりました。
 お互いにも同様に金光さまの御信心を身につけさせていただいて御蔭を蒙って参らしていただきたいと思い、祈らずには居れません。
 この御大祭を潮に一段とお引立てを頂いて真の信心をさせていただくよう御引廻しを頂きたいものであります。

 
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