記事タイトル:ヨハネのへや 


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お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
         【 ガラツィア人への手紙 5章13−26 】

          ・・・ 長崎の信者に捧ぐ・・・

 兄弟たちよ、あなたたちは≪自由≫のために、”召(め)された”。

ただ、その自由を肉(欲)への刺激として用いてはならない。むしろ、≪愛≫によって、

”互いに奴隷(どれい)となれ”。全律法は、『自分と同じように隣人を愛せよ』という

≪一言≫に含まれているからである。”互いにかみ合い食い合って、ともに食い尽くされぬ

ように注意せよ。≪私(パウロ)は言う≫。霊によって歩め。そうすれば、(自分の)肉の

欲を遂げさせることはない。実に、(自分の)肉の望むことは、(主の)霊に反し、

(主の)霊の望むことは、(自分の)肉に反する。あなたたちが、(自分の)望みのままに

行わぬように、それらは相反(あいはん)している。

 もし、あなたたちが(主の)霊に導かれているのなら、律法の下にはない。

(自分の)肉(欲)の行いは明白である。すなわち、淫行(いんこう)、不潔(ふけつ)、

猥褻(わいせつ)、偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)・・・金儲けや性欲のための偶像礼拝

・・・、魔術(サタンの誘惑)、憎悪(ぞうお)、紛争(ふんそう)、嫉妬(しっと)、

憤怒(ふんぬ)、徒党(ととう)、分離(ぶんり)、異端(いたん)、羨望(せんぼう)、

泥酔(でいすい)、遊蕩(ゆうとう)・・・これらは、自分の肉欲から生じている・・・

そして、それらに似たことなどである。

 私は前にも言ったように、またあらかじめ注意する。・・・主キリストの洗礼を受けた

だけでは救われない。そして、祈っただけでも救われない。天国は狭(せま)き門である。

・・・以上のようなことを行う者(肉欲に溺れる者)は、≪神の国を継がない≫。

 それに反して、(主の)霊の実は、愛(あい)、喜(よろこ)び、平和(へいわ)、

寛容(かんよう)、仁慈(じんじ)、善良(ぜんりょう)、誠実(せいじつ)、

柔和(にゅうわ)、”節制(せっせい)”、であって、(主の霊と自分の心の良心が望む

ことであって)、これらのことに反対する律法はない。

 キリスト。イエズスにある者は、(自分の)肉をその欲と望みとともに、”十字架”に

つけた。

 私たちが、(主イエズス・キリストの)霊によって生きているのなら、また霊によって

歩もう。(自分の肉の欲によって)挑(いど)み合い、嫉(ねた)み合って、(肉欲の)

虚栄(きょえい)を求めることのないようにしよう。・・・

  (聖母マリアさまのご加護をお祈り致します。)
[2004年7月15日 11時54分27秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
      【 種(たね)まく人のたとえ 】  ( 長崎の信者に捧ぐ )

 町々から多くの人々が集まったとき、イエズスは≪たとえ≫で話された、

『種(たね)まく人が種まきに出た。種をまくと、≪ある種は道のかたわらに落ちて、

踏みつけられ、空の鳥についばまれた≫。≪ほかの種は岩の上に落ちて、生え出たけれど、

水気がなかったので枯れてしまった≫。≪ほかの種は茨(いばら)の中に落ち、茨がともに

生え出たので、ふさがれてしまった≫。≪ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実

を結んだ≫』。こう話して、(群衆に)、『聞く耳があれば聞け』と”声高く言われた”。

 弟子達が、『その≪たとえ≫はどんな意味ですか』と尋ねると、こう答えられた、

『あなたたちには、≪神の国の”奥義”を知る恵みが与えられた≫が、ほかの人(群衆)

には、≪(しるしを)見ても見ず、(真理を)聞いてもわからぬように、≪たとえ≫で

話すのである。≪たとえの意味はこうだ≫。

 ≪種(たね)は、”神のみことば(聖書)”である≫。

 ≪道ばたのは、”みことば(聖書)を聞いて”のち、”悪魔(サタン)が来て”、

”信じて(天国に)救われることのないように”、”その心からみことば(聖書)を

奪う”のである≫。

 ≪岩の上のは、”みことば(聖書)を聞いて喜び受けても”、”根(信仰)がないから”、

”しばらくの間信じるだけで”、”(神の)試みのときには退く人々である≫。

 ≪茨(いばら)の中に落ちたのは、”みことば(聖書:永遠の命のことば)を聞いても、

”世の心労と富と快楽にふさがれて”、実(信仰)をつけぬ人々である≫。

 ≪良い土地(信仰)のは、”寛大な良い心で”みことば(聖書)を聞き、それ(聖書)を

守り(信仰の良い行い)、”辛抱強く、実(信仰)を結ぶ人々”である≫。

           ( ルカ福音書8:4−15 )
[2004年7月2日 11時4分26秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
       【 ローマン・カトリックの罪 】

   ・・・ユダヤ人の大虐殺・アウシュビッツの真実・・・

     ( ユダヤ人の最高指導者: サイモン・ヴィーゼンタールの証言 )

 それぞれの収容所のマークの中に、上下に、2つの数字が書かれているでしょう。

例えば、上が15万人、下が30万人。上段の数字はミニマムを、下段はマキシマムを

表している。犠牲者を、どの時点で、どのような状況下で、誰がカウントしたか、また

どの記録を使用したか、そうした全体の状況を考慮して、2つの数字ができている。

 われわれが今日、『600万人(の虐殺)』といっているのは、ミニマム、つまり最低の

数字なのだ。確かに、つらい話だが、しっかり聞いてほしい。

 例えば、ユダヤ人(イエス・キリストもユダヤ人)が人種的に劣るかを講義するために、

≪生きた妊婦≫が実験台にされたのだ。妊娠している女性の腹を、≪麻酔もなしに、切開

して≫、(ドイツ)軍の医学生に見せながら、何時間も講義するのだ。当然、腹を切り裂か

れた妊婦も、胎児も、死んでしまう。すると、またほかの(ユダヤ人の)妊婦が、手術台に

乗せられ、まったく同じことが、繰り返される。

 また、ある収容所では、≪(若い娘の)生きた者の、皮膚を(入れ墨して)、メスで

切り取り、その(若い娘の)皮膚を使って、(燭台の)ランプの笠を何百も、作っていた。

(入れ墨した若い娘の)生きているうちに、切り取った皮膚は、≪血管が美しい模様を

描くから≫、というのが、その理由だ。全身から皮膚を切り取られた者は、≪うめきながら

≫、”2時間もすると、死んでしまう。”

 私が(アウシュビッツから)生き延びた理由の一つに、(オーストリアの)ウイーン訛

(なまり)の”ドイツ語”を、話したからかもしれない。

 ヒトラーをはじめ、ナチス(ドイツ)の幹部には、オーストリア出身者(オーストリア

人)が、多数いた。(ドイツのヒトラーは、オーストリア人であった。)・・・
[2004年6月20日 22時45分51秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
      【 キリストの聖体 】

 イエズスは彼らを連れて、ベトサイダ(ヨルダン川の東、フィリッポ分国王の国に

あった。)という町の人里離れた所に退かれたが、それを知った群衆(群衆はイエズス

がイスラエルの王になることを望んでいた。)がついてきたので、彼らを迎えて、

≪神の国≫のことを話し、≪治すべき人々を治された≫。(すべての人が治されるわけで

はない。神の望む人だけが治される)。

 やがて、日が傾いたので、十二人(弟子達)は近づいて、「人々を帰らせて下さい。

付近の村か農家で宿と食べ物を求めさせてやって下さい。ここは人家のないところ

ですから」と言った。≪すると≫イエズスは、「あなたたちが食べ物をやれ」と言われた。

弟子達は、「私たちには≪五つのパン≫と≪二つの魚(さかな)≫があるだけです。

なんなら、この多くの人々のために食べ物を買いに行きましょうか」と答えた。

そのとき、男の数(だけでも)は、五千人ほどだった。

 イエズスは、「みなを、五十人ずつ、組にして座らせよ」と弟子達に言われたので、

そのとおりに座らせると、≪イエズスは、”五つのパン”と”二つの魚(さかな)”を

取り≫、≪天を仰いで、それを”祝福”し、”割って(十字架のイエズスの体)”≫、

弟子達に”渡し”、人々に、分けさせた。みなはそれを充分(腹一杯)食べ、

余りを集めると、≪十二かご≫もあった。    (ルカ福音書9:10−17)

 出エジプトで、預言者モーゼがユダヤの民を、砂漠の荒れ野を旅するとき、

ユダヤの聖地、”カナンの地”に着くまで、毎朝、≪マンナ≫(すべての栄養源が入った

パンくずのようなもの。毎朝、ユダヤの民は、天から降り注ぐ食べ物)を拾い集めて、

”聖地カナン”に着くまで食べていた。カナンに到着したら、全能の主なる神は、天から

”マンナ”を降らされるのをお止めになった。・・・
[2004年6月17日 20時53分35秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
       【 仏教と座禅 】    (永平寺住職)

 全能の神も仏教を認めておられる。仏教は、あらゆる平安を祈っている。

 仏教は、和の宗教や。南無阿弥陀仏と念仏を唱えることは、すべてを釈尊におまかせする

ということや。・・・

 みんなわがままが自由やと思っている。名誉とか、地位とか、財産とか、わがままとか、

私欲のない生活、すべてまっすぐ、真っ正直に生きること、これが座禅である。

 釈尊が菩提樹で悟りを開いた時の姿が座禅であった。生活すべてが座禅である。

すべてに心が顕れる。背筋をまっすぐにして、首筋をまっすぐにして、そうして、

心をまっすぐにする。心がゆがんでいれば、すべてにゆがみがでる。スリッパが

ゆがんでいても何とも思わなくなる。心がまっすぐなら、すべてがまっすぐになる。

 いつ死んでもよいと思えるようになることが悟りを開くことやと思うとうた。

あらゆることに、平気で生きることが悟りやと判った。死ぬことも、生きることも、

すべてが平気になること、平常心になれること、それが悟りやと判った。

 何も考えないこと、くよくよしないこと、悩まないこと、妄想しないこと、

一息、一息、呼吸と一つになる。何も考えない、それが座禅で、お釈迦様が悟りを開いた

その姿になること、釈尊をまねること、一生まねたら本物になる。・・・

 教えは実行するためにある。私が今度、タバコを吸ったら、私の命を取って下さいと、

釈尊に祈った。命がけで祈った。命懸けなら、何でもできる。・・・

 仏教は和の宗教や。みんなの平安を祈っている。あらゆる平安を祈っている。・・・
[2004年6月12日 22時42分48秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
      【 英知(えいち)を祈り求めて 】     ( 心のともしび )

           シスター 渡辺 和子 (わたなべ  かずこ)

  主よ、

  変えられないものを

  受け入れる心の静けさと

  変えられるものを

  変える勇気と

  その両者を見分ける

  英知(えいち)を与え給え。

 これは、ラインホールド・ニーバーの祈りですが、私たちに心の平安、

落ち着きを得させる祈りと言ってよいでしょう。

 私も、ついに七十代の後半に入りました。歳(とし)を取れば、それも修道生活を

送っていれば、心に波風が立つこともなく、落ち着いてすべての物事を受け止められる

ようになったか、と問われるのですが、残念ながら答えは「否(いな)」です。

 この世に生きている限り、一日として心に波風の立たない日などないのでは

ないでしょうか。たしかに、「亀(かめ)の甲(こう)より年の功(こう)」で、

若い時と比べれば、比較的に落ち着いて物事に対処できるようになったと言えます。

しかし、まだまだ、ニーバーの祈りを必要とする日が多いのです。

 歳(とし)を取ることは、変えられない現実として心静かに受け止めるとして、

変えられることもあるのです。それは「私自身」です。すっかり痛んでしまった”部品”、

自分の目や耳、それらに腹を立てることなく、「長い間、ご苦労さま」といたわる、

優(やさ)しい自分に変わること。思うままにならないことにイライラせず、

謙虚(けんきょ)に他人様(ひとさま)のお世話になって、感謝する自分に変わること。

これには勇気が必要な時があるものです。

 何を受け入れ、何と闘(たたか)うかを分からせてくださいと英知(えいち)を

祈り求めます。若かった時も歳(とし)を取った今も、変わらず愛して下さる神、

何ができても、できなくても、全く同じく愛を注(そそ)いで下さる神の前で生きる

”落ち着き”のある人になれますように。
[2004年6月4日 21時10分58秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
        【 復活 】   (マルコ福音書12:18−27)

 ≪復活はない≫と唱(とな)えるサドカイ人はみもとに来て尋(たず)ねた、

『先生(ラビ)、もしある人に兄がいて、その兄は死んで、子がなく妻は生きていたら、

兄弟はそのやもめと結婚して兄のために子をもうけよと、モーゼは私たちに命じて

います。ところで、ここに七人の兄弟があり、兄は結婚して子なしで死に、次の弟は

彼女と結婚してまた子なしで死に、ついにその女も死んでしまいました。

さて≪復活≫の時、彼らが蘇(よみがえ)ったら、その女はだれの妻ですか。

七人ともその女をめとったのですが・・・』。

イエズスは言われた、『あなたたちは聖書も≪神の力≫も知らぬから、誤った考えを

もったのだ。≪死者から蘇(よみがえ)る時は、”めとりもせず、嫁ぎもせず”、

”天の天使たちと同じようになる(預言者となられた聖母マリアさまも天使と同じように

なられた)”。≪死者の復活≫については、モーゼの書の茨(いばら)の編(へん)に

≪私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神(生者の神)である≫と神は仰せられた

と書かれているのを知らないのか。”神は死者の神ではなく、生きる者の神である”

(天国で生きている)。あなたたち(サドカイ人)の考えは大いに間違っている』。
[2004年6月2日 10時47分15秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
    【 聖母マリアさまには、イエス・キリストの一人子しか、子はいなかった 】

 ヨハネ福音書に、『主の兄弟』という言葉がある。アブラハムは従兄弟のロトを

『兄弟』と呼んでいる。私はイエスの兄弟を従兄弟であると明らかにする。

 『それから故郷に帰り、会堂で教えられると、人々は驚き、「あの人はどこから

知恵と奇跡を受けたのだろう。あれは大工の子ではないか。母はマリアと呼ばれ、

兄弟は、ヤコボ、ヨゼフ、シモン、ユダではないか。それなのに、どうして、

ああいうことを知ったのだろう」と言い合った。人々(群衆)は、イエズスとは、

何者だろうかと思い惑った。』(マテオ13;54−56)

 聖書学の基本は、聖書が誰の言葉で、誰の発言で記されているかです。

イエズスは、この世の王をイエズスに望む≪群衆≫には、『聞いても

解らぬように、≪たとえ≫で話す』(ルカ8;10)と告げられている。

イエズスの兄弟と呼ばれていたこの4人は、イエズスの従兄弟で、

アルフェオの子、別名クロパの妻の子であった。マリアの親族の大祭司一族の

子であった。

 小ヤコボが、『アルフェオの子ヤコボ、タデオ、熱心なシモン』(マルコ

3;18・マテオ10;3.4)と記されています。預言者アブラハムも、

親戚のロトのことを、≪私の兄弟≫と呼んでいます。小ヤコボはエルサレムの

初代司教となった。『ヤコボとヨゼフの母マリア』(マテオ27;56)、

(ヨハネ19;25)とあるように、アルフェオの子、クロパの妻の子である。

『アルフェオの子ヤコボ、タデオ、熱心なシモン』(マルコ3;18)、

(マテオ10;3.4)。また、ユダはヤコボの実の兄弟である。

『アルフェオの子ヤコボと熱心者と呼ばれるシモン、ヤコボのユダ』

(ルカ6;15.16)。『キリストのしもべ、ヤコボの兄弟ユダより』

(ユダの手紙1;1)。後に、エルサレムの司教となったシモンは、

エウゼビウスによれば、アルフェオの子、クロパの妻の子である。

『イエズスに仕えてガリラヤからついてきた人たちで、そのうちには、

マグダラのマリア、ヤコボとヨゼフの母マリア(アルフェオのマリア、

別名クロパの妻マリア)、ゼベデオの子らの母(大祭司の知り合い、使徒ヨハネの

母)(別名マリアサロメ)などもいた』(マテオ27;55.56)。

 ちなみに、収税人マテオは、真実は、≪アルフェオの子≫でした。

『≪レビ≫という税吏が、収税所に座っているのを見られ、

「私についてきなさい」と言われたので、彼はすべてをおいて

立ってついてきた』(ルカ5;27.28)とある。

 聖母マリアの子供たちと思われたこの人たちは、アルフェオの子、別名、

クロパの妻マリアの子であった。2.000年の初めての世界的発見である。

2.000年の聖書の謎(なぞ)、神秘が解き明かされたのである。・・・
[2004年5月18日 20時17分57秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
           ( ヨハネによる福音書4:46−54 )

 イエズスはまた、かつて水をぶどう酒に変えられたあのガリラヤのカナに

行かれた。そこに一人の王官がいた。その人の子はカファルナウムで病床に

ついていた。イエズスがユダヤからガリラヤに来られたと知った彼は、

イエズスのところに行って、すでに死の迫っている子を治しに来て下さる

ように頼んだ。イエズスは、『 ≪あなたたちは”しるしと奇跡”を見ないと

信じないのか≫ 』と言われた。王官は、『 主よ、あの子が死なぬうちに

来て下さい 』と答えた。イエズスは、『 ≪あなたの子は生きている≫、

行きなさい 』と言われた。彼が≪イエズスのみことば(真理)を信じて

去ると≫、その途中。下男達に出会い、”子供は生きている”と知らされた。

何時ごろからよくなったかと尋ねると、『 昨日の”午後一時ごろから

熱が下がりました” 』と下男達は答えた。父親はその時刻が『 ”あなたの

子は生きている” 』と≪イエズスの仰せられたのと同じ時刻≫だと知った。

そして、≪彼とその家族の人はみな1イエズスを信じた≫。・・・
[2004年5月4日 22時52分57秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
     ( マルコによる福音書11:17−30.10:17−27 )

 (そのとき)イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、

ひざまずいて尋ねた。『 善(よ)い先生、永遠の命(いのち)を受け継ぐには、

何をすれば良いでしょうか。 』イエスは言われた。『 なぜ、わたしを≪善(よ)

い≫と言うのか。 ≪主である神おんひとりのほかに、善い者は≪誰もいない。≫

『殺すな、姦淫(かんいん)するな、盗むな、偽証(ぎしょう)するな、

奪い取るな、≪父母を敬(うやま)え≫』と言う掟(おきて)をあなたは

知っているはずだ。』すると彼は、『先生(ラビ)、そういうことは、≪みな、

子供の時から守ってきました≫。』と言った。イエスは彼を見つめ、慈(いつく)しんで

言われた。『あなたに欠(か)けているものが一つ( 愛 )ある。行って

持っている物を売り払い、(あなたを必要としている隣人の)貧しい人々に、

施しなさい。そうすれば、天(天国)に富を積むことになる。それから、

≪わたしに従いなさい≫。』 その人はこの≪主の言葉に≫気を落とし、

≪悲しみながら立ち去った。≫ ≪ (父が)たくさんの財産を持っていたから

である。 ≫

 イエスは、弟子達を見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、

なんと難(むつか)しいことか。≪ 金持ちが神の国に入るよりも、≪らくだが、

針(はり)の穴(あな)を通る方がまだ易(やさ)しい。≫』

弟子達はますます驚(おどろ)いて、『それでは、誰が救われるのだろうか。』

と互いに言った。 イエスは、≪彼らを見つめて≫言われた。

『 ≪人間にできることではない≫が、≪主である神にはできる。≫

≪ 主である神には、何でもできるからだ。 ≫・・・フランシスコ・ザビエルに、

世界で初めて、主である神の子、キリストの≪ 聖痕(せいこん)≪十字架刑の傷跡≫

が印(しる)された。・・・主である神は、愛する一人子、イエス・キリストを、

十字架刑に定められた。ユダヤ人が十字架刑にしたのではない。主である神が

なされたのである。(ヨハネ福音書)・・・
[2004年3月27日 8時26分41秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
       【 2000年の神秘を開く・・・世界最大の発見! 】

 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、3通の祝福の手紙を下さる。

 ≪聖母マリア様が、ユダヤ教の最高指導者、大祭司一族の娘であった。≫

 ≪主イエズス・キリスト様が、当時の本当の大祭司として、”下着に”、大祭司の衣

 (ころも)を着ていた。ヨハネ福音書に真理が告げられている。身分を隠すために、

 大祭司の衣を下着に着ておられたのである。当時の大祭司カヤファは、偽物の大祭司の

 上着を着ていた。≫

 ≪聖母マリア様の子供と群衆が告げた子供達は、アルフェオの子、別名、クロパの妻マリア

 の子であった。≫・・・

 Mel Gibson のヘブライ語とアラマイ語の原書に忠実と思われた『キリスト』の

 映画作品は失敗作です。私は、2000年間聖書で悟られなかった真理を、解き明かしたの

 です。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も認めています。しかし、10年以上、世界に発表さ

 れていません。封印されています。・・・

  Dear Mr.Mel Gibson

  should you produce a second

  movi about Jesus Christ,I would

  be happy ,if I could writ the 

  new bible for it.

        LUKE 1:5( ルカ福音書1:5 )

 5.There was in the days of Herod,the king

 of Judea, a certain priest named Zachrias

 , of the division of Abijah.

  His wife was of the daughters of Aaron,

  (the elder brother of Mose )

  and her name was Elizabeth.

  (ユダヤの王ヘロデの時に、アビアの組の者でザカリアという祭司がいた。

  彼の妻は≪預言者モーゼの兄、大祭司≫アロンの子孫で、名をエリサベツといった。)


       LUKE1:26−37 ( ルカ福音書1:26−37 )

 26. Now in the sixth month the angel

  Gabriel was sent by God to a city of

  Galilee named Nazareth.

  (ところで、その6ヶ月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされたガリラヤの

  ナザレという町のひとりの処女のところに来た。)

 27.To a virgin betrothed to a man whose

  name was Joseph,of the house of David.

  The virgin’s name was mary.

 (この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。)

 28.And having come in,the angel said

 to her,”Rejoice,highly favored one,

 the Lord is with you;blessed are you

 among women!”

 (御使いは、はいって来ると、マリアに言った。『おめでとう、恵まれた方。

  主があなたとともにおられます。』)

 29.But when she saw him,she was troubled

  at his saying,and considered what manner

  of greeting this was.

  (しかし,マリアはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと

  考え込んだ。)

 30.Then the angel said to her,”Do not be

  afraid,Mary,for you have found favor

  with God.

  (すると御使いが言った。『こわがることはない。マリア。あなたは神から恵みを

  受けたのです。

 31.”And behold,you will conceive in your

  womb and bring forth a Son,and shall

  call His name Jesus.

  (ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。)

 32.”He will be great,and will be called

  the Son of the Highest;and the Lord God

  will give Him the throne of His father

  David.

  (その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は

  彼にその父ダビデの王位をお与えになります。)

 33.”And He will reign over the house of

  Jacob forever,and of His kingdom there

  will be no end.”

  (彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。』)

 34.Then Mary said to the angel,”How can

  this be,≪ since I do not know a man?” ≫

  (そこで、マリアは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。

  私はまだ男の人を知りませんのに。』)

 35.And the angel answered and said to her

  ,”The Holy Spirit will come upon you,

  and the power of the Highest will 

  overshadow you;therefore,also,that

  Holy One who is to be born will be

  called the Son of God.

  (御使いは答えて言った。『≪聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたを

  おおいます。≫ それゆえ、産まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。)

 36.”Now indeed ,≪ Elizabeth your relative

  ≫ has also conceived a son in her old

  age;and this is now the sixth month for

  her who was called barren. 

  ( ご覧なさい。あなたの親類の≪預言者モーゼの兄、大祭司アロンの子孫の≫

   エリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人

   なのに、今はもう6ヶ月です。・・・洗礼者ヨハネはイエス・キリストと従兄弟で、

   半年、年上です。)

 37.”For with God nothing will be 

   impossible.”

   ( ≪神にとって不可能なことは,一つもありません。≫ )



         JOHN 19:23 ( ヨハネ福音書19:23 )

 23.Then the soldiers , when they had

  crucified Jesus, took His garments and

  made four parts , to each soldier a part

  ,and also the tunic . ≪ Now the tunic

  was without seam , woven from the top

  in one piece . ≫ ・・・ The tunic was 

  atunic as the high priests used.

  ( さて、兵士たちは、イエスを十字架につけると、イエスの着物を取り、ひとりの

   兵士に一つずつあたるよう4分した。≪また下着も取ったが、それは上から全部

   一つに織った、縫い目なしのものであった。)・・・ (旧約聖書:彼らは、

   エフェドの上着を紫色の糸だけで織った。その真ん中には、頭を通す穴をあけ、

   穴のまわりは、≪引き裂けることのないように≫、縁を、織物師の手でかがりつけた

   。上着のすそまわりには、紫と紅と深紅の糸と、亜麻のより糸で、ざくろの形のもの

   をつくって、つけた。≪縫い目なしで、上から一枚に織った布とは、当時、

   身分の高い、大祭司の着る服であった。≫


       MARUK 14:63 ( マルコ福音書14:63 )

 63.Then the high priest tore his clothes

  and said , ”What further need do we have

  of witnesses ?・・・

  (すると、大祭司カヤファは、自分の≪偽物の≫衣を引き裂いて言った。

   『これでもまだ、証人が必要でしょうか。・・・

  (
[2004年3月12日 17時23分54秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
      【 天国って、どこにあるの? 】

 『昼ごろ、ペトロが祈るために平屋根に上ると、空腹で何か食べたくなった。

食事の準備されている間、彼は気を奪われたようになり、≪開いた天≫から、

四隅(よすみ)をつるされた大きな布(ぬの)のようなものが地上に下(お)り

てくるのを見た。その中には、地上の四つ足の獣(けもの)、這(は)うもの

(へび)、空の鳥がみな入っていた。それから、「ペトロ、立って、ほふって

食べよ」と言う声がしたが、ペトロは、「いいえ、主よ、私は≪汚れたものや

不浄なもの≫を食べたことはありません」と答えた。するとふたたび「”神が

≪清くされたもの≫”を汚れたものと言ってはならぬ」という声がした。

三度(ペトロが雄鳥が鳴く前に三度キリストを知らないと呪いの誓いまでしたから)

こういうことがあってそれはすぐ(開いた)天に上げられた。』

         (使徒行録 10:10−16)

 【 天国は、≪開いた天≫、つまり、空の天上にある、”異次元の空間”にある。 】

 エリアも炎の荷馬車?に乗って、生きたまま、天に上げられている。

キリストよりも前に、エリアと預言者モーゼが天に上げられ、復活して、

≪天使と同じようなもの≫・・・聖母マリア様も天使と同じようなもの・・・

になっている。 

  【 天国は、空の異次元の空間に、”天国の扉(とびら)”がある。 】

            カトリック・クリスチャン・洗礼名ヨハネ
[2004年1月25日 20時21分15秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
 神は、助ける者を助ける。ヨブは罪がなかったが、神の試みのために、子供達を殺され、

妻から見捨てられた。ヨブは神に祈った。しかし、許されなかった。そのヨブが、友人の

ために、祈った。・・・

 主なる神は大喜びされた。財産を倍増された。神はこの世で富の大切さも知っておられる。

新たな妻も与えられた。140歳まで生き、世界一の美人の娘2人を授かった。

 祈れば救われると聖人の位についた聖書学者がいる。間違いである。

イエス・キリストも十字架でも、友のため、同胞のユダヤ人の罪を赦(ゆる)すために

祈った。友のために死ねる、これ以上の愛はない。・・・

 神が喜ばれるのは、逆境でも、友人、友、隣人のために、祈ることである。

神は、その深い愛を求められる。
[2004年1月22日 12時53分55秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
    ≪ イエズスは十字架刑で、ユダヤの大祭司の衣を着ていた ≫

 『兵卒たちは、イエズスを十字架につけてから、その服を取って4つに分け、おのおの

その1つを取り、また上着も取ったが、≪その上着は、”縫い目無しで、上から1枚に

織った布であった”≫・・・(旧約聖書)彼らは、エフォドの上着を紫色の糸だけで織った

。その真ん中には、頭を通す穴をあけ、穴のまわりは、≪”引き裂けることのないように”≫

、縁(ふち)を、織物師の手でかがりつけた。上着のすそまわりには、紫と紅と深紅の糸と、

亜麻のより糸で、ざくろのかたちを作って付けた。≪”縫い目無しで、上から1枚に織った

布とは、当時、身分の高い、ユダヤの大祭司の着る服であった”≫。・・・彼らは、『これは

破るまい。くじを引いて誰が取るか決めよう』と言い合った。それは、『彼らは互いに私の

服を分け、私の上着をくじにした』という聖書のことばを実現するためであった。兵卒たちは

、そうした。』  (ヨハネ福音書19:23−24)

 『・・・そのとき大祭司は自分の(偽物の大祭司の)服を裂(さ)き、『この男は冒涜(

ぼうとく)を吐いた。どうしてこれ以上の証人がいろう。みなも今、冒涜のことばを聞いた。

≪”どうだ”≫と言うと、≪彼らは(司祭長らは)≫、『この男は死に値する』と答えた。

                  ( マテオ福音書26:65−66)
[2003年12月13日 16時3分22秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
         【 出エジプト 】     (知恵の書19:1−12)

 不正な人々(エジプト人)には、仮借(かしゃく)なき怒りが≪きわみ≫まで襲いかかった

。神は、彼ら(エジプト人ら)が将来何をするかを、予(あらかじ)め知っておられた。

彼らがユダヤ(イスラエル)人を急いで去らせてから、その後方針を変え、あとを追うだろう

と知っておられた。彼らは葬式をあげ、死んだ子(すべての長男:あらゆる動物の長男)の

墓前で泣きながら、しかもそのとき、愚かにも他の企(くわだ)てをもくろみ、去ってくれと

先には頼んだ民(イスラエル人)のあとを、逃亡者を追うように追跡し始めた。

彼らにこんなことまで企てさせ、過去を忘れさせたのこそ、彼らにふさわしい運命だったろう

。そして、彼らは、今までの苦しみの上に、≪新たに罰を加えて≫、その身に浴(あ)びた。

主の民(イスラエル人)は、”不思議な旅”をしたが、彼ら(エジプト人)は、≪異常な最期

(さいご)≫にあった。主の子らを災いから守るために、≪被造物はみな、主の命令に服し、

新しい”性質”を帯びた≫。雲は、その影(かげ)で野営地を覆(おお)い、≪陸地は、

今まで水(海)のあったところから”浮かび出”≫、紅海は、平坦な通路となり、≪”荒波

は、草原に変わった”≫。御手に守られて、民(イスラエル人)はみな、≪”驚くべき奇跡”

≫を目にしつつ、そこを通った。民は、若馬のように食糧を食べ、主よ、解放者である主を

祝しながら、羊のように飛び跳(は)ねた。彼らは、異国(エジプト)で見たことを思い出し

た。

 蚊(か)が生き物から産まれるのではなく、≪”土地から生まれ出ていた”こと≫、

≪”数知れぬ蛙(かえる)が、水生の生き物(おたまじゃくし)から産まれるのではなく、

”川から吐き出されていたこと”などを≫。腹が減って、民の腹を満たすために、

≪”海から鶉(うずら)が産まれたのだった”≫。・・・

 仏教の輪廻転生は偽りである。絶滅種が無数にある中で、人が霊のない草木に生まれ変わる

ことなど存在しない。イスラエル人には、アウシュビッツでの虐殺を黙認された。

長崎のクリスチャンには、大分の上空を雲で覆い、長崎を快晴にされて、原爆投下を行われ

た。広島、長崎、アウシュビッツ、地獄の虐殺であった。イスカリオテのユダは盗人で、

サタン(悪魔)が入り、主なる神が創造され、地獄の支配を委ねたサタンの地獄に落とされた

。1.000代の子孫にまで慈しみを及ぼすと言われた”愛”でもある神は、全知全能ゆえに

、≪”怒りのきわみ”≫は恐ろしい。・・・
[2003年12月12日 8時21分40秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
        【 真理とは何か? 】

 ピラトはまた官邸に入りイエズスを呼び出し、『あなたはユダヤ人の王か』と聞いた。

イエズスは、『あなたは自分でそう言うのか。あるいは、ほかの人が私のことをそう告げた

のか』と言われた。するとピラトは、『私をユダヤ人だと思うのか。あなたの国の人と

司祭長たちがあなたを私にわたしたのだ。あなたは何をしたのか』と聞いた。イエズスは

答えられた、『私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものなら、私の兵士

たちはユダヤ人に私をわたすまいとして戦っただろう。だが、私の国はこの世からのもので

はない』。ピラトが『するとあなたは王か』と聞いたので、イエズスは、『あなたの言うと

おり私は王である。≪私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た≫。

真理につく者は私の声を聞く』と答えられた。ピラトは、『真理とは何か』と言った。

             (ヨハネ福音書18:33−38)

 『あなたのみことば(聖書)は、真理であります』 (ヨハネ17:17)
[2003年11月24日 20時15分25秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
    【 聖霊による聖母マリア様の処女懐胎 】   (BBCに回答)

 そのころマリアは、山地のユダの町に急いで出発し、祭司ザカリアの家に行って、

(預言者モーゼの兄、大祭司アロンの子孫の)エリザベトにあいさつした。エリザベトが

そのあいさつを聞いたとき、胎内の子(洗礼者ヨハネ)はおどり、彼女は聖霊に満たされて

声高く言った、『あなたは(妹は)女の中で祝福された方で、あなたの胎内に実るもの(

イエス・キリスト)も祝福されています。≪主の御母≫が私を訪問してくださったのですか。

これほどのことがどうして私に恵まれたのでしょう。何としたことでしょう、あなたの

あいさつのみ声が私の耳に入ると、私の子は胎内で喜びおどりました。ああ幸せなこと、

≪主から言われたことの実現を信じた方(聖母マリア)は≫』。マリアは言った、

『私の魂(たましい)は主をあがめ、私の精神は、≪救い主である神に喜びおどります≫、

≪主が卑(いや)しいはしために御目をとめられたからです≫。これからのち、代代(よよ)

の人々は≪私を幸いな女(ひと)と呼ぶことでしょう≫。≪全能者が私に偉大なこと(

聖霊による処女懐胎)をされたからです≫。≪その(主の)み名は清く、そのあわれみは、

代代(よよ)敬い恐れる人々の上に下ります。またその御腕の力を現し、傲(おご)る思い

の人々を散らし≫、≪権力者をその座から下ろし、”低い人々を高め、飢えた人を良いもの

で満たし、富む人を空手で返されます”≫。

≪主は御慈悲を忘れず、しもべイスラエルを助けられました≫。私たちの先祖に約束された

ように、”アブラハムとその子孫(イスラエル)に、いつまでも』。

         ( ルカ福音書1:39−55 )
[2003年11月20日 9時39分16秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
         ≪ ダーティー・ハリー (映画より) ≫   (脱線)
 ダーティー・ハリーは、犯人を追いつめた。その時、一考が閃(ひらめ)いた。マグナム
の弾丸をすべて取りだし、2発だけを詰め直した。
 逃げる犯人が釣りをしていた子供を捕らえ、その子供を盾(たて)にして、子供のこめかみ
に拳銃を当て、息を荒げながらハリーを待ち構えていた。
 「拳銃を捨てろ。子供が死んでもいいのか。」
脅(おび)えた声が必死に叫んでいた。ハリーは不安そうな目を浮かべ、一歩一歩近づきなが
ら、マグナムをしだいに降ろし人差し指の力を抜いた。犯人の青白い顔が血走ってきて、
体じゅうが震え滾(たぎ)ってきているのが、ハリーに判った。一瞬、にやりとほくそ笑んだ
。
 瞬間、マグナムが犯人の右肩目掛けて火を放った。犯人はのけぞり、押さえつけられていた
子供がその反動で引きずられた。顔中砂だらけにした子供が、とっさに解き放たれた喜びと、
新たに沸き起こった恐怖とで、声のない唇を震わせ、腰の抜けた体をもがき動かしながら、
犯人のそばからゆっくり、そして急に忙(せわ)しく立ち去った。
 ハリーは右手に握りしめたマグナムに力を入れ、今度は犯人の額(ひたい)に照準を合わせ
、怒りに満ちた目で、うろたえる犯人の方に近寄って行った。
 犯人は死の恐怖で、激痛の走る血の溢(あふ)れ出る我が身に、初めて生命の限りなき尊さ
、大切さがしみじみと感じられるのに、今まさに気づきだした。1メートル近くまで来た
ハリーに、自分の生命が牛耳られている被害者の恐怖を感じていた。犯人はとっさに自分の
拳銃が目に入った。
 「今、お前が考えていることは判っているんだぜ。俺のマグナムにまだ弾丸が入っている
かどうか疑っているんだろう。6発撃ち終わっているのか、それともまだ5発でまだ1発
残っているかどうかって、そう思っているのだろう。」
 犯人には判らなかった。弾丸が残っているか、いないかよりも、自分が生きられるのか、
生きられないのかが一番重大なことであった。脅(おび)える手が拳銃にいきそうになる
のを必死で堪(こら)え、左手を体の脇に近づけ、抵抗する意志のないことを刑事に訴えた
。
 ハリーは軽蔑の眼差しで、マグナムを犯人の額(ひたい)目掛けて発射した。しかし、
空砲だった。犯人は目が血走り、怒りが込み上げるのを抑えられなかった。
(刑事の命は俺の手の中にある。)犯人は左手ですばやく拳銃を取り、刑事の心臓目掛けて、
(ハリーの目が光った。)マグナムから2発目の弾丸が犯人の額(ひたい)目掛けて発射さ
れた。・・・
[2003年11月19日 20時24分31秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
     【 姦通の石殺しの女・・・マグダラのマリア? 】

 イエズスは(主なる神に祈るため)オリーブ山に行き、≪夜明けごろ≫、ふたたび神殿に

もどられると、人々はみなみもとに来たので、座って教えをのべられた。

そのとき、≪律法学士とファリザイ人≫が、姦通(かんつう)の場で捕らえた女を連れて

来て、みなの前に立て、イエズスに向かって尋ねた、『先生(ラビ)、この女は姦通の最中に

捕まった者です。預言者モーゼはこういう者を≪石殺しにせよ≫と律法で命じていますが、

あなたはどう思いますか』。そう言ったのは、イエズスにわなをかけ、訴えようと考えての

ことだった。

 イエズスは身をかがめて、地面に指で何か書き始められた。彼らが問い続けるので、

身を起こし、『あなたたちの中で、(姦通の)罪のない人がまずこの女に≪石を投げよ≫』

と言われ、また身をかがめて地面に(一人一人の姦通の相手の名を)書き続けられた。

これを聞いた人々は、(姦通の罪の多い)老人をはじめ一人一人去って行き、やがて

イエズスと中に立っていた女だけが残った。

 イエズスは身を起こして、『婦人よ(イエズスが婦人よ、と言われるときには処女では

ない)、彼らはどこに行ったのか。あなたを罰した人はいなかったか』と言われた。

女は、『主よ、一人も』と答えた。そこでイエズスは、『私もあなたを罰しない。行け。

≪これからはもう(姦淫の)罪を犯さぬように≫』と言われた。

 イエズスはまた人々に、『私は”世の光”である。私に従う人は闇(やみ)の中を歩かず、

≪命の光≫をもつであろう』と話された。

             (ヨハネ8:1−12)
[2003年11月16日 13時45分28秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
      【 マルタとマリア 】

 みなは歩き続けた。イエズスがある村に来られると、マルタという女が自分の家に

イエズスを迎え入れた。彼女にマリアという姉妹があったが、マリアはイエズスの

足下に座って、≪みことば(真理の霊・聖書)≫を聞いていた。

もてなしに忙殺(ぼうさつ)されていたマルタはやがてそばに近づいて、

『主よ、私の姉妹が私一人にもてなしさせるのを何ともお思いになりませんか。

この人に、私を助けるように命じてください』と言った。

≪すると≫主は、『マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して

心を使っている。だが必要なことは少ない。いやむしろ”ただ一つ(愛)”である。

マリアは≪自分から奪われることのない≫よりよいほうを選んだ』と答えられた。

          (ルカ福音書10:38−42)   (専修大学OB)
[2003年11月6日 15時22分54秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
    【 女性、必見! タバコのヤニの歯が白い歯に 】   (脱線)

 女性、必見! タバコのヤニの歯が、白い歯になる。

歯医者で歯科衛生士が、スケーリング(歯垢除去と歯石除去)をしてくれる。

女性のタバコのヤニの黄色い歯が、真っ白なクリアな歯に生まれ変わる。

もちろん、虫歯にならなくなる。入れ歯にも永久にならなくなる。

年2回、歯医者で、スケーリングの治療をしてもらえば良い。

きれいな白い歯になる。歯の口臭もなくなる。

芸能人も行っている。 口先(くちさき)男の小泉君も行っているかも!
[2003年10月20日 19時30分25秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
『常に喜べ。絶えず祈れ。どんなことにも感謝せよ。キリスト・イエズスにおいて

神があななたちに求められることはそれである』。(テサロニケ人への第一の手紙)

 (脱線)・・・【 赤ちゃんは、無菌で産まれる 】

 赤ちゃんは無菌で、産まれます。ほ乳瓶を熱処理殺菌するように、母親、父親のばい菌

だらけの唾液(だえき)を与えてはいけません。だえきには、悪玉菌(母乳には、乳酸菌の

善玉菌が入っている)、虫歯菌、歯周病菌、胃癌のもとになるピロリ菌、ばい菌だらけです

。噛み砕いて与えたり、親の食べ残し、飲み残し、ダメ! だえきが赤ちゃんの口の中に

入らなければ、虫歯になりません。病気にもなりにくく、遺伝は別として、健康優良児に

なります。歯科医師から聞きましたが、親も子供も、おばあちゃんも、おじいちゃんも、

≪歯垢除去≫と≪歯石除去≫を歯医者で、年2回行えば、虫歯になりにくくなります。

もちろん、≪入れ歯になりません≫。80歳でも自分の歯でおれます。歯医者を有効活用

して、日本人全員、虫歯なし、にしましょう! 健康医学を実践しましょう。

 ちなみに、ウイルスのC型肝炎は、性行為でも感染します。子宮筋腫の原因のコンジロー

マ・ウイルスは、性行為で男性が媒介します。子宮癌にもなります。

フリー・セックスはダメ! これでバッチ・グー。わきがの治療には、脇の毛を剃ることです

。お風呂で、子供に感染します。最後に、入浴して下さい。さて、母乳のでないお母さんは、

牛乳、粉ミルクに、ヤクルト、ヨーグルトの乳酸菌を混ぜて、飲ませて下さい。ファイト!

 愛犬、愛猫も、ドッグフード、キャトフードで虫歯になりません。人間の食べ残し、ダメ!
[2003年10月5日 19時9分18秒]

お名前: challenger   
小牧さん、貴方のページに侵入してすみません。

身体障害者の子供の話をお聞きして、ぜひ私の見解を聞いていただきたいのです。
ダウン症の人とか、いわゆる知恵遅れの人、いますよね。なぜこのような人たちを、神様は
お造りになるのか、考えた事があります。そして、私なりに確信した答えを見つけました。

彼ら(彼女ら)の魂は、天使か、あるいは神様に非常に近い存在ではないのかと。
なぜなら、彼らは、この世で罪を犯しません。また、心が純粋で、サタンから誘惑を受ける
事がない、サタンから見れば、誘惑のしようがない存在です。亡くなれば、必ずみくにへ
直行です。しかも、普通の人よりも寿命が短いと言うことを聞きました。
そして、彼らには、この世に出てくるために、神様から何らかの使命を帯びていると予見 
しています。それは恐らく、誰かの目を開かせるためのお手伝いか、奇跡をおこなうためです。
しかし、それに気が付かない人の方が多いのです。むしろ、彼らを哀れみで見ている人が
多いと思います。実はその逆なのに・・・。
[2003年9月28日 0時59分24秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
        『 感謝と祈り 』     シスター 菊池 多嘉子(きくち たかこ)

 来日したアメリカ人のシスターから聞いた話を、お伝えしたいと思います。

 ある日、小学校五年生のクラスで、『祈り』の大切さを話したシスターは、内心とても

満足していました。よく準備して話しましたし、生徒たちも真剣に受け止めたように感じた

からです。授業を終えたとき、車椅子の少年が話したいというサインを送っているのに気づ

きました。近づいて耳を傾けると、『ぼくは毎晩、祈っているよ』と言います。

『どんな祈りをするの?』と尋ねると、重度の言語障害を持つその子どもは、全身を動かし

、たいへんな努力をしながら、うれしくてたまらない表情で答えました。

 『あのね。”天のお父様でいらっしゃる神様、ありがとう!”って。』シスターの目から

涙が溢れました。重い身体障害を持って産まれたこの子供は、産まれるとすぐ、親に捨てられ

、施設で育てられて、今もなお、訪れる人はいないのです。第三者には、あらゆる不幸を

担っている、としか思われないのに、≪本人は、神も、だれをも恨まず、嫉まず、不運を

嘆かず、神様を『天のお父様』とお呼びして、毎日ひたすら感謝している≫、これに優る

祈りがあるでしょうか。

 シスターはこの祈りの重みに圧倒されました。同時に、この子供が皆から”愛され、

大切にされている”わけも理解できました。それは、いつ、だれにでも、『ありがとう』と、

心から、素直に、感謝を表しているからです。

 あらゆる出来事の中に、私をかけがえのない一人として慈しまれる神様の御心を見いだす

とき、おのずと感謝の言葉が唇にのぼります。こうした神様と私のかかわりが、私と

周囲の人々との目に見えるかかわりとなって顕れることを、この子供は存在のすべてを

もって証ししていたのでした。・・・


 いつも、祈りましょう。神様、天のお父様、感謝。みんなに感謝。

どんなに厳しい、苦しい不幸も、必ず、乗り越えられます。神様がご覧になっておられる

からです。神様、感謝。みんなに、感謝。今日に、感謝。明日に、感謝。・・・
[2003年9月16日 20時11分56秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
   【 終末世界の到来の日 (地球滅亡の日)・・・水星の衝突の日 】

 (父なる主なる神は、神に似せて創った人類が性欲の獣(けだもの)となった時、終末と

される)・・・それまでは、人類滅亡の日は無い。

 (レビの書17:7)・・・イスラエルの民(キリスト者)は、もはや、今まで身を売って

いた≪獣神(じゅうしん)≫に、二度といけにえをささげてはならぬ。イスラエルの民と、

その子孫への永久の定めである。・・・


 レビの書18:22−30・・・おまえは、女と寝るようにして、≪男と寝てはならぬ≫。

同性愛(肛門性交)禁止。それは、≪いまわしいかぎりのことである≫。おまえは、動物(霊

の無いもの)と寝床の交わりをしてはならぬ。これをすれば≪おまえは身を汚した者となる≫

。・・・エイズの原因・・・。また女も、動物をひきよせて、それと交わってはならぬ。

≪それは、いまわしい行為である≫。(イエズス・キリスト様は、生涯、童貞であられた。

女との交わりをされなかった。キリストの代理者である司祭は、本来、童貞でなければなら

ない。本当に、イエス・キリストの十字架を担う者は。プロテスタントの妻帯主義は、偽司祭

、偽キリスト者である。すべてをキリストに捧げていないからである。)

・・・以上のような行為によって、≪自分自身を不浄の者としてはならぬ≫。私が今、おまえ

たちの前から追い出そうとしている民どもは、以上のような恥ずべき行為によって、≪不浄の

者(地獄行き)≫となった。その者たちのために、その地は不浄となった。ゆえに、私は

その罪を罰し、その地から、その住み人たちをはき清めた。(ソドムとゴモラ)。おまえたち

は、私の定めとおきてを守り、先のような≪忌(い)むべき行為≫をするな。イスラエルの

民も、そこにともに住む他国人も、これについては同じである。

 おまえたちの前に住んでいたその地の者は、先に言ったようないまわしい行為をしたので、

その地は不浄となった。もし、おまえたちも、その地を不浄とするなら、先にいた民がはき

出されたように、おまえたちも、掃き出されないではすむまい。≪忌まわしい行為をする者は

、みなその民から断ち切られる。その地に先に住んでいた民の忌まわしい風習にならわず、

私の言いつけを守れ、そうすれば、おまえたちは、これについて不浄になることはない。

≪私は神、主(しゅ)である≫。・・・キリスト者にならなくても良い。同性愛、近親相姦、

フリー・セックスをしなければ良い。性欲の獣(けだもの)となったビル・クリントンを

見ろ。病死か、さもなくばチェルシーの子孫を主なる神が裁かれる。・・・次回、ソドムと

ゴモラの滅亡の主なる神の裁き。・・・
[2003年6月8日 2時43分55秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
『 忠実 』  (ハヤット神父)   ・・・心のともしび・・・

 あるとき、イエズス様は『忠実なしもべ』についての有名なたとえ話を告げられました。

 主人(キリスト)がいなくても忠実に自分の務めを果たしているならば、主人(キリスト

)が帰って来た時に、そのしもべたち(キリスト者)は大きな報い(天国)を受けますが、

もし主人(キリスト)の帰りが遅れると思って自分の務め(神なる主を愛する律法を守る

ことと、隣人を命がけで愛すること≪キリストの掟(おきて)・命令≫)を怠り、食べたり

飲んだり酔ったりしていると(欲をむさぼり、おぼれていると)、主人(キリスト)は

思いがけない時に帰ってきて(罪のさばきとなる病死となって)、そのしもべに大きな罰

(サタンの支配する地獄行きとなる)を与えるであろうと、イエズス様はおっしゃいました

。

 
 それで、このたとえ話を告げられてからイエズス様は、『だからあなたたちも用意して

いなさい。思わぬ時に≪人の子(私・キリスト)は来るからである』と弟子達、ユダヤ人

達におっしゃったのです。

 イエズス様は御自分が思わぬ時(終末・人類がアメリカ、ヨーロッパのフリー・セックス

、ソドマとゴモラの姦淫の地獄の地球)においでになる(最期の審判の来臨・・・父なる神

だけが決定される)とおっしゃいましたが、この言葉は”2つの時”を指していると思いま

す。1つはこの世の終わりです。人類・地球滅亡の時です。その時、イエズス様はすべての

人々を滅亡・死亡後、集めて、≪忠実で正しい人々を永遠の幸せ(めとりもせず、嫁ぎも

しない、人類の3大欲求である生存本能(食欲・睡眠欲・性欲)のない永遠の生命の神と

等しくなる、いわば天使と同じような復活体となる)へお招きになり、一方、不忠実で

悪い人々(ソドマとゴモラのフリーセックスの獣)を永遠の苦しみ(サタンが支配する地獄

・永遠の激痛と裁きの苦しみ)の中に落とされます。これを≪公審判≫といいます。

 もう1つの時は、私たち一人一人が死ぬ時です。その時には、父なる神に裁かれるのでは

なく、個人的にイエズス様に裁かれ(死の瞬間、善行と罪との映像が脳裏に示される)、

一人ずつ自分がこの世で送った≪良い生活≫の報い、あるいは悪い生活(姦淫)の罰を受け

ます。地獄・煉獄・天国のイエズス・キリストの審判がキリスト者、非キリスト者すべてを

裁かれます。これを≪私審判≫といいます。ですから、主なる神の≪最期の審判≫は、

人類が地上で生存させる価値が無くなった時、フリー・セックス、同性愛、近親相姦など

人類の≪神の似姿≫が意味をなさない時、地球絶滅の終末となる。聖書の暗号の預言など、

存在しない。

 私たち一人ひとりいつ死ぬのか(ヨブは140歳、預言者モーゼは120歳で天寿を

全うしている)、また、この世がいつ終わるのか(人類の行いで決定される)判らないので

、いつでもキリスト・父なる主なる神の≪審判≫を受けられるように、準備しなければなら

ない(良い心・善良を心の宝として過ごしなさい)とイエズス様はおっしゃったのです。

 『主人(キリスト)が真夜中や夜明けごろに帰ってきても、・・(忠実に)務めを果たして

いるのを見られるしもべは、幸い(天国)である』とイエズス様はおっしゃいました。

         (全体・・・ルカ福音書12:35−48)
[2003年6月1日 17時1分4秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
( ヨハネによる福音書 10・11−18 )

 【 そのとき、イエスは言われた。 】 『わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは

羊のために≪命を捨てる≫。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人(やといにん)は、

狼(オオカミ)が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。・・・狼は羊を奪(うば)

い、また追い散らす。・・・彼は雇い人で、羊のことを≪心にかけていない≫からである。

わたしは良い羊飼いである。わたしは≪自分の羊(キリスト信者)≫を知っており、羊も

わたしを知っている。それは、父(主なる神)がわたしを知っておられ、わたしが父を

知っているのと同じである。わたしは≪羊(キリスト者)のために命を捨てる≫。

わたしには、この囲いに入っていないほかの羊(未信者)もいる。その羊をも導かなければ

ならない。その羊(未信者)もわたしの声(真理のみことば)を聞き分ける。こうして、

羊は、一人の羊飼い(神の子、イエス・キリスト)に導かれ、一つの群(キリスト者)に

なる。≪わたしは命を、再び受けるために、命を捨てる≫。(神の選民、ユダヤ人によって

殺されるのではない。神の命令、掟(おきて)によって、自ら、十字架刑となるのである。)

それゆえ、父(主なる神)は、わたしを愛してくださる。だれもわたしから、命を奪い取る

ことはできない。≪わたしは(父の御旨・命令で)自分で命を捨てる≫。≪わたしは命を

捨てることもでき、(全能の父なる、主なる神によって、3日目に)命を再び受けることも

できる≫。これは、わたしが父(主なる神)から受けた掟(命令)である。』


    ( ヨハネ福音書 13・1 )

 過ぎ越しの祭りの前に、イエズスは、この世から父のみもとに(開かれた天国に)移る

時が来たのを知り、この世にいる御自分の人々(信者・弟子)を愛し、彼らに限りなく

愛を示された。(わたしが愛したように、あなたたちが互いに愛し合うこと(助け合うこと

)、これがわたしの掟(おきて・命令)である。友人(あなたを必要とする隣人)のために

命を与える、これ以上の大きな愛はない。わたしの命じること(互いに愛し合うこと)を

守れば、あなたは、わたしの友人である。(ヨハネ14・12.13))



『陸地は、今まで海の水のあったところから浮かび出、紅海は、平坦な通路となり、

荒波は、草原に変わった。(紅海の海が2つに分かれたというのは、間違いである。)』

(知恵の書 19・7)

 『彼らは、異国(エジプト)で見たことを想い出した。蚊(か)が≪生き物から産まれる

のではなく、土地(つち)から生まれ出ていたこと、数知れぬ蛙(かえる)が、水生の

生き物から産まれるのではなく、川から吐き出されていたことなどを。≫

 彼らは、鳥が珍しい物から産まれるのを見た。イスラエルの民の腹(はら)を満たすため

に、≪海から、鶉(うずら)が生まれたのだった。(知恵の書19・10−12)≫

(仏教・ヒンズー教の輪廻転生(りんねてんしょう)はうそである。神の創造は無限である。

)
[2003年5月18日 16時40分9秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
【 復活 】 ルカによる福音書(ルカ24・35−48)

 (そのとき、エンマウスからエルサレムに戻った二人の弟子は、)道で起こったことや、

パンを裂いて下さったときに、それがイエズス・キリストだと分かった次第(しだい)を

話した。

 こういうことを話していると、イエズスご自身が彼らの真ん中に現れて立ち、『あなたが

たに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、幽霊(ゆうれい)を見ている

のだと思った。そこで、イエズスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に

疑いを起こすのか。わたしの(釘跡の)手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触(さわ)

ってよく見なさい。幽霊(ゆうれい)には(復活体の)肉も骨もないが、あなたがたに

見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエズスは、(十字架上での釘跡の

)手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、

イエズスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚(さかな)・・・

復活体のイエズスさまは、魚(さかな)を食べられた。魚は神も認めるように健康に良い。

・・・を一切れ差し出すと、イエズスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

 イエズスは言われた。『わたしについてモーゼの律法と預言者の書と詩篇(しへん)に

書いてある事柄(ことがら)は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと(三年間

)一緒にいたころ、行っておいたことである。』そしてイエズスは(旧約)聖書を悟らせる

ために≪彼らの心の目を開いて≫、言われた。『(旧約聖書に)次のように書いてある。

「メシア(救世主)は苦しみを受け、三日目に、死者の中から復活する。また、罪の赦(ゆる

)しを得させる≪悔い改め≫が、(イエズス・キリストの)その名によって、あらゆる国の

人々に宣(の)べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの

証人(しょうにん・あかしびと)となる。』


     聖パウロのヘブライ人への手紙(10・26−31)

 私たちが(洗礼を受け)もし≪真理(聖書)を深く知ってのち≫、故意に(承知で)

罪を犯すなら、罪のためのいけにえ(十字架のイエズス・キリスト)はもう残らない。

ただ、(イエズス・キリストの)審判の恐るべき待機と、反逆者を焼き尽くす≪復讐(

ふくしゅう)の火≫だけが残る。モーゼの律法に違反する者は、二.三人の証人によって、

あわれみなく≪死罪≫に処せられる。それならなおさら考えよ。神の子(イエズス・キリスト

)を踏みつけ、自分が聖とされた≪契約の血(十字架の血)≫を汚し、恩寵(おんちょう)の

霊(れい)−主なる神−を侮(あなど)った者の罰(ばつ)(裁き)は、どれほどひどかろう

かと。『仇(あだ)は私がとる。報いるのは私である』。また『主はその民(イスラエル)

を裁く』と仰せられたお方(主なる神)を私たちは知っている。生きる神の御手に落ちる

のは、恐ろしいことである。・・・真理(聖書)を深く知って、罪を犯す者は、地獄行き

(サタンのいけにえ)となる。・・・
[2003年5月4日 12時13分49秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
  【 仏教の輪廻転生(りんねてんしょう)のうそ 】

 A:人間は、主なる神に似せて創られ、霊(れい)がある。しかし、草木には、霊がない

。仏教、ヒンズー教の輪廻転生は、うそである。生まれ変わることは無い。

輪廻転生は、存在しない。作り話しである。


 B:永遠は在るよ。


 A:草木が永遠に生きる、と本当に思いますか? 無数の絶滅した種(しゅ)があります

。永遠に存在しなくなりました。永遠ではありませんでした。聖書に、神に似せて創られた

人間は死後、永遠に生きる、とあります。地獄、煉獄(れんごく)、天国でです。

ヨハネの黙示録に、天に(開かれた)天国に行く人、罪を犯さない人はわずかである、と告げ

られています。赦しの秘蹟(ひせき)を受けても、完全に改心しないと、回心しなければ、

天国へは行けません。天国、地獄、煉獄の審判者は、主なる神から委ねられ、イエズス・

キリストさまが、その審判者であると告げられました。


 B:永遠に生きるんだよ。絶滅した種も、形を変えて。聖書は権威のある書物ではないよ。

少なくとも、地獄、煉獄、天国なんて存在しない。イエス・キリストは立派な人だから、

罪人の自分たちの兄弟たちを、地獄に送って喜びなんてしない。集団宗教のひとは、

もうちょっと勉強したほうがいいよ。


 A:草木の一本一本が永遠に生きることはない。主なる神は、出エジプトで、ユダヤ人の

食糧として、海(うみ)の水から、うずら を創造されている。またエジプトでは、川の水

から、蚊(か)を創造されている。遺伝子、DNAも超越される。海の上に、盛り上がった

草原を存在させられ、その上を、ユダヤ人たちを通過させられた。

全能の主なる神に不可能はない。一週間で、地球環境を創造されることも、全能のお方なら

不可能ではない。・・・
[2003年5月3日 20時30分52秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
【 健康医学 】

 子供は、ほめる ことである。『おりこうさんね。 よく出来たね。がんばったね。

良い子になろうね。この次は、もっと出きるように、がんばろうね。ありがとうね。』

 子供は白紙である。善悪の判断もむつかしい。だから、ほめることである。

プラス思考を植え付けることである。サタン、悪い心を持たないように、育てることである。

希望と喜びと安心、やすらぎを与えることである。子供がきかないときには、その子供の

鏡になってやることである。苦しいときには、苦しい表情を示し、悲しいときには、

一緒に悲しむことである。3つ子の魂(たましい)、100までである。

子供を叱って、不安にさせないことである。親の忍耐が必要である。

愛することは、受け入れることである。子供を認めることである。

 さて、健康医学であるが、女性は妊娠中が一番大切である。母親のへその緒から、

赤ちゃんに血液が流れる。栄養が流れる。特に女性に必要なのが、カルシウムである。

なぜなら、骨で血液が創られるからである。いりこ が良い。

 いりこ を電子レンジで、アルミホイルに載せて、あたためれば良い。

いりこ の生臭さが消える。カルシウムの錠剤よりはもっと良い。胎盤で、赤ちゃんの

あたま が創られる。大脳の形成である。心臓も創られる。カルシウムが一番必要である。

 女性は出産後、カルシウム減少で老化する。歯がぼろぼろになる。

 女性の冷え性、低血圧には、電子レンジであたためた いりこ が一番良い。

骨がもろくなる、ということは、血液が不足する。健康でなくなる。

 人間のDNAでの平均寿命は、120歳である。100歳以上生きるためには、

骨の老化を止めなければならない。骨が老化すると、脳細胞の壊死が起こる。再生不可能

である。体の細胞も栄養不足で、老化する。それを防ぐには、いりこ が良い。

 赤ちゃんや外国人が いりこ を食べるときには、電子レンジであたためて、ミキサーで

粉末にすれば良い。スープやシチュウやカレーに混ぜれば良い。離乳食にもなる。

赤ちゃんの発育、老人の老化防止、女性の肌の健康、老化防止に、いりこ が良い。

 赤ちゃんは無菌だから、親の唾液による悪玉菌、虫歯菌が入らなければ病気にならない。

いりこ のカルシウムは、100歳以上生きるためには、欠かせない。

 人間は本来病気にならない。野菜やいりこ などの魚や肉を食べていれば、病気にならない

。医食同源である。モーゼは、120歳、ヨブは、140歳生きている。
[2003年4月24日 21時2分8秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪赤ちゃんは天使、守護の天使がいる≫

 赤ちゃんは本来、虫歯にならない、というのはご存じだと思います。

赤ちゃんは、お母さんの胎から出産で、無菌で産まれます。だから善玉菌が入っている母乳

の≪初乳≫を必ず飲まなければなりません。母乳の出ないお母さんは、善玉菌入りのヤクルト

でも良いです。乳酸菌で良いです。

 赤ちゃんは無菌だから、善玉菌の母乳を飲んでいると、遺伝は別として、病気になりません

。なぜ、赤ちゃんが病気になるのか? それは、お母さんの唾液(だえき)の悪玉菌が入る

からです。噛み砕いて与えたり、唾液を移さなければ、病気になりません。

 唾液には、潰瘍(かいよう)から癌(がん)になる、ピロリ菌や虫歯菌やその他悪玉菌が

含まれています。だから、赤ちゃんが虫歯になったり、下痢をして腸が弱ったりするのです。

 健康優良児は、親の唾液を移さず、善玉菌の母乳を与えれば、簡単に出来ます。

子育てはとても簡単です。≪愛情と知恵≫が必要です。小児科医も歯科医も要らなくなります

。補助的で充分です。3歳までが大切です。特に、1歳までです。

 ちなみに、離乳食に、ちりめんじゃこ、と、いりこ、と、牛乳が大切です。

ミキサーで粉末にして、ふりかけに混ぜると良いです。

   (赤ちゃんの守護の霊より)

 追伸。  魚の骨をミキサーで粉末にして、ふりかけに混ぜて与えると、骨太の子供が

創れます。骨太とは、カルシウムが充分ということです。さらに、健康の秘訣の血液、

白血球、赤血球、血小板は、骨の中で創られます。あたまでっかちの赤ちゃんを創りましょう

。私の近所の子供は、あたまでっかちで、大学病院まで、検査に行きました。

もちろん、異常はありません。身長が1メートル80センチになり、バスケット選手で、

九州大学に行き、先生になっています。血液が充分に創られるということは、能力も健康も

≪バッチ・グー≫です。

 魚、魚、魚、魚を食べると、頭、頭、頭、頭が良くなる。魚、魚、魚、魚を食べると、

体、体、体、体が丈夫になる。・・・
[2003年4月15日 20時49分7秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
           『 平和 』     (心のともしび)
                斉藤 いつ子

 やれやれと思いました。電車の端に一つだけある四人掛けの席に座ったら、後から乗り込み

座った三人のおば様たち。50代でしょうか、元気なおしゃべりはよいのですが、そろって

お嫁さんの悪口になりました。ちょっと居辛くなって軽く目を閉じた私の耳に入ってくるのは

、どちらが良いの悪いのという正義論です。でも、人がそれぞれの立場を振り回せば、十人

いたら十の正義が生まれるのでは・・・そんな思いの中で、私はふと≪天国と地獄の食事≫

という話を想い出しました。


 ≪地獄≫という名札の出ている部屋の中、テーブルにはご馳走(ちそう)が一杯、でも、

長い箸(はし)を持った人々はそれを振り回し、なかなか口に入れられなくて、皆いらいら

焦(あせ)り、怒っています。


 それに対し、お隣りの部屋では同じようにテーブル一杯のご馳走と長い使いにくい箸(はし

)。でも、人々はその箸を使ってにこにこ食べています。よく見ると、自分で自分の口に

入れているのではなく、相手の口にと互いに入れ合っているのです。だから上手に食べられる

し、そして互いに喜び、感謝し合っているのです。部屋の入り口には、≪天国≫という名札が

ついていました。


 人間は誰でも自分が一番大切、でも、だからこそ自分さえ良ければ・・・というエゴを

越え、共に生きようとすることが尊いのであり、ここに本当の平和(平安)が生まれます。

真の平和(平安)とは、単に戦争がないとか、恵まれた気候の中で進んだ文明の恩恵を受け、

便利に楽しく暮らすことだけではなく、≪人の痛みを我が痛みと感じる”優しさ”≫であり、

≪一つのものを互いに分かち合おうとする(イエス・キリストのパンを引き裂いて渡される)

“温かな愛の心の中”に存在する≫のです。


 与えられることのみを待つのではなく、≪自ら人のために生きる人こそ、平和(平安)を

創る素晴らしい人だ≫と、私は尊敬するのです。


 『自分のしてもらいたいことを、お互いにしなさい』。(心の平和、平安を。アーメン。)
[2003年4月12日 20時42分28秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
『 試練の中で 』     (心のともしび)
          シスター  渡辺 和子 (わたなべ かずこ)

 『私だったら、この子が育てられると思って、神さまがお預けになった。そう考えること

にしました。』


 これは、結婚後初めての出産で、≪重い障害を負った子供を授かった一人の卒業生≫が、

私に書いてくれた手紙の一節です。『でも、つい他の赤ちゃんと見比べて、悲しくなって

しまいます』とも書いてありました。


 かつて私が大学の授業中に話した、≪同じ試練をこのように考えることで乗り切った先輩

≫のことを想い出しての手紙でした。自分が将来、同じ試練を受けるとは、その時には

夢にも思っていなかったことでしょう。


 旧約聖書の『ヨブ記』の中で、思いがけない辛い試練を受けたヨブは言っています。

   わたしは裸で母の胎を出た。

   裸でそこに帰ろう。

   ≪主は与え、主は奪う≫。

   主の御名はほめたたえられよ。   (ヨブ1・21)


 たとえ、大きな十字架が与えられたにせよ、手放したくないもの、愛する人を奪われた

にせよ、その試練の中で、神を恨むことなく、このように、その(神の)摂理に信頼し

続けるということは、決して易しいことではありません。


   天のお父さま、どんな不幸を吸っても

   ≪吐く息は、感謝でありますように≫

   ≪すべては(神の)恵みの呼吸ですから≫


 この詩を河野進(かわのすすむ)牧師から私は、色紙を大学の正面玄関にかけ、学生たちに

話しました。『やがて、あなたがたが、この玄関から出て入ってゆく社会には、(試練の)

不幸という名のバイ菌が充満しています。それを吸ってしまった時には、そのまま吐き出して

しまわないで、心の中に納め、しっかりお苦しみなさい。いつの日かきっと≪”この不幸の

おかげさまで”と、(神さまへの)感謝にかえて、吐き出す日が来ますよ≫』。


 冒頭の卒業生は、この言葉を覚えていてくれた一人でした。
[2003年4月8日 21時32分54秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
   (マルコによる福音書5:25−34)

 ところで、ここに12年間、出血症をわずらっている女がいた。この女は多くの医者に

たいそう苦しめられ、持っている物(財産)を全部使い果たしたが、何の甲斐(かい)も

なく、悪くなるばかりだった。イエズスのことを聞いたこの女は、人々の群れにまじりなが

ら、イエズスのうしろに近づいて、その(イエズスの)服に触れた。服にでも触れたら、

私は救われる、と心に言い聞かせながら。すると、たちまち≪血の泉≫がかわき、病気が

治った(罪が赦された)と感じた。すぐ自分から(霊)能力が出たことを知ったイエズスは、

≪群衆の方を振り向いて≫、『私の服に触れたのは誰か』と言われた。すると弟子たちは、

『ご覧の通り人々が四方から押し寄せているのに、私に触れたのは誰だと聞かれるのですか

』と言った。イエズスは≪そのことをした人を見つけようと見回された≫。女は自分の身に

起こったことを知り、≪恐れおののきつつ≫進み出てひれ伏し、そのことをすべて申しあげた

。イエズスは言われた、『≪娘よ≫・・・娘と主が言われる時は、女性が処女である。

処女でない女性には、≪婦人よ≫と言われる。・・・あなたの信仰が、あなたを救った。

安心して行きなさい。≪あなたの病気は治った≫。』

 中年男性は、フリー・セックス(姦淫・浮気)を続けていると、性癖(せいへき)が

ソドマとゴモラのようになる。同性愛や近親相姦的売春や同性強姦など、性癖が異常になる。

中年女性も同じである。つまり、≪性欲をむさぼるようになる≫。頭の中(心の中)が

性欲だらけになる。欲望のかたまりになる。心に肉欲が支配する。サタンに支配される。

光のほうに来なくなる。闇夜を好むようになる。地獄、煉獄の道となる。

性欲に溺れたら、最期である。幼子の心はもう二度と生じない。回心できなくなる。

闇夜、姦淫には、近づかないことである。二度と天国へは行けない。
[2003年4月7日 21時5分3秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
      【 歴代誌 (れきだいし) 】 (歴代誌下36:14−16,19−23)

 [ そのころ、ユダの王ゼデキヤは、主の目に悪とされることを行った。]

祭司長たちのすべても民と共に、諸国の民のあらゆる≪忌(い)むべき行い≫(ソドマと

ゴモラのフリー・セックス)に倣(なら)って、≪罪に罪を重ね≫、主が≪聖別された

エルサレムの神殿≫を汚(けが)した。(アブラハムと契約された)先祖の神、主は、

≪御自分の民(イスラエル人)と御住まい(神殿)≫を憐(あわ)れみ、繰り返し、

御使い(天使)を彼らに遣(つか)わされたが、彼らは、神の御使い(天使)をあざ笑い、

その言葉を蔑(さげす)み、預言者を愚弄(ぐろう)した。それゆえ、ついに、その民

(イスラエル人)に向かって、≪主の怒りが燃え上がり≫、もはや手の施しようがなくなった

。


 (エルサレムの)神殿には、火が放(はな)たれ、エルサレムの城壁は崩(くず)され、

宮殿はすべて灰燼(かいじん)に帰し、貴重な品々はことごとく破壊された。

剣(つるぎ)を免(まぬが)れて生き残った者は捕らえられ、バビロンに連れ去られた。

彼らはペルシャの王国に覇権(はけん)が移るまで、バビロンの王とその王子たちの僕(しも

べ・奴隷)となった。こうして、主が≪預言者エレミア≫の口を通して告げられた≪みことば

≫が実現し、この地はついに安息(平和)を取り戻した。その荒廃(こうはい)の全期間(

400年)を通じて地は安息(平和)を得(え)、七十年の年月が満ちた。

 ペルシャの王キュロスの第一年のことである。主はかつて≪預言者エレミア≫の口を

通して≪約束されたことを成就(じょうじゅ)する≫ため、ペルシャの王キュロスの≪心を

動かされた≫。キュロスは文書にも記(しる)して、国中に次のような≪布告(ふこく)≫

を行(ゆ)き渡らせた。

   『ペルシャの王キュロスはこう言う。

 天にいます神、主(しゅ)は、地上のすべての国をわたしに賜(たまわ)った。

この主が、ユダのエルサレムに、御自分の神殿を建てることを、わたしに命じられた。

あなたたちの中で≪主の民に属する者(イスラエル人)はだれでも、≪上(のぼ)って≫

行くがよい。≪神なる主がその者と共にいてくださるように≫。』
[2003年4月2日 14時49分7秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
    (マルコによる福音書2:1−12)・・・マルコ・ヨハネとも呼ばれる。

 数日後、イエズスは、またカファルナウムに入られたが、家(シモンの家らしい)に

来られたと聞いて、人々がどっと集まり、戸口の前もすき間のないほどの人出になった。

イエズスは彼らに教え(みことば)を話された。

 そのとき、人々は、四人で担った中風(ちゅうぶう)の病人を連れてきたが、人が多くて

そばに行けなかったので、イエズスのおられた場所の頭上の屋根を壊して、穴を開け、

中風の人の寝ている床をつり下ろした。

 イエズスは彼ら(四人と中風の人)の≪信仰≫を見て、『≪子≫よ、あなたの罪(両親の

罪)は、赦された』と、≪(子である)中風の人≫に言われた。

 そこに座っていた≪ある律法学士たち≫は、『この人はなぜあんなことを言うのだろう。

あれは、(全能の)神を汚(けが)す≪ことば≫だ。(全能の)神以外に罪を赦せるものは

ない』と、≪心の中で考えていた≫。・・・人間も全能の神に似せて創られた。神は大脳を

100%使えるが、人類はわずか3%である。・・・イエズスは、かれらがそう考えている

のを見抜いて(心の中を読んで)言われた。『なぜ、そんなことを考えているのか。

中風の人に、≪あなたの(両親の)罪は赦された≫というのと、≪起きて、床をとって行け≫

というのと、どちらが易(やさ)しいと思うか。人の子(神の子)が地上で罪を赦す権威

(能力)をもっていることを、あなたたち(律法学者たち)に知らせよう』。

そして、中風の人に向かい、『私は命じる。起きよ、床をとって家に帰れ』と言われた。

(両親の罪の)病人は、起きて、すぐ床をとり、人々の目の前を出ていった。みなは驚き、

神を崇(あが)め、『今まで、こんなことは見たことがない』と言った。
[2003年4月2日 9時23分56秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
【 生活のただ中の神 】    曽野 綾子(その あやこ)
          ≪許す理由≫             ( 聖母の騎士 )

 ・・・エラスムスは次ぎのようにも書く。「しかし、ここに、もっともうむを言わせぬもの

があります。それは、十字架上のキリストが、その仇敵(あだてき)のためにしている≪祈り

≫です。『父よ、彼らを赦したまえ』と。キリストがこの連中のために用いた言いわけは、

≪無知≫ということ以外にはありません。『何をしているか知らないのですから』というわけ

です。

 イエスは自分がこれから長い苦しみを伴う死刑を受けねばならないことを知りつつも、

自分を売ったユダ(生まれないほうが良かった、と。)と、恩知らずな人々のために祈った。

一般の民衆は一時は病気を治してもらうために、『時の人』イエスの元に押しかけたのに、

今ではピラトが「過越の時には一人の人を恩赦で赦してやるのが、あなたがたのしきたりに

なっているが、あなたたちは、このユダヤ人の王(大祭司一族の聖母マリアの子の真の大祭

司)を赦してもらいたいのか、それとも(殺人と)強盗のバラバか」と聞くと、バラバの釈放

を求めるありさま(ライ病のラザロを死者から蘇らせたイエスが神の子かどうか、神を試みた

。)であった。

 この掌(てのひら)を返したような民衆の付和雷同(自分としてのしっかりした考えがなく

、ただやたらに他人の説に賛成してしまう)の愚かな行為は、まさに私たち自身の姿でもある

。そのような無責任な群衆(群衆には悟れないように、たとえで話す≪イエスのみことば≫)

に対しても、このイエスの≪祈り≫は向けられたのである。

 イエスの≪祈り≫は、人間が成しうる最も端正(きちんと整っていること)な勇気と、

他人の存在や行為を自分の魂(たましい)のあり方や行動の言いわけにしない、という姿勢

を堅持したものだった。誰かがそうしたからこうなったのだ、という言いわけを認めない

のである。しかし、戦後の日本は、それとは全く反対の方角に我々を教育した。あらゆる

願わしくない結果は、政治の貧困や制度の不備の結果であり、国家がその責を負って補償して

当然だ、と教育したのである。

 エラスムスはこうした愚かさを認めることと罪の赦しの関係を極めて≪皮肉≫に書いている

。

 「キリスト教は、ある種の愚痴(ぐち)と血のつながりがあり、≪賢さとはほんのわずかな

関係しかない≫ように思われます」

 ≪誇るべき愚痴≫と書かなかったのは、エラスムスの叡智(えいち)なのだろうか、限界

なのだろうか。


    (脱出の書20:1−18)

 神は、こう仰せられた、

 「エジプトの地、奴隷の家から、おまえを連れ出したのは、神なる主、私である。

私以外のどんなものも、神とするな。

 刻んだ(神の)像をつくってはならぬ。高く天にあるもの、低く地にあるもの、地の下に

あるもの、水の中にあるもの、どんな(神の)像をもつくってはならぬ。その(神の)像の

前にひれ伏してはならぬ。それらを礼拝してはならぬ。

 おまえの神なる主、私は、≪私を憎む者≫に対しては、≪父の罪を三代、四代の”子”に

までおよぼして罰する、”ねたみ深い神”である≫。しかし、≪私を愛して、”おきてを

守る者”には、1.000代までも、”慈しみを示す神”である≫。

 おまえの神なる主の名を、いつわって唱えるな。≪主は、いつわって名を唱える者には、

”罰を下さずにはいない”≫。

 安息日を≪聖≫とすることを、つねに思い出せ。六日の間、≪働いて≫、≪自分の仕事≫

をせよ。七日めは、≪神なる主の、安息日である≫。どんな(収入を得る)仕事もするな。

おまえも、息子も、娘も、しもべ(男奴隷)も、はしため(女奴隷)も、家畜も、家にいる

他国人も同じことである。≪主は、六日の間に、天と地と海と、そこにあるもの(生命体)を

すべてつくり(地球環境を六日で創られた)、七日めに休息された。そのために、主は、

七日めを祝して、聖なる日と定められた。

 父と母を敬え。(父と母の信仰で、子が恵まれたり、苦しんだりする。)そうすれば、

神なる主がお与えになる≪この世において≫、おまえは≪長く生きることができるだろう≫。

 殺すな。(人を撃って死なせた者は、死と定められる。人をだまして殺した者は、たとえ

私の祭壇の所に来ていたとしても、引き出して殺さなければならぬ。父あるいは母を撃つ者

は、かならず死と定められる。人をさらった者は、その人をすでにほかに売っていても、
 
あるいはまだその者の手元においていても、死と定められる。父あるいは母をのろう者は、

死と定められる。)

 姦通(かんつう)するな。(浮気をするな。)

 盗むな。

 隣人に対して偽証するな。(うそをつくな。)

 隣人の家をむさぼるな。隣人の妻をのぞむな。そのしもべ、はしため、牛、ろば、

≪すべて隣人の持ち物をむさぼるな。・・・≫

 イエス・キリストは、彼らが何をしているのか判らないのです、赦しますと、告げられ

ました。しかし、主なる神は、エルサレムの神殿を崩壊させ、ユダヤ人を虐殺させ、

大祭司一族を隠されました。ユダヤ人を流浪の旅人とされ、アウシュビッツの虐殺も

黙認されました。未だに、聖地に主なる神の神殿の構築を赦されません。2.000年

経っても、大祭司でもあった、神の子、イエス・キリストの死を、赦されません。

 イエス・キリストが赦しても、主なる神は赦されません。どうしたら赦されるのか?・・・
[2003年4月1日 13時5分21秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
       『 誠実さ 』  (心のともしび)
              井出 雄太郎 (いで ゆうたろう)神父

 誠実な人の、真心のこもった行為に出会った時、心がふるえることがあります。


 私は、長崎被爆50年の8月9日に、長崎の浦上天主堂(うらがみてんしゅどう)を訪ね

、その中央祭壇(ちゅうおうさいだん)で、爆死した父、弟、親類の人々のために、追悼(

ついとう)ミサを捧(ささ)げたことがあります。その時、その浦上天主堂の主任(しゅにん

)司祭は、快(こころよ)く承諾(しょうだく)し、私にその席を譲(ゆず)って下さり、

私はその御好意に感謝しながら、御ミサを捧げました。主任司祭の川添(かわそえ)神父様は

『こんな歌を作りました』と、原子爆弾で傷ついた聖母像の詩を見せて下さいましたが、

臨場感(りんじょうかん)にあふれた詩で、今でもはっきり覚えております。特に印象に

残ったのは、

  『聖母マリア像が立っている

     首吹き飛んで立っている

       首なき像よ、君の名は』

 と言う一節ですが、『浦上讃歌(さんか)』と名付けられ、私の心のひだ奥に焼き付いて

おります。


 その浦上教会には、山田市太郎(やまだいちたろう)さんという信者の方がおられ、

朝6時、昼は12時、夕方は6時に、雨の日も、風の日も、暑い夏も、寒い北風の吹く冬も、

アンジェラスの鐘(かね)を突き続けて、≪祈りの時≫を告げておられました。その方が、

鐘を突(つ)くと云う役職を引き受けられてから約50年経った頃、長崎市から表彰され、

『名誉市民』の称号を頂かれましたが、私は、長崎市も粋(すい)なことをすると、本当に

嬉しく思いました。


 鐘を定期的に鳴らすという行為は、一見、単純な行為ですが、幾十年も鳴らし続けるという

ことは、≪誠実な信仰の人≫でなければ、そして、(神の恵みの)健康でなければ、

出来ないことだと思います。


 そのような意味から、私どもも、自分の立場や役割に対して、≪誠実な信仰者≫に

なりたいものだと思います。
[2003年3月31日 22時13分16秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
     『 試練の中で 』    (心のともしび)
              越前 喜六 (えちぜん きろく) 神父
 
 試練の中にあると、私は真っ先に想い出す≪聖書のみことば≫があります。それは、『

わが子よ、主の鍛錬(たんれん)を軽んじてはいけない。主から懲(こ)らしめられても、

力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛(きた)え、子として受け入れる者

を皆、鞭(むち)打たれるからです。』(ヘブライ人への手紙12:5−6)という言葉

です。すると、不思議にも神から愛されているという自信が湧(わ)いてきて、≪希望と

勇気≫が出てきます。


 私はカトリックの洗礼を受けてから今日まで、試練と呼べるほどの苦難には出会っていま

せん。しかし、受洗前の青少年期は、第二次大戦の最中であり、また終戦直後の暗くて

貧しい時代でした。そのうえ、キリスト教の先生も、教会もない東北のある町での生活は、

私にとって≪試練そのもの≫だといってもよいかと思います。


 キリスト教と出会った10歳のときから19歳の受洗まで、ひとり孤独のうちに、霊的

書物で得た知識をもとに毎日、数時間も瞑想(めいそう)し、祈りましたが、その間、何の

慰(なぐさ)めも平安も得られず、≪神の応答≫をまったく感じることができませんでした。


 終戦の年の8月(聖母の被昇天の月)、私はある銅山で、勤労動員のため労働させられて

いました。ある日、あまりの空腹と労働過剰で疲れ果て、ただ眠りたいとばかり思って、

何の効き目もない≪祈り≫なんかやめてしまおうと≪決心≫し、一晩祈りませんでした。

その時、感じた≪良心の呵責(かしゃく)≫と≪寂寞(せきばく)感≫は、空恐ろしいほど

のものでした。ですから、翌日からまた祈り始めました。それ以来、≪祈りを怠(おこた)

ったことがありません≫。私が、≪神から豊かな恵みを頂いている≫という、≪祈りの功徳

(くどく)や効果≫を体験できたのは、≪受洗≫(イエス・キリストの洗礼)の時からでした

。


 (ヨハネによる福音書9:1−7)

 イエズスは途中で、≪生まれながらの盲人≫に会われた。弟子たちは、『ラビ(先生)、

この人が盲目で生まれたのは、≪だれの罪≫ですか。≪この人自身≫ですか。それとも、

≪親の罪≫ですか』と尋ねた。イエズスは、『≪この人の罪≫でも、≪親の罪≫でもない、

≪ただこの人によって、神のみ業(わざ)≪栄光(えいこう)≫を現すためである≫。

私を遣わされたお方のみ業(栄光)を、私たちは昼の間に行わねばならぬ。夜が来れば

だれも働けぬ。≪私は、世にいる間、”世の光”である≫』と答えられた。そして、地に

≪つば≫をし、≪つば≫で泥(どろ)を練(ね)り、その泥を≪男の目≫に塗(ぬ)り、

『シロアム(遣わされた者)の池へ行って洗え』と言われた。その人が行って目を洗うと、

≪はっきり見えるようになって帰って来た≫。
[2003年3月31日 17時37分17秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
 
   【 復活の喜び 】     テレビ番組『心のともしび』
             出演 越前 喜六(えちぜん きろく)神父
             聞き手 村田 望(むらた のぞみ)
 村田  誰もが信じられなかった復活ということが、復活したキリストを目の当たりにし

て、弟子たちはどのように信じるようになっていったんでしょうか。

 神父  弟子たちは、三年近くキリストに親しく仕えていましたが、十字架の処刑に遭遇

した時には、大きな不安と恐れに襲われて、彼らのキリストに対する信仰も大きく揺らいだ

と思うんですね。キリストが栄光の体でよみがえられ、彼らに四十日間も現れた出来事は、

四つの福音書にわりあい具体的に記されています。二つばかり例をあげましょう。

 一つはキリストが弟子たちに現れた時、幽霊(ゆうれい)だと思われたということです。

そこでキリストは、生前と同じ体であるということを示すんですが、初めは、なかなか信じ

ませんでした。特に、トマスという弟子の一人は、非常に疑い深い弟子で、『キリストの体

に、釘跡と槍(やり)で貫かれた跡を手で触って確かめなければ、私は決して信じない』と

言ったんですね。そこにキリストが現れてトマスにおっしゃるわけです。『トマスよ。

あなたの指を釘の跡に当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、

わたしの脇腹に入れなさい』と言われたんです。トマスは復活のキリストに出会いましたから

、本当に感動して『わたしの主よ、わたしの神よ』と言って礼拝するわけです。その時、

キリストはトマスに言われました。『トマスよ。あなたは私を見たから信じたのか。

見ないのに信じる人は、幸いだよ』と。それで、トマスは完全に信仰を取り戻したわけです。

 もう一つは、キリストの死に失望して、エルサレムからあまり離れていない、エマオという

村で、ガリラヤに帰ろうとしていた二人の弟子に、キリストが突然、旅人の姿(別人にも

なれる)で現れた時のことです。エルサレムでどういうことが起こったのか、その出来事に

ついて語り合っていたわけです。『ああ、預言者たちの言ったすべてのことを信じるに

鈍い愚かな者たちよ。キリストはこれらの苦難を受けて栄光に入るはずではなかったのか。』

モーゼを始めすべての預言者にわたり、聖書のすべての本の中で自分について記されたこと

を説明された。そして、エマオの村についた時に、日が暮れていたので、弟子たちが一緒に

食事をして、泊まってほしいと、キリストを引き留めるわけです。一緒に夕食の席に着いた

とき、キリストがパンを二つに引き裂いて見せた時、その旅人が復活したキリストであった

と弟子たちは気づくのです。その瞬間、キリストの姿が消え去るのです。彼らは急いで

エルサレムに戻って、『キリストはよみがえられた』とペトロたちに語ったのです。

・・・パウロも、かつてはキリスト教を迫害していましたが、ダマスコの城門の前で、

『サウロよ、サウロよ、なぜわたしを迫害するのか』と、復活のキリストに出会って改心

するわけです。・・・このように、復活のキリストが、四十日間も現われ、弟子たちに

親しく接しられたからこそ、彼らは復活ということを信じるようになったんだと思いますね。

そして、神の独り子、大祭司一族の聖母マリアの聖霊による処女の子、神の業による救い主

を、人々に殉教をもって証していったんですね。・・・
[2003年3月29日 21時10分36秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
         『 試練の中で 』

       シスター 菊池 多嘉子 (きくち たかこ)

 「歯科医から、『どうも虫歯だけではないようだから』と言われ大学病院を紹介され

ました。診断は、上顎(うわあご)の癌(がん)で、今週、手術を受けます。お祈り下さい

。」教え子の手紙は淡々(たんたん)として、恐れや不安を感じていないようでした。

学生時代から健康そのもので、結婚後も望みどおり数学の教師生活を楽しんでいたのですから

、この告知(こくち)は晴天のへきれきであったに違いありません。幸いに手術は一応成功

したものの、癌の転移が予想され、これと戦うための努力が始まりました。家族に支えられ

ながら、あらゆる民間療法を試み、病院をかえ、入退院を繰り返す間にも、癌は徐々に進行

して行きます。


 やがて、視神経も侵(おか)され、両眼とも視力を失いました。

「今になって、私の心の支えはシスターと友人たちの≪祈り≫であることがわかりました。

学生時代に、科学万能を提唱して、カトリックに反抗していた≪愚かさ≫を恥ずかしく

思いました。私が、神様の前にかぶとを脱ぐのは、≪試練の厳(きび)しさ≫を逃れるため

ではありません。≪この重い病気の苦しみには深い意味が在ること≫を、そして、

≪死を超える永遠の命(いのち)があること≫を信じるようにと、≪私に迫(せま)る

”神様の慈しみ”≫に、負けたのです。イエス・キリストの洗礼を受けて、神様の命(いのち

)に”生かされる”者になりたいと思います。」


 この望みが叶(かな)えられる日、教え子は美しい羽織を肩にかけてベッドに正座し、

イエス・キリストの洗礼の恵みを頂きました。晴れ晴れとした顔に微笑(ほほえ)みを

たたえ、枕元(まくらもと)で捧げられる御ミサの中で、生涯最初の、そして最期となる

聖体(ホスチア)を拝領した姿は、今も私の目に焼き付いています。

神様の試練に挑戦するのを止(や)め、これを、≪神様の慈しみの確かな顕(あらわ)れ≫

として押し頂いたこの日から、≪教え子は、”やすらぎと喜びに満たされた日々”を

送るようになった≫といいます。『ありがとう』の感謝の言葉を繰り返しながら、

天のふるさと(天国)に帰ったのは、(天地創造とされる)一週間後のことでした。
[2003年3月23日 12時24分22秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
【 白血病患者のために、骨髄バンクに、登録しよう!! 】

 赤十字に献血に行って下さい。献血するだけで、骨髄バンクに登録できます。

私も、骨髄バンクに登録しました。もし、骨髄提供となれば、医者の善意もあります。

あらゆる病気で、医者が治せる病気は、手術を無料で、治してくれます。

 『友のために命を与える、これ以上の大きな愛はない。私(イエス)は、あなたたちを

友と呼ぶ』。『(あなたを必要とする)隣人(白血病患者)を愛しなさい。』

『私(イエス)が愛したように、あなたたちも愛しなさい。』

『日本の選民である、長崎のカトリックの青年達、赤十字で献血して、骨髄バンクに

登録して下さい。』『長崎から初めて、日本のカトリック信者全員に、キリストの愛を

広めて下さい。』『カトリックの教会に、本当の愛、隣人愛があれば、すべての人たちが、

キリストを認めるようになるでしょう。』『長崎から初めて、全世界の10数億の

カトリック信者が、骨髄バンクに登録すれば、白血病患者は、すべて救われます。

神は、その愛の行いを待っておられます。』『すべての人の罪のために、無原罪のイエス・

キリストさまが十字架刑を受けられたように、キリストの弟子である信者が、ともに、

十字架を担うことを求められます。友よ、十字架を背負って、私について来なさい。』

『長崎のクリスチャン、立ち上がれ!!』『世界に運動を広めて、バチカンを動かしなさい。

』『長崎のクリスチャンが、平和の騎士となるよう、聖コルベ神父様を通して、

聖母マリアを通して、主なる神に祈ります。』『白血病患者を愛することができますように。

主イエズス・キリストにお祈りします。アーメン。』
[2003年3月19日 6時44分51秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
【 天地の創造主、全宇宙の神、全知全能の神、主なる神の二面性 】

 『 主なる神は、ねたみ深い、怒りの神でもある。父親、母親の罪を、神への背きを、

三代、四代の子孫までも罰する、ねたみ深い神である』。ダビド王のウリアの妻との姦淫と、

ウリアの殺人の罪を、初子の一週間での病死と、清廉な娘、処女のタマルへの強姦(レイプ)

という裁きと、ユダヤ民族のバビロン捕囚(ほしゅう)の400年間という裁きを下された。

 それと同時に、あわれみ深い、愛あふれる神である。『主なる神を愛する者には、

1.000代の子孫に及ぶ、神の限りない愛を与えられる、無限の愛の神でもあられる。』

 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーゼの子孫、イスラエルの民(神の契約の民)

には、限りない愛を示された。そして、異邦人のエジプト人には、限りない憎しみを示された

。 過ぎ越しの契約と紅海のイスラエル人の脱出の出来事は、神の愛と憎しみの偉大な業(

わざ)である。・・・

   知恵の書 18.9−19.22

 正しい人々(イスラエル人)の敬虔(けいけん)な子らは、ひそかにいけにえ(過ぎ越し)

をささげ、心を合わせて神に約束した正しい人々(主なる神への信仰をもつ人々)は、

良いことも、危険も、ともに受け取るのだと。

 同時に、先祖(イスラエル人)の讃美の歌を歌った。だが、それに答えるのは、敵の

騒々しい叫喚(きょうかん)であり、子供のために泣く悲痛な叫びも聞こえた。

 奴隷にも、主人にも、同じ罰(ばつ)が下り、庶民も王もともに苦しみ、同じ最期(さいご

)にあい、数知れぬ死人が出た。生きている人では、死人を葬(ほうむ)るに手がたりなか

った。ほんの一瞬で、いちばん尊い子供達が滅ぼされた。(エジプト人の神官の)魔法を

見ていたので、それまで信じなかった人々は、≪(自分の)長男の死亡≫を見て、

『あれは(イスラエル人は)、神の民(たみ)だ』と、告白した。

静かな沈黙(神の霊の霧)があらゆる物を覆(おお)い、夜が、早い足取りで真夜中に

至ったとき、≪(開かれた)天の高みから、全能の神のみことばが、王の座を飛び下り、

情(なさけ)容赦(ようしゃ)のない、強者(つわもの)のように、滅びに定められた

(エジプトの)土地の中央に降り立った。

 それは、鋭(するど)い剣(つるぎ)のように、二度と消し去れぬ≪主の布告≫を

たずさえていた。彼(父なる神)は、足を止め、そこを死で覆(おお)った。

神のみことばは、天に触れ、地を踏まえていた。その時、夢と恐ろしい幻想(げんそう)が

彼らを不安に陥(おとしい)れ、不意の恐怖が彼ら(エジプト人)を襲(おそ)った。

 半生半死の人々は、あちらでもこちらでも、地に倒れ、自分は何故(なぜ)死ぬのかを

人々に告げ知らせた。彼らを苦しめたあの夢が予告していたように、何故(なぜ)罰せられ

たかを彼らに知らせてから、人は死んだ。(地獄行きとなった。)

 だが、死の試練は、正しい人々(イスラエル人)にも下った。多数の人は、荒れ野で

死に倒れたが、≪神の怒り≫は、長くは続かなかった。とがめのない一人の男(大祭司

アロン・・・エリザベト、聖母マリアの先祖)が、すぐ、彼らを守って立った。

≪祈りと償(つぐな)いの香(こう)という、聖職の武器を取り≫、神の怒りに向かい、

この災難(イスラエル人への災い)を閉じさせた。こうして、彼(預言者モーゼの兄、

大祭司アロン)は、主のしもべであることを示した。彼が災難を閉じさせたのは、

肉体の力のためでも、武器の力のためでもなかった。

 罰するお方の御手の力を鈍らせたのは、≪ことば≫によってだった。

イスラエルの先祖への神の誓いと約束を、神に思い出させることによって、

屍(しかばね)(パレスチナのテロ殺害)が、山のようにうず高くなったとき、

彼はその真ん中に分け入り、神(への背きへ)の怒りをなだめ、生者への道をくい止めた。

 彼(アロン)の長い祭司服(大祭司の服・・・一本の糸で、上に穴を開けて織られた、

イエズス・キリストと同じ服)には、全宇宙が入っていた。父祖の光栄ある名は、

四本の筋(すじ)の宝石に刻まれ、頭上の冠(かんむり)には、主のみ力が記されていた。

破壊者は、それを見て、恐れ退いた。あなた(神)の怒りをしばし経験したことだけで、

彼らには足りた。

 不正な人々には、仮借(かしゃく)なき、神の怒りがきわみまで、襲(おそ)いかかった。

神は、彼らが(イラク人フセインらが)将来何をするかを、予(あらかじ)め知って

おられた。彼らが、ユダヤ人(イスラエル人)を急いで去らせてから、その後、方針を

変え、後を追うだろうと(心の中を)知っておられた。

 彼らは(エジプト人は)葬式(そうしき)をあげ、死んだ子の墓前で泣きながら、

しかもそのとき、愚かにも、他の企(くわだ)てをもくろみ、去ってくれと先には

頼んだ民(イスラエル人)のあとを、逃亡者を追うように、追跡(ついせき)し始めた。

彼らにこんなことまで企てさせ、過去を忘れさせたのこそ、彼らには、ふさわしい運命

(神の計画)だったろう。そして、彼らは、今までの苦しみの上に、新たに罰(ばつ)を

加えて、その身に浴(あ)びた。主の民(イスラエル人)は、しるしの不思議な旅をしたが、

彼らは(エジプト人は)、異常な最期(さいご)(地獄行き)にあった。

 主の子ら(イスラエル人)を、災いから守るために、≪”被造物はみな、主の命令(

DNA変換や分子構造の変換)に服し、新しい性質(物質変換)を帯びた。≫

雲は、その厚い影(かげ)で、野営地を覆(おお)い、陸地は、今まで海(水)のあった

ところから浮かび出て、紅海は、平坦な通路となり、≪一週間の天地創造のように≫、・・・

宇宙と地球の50億年が一週間で、神は実現される。・・・荒波は、(天地創造で)草原に

変わった。御手に守られて、(イスラエル人)民(たみ)は、みな、驚くべき奇跡(きせき)

を目にしつつ、そこを(海が陸路の草原となったところを)、通った。

 民(イスラエル人)は、若馬のように、食糧を食べ、主よ、解放者である主を祝しながら、

羊のように、飛び跳ねた。彼らは、異国(エジプト)で見たことを、思い出した、

 ≪蚊(か)が生き物から生まれるのではなく、”土地(土(つち))から生まれ出ていた

ことを・・・人間も土(つち)から創造された。そして、アダムのあばら骨から、女、イブ

が創造された。神は無限の創造者であられる。・・・、数え知れぬ蛙(かえる)が、

水生の生き物(おたまじゃくし)から生まれるのではなく、川(の水)から吐き出されて

(創造されて)いたことなどを、腹がへって、うまい食べ物を神に請うたとき、

彼らは(イスラエル人は)、鳥(とり)が珍しい物から生まれたのを見た。

民(イスラエル人)の腹を満たすために、≪海の水から、うずらが生まれたのだった≫。

 ところが、罪人(エジプト人)の上には、罰(ばつ)が襲いかかった。

その罰がくる前に、前兆として、≪恐ろしい雷鳴(らいめい)があった≫。

彼らは、その罪のために(神に逆らうために)、当然のことながら、苦しめられた。

異国の人(イスラエル人)に対して、はなはだしい憎悪(ぞうお)を(パレスチナ人のよう

に)抱いていたからだ。もう一つの民(ソドマ人(創世19章))は、異国の民がきたとき、

歓迎せず、自分に貢献してくれた来訪者を奴隷にしてしまった。前者には、いくぶんの

弁解の余地がある。彼らが不当な扱いをしたのは、相手が異国の人だったからだ。

 エジプト人は、主の民(イスラエル人)を歓迎し、長らくの間、自分たちと同じ権利を

民(ヨセフのイスラエル人)にも、与えていたのに、突然、恐ろしい強制労役を課して、

苦しめるようになった。また先のソドマ人(ソドムとゴモラの人々)の人々が、

正しい人(アブラハムの親族のロト)の門前で(天使の力で)そうなったように、

彼らも(エジプト人の兵隊)も、盲目になってしまった。

先の人々(ソドムの人々)が、濃(こ)い闇(やみ)に包まれながら、門を探し求めた

ときと同様だった。

 ≪物質の元素が、それぞれの性質を変えた≫、竪琴のように音調(おんちょう)は

そのままながら、リズムが変わるように、変わった。出来事を調べると、ことは明瞭である。

≪陸の生き物が、水生の生き物となり、泳ぐものが、陸の生き物となった。≫

≪火は水をかぶると、いっそう勢(いきお)いを増し、水は火を消す力を忘れた。(

海の水が石油と変わった。)≫ 一方、炎(ほのお)は、性質を変え、その中を歩く

弱い生き物(イスラエル人と家畜)の肉を焼くこともなく、霜(しも)のような、

溶けやすい、天からの食べ物(マンナ)も、溶かさなかった。

 主よ、そうだ、あらゆる方法で、主はイスラエルの民を偉大なものとし、彼らに、

神の光栄を与えられ、民(イスラエル人)を見捨てることなく、どんな時にも、

どんなところでも、神の保護を下された。・・・神の独り子、イエズス・キリストさまにも、

イスラエル人と同じように、割礼を望まれた。・・・宇宙の50億年も一週間で創造された。

最近、メキシコで、アスファルトに、聖母マリアの姿を刻まれた。聖骸布も、5世紀に、

出現された。イエス・キリストの姿であり、父である神の姿、容貌(ようぼう)である。

すべての人類が、イエズス・キリストの顔、主なる神の顔を見ることができるように、

された。今日、聖骸布で、創造主の神の顔が見られる。もちろん、イエスの顔も見られる。
[2003年3月9日 22時52分52秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
【 ヨナのしるし 】・・・ヨナのしるし以外には、神は与えられない。
                     (イエズス・キリスト)

 二度、主の(真理の)みことばがヨナに下った。『立って、大きな町ニネベに行き、

私のいうことを告げよ』。

 ヨナは、主のみことばに従い、ニネベに行こうとして発(た)った。

ニネベは大きな町で、横切るには三日歩かねばならなかった。ヨナは町に入り、一日歩む

ところを歩いて、『四十日たったら、ニネベは破壊される』と告げた。

 ニネベの人たちは、主なる神を信じ、断食を定め、大きいものから小さいものに至るまで、

袋(ふくろ)を身につけた。これが、ニネベの王の耳に達したとき、彼は王座を立ち上がり、

がいとうを脱いで、袋を身につけ、灰(はい)に座った。ニネベでは、王と、その貴人たち

の命によって、次のような布告があった。『人も、獣も、大きな家畜も、小さな家畜も、

≪ものを食わず≫、はまず、水を飲むな。そればかりか、人も、獣も、袋を身につけ、

力強く、主なる神にこいねがい、おのおのの悪い行いと、その手で行う暴力(拷問)を

改めねばならぬ。こうすれば、神は、思い直しあわれみを下し、その御怒りをやめ、

私たちの滅び(と子孫の滅び)をおとりやめになるかもしれない』。

 神は、人々が悪い行いを改めようとして行っていることを見られた。そして、神は、

≪彼らに下そうと、脅(おびや)かされた災(わざわ)いを、思い直し、それを下され

なかった。・・・イラクの国民を救う為には、拷問、殺戮(さつりく)の限りを犯して

きた、≪サダム・フセイン≫が、神に悔い改めて、亡命すれば、神はイラクに災いを起こす

ことを≪許されない≫。サダム・フセインに、まことの信仰心があるかどうか、イスラムの

信仰が試みられている。今後、イスラムの信仰が残るか残らないか、フセインが、イラク

国民に最後の愛を示すかどうかに、かかっている。(神はフセインをご覧になっておられる。

)ヒトラーのような最後を迎えるか、天寿を全うするか、愛の信仰、良心があるかどうかで

ある。・・・

 しかし、それは、預言者ヨナの気に入らなかったので、ヨナは、怒って、神に祈った、

『主よ、私は、自分の地にいたとき、こうなるだろうと思っていました。それだから、

初めはタルシスに逃げようとしたのです。私は、≪あなたが愛に富み、あわれみに富み、

怒るのに遅く、慈しみに満ち、災いを下すときには情にもろいお方だ≫と知っていたから

です。ですから、主よ、今、私の魂(たましい)を取り除いてください。私にとっては、

死ぬほうが、生きているよりましなのです。

 主は、仰せられた、『おまえは、そんなに怒るが、≪それは正しいことか。(真理である

か)≫』。すると、ヨナは町を出て、町の東の方に行き、そこに枝(えだ)のひさしを

つくり、町の中で起こることを見ようとして、その陰(かげ)に腰掛けた。

神は、ヨナのそばに、(一日で)、唐(とう)ごまの木を生やして、彼の不機嫌(ふきげん

)を直させようとして、それが木(こ)かげになるようにはからわれた。ヨナは唐ごまの

木を、たいへんうれしく思った。しかし、神は、その翌日、一ぴきの虫に、その木を食わせ

られたので、唐ごまの木は枯(か)れてしまった。日が射し昇(のぼ)ると、神は、

東のむし暑(あつ)い風(かぜ)を吹かせ、ヨナの頭に陽(ひ)を照らされたので、

ヨナは息切れるほどになり、≪心のなかで死を願って≫言った、

『私は生きるより、死にたい』。

 神は、ヨナに仰せられた、『おまえは、唐ごまについてそんなに怒っているが、

それは≪正しいことか。(真理であるか)≫』。ヨナは答えた、『そうです、私は、

死にたいほど怒っていますが、それは正しいことです』。

 主は仰せられた、『おまえは唐ごま(領土、財産、名誉)を惜しんでいる。

だが、おまえは、おまえは≪その木のために(イラク国民のために)≫働いたのでもなく、

それを育てたのでもない。その木は、(神の私の力で)、一夜で育ち、一夜で死んだのだ。

それなのに、私が、大きな町のニネベ(イラク・北朝鮮)のことを惜しんではいけない

というのか。その町には、右と左(イエスとサタン(悪魔))(善悪)の区別さえつかない

十二万人の人間(霊長類・・・霊のある霊界、天国、地獄、煉獄で永遠に生きる)と、

数多くの(獣(けもの))・・・霊のない動物、犬、猫、その他。ちなみに、草木にも

霊がない。霊のない草木に生まれ変わるという、輪廻(りんね)仏教はうそである。)・・・

がいるのだ』。

・・・有識者のイスラム指導者は、サダム・フセインの亡命が、イラク国民を救う唯一の

解決法であることを告げている。日本の天皇は、長崎、広島の原爆の災害を知って、

無条件降伏した。そして、死を覚悟で、マッカーサー会談に臨(のぞ)んだ。戦後、

象徴天皇として生きることを許され、王室も存続している。子孫も繁栄している。

 イラクのサダム・フセインが無条件降伏して、亡命すれば、子孫の繁栄は保証される。

金正日も同じである。北朝鮮国民に残虐のかぎりを尽くして来た。しかし、中国への亡命と

子孫の繁栄は保証される。

・・・芥川龍之介の『蜘蛛(くも)の糸(いと)』と同じである。自分だけの延命を望めば、

すべてを失う。みんなの延命、幸福を望めば、すべてが幸せになる。小泉首相も同じである

。一部の人の耐え難い不幸で、国政運営を行えば、すべてが失敗して、失脚する。

すべての国民の幸福を、敗戦後の天皇が求められたように、指導者は、みなの幸福を

求めなければいけない。ちなみに、小泉首相のできることは、中央銀行(日銀)の

無利子国債の引き受けで、3%の消費税減税による需要回復策、景気拡大策を行えば、

総理として延命できる。・・・     宇宙の創造者、全能の神に感謝、讃美。
[2003年3月9日 16時24分51秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
『試練の中で』     (心のともしび)

          斉藤 いつ子(さいとう いつこ)

 つい数日前のことです。ふとテレビのスイッチを入れたら地図が写っています。『A

子ちゃんはこの道を歩いて家に帰らなければなりません。・・・』と、ナレーターの言葉、

曲がり角はいくつもあるけど、大体一直線の太い道、さして難しいとも思えず、子供

が初めてお使いに行く番組かしら・・・と、チャンネルを変えようとした時です。画面

に幼児にしては大きい、そう、小学生くらいの女の子の姿が現れました。黄色いフード

に黄色いレインコート。あら、杖(つえ)を持っています。目が不自由な様子・・・思わず

見つめました。車が何台も前を通ります。傘を持った女の人が声をかけました。『一緒に渡

ってあげようか・・』女の子が答えました。『いいえ、渡れます』。一生懸命耳をすま

せ、手を上げコトコト歩きます。夕暮れ近い道を、家の前で待っていたお母さんに抱き

しめられた時は心からホッとして嬉しくなりました。後ろから見守ってそっとついてき

た男の先生が涙をふいている姿に、私も目がうるみ感動しながら、講演先で手帳に書

きとめた一つの詩を思い出しました。


    【 脳性マヒと知らされた時、

    世の中にそんな病名があることすら

    知らなかった愚かな母よ

    一年目には死を思い

    二年目にはあちらこちらの病院をかけめぐり

    三年目に初めて知った母の道

    ああこの子は私の師であり

    いとしい≪神の子≫であった

    『この子の盲目なるは、誰の罪なるや』

    『この子の盲目なるは、この子の罪にあらず、

    親の罪にあらず、この子を通して

    ≪神の栄光の顕(あらわ)れんためである≫』】


   富士愛育園にお子様を預けられた方の素晴らしい詩、わたしの宝です。
[2003年3月4日 5時31分20秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
     【 ヨブ記 】

 主なる神は、神が創造された、神の左の座(?)にいるサタン(悪魔・・・地獄のかしら)

に、ヨブの信仰を試みさせています。(主イエズス・キリストは神の右の座で、天国の

かしらで、天国、地獄、煉獄(れんごく)の審判者である。)

 ヨブは、主なる神の裁きを疑い、神に文句を言います。

愛する子供達を失い、愛する妻からも捨てられ、病気になっても、神の真実を信じ続けました

。

 『主なる神はヨブのありさまを元のように戻された。≪”ヨブが(苦しみの中でも)

友人のために祈ったからである。≫そればかりか、ヨブの持っていたものを、2倍に増やされ

た。彼のすべての兄弟、姉妹、知人が訪れてきて、ともに食事をし、彼をいたわり、

≪主なる神がかれの上に下された不幸≫を慰め、そして各自、1ケジタと金の指輪を彼に

贈った。

 (逆境のどん底の中で、友人の幸福を祈ったヨブに)、主なる神は前よりも彼の今の

ありさまを、≪祝福≫されたので、一万四千頭の羊、六千頭のらくだ、千のくびきの牛、

千頭の雌(め)ろばを持った(神が与えられた)。

 また、七人の息子と三人の娘を(新たに)もうけた。彼はその娘の一人を、≪エミマ(

雌(め)ばと)、第二の娘を≪ケシハ(肉桂にくけい)、第三の娘をケレン・ハプク(

紅(べに)おしろいのつぼ)と名付けた。”ヨブの娘ほどの美人はその地に見つからなかった

。”父のヨブは彼女たちにも息子たちと同様に、≪財産を分け与えた≫。

 そののち、ヨブは、百四十年生き、自分の子とその子達を、≪四代≫まで見た。

こうして、ヨブは年満ち、日足りて、死んだ。

            (ヨブ記 41:10−17)

 『友のために、命を与える、これよりも≪大きなる愛≫はない。』

友のために、≪祈ること≫、これが≪愛≫の源(みなもと)であり、主なる神の”喜ばれる”

ことである。≪心にあることが、行いに現れる≫。

 主なる神からの≪祝福≫は、≪友のために、神に祈ることである。≫

どちらにも、必ず、幸せが訪れます。

 苦しい時も、どん底の時も、神の愛の試練の時も、≪神は愛される者に、鍛(きた)える

ために、神の子とするために、独り子イエズス・キリストのように、試され、苦しまされ、

鍛(きた)えられる。父なる神の愛ゆえにである。≫  ≪どんな試練のときにも、

乗り越えられない試練は与えられない≫。ただし、≪罪を犯さないかぎりである。≫

父なる神は、姦淫、レイプ、犯罪、殺人、うそは、許されない。地獄の苦しみを与えられる。

 私は、みなさんが≪神への信仰を失わないように、神に祈ります≫。

≪信仰は、永遠の財産です。≫ そして、≪愛は、信仰よりも偉大な財産です。≫

≪神の真実は、愛だからです。≫・・・どん底でも、神への愛、忠実、友への愛を持ち

続けてください。  聖母マリアさまの優しい愛を通して、神に祈ります。

 夫は、妻子の燭台(しょくだい)のローソク(ともしび)になることです。

自分の命を燃やして、光となることです。そこに、家族の愛が生まれ、育ちます。
[2003年3月2日 21時59分16秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
【 聖母の騎士 】   www.seibonokishi-sha.or.jp/

       【 生活のただ中の神 】     曽野 綾子 (その あやこ)

・・・旧約の『ヨブ記』の1・21にはヨブの有名な言葉が記(しる)されている。

 『わたしは裸で母の胎を出た。

  裸でそこに帰ろう。

  主は与え、主は奪う。

  主の御名(みな)はほめたたえられよ。』

 もっともこの言葉は、ヨブが子供たち全員を事故で失った直後の言葉である。

 ヨブは旧約・新約を通して、聖書の中で、過酷な運命に耐えて、敢然(かんぜん)と誠実

に神を裏切らなかった人として描かれている。ヨブの名は当時、『イッヨーブ』と呼ばれて

いたというが、その意味は『憎まれた者』或いは『愛された者』、≪双方の意味≫があるの

だそうだ。日本人的な感覚では、憎まれた者と愛された者とでは大きな違いがあるが、≪信仰

≫があれば、その二つの状態の近さがよくわかる。憎まれようが愛されようが、それらは

ともかく≪神≫から『関心を持たれている』≪光栄を有している証拠≫なのである。

 ヨブは≪義の人≫で、しかも裕福な牧畜業者であった。しかし≪神≫と≪悪魔(神の創造)

≫との論争においてどちらが正しいかを証するために、≪財産≫、≪地位≫、≪子供≫、

≪健康≫のすべてを失う。当時は勧善懲悪(かんぜんちょうあく)が基本の時代だから、

ヨブが義人でありながら、いわれのない不幸を与えられたということは、それだけでも神を

裏切ってもいいほどの理不尽(りふじん)なことだったのである。しかしヨブはそうした

不運の中でも、決して神を恨むことなく、最後まで≪神への忠実を貫く≫のである。

 先に述べた台詞(せりふ)は、ヨブがそれまで持っていた幸福を不当に神に取り上げられた

ように見えた時、周囲の『神を裏切ってしまいなさい』という態度に答えである。決して

≪勧善懲悪(かんぜんちょうあく)≫、≪因果応報(いんがおうほう)≫だけではないのだ、

というのが、新約の、つまりキリスト教の思想(神の真理のみことば)である。

現世でいいことをした人だけが、いい目にあう、ということになったら、人間はこの世で

いい暮らしをするためだけに信仰を装い、神に対しておべっかを使うようになる。しかし

私たちの神に対する態度は、もっと利害を超えて≪真実≫のものであるべきだ。

 ヨブでなくて誰の生活でも、私たちは自分が確実に持っていると思われたものを、ある日、

突然に取り上げられることがある。自分たちが当然先に死ぬと思っていたのに、或る日息子

や娘に先立たれることがある。『阪神淡路大震災』の時、関西の旧家には家に伝わって来た

時代もののすばらしい陶器を使って優雅に暮らしていた人たちがたくさんいた。しかしその

人たちは、愛着のある高価な陶器が一瞬のうちに粉々になるのを見たのである。もうそれ以来

、陶器など全く要らなくなったという人もいる。

 陶器ならまだ壊れることも容易に予想される。しかしまだそれほどの年でもなく、健康に

も何ら問題がないから、自分はまだまだ死なないだろう、と思っている人が、突然の死に

見舞われることもある。人間をも含めて被造物と呼ばれるものが、どんなにもろいものかを、

私たちは時々否応(いやおう)なく見せつけられたのである。

 この不況前までは、日本の大企業は、生涯勤めても、その期間、安全にその人の生活を

保証してくれるものだった。しかし最近では、あちらでもこちらでも首切りで失職者が出て

いる。≪生涯を保証してくれるものなど、どこにもない≫こともわかって来たのである。

 それでも、昔の生活に執着(しゅうちゃく)する人がいる。昔の自分のオフィスはこんな

狭いものではなかった。昔は、よくレストランや料亭で食事をしてたのだ、とういう具合だ。

 しかしこのヨブの言葉ほど≪真理≫を衝(つ)いたものはない。母から産まれた時、

誰もが≪裸(はだか)で、何も持っていない。ただ自分の小さな握り拳(にぎりこぶし)を

不安にうちふるわせながら、顔中しわだらけにして泣き喚(わめ)いていただけだ。≫

そして多くの運命に出会った後、誰もが数十年後には大地に還(かえ)る。・・・天国、地獄

煉獄(れんごく)で、永遠に霊のからだで生きる。・・・その変化の姿を私たちは決して

忘れてはならない。≪神は平等というものをこんな形ではっきりと具現されたのだ。≫

 【幼虫は、さなぎになり、蝶(ちょう)へと変身≪聖変化≫する。】
[2003年3月2日 20時22分52秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
『 ヨブ記 』 (ヨブ7・1−4.6−7)

 【 友人であるエリファズがすべてを主なる神にゆだねるよう諭(さと)すのに対して、

苦しみのどん底にいるヨブは、あくまでも主なる神の答えを求め続ける】

 【ヨブは言った。】

この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。

傭兵(ようへい)のように日々を送らなければならない。

奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ

傭兵(ようへい)のように報酬(ほうしゅう)を待ち望む。

そうだ、わたしの嗣業(しぎょう)・・・神から与えられた賜、財産・・・はむなしく

過ぎる月日。

労苦の夜々が定められた報酬。

横たわればいつ起きあがれるのかと思い

夜の長さにうみ、いらだって夜明けを待つ。

わたしの一生は機(はた)のひ(機織りの時に横糸を通すために用いられるもので、左右

から瞬時に投げるように通す)よりも速く

望みもないままに過ぎ去る。

忘れないできださい。わたしの命は風にすぎないことを。

わたしの目は、二度と幸いを見ないでしょう。
[2003年3月2日 17時9分33秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
『 正直 』

           三宮 真由子 (さんみや まゆこ)

 高校生のとき、アメリカに渡る私にみんながたくさんの言葉をかけてくれました。

『元気でね』、『手紙書くね』、『無理しちゃだめだよ』

 その数々の言葉のなかで、今でも忘れられない一言がありました。それは、私たちの
留学を手配してくれた会社の担当者の方の言葉です。

『みんな、いい子でいてください。≪いい子ぶるんじゃなくて、いい子でいてください≫』

 静かな、しかし厳粛な声でした。

 善良な人なら大抵は、すべてにおいて公明正大でありたい、誰に対しても公平であり
たいと思うのではないでしょうか。つまりそれは、正直な心根でありたいという善良な
希望だと思います。しかし人間界で生きている限り、なかなか理想通りにはいかないの
も現実でしょう。

 もちろん、私もいつも迷いと失敗の連続です。よかれと思って正直に思うところを話
したら相手を傷つけてしまって、『余計なことを言わなければよかった』と後悔したり
もします。また反対に、取り繕わずに素直に謝ったり反省したりすると、思いの外寛大
に許してもらえることもありました。

 そんな毎日の中で、私はいつしか、一つの≪確信≫にたどり着いたような気がしてきまし
た。それは、≪本当に正直な人間であるためには、正直に見えるように振る舞うのではなく、
”気持ちそのもが正直で、全うであるように最善を尽くさなければならない”≫というこ
とです。

 一見素直に見えても、≪心の中で反発していれば、いつかは見破られ、悲しい結末にな
るでしょう。≫ でも、≪本当に素直な気持ちで振る舞うことができれば、”たとえ欠点や
失敗がたくさんあっても、きっと理解してくれる人と出会える”と信じたい≫と思います。
もし、理解者が現れないとしても、”少なくとも己に対しては堂々と胸を張っていられる”
のです。

 いまあの言葉は、『いい子』を卒業し、『いい人であれ、いい心の人であれ』と言い
換えられて、≪いつも私に注意を喚起してくれている≫のです。

・・・心の清い人は幸いである。彼らは(彼女らは)、≪神を見るであろう。≫・・・
[2003年1月27日 19時38分0秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪主なる神の預言者.サムエル≫     サムエル記

 (その日、少年)サムエルは、神の箱が安置された≪主の神殿≫に寝ていた。

主は、サムエルを呼ばれた。サムエルは、『ここにいます』と答えて、(祭司)エリのもとに

走って行き、『お呼びになったので参りました』と言った。しかし、エリが、『わたしは

呼んでいない。戻っておやすみ』と言ったので、サムエルは戻って寝た。

 主は、再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、『お呼びになった

ので参りました』と言った。エリは、『わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ』

と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。

主は≪三度(みたび)≫サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、『お呼び

になったので参りました』と言った。エリは、少年サムエルを呼ばれたのは、主であると

悟り、サムエルに言った。『戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話し

ください。僕(しもべ)は聞いております』と言いなさい。』サムエルは戻って元の場所に

寝た。≪主は来てそこに立たれ≫、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。

『サムエルよ。』サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いており

ます。』

 サムエルは成長していった。≪主は彼と共におられ、その神の言葉は一つたりとも、地に

落ちることはなかった。≫
[2003年1月19日 22時57分36秒]

お名前: 小牧瑞夫(こまきみつお)    URL
≪愛する 三宮 真由子に  捧ぐ≫

 ≪父に祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。

あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせ、渇いているときに飲ませ、旅にいたときに

宿らせ、裸だったときに服をくれ、病気だったときに見舞い、牢にいたときに訪れてくれた≫

という。・・・≪まことに私は言う。あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々

(胎児)の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである≫。

 『私は、看護婦として、自分のしていることが、間違ったことだと気づきました。』

ジョーン・アップルトンは、私に言いました。『それは、発達した技術のお陰(かげ)です。

私が超音波機を使用しての≪中絶≫の手伝いをしていたときに、映像で≪見た≫ものに、

ショックを受けました』。

 彼女が≪見た≫ものは、医者が≪カヌラ≫という、端(はし)がプラスチックで出来た

中絶用の≪吸い上げ装置≫を≪胎児≫に近づけたとき、その≪18週目の胎児≫がまるで

悲鳴を上げるかのように、口を開ける姿でした。≪カヌラ≫が赤ちゃんの手足をまず引き裂

いた後、血まみれになった残りの身体(からだ)を、こなごなに引きちぎるように、すべてを

吸い出そうとしたとき、血だらけの赤ちゃんが、むなしく自分の命のために≪闘(たたか)う

姿≫を、その≪叫び声≫を見たのです。≪お母さん、助けて・・・≫。

 私は≪中絶≫、赤ちゃんの殺戮(さつりく)を商売にしている産婦人科を、去らなければ

いけない、と気づきました。

    日本プロ・ライト・ムーブメント  TEL 088−873−3619
[2003年1月3日 20時19分27秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
 聖パウロのテサロニケの教会への手紙(1テサロニケ5.16−24)

 (皆さん、)いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

これこそ、キリスト・イエズスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

”霊”の火を消してはいけません。”預言”を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、

良いものを大事にしなさい。”あらゆる悪いもの”から遠ざかりなさい。

 どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。

また、あなたがたの霊も魂(たましい)も体も、何一つ欠けたところのないものとして守り、

わたしたちの主イエズス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとして

くださいますように。あなたがたをお招きになった方は、≪真実≫で、必ずそのとおりに

してくださいます。
[2002年12月15日 20時48分30秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
   ≪ イエズス・キリストの誕生 ≫

 イエズス・キリストの誕生は次のようであった。(大祭司一族の娘の)母マリアは、

ヨゼフのいいなずけであったが、同居する前に、(処女で)主なる神の聖霊によって、

みごもっているのがわかった。夫のヨゼフは律法を守る正しい人だったので、彼女を

公(おおやけ)に辱(はずかし)めようとせず、ひそかに離別しようと≪決心した≫。

彼がこうしたことを思い煩(わずら)っていたとき、突然≪夢の中に≫主なる神の天使が

現れて言った、『ダビド(王)の子ヨゼフよ、ためらわずにマリアを≪妻として迎えよ≫。

マリアは(処女で)聖霊によってみごもっている。彼女は子(初子)を産むから、その子を

イエズス(ヤーベ(神)が救う、という意味)と名付けよ。なぜなら彼は、≪罪から民を

救う方≫だからである』。これらのことは神の預言者によって≪主なる神が言われたみことば

≫の実現であった、

  『処女がみごもって子を産む。その名は、インマヌエル(神はわれわれとともにまします

)と呼ばれる』。

 目覚めたヨゼフは、主なる神の天使ガブリエルから命ぜられたとおりに、マリアを妻に

迎え入れた。だがヨゼフは終生彼女を知らなかった。(・・・カトリック教会の司祭の妻帯

の在り方。司祭とシスターが妻帯してもマリアさまとヨゼフさまのように交わってはならない

。シスターは、毎年、修道院に帰還し、修道院長から検査を受ける。そして、バチカンに報告

される。交われば、二人とも、破門となる。ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世さまに伝えて

おきます。)彼はその子をイエズスと名付けた。

 
[2002年12月8日 10時12分2秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
      ( かくれ キリシタン の はなし )

 キリストきょうを しんじる ことが、 きびしく きんじられて いた 300年ほど

むかしの ことです。

 ねっしんな キリストきょうの しんじゃだった 根獅子(ねしこ)の 村の ひとたち

は、せけんに かくれて ひそかに かみを、うやまって いました。

 その ころ、根獅子(ねしこ)の 村はずれに ある やぶの なかに りょうしんと、

むすめと そのむこと、むすめのおとうとの 6にんの かぞくの すむ おひゃくしょう

の 家が ありました。

 きりょうの いい むすめさんは、ほかの村から、むこさんを むかえたばかりでした。

一家6にんは、わずかな はたけを たがやして なかよく しあわせに くらして

おりました。

 きせつは、ちょうど、はたけに まいた むぎの ほが 14.5センチほども のびて

あおづきはじめた ころでした。むすめは、キリシタンのしんこうを おっとに、

うちあけました。その よくじつ おっとは、家から すがたを けしました。

 男は、となりむらの 根獅子(ねしこ)の 村の うつくしい むすめを すきになり

むすめの 家の むこさんに なったのでした。

 キリシタンは もちろんのこと、キリシタンと かかわりを もっただけでも、

それが 知れれば、うちくびに なります。

 男は、おそろしく なって、むすめの うちを にげだしたのです。

 やがて、海の いろが あおさを まし、根獅子(ねしこ)の はまの しろい すなが、
 
まぶしく かがやく 5月が やって きました。

 その ころ、むすめの 家では、まんまるに ふとった かわいい 男の赤ちゃんを

うみました。にげた おとこは しりません。

 おとこが 家を にげた わけは、 むすめは、りょうしんにも はなせません。

『かわいそうに。この子は、うまれた ときから、てて(父)なし子 じゃ。

おまえの おとうは、なんで 家を にげだした のかのう。よし、よし。わしらが

りっぱに そだてて やるからのう。』

 やがて、はたけに まいた むぎも すっかり みのりました。

 『そろそろ、むぎかりを はじめるかのう』。村の人たちが はなしあって いた

ある 日の ことです。

 山を いくつも こえた 平戸(ひらど)の 町から、何人もの やくにんが、

しずかな 根獅子(ねしこ)の 村へ やって きた のです。

 そして、やぶの なかに ある むすめの 家を とりかこむと、やくにんの かしらが

おおごえで いいました。

 『その方たち、むすめの おっとの キリシタンで ある という うったえに より

とらえに まいった。一家(いっか)の ものたち 出て まいれ!』

 ところが、家の なかからは なんの へんじも ありません。かしらに めいじられて

やくにん たちが ふみこみ ましたが、家の なかは からっぽで だれも いません。

 『うーぬ。にげおったか。まだ、とおくへは いって おらぬ。くまなく さがし だせ。

』

 やくにん たちは、ちまなこに なって やぶの なかを さがし まわり ました。

 けれども、どこにも すがたが 見え ません。

 やくにん たちは、あきらめて 引きあげ ようと しました。

 その とき、かたわらの 木の かげから、赤んぼうの なきごえが きこえた のです。

 『だれか、おるぞ!』

 やくにん たちは、しげみの なかを かきわけて、いっせいに 木の かげへ かけこみ

ました。

 一家は、しげみの なかに ある 木の あなの マリアさまの いのりの すみかに

むしろを かぶせて かくれて いる ところを みつかって とらえられ ました。

 そして、なわを うたれて はまへ ひきたて られて いきました。

『その方(ほう) たちの ほかにも、この 村 には、キリシタンが おろう。』

やくにん たちは、ごうもんで、一家(いっか)に、はくじょう させようと します。

 『この 村 には、わたくし たちの ほかには、キリシタンは、おりませぬ。』と、

きっぱり いいました。

 やくにんは、『デウス(神)の おしえを すてれば、いのち だけは ゆるすが、

キリシタンが、どのような しおきを うけるか、かくごは、できて いような!』と、

いいました。しかし、むすめの 6にんの 一家(いっか)は、だれも しんこうを

すてようと しません。

 根獅子(ねしこ)の 村の みせしめに、はりつけの 刑(けい)が いいわた されまし

た。なきさけぶ 赤ちゃん までも、はりつけに します。

 やくにんが、めいじると やりが つぎつぎと 一家6にんを、つきさして いきます。

村 びと たちは、ひっしで、なみだを こらえ、ハライソ(てんごく)への いのりを、

ロザリオを だまって となえて います。

 やくにん たちが さって いくと 村人(むらびと) たちは、一家(いっか)6にん

を ほうむり、 血の ついた いふくを かたみ として ちぎって 家へ もちかえり

ます。

 村の ひとたちは、木の あなの そばの マリアさまの いのり のところの そばに

赤ちゃんを ふくめた 一家(いっか) 6にんを てあつく ほうむった のでした。

 むすめの一家 6にんを やくにんに みっこく した もとの おっとは、じぶんの

むらで 再婚(さいこん)して、罪(つみ)の とがめも なく くらしました。

 そうして、のちに、ひとづてに、むすめとの ひとり むすこの あかちゃんが、

はりつけで ころされた ことを しり ました。

 しかし、この 根獅子(ねしこ)の 村 には、二度と きません でした。

 ゆうがたに なると、根獅子(ねしこ)の 村の はまの 夕日は、じゅうじかの

キリストさま のように、あかく そまります。・・・ 
[2002年12月1日 17時35分1秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪ふみ絵のはなし≫

 新しい 年を むかえると、 どこの 村でも ふみ絵が おこなわれます。

 ふみ絵と いうのは、 キリスト教が きびしく 禁じられて いた 江戸時代に、

かくれた 信者を 見つけるために、 とりしまりの やくにんが 考えだした ものです。

 村の 人、 ひとり ひとりに、 イエズスさまや マリアさまの 絵や すがたを

はめこんだ 板(いた)を はだしで ふませるのですが、 主なる神の 教えを

信じている 人には、 とうとい 絵や 像を きたない 足で ふむ ことは できません

。

 庄屋(しょうや)さんの 家に やって きた 村の 人たちは、 名前を よばれると、

つぎつぎと 役人たちの 見て いる 前で、 踏み絵を ふんで いきます。

 朝から 夕方まで かかって 村の 人たちの ほとんどが こうして 踏み絵を

踏んで、 いきました。

 『この ぶんでは この 村には キリシタンは ひとりも おらぬな。 よかったのう

・・・』

 役人に いわれて 庄屋さんも ほっと しました。

 ところが、 新しく この 村へ きた 最後の ふたりが、 どうしても 踏み絵を

踏みません。

 『これ。 なぜ、 踏み絵を ふまぬ。 おまえたちは、 キリシタンか?』

役人たちは、 ふたりに いいました。

 その ふたりこそ、 こころの やさしい はたらきものの 新三郎(しんざぶろう)と、

目の 見えない 年老いた 父親でした。

 ふたりは、 信仰の あつい キリシタンだったのです。

 『神の 教えを すてれば、 いのちは、 たすけてやる。 すてなければ、 三日の

のちに はりつけだぞ。 おまえは、 親孝行むすこだと きくから、 信仰を捨てい。

よく 目の見えない 父親に いいきかせるのだぞ』

 役人は、 新三郎に いいましたが、 新三郎も、 目の見えない父親も、

すがすがしい かおつきで、

 『たとえ この世で、 いのちを うばわれても、 とうとい 天国への 教えを

捨てる ことは できません』

 と、はっきり こたえたので、 たちまち ろうやに つながれて しまいました。

 新三郎が、 はりつけに なると いう はなしを きくと、 お菊は、

庄屋の 父親に すがりついて、 なんども ふたりの いのちごいを ねがいましたが、

庄屋の 身では、 どう する ことも できません。

 新三郎は、 父の 病気の 治療代に 一両をくれた お菊に おれいを いいたいと

おもいました。

 でも、キリシタンと かかわりを もてば、 お菊が どんな 罰(ばつ)を うけるか

わかりません。 あいてに めいわくが かかると おもうと、 最後の のぞみも

かなえられません。

 やがて、 新三郎は、 お菊の うつくしい にしきの ふくろと ロザリオを

むねに いだいたまま、 天に めされて いきました。

 目の 見えない 父親も、 ロザリオとマリアさまの御絵を  むねに いだき

神様の おられる (開かれた天の) 天国へ ほほえみながら のぼって いきました。 

 新三郎たちが  十字架に はりつけに なり いきを ひきとった ことを しると、

お菊は たまらなくなって、 家をとびだし 雪の つもる 雲仙岳(うんぜんだけ)に

のぼって  身を  なげだしました。   そのあと、 火山が  噴火(ふんか)

しました。・・・
[2002年11月24日 19時46分50秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪トリノの聖骸布(せいがいふ)は、イエズス・キリストの天然ネガ≫

 バチカンのローマ教皇ヨハネ・パウロ二世さまに、インターネットで、お手紙を差し上げ

ます。

 トリノの聖骸布の年代測定で、4.5世紀の出現と、科学的に断定されているそうです。

2.000年前の存在ではないようです。もちろん、火災による測定の誤差は、考えられます

。

 パパさま、重要なことは、全能の主なる神は、突然、修道院に、4.5世紀に聖骸布を

存在させることもおできになる、ということです。聖書に、『神には、できないことはない』

と告げられていることです。

 トリノの聖骸布には、イエズス・キリストの十字架刑の釘の跡と脇腹の傷の跡(あと)、

いばらの冠(かんむり)の血の跡、むち打ちの背中の傷、目にチェザルのローマ総督の貨幣の

コインを置いた跡、三.四月のイスラエルの園の花粉、そしてローマへ運ばれた道々の花粉、

すべてが、布に残されています。(アメリカのナサの研究より)  問題は、年代だけです。

 逆に考えれば、もし、2.000年前の年代が測定された場合、人類は、どんなに恐れるか

。それが、4.5世紀の年代測定で、どう思うか。すべて、神のご計画です。

 聖書に、イエズスが、『私を見た者は、父(主なる神の顔)を見たのである』と、トマに

告げられています。大変なことです。

 聖骸布の顔は、天地創造の全能の主なる神の顔を、現してもいるのです。

全人類が、全能の神の顔を知ることができるのです。主を見ることができるのです。

それで、人類がどのように生きるか。それでも、天国への道を歩まず、悪の誘惑に委ねて、

神から悪の支配を任されている、永遠の火の地獄、サタン(悪魔)のところに行くか。

罪に溺れて、煉獄で、果てしなく苦しむのか。一人一人に、この世での生き方を委ねられて

います。主なる神は、愛の神でもあり、裁き主(さばきぬし)でもあるのです。

『私を憎む者には、その子孫に、三.四代まで裁く。私を愛する者(愛の行いで生きる者)

には、1.000代(永遠に)までも私の愛を及ぼす。あわれみ深い神である』。

 私は、聖骸布のイエズスの顔、また、全能の主なる神の顔を拡大して、額(がく)に

いれて、見つめています。沈黙のかたらいです。(聖骸布のイエズスの拡大した顔の写真

(コピー)が欲しい方はメールを下さい。お送り致します。多い場合は、少し遅くなります。

)

                        主なる神に感謝。 主イエズスさまに感謝。
[2002年11月17日 14時13分47秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
   (マテオによる福音書5:2−16)

  『心の貧しい人は、幸せである。天の国は彼らのものである。

  柔和な人は、幸せである。彼らは地をゆずり受けるであろう。

  悲しむ人は、幸せである。彼らは慰めを受けるであろう。

  正義に飢(う)え渇く人は、幸せである。彼らは飽(あ)かされるであろう。

  あわれみのある人は、幸せである。彼らもあわれみを受けるであろう。

  心の清い人は、幸せである。彼らは≪神≫を見るであろう。

  平和のために励む人は、幸せである。彼らは≪神の子ら≫と呼ばれるであろう。

  正義のために迫害される人は、幸せである。天の国は≪彼らのもの≫である。

 私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言(ざんげん

)を言うとき、あなたたちは幸せである。≪喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな

報いを受けるであろう≫。先人の預言者たちも同じように迫害された。

 あなたたちは、地の塩(人類の原動力)である。塩がその味を失えば、なんで

塩の味をつけられようか。もう役にたたず、外に捨てられて、人に踏まれるばかりである。

 あなたたちは、世の光(世の命)である。山の上にある町は隠せぬ。また、灯(ひ)を

ともせば、升(ます)のしたに入れず、燭台(しょくだい)の上に置くものだ。

こうすれば、明かりは部屋じゅうの人を照らし出す。このように、≪あなたたちも人の前で

光を輝かせよ≫。そうすれば、≪人は”その良い行い”を見て、”天にまします父(主なる

神)”を、あがめるであろう。
[2002年11月13日 6時53分6秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
        ≪聖パウロの愛のことば≫

 (アブラハムの子孫、ファリサイ人の律法学士ガマリエル(キリストの弟子)の一番弟子、

ベニヤミン族、ユダヤ人(イスラエル人))

 たとい私が、人間と天使のことばを話しても、愛がなければ、鳴る青銅と響き渡る≪どら≫

に等しい。たとい私が、預言の賜(たまもの)をもち、全奥義と全知識に通じ、山を動かすほ

どの満ちた信仰をもっていても、愛がなければ、無に等しい。たとい私が、すべての財を

施(ほどこ)し、この体(からだ)を焼かれるために与えても、愛がなければ、益するところ

はない。

 愛は寛容(かんよう)で、愛は慈悲(じひ)に富む。愛は≪ねたまず≫、誇らず、

≪高ぶらない≫。非礼(ひれい)をせず、≪自分の利を求めず≫、≪憤(いきどお)らず≫、

悪を気にせず、不正を喜ばず、真理を喜び、・・・

 すべてをゆるし、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを耐え忍ぶ。

 ≪愛は、いつまでも絶えることはない。≫・・・

 今あるものは、≪信仰≫と≪希望≫と≪愛≫の三つである、そのうちで、

≪もっとも偉大なものは、”愛”である。≫

     (コリント人への第一の手紙 13:1−13)

 『わたしが愛したように、あなたたちが互いに≪愛しあうこと≫、これがわたしの

≪おきて≫である。友人のために、命を与える以上の大きな”愛”はない。わたしの命じる

ことを≪守れば≫、私の友人である。これからもう私は、あなたたちをしもべとは言わない。

』    (ヨハネによる福音書15:12−15)

 神は、”愛”である。テロリストのイスラム信仰は、憎しみの宗教であり、人々は、

そこに愛がないので、そのテロ宗教を認めないであろう。サタン(悪魔)は、神から、

この世の悪の支配をまかされている。テロ宗教は、サタンの”火の地獄”行きとなるであろ

う。永遠の”火の地獄”である。永遠に、子孫まで、許されないであろう。

 『私の名によって、あなたたちが父(主なる神)に求めるものをすべて、父は与えられる。

≪私があなたたちに命じるのは、”互いに愛し合うことである”。≫

   (ユハネによる福音書15−16.17)

 私の願いは、真のユダヤの大祭司であったイエズス・キリストのために、ユダヤ教と

キリスト教が和睦し、助け合い、協力しあって、≪この地上に、神の国を建設すること≫

である。争いのない、≪地上の楽園≫を創ることである。もちろん、下からの≪肉≫に

よるのではなく、上からの≪愛≫、≪聖霊のいぶき≫の世界である。

『人は、上から、生まれ変わらなければ、天国へ入れない。』『上から生まれ変わると言って

も、不思議がることはない。風は、どこから吹いてどこへ行くかを知らない。聖霊降臨も、

そのようなものである。』『肉の望みを捨てなければいけない。』

(子供への愛に、『肉欲』があるだろうか。) ≪愛は、心からのものである。≫

 『あなたの主なる神を、心を尽くし、精神を尽くし、まず第一に、”愛”しなさい。

それと同じように、(あなたを必要とする)隣人を、”愛”しなさい。』

たとえ、先祖は、ソドムとゴモラのサタンの人々であっても、あなたの助けを必要とする、

≪隣人のパレスチナ≫に、”愛”の手を差し伸べなさい。”施し(援助)”をしなさい。

憎しみではなく、愛で、助けなさい。ユダヤ教徒とキリスト教徒が、世界が手助けすれば、

憎しみのテロ宗教のイスラム教も、”愛のイスラム教”に、変化します。それには、

”愛”が必要です。まず、”餓え”を救ってやることです。

 ユダヤ教の聖地、主なる神の神殿エルサレムは、別にして、領土と国家建設を自分たちで、

やらすべきです。アフガンの国家建設のように。イスラム教の撲滅を考えてはなりません。

それは、≪神の領域≫です。日本に、仏教があるように、≪愛の共存≫を考えていかなければ

なりません。けっして、≪神のご計画の領域≫に、介入してはいきません。

 『イエズスが死者の中からよみがえって、三たび、弟子たちに出現された次第は、以上の

とおりであった。食事の後、イエズスは、シモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、

あなたはこの人たちよりも、私を”愛しているか”』と言われた。ペトロは、『主よ、

そうです。あなたのご存じのとおり、私はあなたを愛しています』と答えると、イエズスは、

『私の子羊を牧(ぼく)せよ』と言われた。また、ふたたび彼に、『ヨハネの子シモン、

私を愛しているか』と言われた。『主よ、そうです。あなたもご存じのとおり、私はあなたを

愛しています』とペトロが答えると、『私の羊を牧せよ』と言われた。三たび、『ヨハネの

子シモン、私を愛しているか』と言われたのを聞いて、ペトロは悲しみ、『主よ、あなたは、

すべてをご存じです。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです』と答えた。

イエズスは、彼に、『私の羊(キリスト教徒)を牧せよ』と言われた。

(ペトロは、迫害のローマから、逃げ帰って来たときにも、イエズスが出現し、

三度、私を愛しているか、と尋ねられた。ペトロは、殉教覚悟で、泣きながら、ローマに、

歩いて戻った。そこで、イエズス・キリストさまと同じ十字架刑は、畏れ多いと、

≪逆さ十字架刑≫で、みごとに、殉教した。その後継者が、ローマ教皇である。

 パウロは、斬首で、天国へ行った。
[2002年11月3日 10時0分42秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪イエズスの兄弟ヤコボの骨発見?(フランス学者)≫
 取税人マテオは、(大祭司一族の)≪アルフェオのレビ(クロパの妻の子レビ)≫でした。

『≪レビ≫という税吏が、取税所に座っているのを見られ、『私について来なさい』と言われ

たので、彼はすべてをおいて立ってついて来た。』(ルカ5:27−28)

『その通りがかりに、アルフェオの子レビ(クロパの妻の子レビ)が取税所に座っているのを

見、『私についてこい』と言われた。』(マルコ2:14)

 小ヤコボが『アルフェオの子(クロパの妻の子)ヤコボ、タデオ、熱心なシモン』

(マルコ3−18).(マテオ10:3−4)と記されています。

 預言者アブラハムも、(ソドムとゴモラの生き残り、近親相姦の娘たちの父)親戚のロト

のことを、『≪私の兄弟≫』と呼んでいます。親戚も当時は、兄弟と呼ばれていたのです。

(塩の柱(ライ病?))となったロトの妻の娘たちは、父ロトに酒を飲ませ、ロトが寝ている

うちに、二人の娘は、近親相姦の子(パレスチナの先祖)を、ソドムとゴモラの子孫を、

もうけています。)

 小ヤコボは、エルサレムの初代司教となった。

 『それから故郷に帰り、会堂で教えられると、人々は驚き、『あの人はどこから≪知恵と

奇跡(神の子のしるし)≫を受けたのだろう。あれは大工の(ヨゼフの)子ではないか。

(ヨゼフはダビド王の子孫)。 母はマリア(預言者モーゼの兄大祭司アロンの子孫の大祭司

一族の娘)と呼ばれ、兄弟(マリアの親族のクロパの妻の子)は、ヤコボ、ヨゼフ、シモン

、ユダではないか。それなのに、どうして、ああいうことを知ったのだろう』と言い合った。

人々(群衆)は、イエズスとは、何者だろうかと思い惑った。イエズスは、『預言者が

軽蔑されるのは、自分の国(ユダヤ)、自分の家の中(家族)だけである』と言われた。』

(マテオ13:54−57)

 聖書学の基本は、聖書が、≪誰の言葉で≫、≪誰の発言で≫記されているかです。

イエズスは、この世の王を望む≪群衆≫には、『聞いても解らぬように、”たとえ”で

話すのである』(ルカ8−10)と言われました。聖書の≪群衆≫の発言は、≪誤り≫の

発言として、記されているのです。プロテスタントの学者が聖書を理解できないのは、

≪文字通りに≫、聖書解釈するからである。サドカイ人が、旧約聖書に、『復活は記されて

いない』と認めなかったのと同じである。旧約の時代にも、≪口伝≫があったのである。

プロテスタント学者が、マリアには子供がいたと解釈し、聖書の≪神のみことば≫が理解

できなかったのは、≪神のみ摂理≫である。主なる神は、教会のかしらである、ペテロ(岩)

の後継者、ローマ教皇を指導者として、ご計画されているのである。

 イエズスの兄弟と言われるこの4人は、イエズスの従兄弟(いとこ)であった。

『ヤコボとヨゼフの母マリア』(マテオ27−56).(ヨハネ19−25)とあるように、

ヤコボとヨゼフは、アルフェオの子(クロパの妻マリアの子)である。

『アルフェオの子ヤコボ、タデオ、熱心なシモン』(マルコ3−18).(マテオ10:3−

4)。また、ユダは、ヤコボの実の兄弟である。『アルフェオの子ヤコボと熱心者と呼ばれる

シモン、ヤコボのユダ』(ルカ6:15−16)。『キリストのしもべ、ヤコボの兄弟ユダ

より』(ユダの手紙1−1)。のちに、エルサレムの司教となったシモンは、エウゼビウス

によれば、『≪クロパの子≫』である。

 イエズスに仕えてガリラヤからついてきた人たち(大祭司一族の娘たち)で、そのうちには

マグダラのマリア(金髪の処女・・・ダビド王も、もちろん、金髪:『金髪の美しい少年で

あった』(旧約聖書)。)、ヤコボとヨゼフの母マリア(クロパの妻マリア)、ゼベデオの

子らの母(使徒ヨハネの母:大祭司の知り合い(ヨハネ福音書)・・・大祭司の中庭に、

イエズスとともに、入っている。マルコの母も、ヨハネの子の母マリアと、使徒行録に記され

ている。)(マリアサロメのことかもしれない)などもいた。』(マテオ27:55−56)

イエズスの母マリア(聖母マリア)と姉妹(洗礼者ヨハネの母、エリザベト・・・

預言者モーゼの兄、大祭司アロンの子孫)も一緒にいる。

 ダマスコのアナニアは、サウロ(パウロ)に按手し、ふたたび目が見えるようにしています

。『兄弟たちよ、今日まで、私は、良心に従って、神のみ前に正しく振る舞って来ました。

(パウロは、書簡で、私は、割礼によって、(性欲を)むさぼることを覚えた、と告白して

います。また、パウロは、ステファノの石殺しの殉教の際、ユダヤ人の服の番をしています。

つまり、石殺しの指導者でした。)すると、大祭司アナニアは、そこにいた者に、

『パウロの口を打て』と命じた。パウロは答えた、『白塗りの壁よ、神はあなたを打たれる。

あなたは、律法に従って私を裁くために座りながら、律法にもとって私を打てと命ずるのか』

。その席にいた≪ある人≫が、『あなたは、神の大祭司を侮辱するのか』と言ったので、

パウロは、『兄弟たちよ、私はあの人が大祭司だと知りませんでした。実に、≪あなたの民の

かしらを呪うな≫(ユダヤの民の真の大祭司イエズス・キリストを呪うな)と記されています

』と言った。』(使徒行録23:1−5)

 ダマスコで評判のアナニア(イエズスの弟子)と大祭司アナニアとは、同一人物かもしれま

せん。

 ≪ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世さまからの祝福の手紙≫

 The  Apostlic  Nunciature  in  Japan  is  directed  by  the  Holy  Fath-

er  to  acknowledge  receipt  the  thoughtful  message  addressed  to  him  ,

and  to  convey  His  prayerful  remembrance  and  paternal  blessing.
[2002年11月3日 4時6分55秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪イエズス・キリストは、大祭司の上着を着て、福音宣教された≫

 過ぎ越しの祭りの前に、イエズスは≪この世から父のもとに移る時が来た≫のを知り、

この世にいる≪ご自分の人々を愛し、彼らに限りなく愛を示された≫。
 
 食事の時に、悪魔(サタン)は、早くもイスカリオトの≪シモンの子≫ユダの心に、

イエズスをわたそうという≪考え≫を入れた。

         (ヨハネによる福音書13:1−2)

 弟子の一人で、のちにイエズスをわたすイスカリオトのユダが、『なぜ、この香油を、

300デナリオに売って、貧しい人に施さないのか』と言った。そう言ったのは、

貧しい人のことを思いやったからではなくて、彼は≪盗人≫・・・盗人には、サタンが入る

。地獄行きとなる。・・・であり、≪(イエズスから)預かっている財布の中身を盗んで

いたからである。   (ヨハネによる福音書12:4−6)

 兵卒たちはイエズスを十字架につけてから、その服を取って四つに分け、おのおのその

一つを取り、また≪上着も取ったが、その上着は”縫い目なしで上から一枚に織った布”≫

であった。・・・大祭司の上着は、破れないように、一本の糸で織った布になっていた。・・

・彼らは、『これは破るまい。くじを引いて誰が取るか決めよう』と言い合った。

      (ヨハネによる福音書19:23−24)

 大祭司(カヤファ)はまた、『おまえはキリストか。祝されたもの(神)の子か』と

尋ねた。イエズスは、『≪そのとおりである。≫ あなたたちは人の子が、≪力あるもの

(神)の右に座し、(開かれた)天の雲に乗り来るのを見る≫』と言われた。そのとき、

大祭司(カヤファ)は、自分の(大祭司の)服を裂き、『どうしてこれ以上証人がいろうか。

あなたたちも冒涜のことばを聞いたろう。≪どう思うか≫。』と言った。

(大祭司カヤファは、大祭司一族の処女の聖母マリアの聖霊による、神の子イエズスに、

大祭司の上着を渡して、まことのユダヤの大祭司として、ユダヤの民を委ねていたのである)

   (マルコによる福音書14:61−64)

 ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世さまには、すでに、伝えてあります。
[2002年11月2日 19時45分54秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪聖母マリアさまは、大祭司一族の娘である≫
 『はじめて生まれる男の子はみな、≪主に聖別されたもの≫といわねばならぬ』と、

主の律法に書かれている。      (ルカによる福音書2−23)

 ユダヤ王ヘロデの時、アビアの組の司祭に、ザカリアという人がいた。その妻は、

(預言者モーゼの兄、大祭司)アロンの子孫で、名は、エリザベトと言った。

 二人とも、神の前に正しい人で、主のおきてと規定を、残らずとがなく行っていた。 

                (ルカによる福音書1:5−6)

 マリアは、『私は、(処女で)男を知りませんが、どうしてそうなるのですか』と聞いた。

大天使ガブリエルは答えた、『(主なる神の)聖霊があなたにくだり、いと高きものの

≪力の影(かげ)≫があなたを覆(おお)うのです。ですから、(主なる神との)生まれる

子は、≪聖なるお方(肉としてはマリアの人性と、霊としては、聖霊を、イエスはもたれて

いる。聖霊としては、人類創造の前から、存在しておられる)≫で、≪神の子≫と言われます

。あなたの親族(姉妹)のエリザベトも、老人ながら、(うまずめで)、身ごもったでは

ありませんか。うまずめと言われた人なのに、もう6ヶ月めです。

≪(全能の)神にできないことはありません≫』。

 マリアは、『私は、主のはしため(奴隷)です。あなたの≪みことば≫のとおりに、

なりますように』と答えた。そして、天使は去った。

              (ルカによる福音書1:34−38)
[2002年10月27日 16時27分22秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪聖母マリアさまは、無原罪の御宿りである、は、バチカンの解釈違い≫

 聖母マリアさまは、ベルナデッタに、『わたしは、罪なき孕(はら)みです』と、

告げられました。聖母マリアさまは、預言者モーゼの兄、大祭司アロンの子孫のベルナデッタ

の親族(姉妹)の、大祭司一族です。もちろん、女性ですから、初潮も、月経もあります。

人間の女性ですから、性欲、睡眠欲、食欲の人間の三大欲求があります。

 聖母マリアさまが、人類に対して、ベルナデッタを通じて伝えたかったことは、

聖母マリアさまが、処女で、主なる神の聖霊で、マリアさまと、主なる神の御子イエズス

さまを、孕んだ、身ごもった、ということです。マリアさまは、イエズスさまだけしか、

子供がいなかったということ、姉妹、親族のクロパの妻の子供達を、預かり、養育されていた

ということです。ですから、聖ヨセフさまとは、男女の交わりはなかったのです。

終生、童貞です。聖母マリアさまが天使と同じようになられても、気にされていたこと、

それは、イエズス・キリストさまが、けっして、姦淫(かんいん)の子ではないと、

宣言されたかったことです。ユダヤの大祭司一族の女性には、絶対、あり得ません。

 来月、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世さまにも、お送りします。


      ≪10月は、ロザリオの月≫

   聖母マリアさまへの祈り


 恵みあふれる聖マリア、

  主はあなたとともにおられます。

 主はあなたを選び、≪祝福≫し、

 あなたの子、イエス(イエズス)も、≪祝福≫されました。

 神(イエス)の母聖マリア、

 罪深いわたしたちのために、

 今も、死を迎える時も、祈ってください。

 アーメン(そうなりますように)。

  

  聖母マリアさまへの祈りを、一日10回、祈ってください。右手の5本の指と、

 左手の5本の指とで、10回祈ってください。これも、初めての人には、立派な、

 ロザリオの祈りになります。女性ではじめて、天使となられた、聖母マリアさまに、

 悩みを打ち明け、心を開いて、語りかけるように、祈ってください。

 祈りは、自由です。見せるための祈りではなく、隠れたところにおられる、主に、

 聖母マリアさまに、祈ってください。祈りは聞き届けられることもあり、聞き届けられない

こともあります。絶えられないような苦しみには、捨て置かれません。試練を与えられること

もあります。聖パウロの言うように、感謝して、祈って、すべてを、受け入れることです。

 あるがままの自分を、まず受け入れることです。そこからが、スタートです。

良いところ、感謝したいところ、を、祈るのです。心が、前向きになります。

 そうして、人のために、人が感謝してくれる、行いを、実行することです。

ありがとう、すいません。人の感謝の心に触れると、心がいきいきしてきます。

生き甲斐が生まれてきます。

 友のために、自分の命を捨てること、与えること、これより大きな愛はない。

 夫婦は、一心同体です。互いに、命を捨て合い、与え合って、信頼して、感謝して、

生きることです。そのためには、すべてを信じ、すべてを希望し、すべてを許すことです。

これが、まことの愛です。夫婦のまことの愛の姿を見て、その背中を見て、子供は、

親を尊敬して、見習って、生きていきます。けっして、不良に生きることはありません。

 そのためには、絶えず、祈ることです。神さまから、すべてを許してもらっているから、

人々のわずかな負債、負い目を、すべて、許すことです。許し合いに、争い、もめごとは、

ありません。裸で、無一文で、この世に、生まれてきたのです。また、裸で、無一文で、

天国に、召されるのです。今日一日の悩みは、すべて、忘れなさい。

神が、明日、考えてくださる。今日一日の苦労は、一日にて、足れり。明日のことを、

思いわずらうな。すべて、神に委ねて、生きよ。すべてに、神のご計画がある。

  聖母マリアさま、主よ、感謝して、讃美します。すべてを、受け入れます。アーメン。
[2002年10月20日 13時36分38秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
    ≪すべての食べ物は、清い≫

 昼ごろ、ペトロが祈るために、平屋根(ひらやね)に上(のぼ)ると、空腹で、何か

食べたくなった。食事の準備がされている間、彼は、気を奪われたようになり、

開いた天(天国は、天上が開いて、現れるのである)から、四隅(すみ)をつるされた

大きな布(ぬの)のようなものが、地上に下りてくるのを見た。その中には、地上の四足の

獣(けもの)、這(は)うもの、空の鳥が、≪みな≫入っていた。それから、『ペトロ、

立って、ほふって食べよ』と言う声がしたが、ペトロは、(ユダヤ人であるために)、

『いいえ、主よ、私は、(律法に従って)汚れたものや、不浄(ふじょう)なものを、

食べたことはありません』と答えた。するとふたたび、『神が(創造され)、清くされたもの

を、汚れたものと言ってはならぬ。(豚肉も、牛肉も、主なる神が創造されたもので、

外から内にいるもの、腹にいるもので、清くないものはない。汚れることはない。

もちろん、異邦人も神が創造された人々であるから、清い。)』と言う声がした。

三度(ペトロは、主イエズス・キリストを、三度知らないと答え、呪いの誓いまでしたから、

そのことを、忘れさせないために)こういうことがあって、それはすぐ天(開いた天国)に

上げられた。ペトロが今見た幻(まぼろし)は、どんな意味だろうかと思い惑っていると、

・・・≪神が清くされたもの、(創造されたもの)を、汚れたものと言うな≫・・・

      (使徒行録10:10−17)
[2002年10月20日 4時26分14秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
 次ぎに人々を呼び寄せ、『みな私のことばを聞いて、≪悟れ≫。外から人に入って、

人を汚(けが)すものはない。けれども、≪人から出るもの≫、これが、人を汚すのだ。

≪聞く耳をもつ者は、聞け≫』と言われた。

 イエズスは、人々を離れて、家に入られたので、弟子たちは、その≪たとえ≫の説明を

聞いた。イエズスは、『あなたたちは、それほど愚か者か。外から人に入るものが、人を

汚せないこともわからぬのか。それは、≪心に入らず≫、腹に入って、厠(かわや)に

落ちるだけだ』と答えられ、≪”どんな食べ物も清い”≫と宣言された。

 また、『≪人から出るものこそ、人を汚す≫。すなわち、≪悪い考え≫は、≪内から≫、

≪人の心から出る≫。≪淫行(いんこう)、窃盗(せっとう)、殺人(さつじん)、

姦淫(かんいん)、貪欲(どんよく)、邪悪(じゃあく)、詐欺(さぎ)、猥褻(わいせつ

)、嫉妬(しっと)、誹謗(ひぼう)、傲慢(ごうまん)、愚痴(ぐち)≫、これらの

≪悪いこと≫は、≪みな内から出て、人を汚すものだ≫』と、言い加えられた。

      (マルコによる福音書7:14−23)
[2002年10月19日 20時31分2秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
(マタイによる福音書6:21−34)

 あなたの宝(たから)のあるところには、あなたの心もある。

体の明かりは、目である。(内なる)目がよければ、全身が明るい。(内なる)目が悪ければ

、全身が、闇(やみ)の中にいる。あなたの(心の)内なる光が、闇なら、その闇は、

どんなに暗かろう。

 人は、二人の主人(夫または妻)に、仕えるわけにはいかぬ。一人を憎んで、もう一人を

愛するか、一人に従って、もう一人を、うとんずるかである。(一夫多妻禁止:一妻多夫禁止

:ソドムとゴモラの同性愛、近親相姦、フリーセックス(姦淫)禁止)

神とマンモン(カルダイ語で、富のこと)とに、ともに(両方に)仕えることはできぬ。

(神を心の宝とするか、富を心の宝とするか。神に心を支配されるか、富に心を支配されるか

。サタン(悪魔)に、支配されるか。)

 だから、私は言う、命(いのち)のために、何を食べようか、何を飲もうか、

また、体のために、何を着ようかなどと、心配するな(心悩むな)。

 (霊魂をもつ)命(いのち)は、食べ物にまさり、体は、衣服にまさるものである。

空の鳥を見よ。蒔(ま)きも、刈りも、倉に納めもせぬのに、天の父(主なる神)は、それを

養われる。(霊魂のある)あなたたちは、鳥よりもはるかに、優(すぐ)れたものではないか

。あなたたちがどんなに心配しても、寿命(天寿)をただの一尺(いっしゃく)さえ長くは

できぬ。なぜ、衣服のために、(霊魂のある)心を、煩(わずら)わせるのか。

 (草原の)野のゆりが、どうして育つかを見よ。苦労もせず、紡(つむ)ぎもせぬ。

私は言う、(ウリヤの妻と姦淫し、ウリヤを殺して、もうけた、ダビド王の子)ソロモン(王

)の栄華(えいが)のきわみにおいてさえ、この≪ゆり≫の一つほどの装いもなかった。

(ソロモン王は、望みのもを何でも叶えてやる、と主なる神が言われたとき、ユダヤ人のため

に、≪知恵≫を望み、主が叶えて下さった。)

 今日は野にあり、明日はかまどに投げ入れられる≪草≫をさえ、神は、このように(美しく

)装(よそお)わせられる。(美しくなりたければ、心を清く、素直に(正直に)、心を

美しくすれば良い。顔の美しさは、心から、にじみ出るものである。心がゆがんでいれば、

顔もゆがんでくる。正直者の頭(こころと霊魂があるところ)に、神宿る。神は、その

あなたの心の中に、住まわれる。心が美しければ、聖霊が宿(やど)る。)

 まして、あなたたちに、(神の似姿に創造されたあなたたちに)、よくしてくださらぬわけ

があろうか。≪信仰うすい人々よ(愛うすい人々よ)≫。何を食べ、何を飲み、何を着ようか

と、≪心配するな≫。それらはみな異邦人(無信仰者)が、切(せつ)に、望むことである。

 天の父(主なる神)は、≪あなたたちにそれらがみな必要なことを、知っておられる≫。

だから、まず、≪神の国とその正義を求めよ≫。そうすれば、(それらを求めたら)、

それらのもの(衣・食・住)も、加えて、与えられる。

 ≪明日のために、心配するな(心を煩わせるな)≫。明日は、明日が自分で心配する。

一日の苦労(一日の悩み)は、一日で、足りる。(すべて、主にゆだねて、生きよ。)
[2002年10月6日 12時8分55秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
  ペトロ神父さまのホームページ   『祈りの園』

 ≪イスラエル人(ユダヤ人)、聖コルベ神父の愛の殉教≫

 1941年5月28日、コルベ神父は、死の抑留所と呼ばれる≪アウシュビッツ≫に

移送される。この地獄の収容所で、600万人以上の人々が、虐殺されたのです。

こんなに恐ろしい拷問が、この世にあるだろうか、と思われるほど、最大限の悪魔の知恵を

振り絞って、考え出された殺戮(さつりく)方法で、ユダヤ人たちは、殺されていったのです

。ユダヤ人、聖コルベ神父の殺害方法は、飢餓と重労働でした。

 ユダヤ人、聖コルベ神父が属していた組の頭(かしら)のドイツ人は、特に、ユダヤ人

神父を憎悪し、動物のように、骸骨(がいこつ)同然の飢餓状態の姿になるまで、こき使い、

ある時は、大きな材木を駆け足で運ばせ、轍(わだち)の中に、ユダヤ人神父を放り込み、

その上に、落ち葉をかけ、死体同様に放置され、その姿は、ユダヤ人イエズス・キリストの

受難を思わせました。

 7月の末、収容所から、一人の逃亡者がでたのです。そのために、10倍の10名が選ばれ

、≪餓死刑(がしけい)≫に処せられることになった。この10名の中の一人が叫んだ。

『僕には、家内と子供がいるんだ。死にたくない。もう一度、会いたい』と。

 しかし、所長は、悲痛なこの魂(たましい)の叫びを黙殺し、ただ一言、『裸足(はだし)

になって、処刑場へ行け』と命令を下した。そして、号令と共に、ユダヤ人たちが歩き出そう

としたその時、信じられない≪愛のことば≫が聞こえました。

『妻子のいるその人の身代わりになって、死にたいです』。

ユダヤ系ポーランド人(ユダヤ人)の聖コルベ神父、その人が言ったのです。

 餓死刑を宣告された10名のユダヤ人は、第13号舎の、地下室のじめじめしたセメントの

上に、裸(はだか)のからだを横たえていた。

ときには、錯乱(さくらん)状態になって、うめいたり、大声で叫んだりするユダヤ人もいた

が、意識がしっかりしているときは、一同は、かれらを力づけるユダヤ人聖コルベ神父の声に

ちゃんと応えていた。体力が残っている間は、彼らは祈りを唱え、ユダヤ人イエズス・キリス

とに、賛美歌を歌った。

 2週間たつと、第13号舎の牢獄で生き残っているのは、4人になってしまった。

(しかし、同胞のユダヤ人の人肉は、食べなかった。)その4人の中で、一番最後まで

生き延びたのは、ユダヤ系ポーランド人(ユダヤ人)聖コルベ神父だった。

監禁生活の15日目に、毒殺用のフェノールを満たした注射器を持って、やって来た。

 それは、8月14日の、『(ユダヤ人大祭司一族の)聖母マリアの被昇天の大祝日』の前夜

だった。微笑みを浮かべ、『アヴェ・マリア』と低く唱えながら、頭を横に少し傾け、壁に

よりかかり、大きく目を開いて、ただ一点を見つめて・・・そして、栄光のうちに、天国に

のぼっていきました。1941年8月14日(聖母被昇天:8月15日は日本の終戦日)、

アウシュビッツで、47年(47歳)の生涯を閉じたのです。

 ただひたすら、聖母マリアのために、生き抜いた聖コルベ神父。

”友のために、生命(いのち)を捨てる、与える、これより大きな≪愛≫はない。”・・・

この主なる神の聖書(真理のみことば)のイエズス・キリストの教えを、身をもって実行した

≪偉大な神の使徒≫。

重症結核患者でありながら、その当時、修道士760名もいた、世界一大きな修道院を作り、

無一物から巨大な事業を築いた奇跡の人、ユダヤ人聖コルベ神父。

 1971年列福された、ユダヤ人コルベ神父は、1982年10月10日、同郷の

ポーランド人、教皇ヨハネ・パウロ二世によって、列聖という光栄を受け、現代に生きる

私たちに、贖(あがな)いのイエズス・キリストの十字架に従う、聖人への道を教えている

のです。

 『友のために、自分の命(いのち)をすてること、これ以上の大きな≪愛≫はない』。

 『私は、復活であり、命です。私を信じる者は、(この世で)死んでも、(天国で)生きる

。私を信じる者は、だれでも決して、死ぬことはない(永遠に天国で生きる)』。

                ペトロ神父より      『祈りの園』
[2002年10月4日 22時32分7秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪アウシュビッツの生存者、ユダヤの最高指導者、シモン・ヴィーゼンタールの証言≫

 (ユダヤ人の大虐殺、ナチスのヒットラーは、オーストリア人であった。)

 ・・・ホロコースト(ユダヤ人の大虐殺)の証言・・・


 それぞれの収容所のマークの中に、上下に、2つの数字が書かれているでしょう。

例えば、上が15万人、下が30万人。上段の数字はミニマムを、下段の数字はマキシマムを

表している。犠牲者の数字を、どの時点で、どのような状況下で、(生存者の)誰がカウント

したか、また、どの記録を使用したか、そうした全体を考慮して、2つの数字がでてきている

。われわれが、今日、『600万人(虐殺)』といっているのは、ミニマム、つまり最低の数

字なのだ。確かに、つらい話だが、しっかり聞いておいてほしい。

 例えば、(主なる神の選民の)ユダヤ人が何ゆえに、人種的に劣るかを(大学で)講義する

ために、生きた妊婦が実験台にされたのだ。妊娠している女性の腹を、麻酔もなしに、切開し

て、軍の医学生に見せながら、何時間も講義するのだ。当然、腹を切り裂かれた妊婦も、

(生きたまま、取り出された)胎児も、死んでしまう。すると、またほかの妊婦が、

(強制的に)手術台に乗せられ、(縛られ)、まったく同じこと(生きたままの妊婦の切開)

が、繰り返される。

 また、ある収容所では、生きた者の、皮膚を、メスで切り取り、その皮膚を使って、

(燭台の)ランプの笠(かさ)を、何百も、作っていた。(人が)生きているうちに、

切り取った皮膚は、(赤い)血管が美しい模様を、描くから、というのが、その理由だ。

全身から(生きたまま)皮膚を切り取られた者は、うめきながら、2時間もすると、

死んでしまう。

 私が生き延びた理由の一つに、ウイーン訛(なまり)のドイツ語を、話したからかもしれな

い。ヒトラーをはじめ、(ドイツの)ナチスの幹部には、オーストリア出身者(オーストリア

人)が、多数いた。(もちろん、ヒトラーは、オーストリア出身者、オーストリア人であった

。)

         ユダヤ人の最高指導者.シモン・ヴィーゼンタールの証言より
[2002年10月3日 3時26分21秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
『コミュニケーション』       (心のともしび)

               植村 高雄(うえむら たかお)

 どんなに努力しても、人とのコミュニケーションが上手(うま)くいかない人もいるのです

。A子さんは沈黙していれば≪美人≫ですが、一旦(いったん)何かを語り出すと、その語気

の激しさと刺(とげ)のある言葉から、そばの人々は、逃げ出します。そんなA子さんが或る

青年と恋いをして、数年の内に、言語障害の子供たちをお世話するベテランとして、表彰され

ました。そこで、A子さんに、事情を聞きました。


 A子さんは3つの理由を、はにかみながら、語ってくださいました。1つはその青年は、

無条件ですっぽりと≪自分を丸ごと愛してくれたこと≫、2つ目は、≪どんな悪口を激しく

語っても≫、いつも、にこやかに≪共感してくれたこと≫、最後は、≪そんな君は、すてき

だよ≫と、”静かに、手を握ってくれて”、≪さあ、頑張ろう≫と大声を出すのだそうです。


 少女時代や大学時代は、いつも≪人から愛されることばかりを熱望していた≫そうですが、

その青年の愛を沢山(たくさん)貰(もら)って愛に満足した後に、やっと≪自分から人を

愛する気持ち≫になれたそうです。人を愛することがこんなに≪美しい≫とは、知りません

でした、と教えてくれました。もう人の愛を求めて、はらはらして生きていく必要が無くなっ

たA子さんは今、堂々としています。


 A子さんの職場は、≪言葉を語れない子供たち≫の”養護施設”ですが、A子さんのそばに

はいつも子供がいます。A子さんは、≪にこやかにいつも笑いながら≫、≪子供たちの手を

握って遊んでいます≫。コミュニケーションの苦手な私は、もうこれ以上努力しようとは思い

ません、と語ります。自己の苦手なA子さんですが、その≪心の世界≫は以前とは全く違い、

≪明るく、素直な、感受性豊かな”愛の世界”≫に、激変しています。愛は妙薬といいますが

、A子さんを愛したあの青年も、実に、自己の伝達の下手な青年です。コミュニケーションが

苦手でも、≪心に潜む大きな愛≫があれば、”人は、幸せになれる”のでしょう。
[2002年9月30日 21時55分53秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
(ペトロ神父)   ホーム・ページ    『祈りの園』

 ≪大天使、聖ミカエル・大天使、ガブリエル・大天使、聖ラファエル≫

     聖人の中に、天使・・・聖母マリアさま以外は、みな男である。主なる神さまも、
父で、男である。創世記に、アブラハムと、出会って、話をされている。父なる神の顔を
見ても、人間は、死なないのである。・・・

 大天使ミカエル、大天使ガブリエル、大天使ラファエルを、一括して祝う日が、9月29日

である。

 秋分に近いので収穫祭と重なり、1年の節目として大きな意味を持ち、かつては、翌年の

天候や吉凶を占う日であった。

 天使の中で謀反を企てたルシフェル(神のご計画)を追放するため、神が遣わされた

大天使ミカエルは、サタン(悪魔)の軍団と戦う、平和の天使軍団の指揮官として、

『ヨハネの黙示録』に登場する。

 そのため、絵画には、鎧(よろい)を着て、悪魔(サタン)または、ドラゴンを、槍(やり

)で刺している姿で登場する。聖ミカエルの旗印は、実際の戦争でも、よりどころとなった。

またプロテスタントに対抗する反宗教改革の時期には、ミカエルは、カトリック教会の聖戦の

隊長とみなされた。(アメリカで、少女に、ルシフェル(サタン)が乗り移った時にも、

聖ミカエルが現れて、少女を救っている。主なる神の≪しるし≫である。)

 そのせいか、フランスやアイルランドなどのカトリックの国では、ミッシェルや、マイケル

という名前は多いが、(天使を知らない)プロテスタントの国には、少ない。

 『旧約聖書』では、イスラエルの守護者『神の天使』とされている。

 また、ミカエルは、この世で亡くなり、霊魂が昇天した死者の魂(たましい)を待ち受け、

天秤(てんぴょう)を使って、その魂の生前の善行、悪行を、はかるといわれる。

生前の行為の善悪が、計量され、天国か地獄か煉獄(れんごく・・・ホームページでアクセス

してみて下さい。煉獄の実態が天からの使者で、判ります。『主なる神のしるし』)に、

振り分けられるのである。

 ミカエルはさまざまな奇跡(神のしるし)を起こしているが、フランス、ノルマンディー

の、モン・サン・ミッシェル大修道院は、9世紀に、聖ミカエルが現れて、その指示のもとに

建設されたという。

 大天使ガブリエルは、7人の大天使の中でも、リーダー格で、大天使ミカエルが神の右側に

立つのに対して、ガブリエルは、神の左側にその座を占める。(主イエズス・キリストが

神の右の座にあるのにたいして、ルシフェル(サタン:悪魔)は、神の左の座にある。

(ヨブ記、新約聖書))

 ガブリエルの果たしたもっとも重要な役割は、『受胎告知の使者』として、処女聖マリア

に、神の子イエズスの誕生を知らせたことである。その他にも、『旧約聖書』で、ダニエル

に、≪救世主出現≫の時期を知らせたり、『新約聖書』で、ザカリア(妻は、モーゼの兄の

大祭司アロンの子孫で、マリアの親族で、大祭司一族である、エリザベトである。)に、

息子、洗礼者ヨハネ(イエズスと、いとこである)の誕生を預言したりしている。

 また、ガブリエルは、イスラム圏では、『ジプリール』と呼ばれ、マホメットに、

イスラム教聖典『コーラン』(剣かコーランか)を伝えた天使とされている。

(小牧 瑞夫:マホメットは、主なる神の裁きで、ユダヤのサウロ王のように、精神病と

なり、その病死でなくなっている。)

 大天使ラファエルは、『旧約聖書』外典の、『トビト書』に登場し、ユダヤのトビト一家

を助ける。ラファエルは、トビトの親戚のアザリアに姿を変えて、嫁探しにメディアまで行く

息子トビアに付き添って、一緒に旅をする。トビアは、サタンを追い払うために、チグリス

川で捕まえた魚、そのきもを持っていく。そのため、ラファエルは、魚を持った旅する少年

とともに、描かれることが多い。
[2002年9月29日 22時8分31秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪ペトロ神父≫   ホーム・ページ   『祈りの園』

        『聖痕(せいこん)・・・イエズス・キリストの十字架の傷跡』

       (聖ピオ神父の告白)

 1918年8月5日の事であった。伝記作家達は、このイエズス・キリストとの痛々しい

出会いを、『心臓貫通』と書いている。聖ピオ神父の一生にとって、きわめて重要である。

聖ピオ神父は、1918年10月22日、ベネデッット神父に、手紙で、告白している。

 『その時、つまり、険しい”殉教”の時、何が起きたのか、私は、言えません。

5月の夕方、私は、一人の少年の告白を聞いていました。すると、まったく突然、私は、

≪最も崇高(すうこう)な、『天国から来た人』(ペルソナッギオ)”イエズス・キリスト”

≫を、見たのです。私は、非常な恐怖に襲われました。彼(イエズス)は、私の心の眼の前に

立ち(私の大脳の中に入り)、とても良く研ぎすまされた穂先(ほさき)を持った≪長い鉄の

槍(やり)のような特別な武器≫を持っていて、この槍の穂先から、≪火が吹いた≫ように、

見えました。

 この人(イエズス・キリスト)を見たのと、この人が≪私の(大脳の中の)霊(れい)の

中に≫、乱暴に、”槍(やり)を突き刺す”のを、見たのとは、≪瞬間的な出来事≫でした。

私は、痛さのために、”うめき”死ぬかと思いました。私は、許しの秘蹟で、告白している

少年に、自分は今病気で、告白を聞き続ける力がないから、誰か他の神父のところへ行くよう

にと、言いました。』

 『この苦痛は、休みなしに、8月7日の朝まで、続きました。この(聖なる十字架の)

拷問(ごうもん)の期間に、私がどんな苦しみを受けたか、話すことができません。

私の内臓が、あの槍で引っ張り出されたようにも思え、私の身体の一部ずつ、全部が、

≪(聖なる)火(聖霊)≫によって、燃え尽きました。私の(大脳の中の)霊魂(れいこん)

の最も奥の方で、傷が外側に開き、私に、絶えざる苦しみを、なめさせるように感じました。



  <小牧 瑞夫(こまき みつお)>

 私は、仕事で、鹿児島市内に、行きました。大通りの歩道に、車が止まっていました。

そこに、白い杖(つえ)をついた、盲人の男性が、歩道の真ん中を、歩いて来ました。

車にぶつかると思って、その男性に声を掛けました。

 『先に、車が止まっていますよ』と言うと、その男性は、『黄色の線は、どこにありますか

』と、言いました。歩道の中央を見ると、黄色の線があります。よく見ると、でこぼこに、

追い越し禁止の車線のでこぼこのように、『白い杖(つえ)用の線』があります。

 私は、男性に声を掛けて、歩道の中央をふさいでいる車を迂回(うかい)し、『白い杖用の

線』まで、手を引いて、歩きました。

 私の川内市(せんだいし)では、ありません。公共事業を10%カットするということは、

財政緊縮で、さらに、デフレが進み、税収が極端に減少し続けることは、経済学の常識です。

東大出の官僚は、腐るほど、います。助言して、障害者も住みやすい、愛のある社会を、

築いて下さい。
[2002年9月28日 20時49分54秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
    『コミュニケーション』          (心のともしび)

                三宮 麻由子(さんみや まゆこ)

 白い杖(つえ)を使って歩いていると、≪困ったこと≫や≪危険なこと≫が、たくさん

あります。そんなとき、色々な方が助けて下さるので、私は、”いつも感謝でいっぱいです”

。でも、その一方で、最近は、≪いきなり黙って手を離して去る人≫が多いような気がして、

少し心配になっています。


 そういう人は、終始(しゅうし)だまって手を引いて、自分がここまでと思ったところで、

≪突然(とつぜん)手を離します≫。あるいは、『仕事は何か』、『兄弟はいるか』、『家は

どこか』と、歩きながら、≪思いのままに興味をぶつけ≫、≪答えも待たずに、立ちり去った

りします≫。彼らは、”私が実際にどこまで導いてほしいか”や、”介助を必要としている”

かはさておき、≪とにかく何かして上げたいという気持ち≫だけが、先走ってしまうのかも

しれません。


 昨今の日本人は、”意思表示は上手になった”けれど、”意志疎通は今一歩”ではないかと

思います。≪だまって手を離す人は、その代表格≫ではないでしょうか。

せっかく”声をかけて下さるのなら”、≪私たちが、いつ、どんな介助を必要としているのか

≫、”説明するチャンスを与えて頂きたい”、と痛切(つうせつ)に思わずにはいられません

。


 もし、私たちのことを、≪気持ちを通わせて、道中を分かち合う友として見て頂けたなら≫

、”だまって去るといった場面はないかもしれません”≫。

 そして、そう思うにつけ、私自身も、”こんな一方的な≪意思表示≫をして、人を困らせて

はいないだろうか”と、反省し、『善行とコミュニケーションが深く結びついている』ことを

、再確認するのです。


 ヨハネ福音書の中で、イエズスさまは、言っています。


 『私は、あなたがたを、”友”と呼ぶ。父(主なる神)から聞いたことを、≪すべてあなた

がたに知らせたからである≫。』 (ヨハネ15章15節)


  私も含め、≪本当に、良い行いをするためには、『話を、聞く勇気』(受け入れる愛)が

大切だと思います≫。自分の気持ちを伝えるだけでなく、≪友として人の気持ちも受け入れ

≫、ときには、≪その人の希望通りに”自分も変化してあげる”勇気(まことの愛)です≫

。コミュニケーションは、そんなゴールもあるのではないでしょうか。


       愛だけが、命あるものを結びあわせます。

       完結した、充実したものと、なるように。

             なぜなら、愛だけが、命あるものを、

       おのおののうちの、もっとも深いものによって、

       結びあわせるからです。


           ピエール・ティヤール・ド・シャルダン
 
                   ( 1881−1955 )
[2002年9月26日 15時46分32秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
     『 信頼(しんらい)』        (心のともしび)

          シスター 菊池 多嘉子(きくち たかこ)

 先日、電車の中で、幼子を抱いた母親が、私の隣りに座りました。はじめ、膝の上で、

うれしくてたまらないように手足を動かしていた幼子は、やがて、自分に注がれている

母親の≪優しいまなざし≫に気づくと、じいっとみつめ返し、声を立てて笑ったのです。

≪愛されている≫、と信じて疑わない≪幼子の喜び≫が、私にも伝わって来て、胸が熱く

なるのを覚えました。というもの、この≪ほほえましい風景≫が、旧約聖書にある≪神様

のみことば≫を私に思い出させたからです。


 『女が自分の乳飲み子(ちのみご)を忘れることがあろうか。母親が自分の産んだ子を

憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、私が(主なる神が)あなたを忘

れることは、決してない。』

 『あなたたちは乳房(ちぶさ)に養われ、抱いて運ばれ、膝(ひざ)の上であやされる。

母がその子を慰めるように、私は(主なる神は)あなたを慰める。』


 リジューの聖テレーズは、この箇所(かしょ)を読んで、こう書いています。

『このよな≪みことば≫を聞いたあとには、もうただ沈黙して、”感謝と、愛の涙”に

暮れるほかありません』と。

 そして、(主なる)神様が私たちに求められるのは、≪この限りない”慈しみ”を

疑わず、”幼子のように、自分を委(ゆだ)ねる『信頼(奉献)』である”≫と、

悟ったのでした。


     孤独、そして、だれからも必要とされていない、という思い、

     それこそ、もっとも恐ろしい貧困なのです。

                 (聖マザー・テレサ)

     大きなことは、わたしたちにはできません。

     わたしたちにできるのは、小さなことを、

     ≪大きな愛をもってすること≫です。

              (聖マザー・テレサ)

     人は、おたがいのつくる木陰(こかげ)で、くらしている。

               (アイルランドのことわざ)

     わたしたちが、平和の貴(とうと)さを知らないとしたら、

     それは、私たち人間が、≪実はお互い同士に属している≫のだ、

     ということを、知らないからです。

               (聖マザー・テレサ)   1610−1997
[2002年9月26日 10時57分30秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪啓示の源泉は、聖書と聖伝である?≫

 歴史の先生だったロンカリ大司教は、狭い意味での伝統主義にこだわっていなかった。

教会の伝統の源泉は、聖書であると、強調した。聖ラウレンチオの時代には、まだ、

プロテスタントとカトリックの間の解釈争いが生まれる前の時代だから、キリスト教の

霊性の源は、聖書から汲み取るしかないことは明らかである。その時代の歴史を探りながら、

1950年代の頃にエキュメニズムの新しい時代を先取りしていたのは、ロンカリ大司教で

あった。

 護教論的な教科書には、『神のことばの源泉は、二つである』という記述がよくみられた。

ごく最近まで、日本でも使われていた要理教育入門書によると、啓示の源泉は、聖書と聖伝で

あると言われていた。そして、プロテスタントとカトリックの区別を強調するときには、

プロテスタントは、聖書だけを重視し、カトリックは、教会の伝統だけを尊重すると、

割り切ることがよく行われた。

 前述した教書の中で、ロンカリ大司教は、そうした単純な言い方を避けている。

両者間の密接な関係を強調するとともに、1943年9月30日のピオ十二世回章『聖書研究

』に基づいて、現代聖書釈義学の見方をとり入れた。ちなみに、ピオ十二世のこの回章の

ゴーストライターは、イエズス会のベア神父だった。後年、ロンカリ大司教がヨハネ二十三世

となって、第二バチカン公会議を準備したとき、ベア枢機卿は、前述したように、重大な役割

を果たした。

 現教皇ヨハネ・パウロ二世が、若きヴォイティワ司教の42歳だった頃、ポーランドの

カラコフの司教として、第二バチカン公会議に参加した。公会議にも、伝統主義者と刷新派の

意見の相違があった。中でも、最初の大きな対立の一つは、啓示に関する論争であった。

『啓示憲章』のもとの草案は、教科書通り、啓示の源泉として、聖書と聖伝の二つを挙げてい

た。このような話し方は、プロテスタントとの対話を妨げるばかりでなく、教会の本来の

在り方に反すると、ベア枢機卿たちは、強調した。そのとき、42歳のヴォイティワ司教の

スピーチが注目された。彼は、比喩的に話して、こう言った。

 『源泉という言葉は、井戸や池について用いられない。川の源まで遡(さかのぼ)って、

そこに湧き出ている≪生ける水≫のところこそ、源泉である。したがって、≪啓示の源泉は、

神自身でしかない』と。・・・啓示の源泉は、神自身である。神のみことばの源泉は、

もちろん、神自身である。聖書も聖伝も、その源泉は、神自身である。

神は、聖書でみことばを告げられることもあるし、聖伝でみことばを告げられることもある。

神のみことばは、その源泉は、神自身である。手段として、聖書を用いることもあり、

聖伝(口伝)を用いることもある。神のみことばの源は、神自身である。
[2002年9月24日 16時27分53秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪テロの犠牲者の腎臓移植・・・ユダヤ人から、パレスチナ人への”愛”≫

 イスラエルのテルアビブで、19日に起きた(ソドムとゴモラの生き残り、ロトの子孫

である)パレスチナ人の自爆テロで、犠牲となったユダヤ系英国人の男性(ユダヤ人)、19

歳の腎臓を、パレスチナ人の少女(7歳)に移植する手術が、イスラエルで、22日までに

行われた。経過は良好で、少女の母親は、地元紙に、『パレスチナ人の憎しみの自爆テロで、

息子さんを失ったのに、ユダヤ人のご家族が、臓器を提供して、”娘の命を救ってくれた”。

どのようにして、”感謝”を伝えればいいか分からない』と述べ、”生命の重さ”をかみしめ

た。少女は、約二年間、移植の待機リストに名を連ねながら、透析治療を受けていたという。

 ・・・主なる神の一人子、主イエズス・キリストさまは、霊とししては、聖霊で、神の子

であり、肉としては、人の子で、ユダヤ人(イスラエル人)である。

聖母マリアさまも、大祭司アロンの子孫の、大祭司一族の、ユダヤのかしらである、ユダヤ人

(イスラエル人)である。世界の救いは、主なる神の子、ユダヤ人、イエズス・キリストに

よって、人類に、求め、ご計画されているのである。これが、ユダヤ人を選民として、

ご計画された、主なる神の御摂理である。
[2002年9月24日 7時18分45秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
   (マタイによる福音書22:23−40)

 復活はないと唱えるサドカイ人(サドカイ人の宗派は、プロテスタント(抗議者)のように

、”口伝”を否定し、旧約聖書には、肉体の復活は書かれていない、と、唱えていた。

”無原罪の御宿り”で、”預言の天使”となられた、聖母マリアさまを認めないのと、同じで

ある。旧約時代から、”口伝”が、あったのである。)は、その日、みもとに来て、

『先生、モーゼは、<ある人が子なしで死んだら、その兄弟が未亡人と結婚して、死んだ

兄弟のために跡継ぎをつくれ>と言っています。

 さて、私たちの仲間に、七人の兄弟がいましたが、兄は結婚して跡継ぎなく死に、その妻を

弟に残しました。第二、第三から第七まで同じようにして、最後にはその女も死にました。

すると、復活の時その女は、七人のうちのだれの妻ですか。みなその女を妻にしたのですが

・・・』と、尋ねた。イエズスは、『(口伝を信じない)あなたたちは、聖書と神の力を

知らないから、間違ったのだ。(肉欲の生活をしない)復活の時の人間は、めとりもせず、

嫁(とつ)ぎもせず、天にいる天使(預言者聖母マリアさま)とおなじようなものになる。

(何故、”口伝”を信じなかったのか。)死者の復活については、<私はアブラハムの神、

イサクの神、ヤコブの神である>と、(主なる)神が、仰せられたのを、読まなかったのか。

神は、死者の神ではなく、(永遠に生きる)”生者(せいしゃ)の神”である』と答えられた

。これを聞いた人々は、その教えに、驚いた。

 イエズスが、(”口伝”を信じない)サドカイ人の口を封じられたと聞いた(”口伝”を

信じる)ファリサイ人は、相集まった。

 そして、そのうちの一人(の律法学士)が、イエズスを、”試みようとして”、

『先生、律法のうちの、どの”おきて”が、いちばん大切ですか』と尋ねた。

イエズスは、『<すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、”主なる神を愛せよ”>

。これが第一の”最大のおきて”である。第二のもこれと似ている、<(あなたを必要とする

)隣人を、”自分と同じように愛せよ”>。”すべての律法と預言者”は、この”二つのおき

て”による。(あなたの助けが必要である、聖母マリアさまを、憎まず、”愛せよ”)』と、

答えられた。・・・”口伝”も大切にして、”信じよ”・・・
[2002年9月24日 6時17分57秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
(マタイによる福音書17:14−23)

 彼らが人々のほうに帰ると、ある人が来て、ひざまずき、『主よ、重い≪てんかん≫に

かかっている私の子を、あわれんでください。あの子は、≪何度も火の中に落ち≫、

≪何度も水の中に倒れます≫。あなたのお弟子方のところに連れて行ってお願いしたのですが

、お弟子方には治せませんでした』。イエズスは、『ああ、なんという不信仰な、よこしまな

代(よ)だろう。私はいつまであなたたちとともにいなければならぬのか。その子を、私の

ところに連れてきなさい』と、答えられた。イエズスは、悪魔(サタン)を脅(おど)して、

命令されたので、そのとき、悪魔は去って、その子は治った。すると、弟子達が”そっと”

そばに来て、『どうして、私たちには、(悪魔を)追い出せなかったのですか』と訪ねた。

イエズスは、『≪信仰の浅いためだ≫。まことに私は言う。芥子(からし)だね一粒ほどの

信仰があれば、この山に<ここからあそこへ移れ>と言えば、移るにちがいない。

≪そうなれば、あなたたちにできないことはなくなる≫。(しかし≪この種の悪魔≫は、

≪祈祷(きとう)と、断食≫をしないかぎり、追い出せない。)・・・ルルドの聖水と、

天使(聖母マリア)祝詞と断食が良いかもしれない。しかし、すべては、主なる神の恩寵で

ある。・・・』と、答えられた。

 弟子達が、ガリラヤに集まっていたときに、イエズスは、『人の子は、人々の手にわたされ

て、殺される。そして、三日めに、よみがえる(復活する)。(主なる神の御旨である。)』

と、言われた。弟子達は、≪非常に悲しんだ≫。

   私は、父親の罪(母親の罪)を、3代、4代にまで、罰する、≪ねたみ深い神≫

である。私を、憎む者には、3代、4代にまで、罰する。

   しかし、私を愛する、義人の者には、1.000代にまで、私の愛を及ぼす、

≪いつくしみ深い神≫である。

   改心して、悔い改め、私を愛する者には、1.000代(永遠に)まで、

私の愛を及ぼす。私の恩寵を与える。私は、望む者に、恩寵を与える。
[2002年9月22日 20時45分55秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪その日に必要な光≫        (心のともしび)

                エッセイスト    三宮 麻由子(さんみや まゆこ)

 優等生とはほど遠く、落ち着きという言葉が辞書にないような子供でしたが、私は友だちが

いうほど勉強がいやではありませんでした。

 もちろん、遊びは大好きでした。算数や社会は嫌いで、好きな音楽や理科にばかり力を入れ

ていましたし、国語の教科書に至ってはいつも家に持ち帰る順位の最下位でした。でも、私は

勉強でも遊びでも、とにかく何かやることさえあればよかったのです。何でもよいから、その

日に夢中になるものがほしかったのです。

 私は幼いころ、一年ほど入院して、両目の光を失いました。

 目だけでよかったという人もありますが、幼い子供にとって、それは≪生死を分かつほどの

大きな衝撃≫でした。昨日まで見えていた世界が、目覚めたとたんに≪漆黒の闇(しっこくの

やみ)≫に変わっていたのです。その≪恐怖≫は我ながら想像もつかないものだったのでしょ

う。私は無意識のうちにこの≪恐怖≫の記憶をすべて頭の中から消し去り、この一年あまりの

時間は未だに≪空白≫なのです。

 このときの≪トラウマ≫は、かなり大きくなるまで続きました。哲学者パスカルは、『人生

は死への恐怖から逃れるための≪気晴らし≫』といった意味のことを言っています。私にとっ

ては、勉強も遊びも同じように、≪目が見えなくなった衝撃をかわすための気晴らし≫だった

のかもしれません。

 でも、こうして≪今を夢中で過ごす生き方は、いつしか、どんなに困難なときでも、”希望

と発見”には終わりがない、という確信≫に育っていきました。≪人生には、遠大な計画を

立てて行動するのと同じように、”今に夢中になること”もまた必要ではないでしょうか≫。

 だから神様は、ときとして私たちに将来を見せずに、≪その日に必要な光と力だけを、

厳選して与えてくださる≫のかもしれません。


        疲れた心にとっての唯一の救い

        それは

        他の人(隣人)への愛

        愛によって

        人は 愛する人の心を

        みずからの 住まいとし

        かれらは 一つの
 
             心となる

                 J.O.Y.ガッセット
[2002年9月22日 6時35分21秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
    ≪ロザリオの月に思う≫     平田 栄一(高校教諭)

 10月はロザリオの月、といえば、ベルナデッタの姿が浮かぶ。そして毎年この時期、

20年前の体験を思い出す。

 私が最初に担任をした頃、Y子たちをスキー林間に引率(いんそつ)した。ところが、

帰校後、風邪(かぜ)の症状を訴えて、Y子は欠席した。あまり長引くので、看護婦だった

母親が、心配して、あちこちの病院に連れて行き、精密検査をした。そして、脳腫瘍(癌)と

診断された。即入院、一度は手術を受けたものの、すでに手遅れという。

 2年生の2学期になってすぐ、両親が来校し、『・・・長くても半年、もしかすると、

年内の命』と、泣きながら報告してくれた。自分に何ができるのかと考えると、私には、

返す言葉がなかった。結局、3年に進級することを断念して、彼女は退学していった。

 公立高校での担任と生徒という関係が切れた今、私は一個人として、何かY子にできること

はないかと模索(もさく)した。そして、『ルルドの聖水』に思い至ったのである。

私自身、書物を通して知ってはいたが、その真偽は、確かめようもなかった。しかし、

医者でもない私に、当時思いつくのは、これだけだった。

 すぐ教会に連絡をし、T助祭(現在は最年少の司教さま)から、ボトル1本のルルドの聖水

を分けて頂いた。さっそく、Y子の家を訪ね、簡単に、聖水のいわれを話し、『さしでがまし

いかもしれないが、もし、いやでなければ、飲んでみて下さい』と言って、置いてきた。

 その”3年後”ー20歳の成人式を終えた直後、容態が急変して、Y子は天国に召された。

穏やかな最後だったという。葬儀後に訪ねたとき、母親は、色白の美人に成長したY子の写真

を前にして、『あのとき、あと半年と言われた命が、3年以上(イエズス・キリストの公的

生活?)も延び、成人式も済ませることができました。医者も、奇跡的だ、と驚いていました

。』そして、『あの聖水の・・・』と言いかけて、声を涙にくぐもらせた。

秘やかな≪神の働き≫を思う。

     聖母の騎士社   http://www.seibonokishi-sha.or.jp/
[2002年9月19日 16時14分50秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
ペトロ神父さまのホーム・ページ

       http://www.inori-no-sono.com/   

          ≪プランスの聖地ルルド(LOURDES)≫

 ヨーロッパ最大といわれる巡礼地ルルドは、フランスとスペインの国境に近い

 ピレネー地方にあり、年間500万人の巡礼者が、訪れています。

        ≪聖ベルナデッタ≫

 1844年、ベルナデッタ・スービルーは、ルルドの≪貧しい家≫に生まれた。

1858年2月11日、木曜日、≪14歳のベルナデッタ(処女)≫が、妹と山で、

薪(まき)を拾っていたところ、近くの洞窟(どうくつ)に、≪聖母マリアの姿≫が、

顕(あらわ)れました。

 ≪聖母マリアさまの出現の奇跡(主なる神のしるし)≫は、全部で≪18≫回続いたのです

が、≪9回目の出現のとき≫、”ベルナデッタが手を触れた土地から”、≪水≫が湧き出まし

た。

 その後、この≪水≫”聖水”を飲むと、≪不治の病(やまい)が治る≫という奇跡(しるし

)が続き、足腰の立たない病人が、帰りには、歩いて帰ったという話が、瞬く間に、

全フランス、全ヨーロッパへと、伝わりました。

 こうして、何の変哲もなかったピレネー山麓(さんろく)の村に、1868年には、

最初の聖堂の建設が始まり、おびただしい数の巡礼者を集める、≪聖地≫(主なる神の現存

の地)・・・聖地エルサレムも主なる神の現存の地(私は、”在りて在るものである”。)

となりました。

 14歳の処女のベルナデッタに、聖母マリアさまは、ご出現されて、”私(マリア)は、

無原罪の御宿りであります”と、告白されました。原罪無くして、生まれた方、それが、

聖母マリアさまです。生涯、童貞で(男を知らずに)、主なる神の聖霊で、神と無原罪の人の

子を、宿され、その神の一人子、イエズス・キリストさまを出産され、娘で母となられた。
[2002年9月19日 8時12分53秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
    ≪2000年間、解き明かされなかった”神秘”が、今、明らかになった≫

 聖母マリアさまは、預言者モーゼの兄、大祭司アロンの子孫であり、ユダヤの大祭司一族

であった。

 イエズス・キリストさまは、ユダヤの大祭司の衣(ころも)を着て、十字架の道行きを

された。

 アンアとカヤファは、大祭司だった時、荒れ野で、ザカリアの子ヨハネ(洗礼者ヨハネ)の

上に、神のみことばが、下った。(ルカ福音書3−2)

 ・・・アンナは、西暦6年あるいは5年から大祭司となり、15年に位を追われたが、

非常な権力を有し、≪ユダヤ教のかしら≫として考えられていた。

 カヤファは、アンナの継子で、西暦18年から36年まで、大祭司だった。・・・


 マリアは、『私は、男を知りません(処女です)が、どうしてそうなるのですか』と

聞いた。大天使ガブリエルは答えた、『(主なる神の)聖霊があなたにくだり、≪いと高き

ものの力の影(かげ)≫が、あなたを覆(おお)うのです。ですから、生まれる子は、

≪聖なるお方≫で、≪神の子≫と言われます。あなたの≪親族(姉妹)≫(ザカリアの妻)

エリザベトも、(うまずめで)老人ながら、身ごもったではありませんか。うまずめと

言われた人なのに、もう6ヶ月めです。(全能の主なる)神にはできないことはありません

』。マリア(約16歳)は、『私は、≪主のはしため(奴隷)≫です。あなたの≪みことば≫

のとうりになりますように』と答えた。大天使ガブリエルは去った。

               (ルカによる福音書34−38)

 ユダヤ王ヘロデの時、アビアの組(ダビドは司祭を24組に分け、その組長の名によって、

組の名が呼ばれた。一週間交代で、聖地エルサレムの神殿に仕えた。アビアの組は、8番目

だった)の司祭に、ザカリアという人がいた。その妻は、(預言者モーゼの兄、大祭司)

アロンの子孫(大祭司一族)で、名は、エリザベト(聖母マリアの親族、姉妹である)と

言った。二人とも、”神の前に正しい人”で、≪主の掟(おきて)と規定≫を残らず、

とがなく行っていた。エリザベトはうまずめで子がないまま、二人とも年をとっていた。

            (ルカによる福音書1:5−7)

  20年近く前に、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世さまに、お知らせしたら、

『祝福の手紙』をくださった。でも、いまだに、バチカンからは、公表されていない。

 
 兵卒たちは、イエズスを十字架につけてから、その服を取って、四つに分け、おのおの

その一つを取り、また≪上着も取ったが、”その上着は、縫(ぬ)い目なしで、上から

一枚に織(お)った布であった。彼らは、『これは破るまい。くじを引いてだれが取るか

決めよう』と言い合った。それは、『彼らは互いに私の服を分け、私の上着をくじにした』

という聖書のことばを実現するためであった。兵卒たちは、そうした。

・・・十字架上のイエズスの大祭司の姿を現すものである。大祭司の服は、破れないように、

縫い目なしで、上から一枚に織った布で出来ていた。・・・(カヤファは服を引き裂いている

 イエズスの十字架のかたわらには、その母(聖母マリア)と、母の姉妹(エリザベト)と、

クロパの妻(小ヤコボとヨセトの母マリア、アルフェオの子レビ(取税人マタイ・・・

大祭司一族(ルカ2:14):クロパの妻の子、クロパの妻またはアルフェオの妻でもあり、

マリアの子と思われていた子供達の本当の母親である)と、マグダラのマリアが立っていた。

これらの女性たちは、みな大祭司一族の娘である。ヨーロッパでマグダラのマリアとイエズス

が姦淫する愚かな映画があったが、みな大祭司一族で、七つの悪霊につかれていたとは、

マグダラのマリアが、ダビド王のように、金髪で、美女で、処女であったから、男達を

近づけさせないために、イエズスが言ったのである、マグダラのマリアの貞淑を守るためで

ある。マグダラのマリアも大祭司一族の娘である。ちなみに、聖母マリアも、ダビド王の

ように、金髪である。イエズス・キリストも、もちろん金髪である。)

       (ヨハネによる福音書19:23−25)
[2002年9月17日 5時51分53秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
     ≪ユダヤの大祭司一族の聖マリアの子、イエズスは、主である≫

 あなたが、自分の口で、≪イエズスは、主である≫と言い、”心の中で”、

≪(主なる)神が、イエズスを死者の中から、蘇(よみがえ)らせた≫と、”信じる”なら、

≪あなたは、救われる(永遠の命を得る。天国に召される)≫。

 ≪人は、”心で信じて、義とせられ”、”ことばで宣言して、救いを受ける”からである≫

。聖書は、『彼(イエズス・キリスト)を信じるすべての人は、辱(はずかし)められない』

と言っている。(イザヤ28:16)事実、ユダヤ人とギリシア人(異邦人)の区別はない。

≪キリストは、呼び求めるすべての人に対して、同じく”万民の主”だからである≫。

『主のみ名を呼び求めるすべての人は、救われる(天国に召される)』とある。

 それなら、彼らは、まだ信じなかった者を、どうして呼び求められよう。まだ聞かなかった

者を、どうして信じられよう。≪宣教する者がなければ、どうして聞けよう≫。

遣(つか)わせなかったら、どうして宣教できよう。『よい便(たよ)りをもたらす者の足は

美しい』(イザヤ52:7)と書き記(しる)されている。

 だが、みなが福音に従ったのではない(みなが天国に召されたのではない)。

イザヤは、『主よ、だれが私たちの宣教を、信じたか』(イザヤ53:1)と言っている。

それゆえ、≪信仰は、宣教により、宣教は、主イエズス・キリストのみことばによる≫。

 しかし、私は言う。彼らには聞こえなかったのか。けっしてそうではない。

『その声は、全地に響(ひび)き、そのことばは、世界の果てに及んだ』(詩篇(しへん)

19:5)。なお私は言う。イスラエルは、判らなかったのか。(イエズスが、大祭司一族の

聖母マリアの子、大祭司カヤファ一族の主なる神の一人子と、悟らなかったのか。)

すでに、預言者モーゼがこう言っていた、『私は、(イスラエルの)民でない者に対して、

あなたたちのねたみを起こさせ、愚かな(イスラエルの)民に対して、あなたたちを

怒(いか)らせよう』。(第二法32:21、軽蔑の的だった異邦人が、主なる神に、

よみせられる者となった。天国に召される者となった。イエズス・キリストによって、

主なる神の養子となった。)そして、イザヤは、はばからず言う、『私(主)を求めなかった

人々に、私(主)は見いだされ、私(主)に尋ねなかった人々に、自分(主)を現した』と。

イスラエルについては、『私(主)は、不従順な逆らう民に、昼夜、手をのべた』(イザヤ

65:2)と言った。

              (ローマ人への手紙10:9−21)  

          聖パウロ・・・アブラハムの子孫、ベニヤミン族のイスラエル人
[2002年9月15日 2時55分40秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪死者は、どうして蘇(よみがえ)るのか?≫
          
       ・・・死で、すべてが終わるなら、地上の楽しみを犠牲にするのは愚かである

     (コリント人への第一の手紙15:35−58)
           
             ・・・聖パウロ・・・

 ある人は、尋ねるであろう、死者はどうして蘇(よみがえ)るのか、どんな体(からだ)を

もってくるのかと。愚かな者よ、あなたの蒔(ま)くものは、まず死なねば、新たに生かされ

ることはない。あなたの蒔くものは、後に生まれる体ではなく、麦であっても他のものであっ

ても、ただ≪種粒(たねつぶ)≫だけである。神は、その種粒に、”思し召(しめ)しのまま

に体を与え、おのおの種(たね)にふさわしい体をあたえられる”(復活体)。

すべての肉が同じ肉なのではない。≪人間の肉≫があり、獣(けもの)の肉があり、鳥の肉が

あり、魚(さかな)の肉がある。・・・人間には、霊(れい)があり、獣や、鳥や、猫や、

犬には、霊がない。人間だけが、天国で、神の思し召しのままに、復活する。・・・

同様に、≪天上の体≫と、≪地上の体≫がある。しかし、≪天上の体の輝きは、地上の体とは

違う≫。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きは違い、この星とあの星の輝きも違う。

死者の復活もそうである。≪体は朽(く)ちるものとして蒔かれ、(天国で)朽ちぬものに

蘇(よみがえ)る。卑しいものとして蒔かれ、光栄あるものに蘇り、弱いものとして蒔かれ、

強いものに蘇り、≪動物的な体≫として蒔かれ、≪霊(れい)の体≫に蘇る。

≪動物的な体があるように、霊(れい)の体もある≫。「最初の人アダムは、(永遠に)

生きる”魂(たましい)”となった」と書き記(しる)されている。そして、第二のアダム

(イエズス・キリスト)は、”(永遠の)命をあたえる霊(聖なる霊)となった”。

霊のものが先にあるのではない。むしろ≪動物的なもの≫が先にあって、≪霊のもの≫が

後である。≪土(物質)からつくられた第一の人は、土(物質)に属し、第二の人は、

”天からの者(神の恩寵)”である≫。土に属する者はみな、そのように土に属する者であり

、天(天国)に属する者は、そのように天に属する者である。≪私たちは、(全能の主なる

神によって)土に属する姿をもったように、(神の恩寵によって)天(天国)に属する姿も

もつであろう≫。

 兄弟たちよ、私はこう宣言する、「(動物的な)血肉(けつにく)は、神の国を継ぐことが

できぬ。≪朽ちるものは、朽ちぬものを継ぐことはできない≫」と。私は今、≪あなたたちに

奥義を告げようとする≫。”私たちは、みな死なない”。(死後、天国で蘇る。)

しかし、私たちはみな、”最後のラッパが鳴り渡るとき(終末)、またたくまに”変化”する

であろう”。(終末に、肉体も復活する。そのときは、霊体でもあり、肉体の復活体でもある

・・・天使と同じ体になる。聖母マリアさまと同じ体になる。)ラッパは鳴り、死者は、

朽ちぬ者に蘇り、私たちは、”変化(聖変化)する”。この朽ちる者が、朽ちぬ者を着、

この死ぬ者は、”不滅をまとわねばならぬ”。この朽ちる者が朽ちぬ者を着、この死ぬ者が

不滅をまつうであろうとき、≪次の聖書のことばが、実現する≫、『死は、勝利にのまれた。

死よ、おまえの勝利はどこにある。死よ、おまえの刺(とげ)はどこにある』。

≪死の刺(とげ)は、罪である≫。また、≪罪の力は、律法である≫。ともあれ、

主イエズス・キリストによって、(原罪の贖(あがな)いによって)、私たちは、勝利を

与えたもう神に≪感謝しよう≫。それでは、愛する兄弟たちよ、あなたたちの(地上での)

苦労が主においてむなしくならぬことを、わきまえ、確固として揺らぐことなく、常に、

主イエズス・キリストの業(わざ)(生き方)を、励み、努めよ。
[2002年9月10日 6時8分4秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪信頼の力(ちから)≫      ・・・心のともしび・・・

                     シスター  渡辺 和子(わたなべ かずこ)

 ある難民キャンプでの話です。その新聞記者は、家も財産も失い、家族とも離ればなれに

なって、流入しつつある、≪難民たちの実状≫を把握するために、キャンプへと赴(おもむ)

きました。

 ≪一人の少年≫が、人々からも離れて、土埃(つちぼこり)の中に、座り込んでいるのを

見た記者は、近づき、通訳を介して、話しかけてみました。

 少年は、見上げようともせず、何の反応も示しません。記者は、それに構わず、自分の

大切な≪ブリーフケース≫を、少年の膝(ひざ)の上に置いて、言いました。

 「≪僕は、きみを信頼している≫。僕がキャンプを見廻って戻ってくるまで、この大切な

≪かばん≫を、預かってくれないか。メモを取るのに、手が空(あ)いているほうがいいので

ね。」

 通訳が訳し終わるか終わらないうちに、少年は、顔を上げました。その顔からは、空(うつ

)ろな表情は消え、記者の目を、真っすぐに見た少年は、≪かばん≫をしっかりと抱いたので

す。

 「いつまでも、たしかに預かると言っています」と、通訳が訳しました。

少年は、預かるだけでなく、重たい≪かばん≫を抱いたまま、衰弱して、よろめく足を、

踏みしめ踏みしめ、記者の後について、≪一日中、歩き廻ったのでした≫。

 時折り、≪かばん≫をポンと叩(たた)いて、「大丈夫」と合図しながら、。

 ≪信頼された。大切なものを任された。自分は、必要とされた。≫ このことが、≪この

少年を、変えたのでした。≫

 後日、キャンプ主任が新聞記者に語ったところによると、≪この日を境(さかい)にして、

少年は変わり、”自分の過去を断ち切って、将来に向かって歩み始める人間になった”という

ことでした。≫

 人間にとって、≪最も悲惨なことは、”極貧”でも、”餓(う)え”でも、”身内の虐殺を

目の当たりにしたこと”でもなく、”自分が『不要の存在』としかおもえないこと”なのです

。そして、≪信頼≫(神への信仰・伴侶への信頼・友への信頼)は、絶望の思いを抱いている

人に、≪生きる勇気と希望を与える不思議な”愛の生命力”を、持っているのです。≫


    愛し合うとは、

    互いに

    見つめ合うことではなく、

    ふたりが

    一つの

    同じ方向を

      見つめること
               サン・テクジュベリ


     心の深みに

     人を愛する喜びを

     保たせてください。

     この喜びが

     ほほえみとなって

     いつも  現れます  
            ように。
                     ジャン・ガロ
[2002年9月8日 8時32分48秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
(マタイ5章27−37)
 
 知ってのとおり、<姦通(かんつう)するな>と、今まで教えられている。

だが、私は言う、≪色情(しきじょう)をもって、女(男)を見れば、その人は、

もう心の中で、姦通している≫。右の目がつまずきになるなら、抜き出して、捨てよ。

全身が、ゲヘナに投げ込まれるより、身体(からだ)の一部を失うほうがましである。

右の手がつまずきになるなら、切り捨てよ。全身がゲヘナに行くより、身体の一部を失う

ほうがましである。

 また、<妻を離縁(りえん)するときには、離縁状を与えよ>と言われている。

だが、同棲(どうせい)の場合は別だが、それ以外の場合に妻を出す人は、妻(夫)に、

姦通の機会を与えることであり、出された女をめとる(結婚する)人も、姦通することに

なる。

 また、知ってのとおり、昔の人は、<にせの誓(ちか)いをするな。主(なる神)に

対する誓いを果たせ>と教えられた。

 だが、私は言う、けっして、≪誓ってはならぬ≫。≪天≫を指して、誓ってはならぬ。

そこは、≪神の玉座(ぎょくざ)である≫。(天が開いて、そこに天国がある。)

≪地≫を指しても誓ってはならぬ。そこは、神の足台である。

(主なる神に、油そそがれた、ダビド王の)エルサレムを指しても、誓ってはならぬ。

そこは、大王(ダビド王)の都(みやこ)である。

 自分の頭を指しても誓ってはならぬ。≪あなたには、一本の髪の毛さえ、白くも、黒くも

できぬ。<はい>なら、<はい>、<いいえ>なら、<いいえ>とだけ言え。

 それ以上のことは、悪魔(サタン)から、出る。
[2002年9月6日 5時39分29秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪種(たね)のたとえ話≫

 イエズスは、≪たとえ≫で、いろいろのことを話された、

「種まく人(主なる神)が、種をまきに出た。まくとき、≪ある種は、道ばたに落ちたので、

鳥が来て、種をついばんだ≫。≪ほかの種は、土のうすい石地に落ち、土が浅いので、

すぐ生(は)え出たけれど、日が昇ると焼け、根がないから枯れてしまった≫。

≪ほかの種は、茨(いばら)の中に落ち、茨が生長したので、ふさがれてしまった≫。

≪ほかの種は、よい地に落ち、あるいは百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍の実を結んだ

≫。≪耳のある者は聞け≫」。

 弟子たちが近寄って、「なぜ、この人たちに、≪たとえ≫で、話されるのですか」と聞くと

、イエズスは答えられた、「あなたたちは、天の国(天国)の奥義を知る恵みを受けたが、

彼らは、それを(恵みを)受けていない。≪持っている者は、与えられて、ますます豊かに

なるが、持たない者は、持っているものまで取られてしまう≫。だから、彼らには、

≪たとえ≫で話す。≪彼らは、見ても見ず、聞いても聞かず、理解しようとせぬからである≫

。こうして、イザヤの預言(よげん)は、実現した、

   <あなたは、聞いても悟らず、見つめても認めようとせぬ。

   この民の心は、にぶくなった。耳をふさぎ、目を閉じた。

   目で見ず、耳で聞かぬように、≪心で悟らぬように≫、

   ≪改心して、私に(主なる神に)、癒(いや)されぬように≫>。

 だが、あなたたちの目は見えるから、幸せであり、耳は聞こえるから、幸せである。

≪まことに私は言う、多くの預言者と義人は、あなたたちの見ていることを、見たいと

強く望んだが見られず、あなたたちの聞くことを聞きたいと思ったが聞けなかった≫。

 さて、それでは、≪種まく人(主なる神)のたとえを聞け≫。

≪天の国(天国)のことばを聞いて悟らぬときには、悪者(サタン)が来て、その人の心に

まかれたものを、奪っていく≫。(主なる神のことばが)道ばたにまかれたとは、こういう

人のことである。

 石地にまかれたのは、≪主のことばを聞いて、すぐ喜び受けるが、自分に、根がなく、

根気がないから、(主の)ことばのために、苦難と迫害が起こると、すぐ負けてしまう人の

ことである≫。

 ≪茨の中にまかれたのは、(主の)ことばを聞いても、世俗の気遣いと、富の誘惑に、

(主の)ことばをふさがれて、実らぬ人のことである≫。

 ≪よい土地(信仰)にまかれたのは、(主の)ことばを聞いて、悟り、あるいは百倍、

あるいは六十倍、あるいは三十倍もの実を結ぶ人(天国に召される人)のことである≫」。
[2002年9月5日 4時35分43秒]

お名前: 小牧 瑞夫(こまき みつお)    URL
≪あなたはキリスト(救い主)、生ける神の子です≫

 フィリッポのカイザリア地方に来られたイエズスは、弟子たちに「人々は≪人の子≫

(イエズス)を、だれだと言っているのか」と聞かれた。弟子たちは、「ある人は≪洗礼者

ヨハネ≫と言い、ある人は≪エリア≫、またある人は≪エレミア≫、あるいは≪預言者の

一人≫だと言っています」と答えた。イエズスが「ところで、あなたたちは私をだれだと

思うのか」と言われると、シモン・ペトロが「あなたはキリスト(救い主)、生ける神の子

です」と答えた。イエズスは、「シモン・バルヨナ(ヨナの子)、≪あなたは幸いな人≫だ。

その≪啓示(けいじ)≫は、(あなたの)血肉(けつにく)からのものではなくて、

≪天にまします父(主なる神)≫から出たものである。私は言う。≪あなたは、ペトロ(岩)

である。私は、この岩(ペトロ)の上に私の(キリストの)教会を建てよう。地獄の門(

サタン・悪魔)もこれに(ペトロに)勝てぬ。私はあなたに天の国のかぎを与える。(キリス

トの教会のかしらにする)あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くもの

はみな天でも解かれる」と言われた。さらに「≪私がキリスト(救い主)だということをだれ

にも言うな」と弟子たちを戒められた。

     (マタイによる福音16:13−20)
[2002年8月29日 20時31分0秒]

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